2008.09.21 互いに重荷を ガラテヤ6:1-5

「互いに重荷を負い合う」と言われていますが、重荷とは何でしょうか?できれば、重荷なんか負いたくありません。しかし、この世においては、負わなければならない重荷もあります。なぜなら、私たちは家庭とか、地域社会、教会という共同体で生活しているからです。私たちが互いに負うべき重荷には3種類あると思います。第一は、自分がやるべきことです。仕事とか家事、学業など、生活一般のことです。それは、「責任を負い合う」ということです。第二は罪に関することです。クリスチャンは罪を赦された者ですが、この世に生きている限り、また罪を犯す可能性があります。そのため、罪を犯さないように、互いに助け合うということです。第三は教会における牧師と信徒の関係です。これは、霊的なものと経済的なものを負い合うということではないかと思います。

1.責任を負い合う

 私たちはこの世に生を受けた瞬間から、生きていかなければなりません。人の世話にならなければならない時もありますが、自分自身でなんとかしなければならないこともあります。子どもは学校に行くと、宿題とかいろんなことがあります。主婦ですとお洗濯や食事、家族の世話があります。会社に行けば、いろいろやるべき仕事があります。ガラテヤ6:2「互いの重荷を負い合い、そのようにキリストの律法を全うしなさい」とあります。また、5節には「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と書いてあります。この2つの聖句を、合わせると、とても大切な真理が見えてきます。どんな真理でしょうか?一方では「互いに重荷を負い合い」と言っていますし、また他方では「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と言っています。つまり、こういうことではないでしょうか?人には自分で負うべき重荷もあるし、互いに負い合うべき重荷もあるということではないでしょうか?表現を換えますと、人の重荷の中で、負って良いものと、負ってはいけないものもあるということです。それを負ってしまったら、自分もダメになるし、その人自身もダメになるということです。これを心理学では、バウンダリー(境界線)を犯すとか、共依存と呼んでいます。

 日本人は甘えの構造を持ち、自分の責任と他者の責任の境界線があいまいです。特に家族や身内の場合は、よけいなことまで干渉する、いわゆるお節介が多いようです。テレビ番組に「渡る世間は鬼ばかり」というのがあります。腹が立ってくるので、ほとんど見ないのですが…。あるとき、お母さんが、お孫さんに対して「おばあちゃんの面倒をみなさい」と言っていました。また、夫の妻の問題に対して、姑としゅうとめ同士が争っている。ある兄弟の家庭のことに、他の兄弟が口をだしている。境界線がないというか、入り乱れています。家庭の中心は夫婦です。たとえ、自分の子どもであろうと、相談されない限りは口を出すべきではありません。今は、核家族が多いので、そういうことはないかもしれません。でも、親子の共依存は多いかもしれません。

朝、お母さんが、大声で子どもを起こす。子どもが朝ご飯食べている間に、お母さんはランドセルに勉強道具を入れてあげる。子どもが学校から帰ると、宿題を手伝ってあげます。子どもは夕食を食べたら、後片付けもしない。さらには、子どもが入る学校、就職先、結婚相手まで決めてあげる。結婚してからも、問題がある度ごとに実家に電話がかかってくる。嫌になって離婚したと、実家に戻ってくる。これが負ってはいけない重荷を親が負った場合です。子どもに自主性がなくなり、自分で決めることができない。だから、自分がしたことに対しても責任がとれないのです。アメリカの話ですが、子どもが麻薬で6回も留置場に入れられました。お母さんは息子が麻薬で捕まるたびに、保釈金を積んで釈放していました。一人の麻薬から解放された男性が言いました。「私もかつて麻薬中毒だったけど、刑務所に入って本当に良かった。そこで、回復のためのトレーニングを受けられたし、イエス様も信じられたよ。お母さん、息子さんを本当に愛しているなら、7回目はそのままにしておいたら良いよ」と言ったそうです。

 特に何かの依存症の場合は、負って良いものと、負ってはいけないものをはっきりしないとダメだそうです。アルコール、薬物、ゲーム、性、ギャンブル…いろいろあるようですが、その人が困っているとき、身近な人が助けてあげます。本当は当人が苦しみのどん底で、「ああ、もうやめよう」と決断するしかないのです。だが、その前に、身近な人が「可愛そうだから、見てられない」と、救ってあげる。だまっていると、暴力を受けるので、お金を渡したり、何かしてあげる。そうすると、当人はずっと中毒の中に居座るわけです。このように依存者を脇で助ける人を、共依存と言うそうです。共依存の人たちには、やさしい人が多いのですが、いつも怒りと不安の中で生活しています。どうしてそういう風になってしまうのか不思議です。おそらく、子どものときに、酒乱のお父さんもしくは、ヒステリーのお母さんを助けたんじゃないかと思います。「自分がだれかの言いなりになっている、コントロールされている。」良い気分じゃないですよね。でも、可愛そうなので、つい、また手を差し伸べてしまう。そういう人はベルトをはずして、父なる神様と結びついたら良いですね。自分にできないことは、神様にゆだねる。私たちは他人を変えることはできません。変えられるのは自分だけです。

私は丸屋先生からカウンセリングについて学んでいますが、共依存は良くないが、相互依存は良いということです。夫婦も半人前と半人前が結婚するのではありません。経済的にも精神的にも、一人前と一人前が結婚して、家庭ができるわけです。自分のすべきことは自分でする。でも、疲れていたり、仕事がいっぱいで、できないときもあります。そういう時はお願いする。私は人にあまりものを頼むのが苦手です。自分で全部やってしまうところがあります。お互いに協力したら、もっと大きなことができます。教会はチームワークを学びながら、神様に仕える場ではないかと思います。互いに重荷を負い合いましょう。

2.あやまちを負い合う

 ガラテヤ1-3「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」私たちクリスチャンは、イエス様を信じたとき、新しく生まれ変わりました。それから、神の種が内側に入り、故意に罪を犯すことができなくなったのです。でも、私たちには肉の性質や弱さがありますので、誘惑に負けて罪を犯すときがあります。それをガラテヤ書は「あやまちに陥ったら、正してあげなさい。そのことが互いの重荷を負い合うことだ」と言っています。そのとき、相手の悲しみや苦しみを思いやり、回復できるように励ます。また、自分は優越感にひたるのではなく、自分の行ないをよく調べる必要が常にあるということです。つまり、自分もだれからあやまちを正してもらわなければならない時があるということです。これを「責任を負い合う関係」と言います。英語では、アカウンタビリティと言うようですが、「説明責任」と訳すと、とても堅い感じがします。「どうして汚染米を転売したんだ。さあ、納得のいくように説明をしてもらおうか」ではありません。兄弟姉妹同士で、罪を犯さないようにあるいは、犯した罪から立ち直れるように助け合うということです。

しかし、日本人は面と向かって、注意するということがとても苦手です。裏では「こうなんじゃないの」と言えますが、当人に話すことができない。マタイ18章でこう書いてあります。マタイ18:15、16「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです」私たちは、当人を飛ばして、第三者に「どうしよう」と、持ち込んでしまいます。いろんな人を回りまわって、当人の耳に入ってくる。そうすると、問題が複雑になり、傷も深くなります。私たちはそういう面で、訓練が必要です。最近はブログがあり、何でもかんでも書く人がいます。そして、事情を良く知らない人が、「それはひどい!あなたはこうすべきよ!」などと書き込む。すると、よけい問題がややこしくなります。いくら、テクノロジーが発達した今日でも、問題を感じた当人同士が話し合う。これより勝るものはありません。牧師も罪を犯す存在です。ベン・ウォン師がおっしゃっていました。香港で勇名な牧師がある罪を犯しました。そのとき、何人かの牧師たちは「やっぱりそうだったのか、薄々、感じてたんだよなー」と話していたそうです。そばで聞いていた、ベン・ウォン師は、「分かっていたらどうして、その先生のところへ行ってあげなかったのか!」と怒りを覚えたそうです。

私たちは責任を負い合う関係がとても必要です。こういう大勢の会衆では、そういう関係を持つのは不可能です。身近な兄弟姉妹、2人、多くて、5,6人のメンバーが必要なのではないでしょうか?私は10年以上も前からセルとかLTGということを申し上げています。本当に日本では無理なのか、悩んでいますね。問題が深刻になってから、牧師とかカウンセラーのところへ持って行きます。でも、その前に、お互いに分かち合って、祈り合ったら解決するんじゃないでしょうか?アメリカのある刑務所で、セルを導入したそうです。多くの場合、出所してもまた戻ってくる。彼らのために莫大な税金を費やしても良くならない。それで、セルを導入したら、戻ってくる人が数%になったそうです。教会はセルを持つことによって、いろんな悩みを解決することができます。自分の頭はかくことができますが、背中をかくことはできません。肩や首が凝っているとき、自分ではもむことができません。だれかにもんでもらうと、すっきりしますね。神様は私たちが共同体で生きるように、造られたんじゃないでしょうか。そのために、お互いが責任を負い合う。あやまちを犯したら重荷を負い合う。どうしたら良いでしょう。やはり、前もって、「お互いに責任を負い合いましょう。私に時々、チェックしてね。私もあなたのことをチェックしてあげるから」とお願いしておくのが良いですね。「この1週間ディボーションしましたか?失望落胆にはまっていませんか?性的罪やアルコールから守られていますか?」しかし、私にそういう人がいないのに、「教会員にしなさい」というのも無理な話かもしれません。私も常磐牧師セルやセルチャーチネットワークに属していますが、そこいら辺をもっと強くしなければならないと思います。10月に菅谷先生をお招きしますが、そういうこともぜひ、お伺いしたいと思います。

ヤコブ書にすばらしいみことばがあります。ヤコブ5:16,19,20「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。・・・私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい」。初代教会の頃は、「お互いに罪を言い表し、互いのために祈る」ということが普通になされていました。しかし、中世から、教会に行って、箱の中にいる司祭の前で懺悔する習慣ができました。箱の中ですから、顔を見ないで、罪を言い表して帰ってこれる。しかし、それは聖書的ではありません。もし、兄弟姉妹のだれかに罪を言い表し、「私のために祈ってね」とお願いする。すると、その人は「ああ、私はあの人から祈ってもらっているんだ」と楔の役割を果たすでしょう。随分、前の話しですが、私はある姉妹から「私はとても怒りっぽいの。子どもたちに対して一度怒ったら、止まらないの。だから祈ってください」と頼まれたことがあります。実はその頃の私もそうでした。親からよく叩かれたので、子どものお尻をスパンクしたとき、1回で良いのに、3回、4回叩いてしまう。その姉妹の気持ちが分かりました。それで、お祈りしたことがあります。そういう身についてしまった習慣は、自分で祈ってもなかなか直りません。やはり、だれかから、「実はこうなんです」と告白して、祈ってもらう。すると、癒されるのですね。ヤコブも言っています。「互いのために祈りなさい。いやされるためです」と。これは、肉体の病気ではなく、心の傷のことを意味しているそうです。

3.経済(物質)負い合う

ガラテヤ6:6「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」

飛んで、7節と8節には「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」と書いてあります。みことばを教えられる人は、教会の信徒(クリスチャン)のことを指していると思います。教える人は、教師とか牧師、伝道者を指すのではないかと思います。マルチン・ルターは万人祭司説を唱えました。だれでもが、イエス・キリストによって神の御前に立つ事ができる、身分の上下はないということです。しかし、新約聖書を見ますと、フルタイムで仕えている、人たちもいたことがわかります。Ⅰテモテ5:17,18「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。初代教会は、教会の運営にあたる長老と、みことばを教える長老がいたようです。後者の長老は、現代の牧師と同じであると思います。人数の少ない開拓教会は、そうでもないようですが、一般的には牧師がみことばの教えに専念する方が良い仕事ができます。私はプロという表現は反対ですが、学びと訓練を受けた者が説教を語る方が、効率が良いと思います。たまに説教するのと、毎週説教する方がとどっちが大変か?どっちも大変です。でも、毎週、語る方がある意味では楽です。神様は不思議に、1週間1ヶのメッセージを与えてくださいます。

 しかし、ある人は、「1週間1ヶのメッセージにそんな高い賃金を払う必要があるのか?」と疑問に思う方がおられるかもしれません。実際に千葉県に、毎週、いろんな牧師に説教に来てもらっている教会があります。ひょっとしたら半分くらいの予算でできるかもしれません。でも、みなさん、もしそういうことになると神学的に統一性がなくなり、バランスのある信仰を持てなくなります。また、教会員が羊ではなく、みなヤギになって、整えられるということがどういうことなのか分からなくなるでしょう。分裂分派ができ、教会が騒がしくなってしょうがない。高砂教会の手束牧師は「牧師は教会の象徴である」と言われました。現在、先生とは交流がないのですが、ちょっとだけ引用させていただきます。よく、人々は「○○先生の教会」と言います。たとえば、「練馬教会」と言うと、「ああ、小笠原先生の教会ですか?」聞いたりします。本来は、「練馬にあるイエス・キリストの教会」です。小笠原先生が教会を所有しているわけではありません。よそに行って「亀有教会から来ました」と言うと、「ああ、あの面白い、鈴木先生の教会ですか?」と言われるでしょう。私がこの教会の持ち主ではないのに、牧師の名前を付けて呼びます。このことは良い意味でも、悪い意味でも、その教会の牧師の影響力があるということです。当亀有教会は、おそらく、明るくて、おめでたい教会のイメージがあるかもしれません。それは、この私から来ているのかもしれません。神様は私をこの亀有教会に遣わしたと信じます。皆さんが、私を牧師として雇っているのではなく、神様がこの教会に派遣したということです。アーメンでしょうか。

 使徒パウロは、Ⅰコリント9:11で「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか」と言っています。御霊のものとは、霊的なもの、つまりみことばを教えたり、語ったりすることです。また、お祈りをしたり、祝福を取り次ぐこともあります。物質的なものとは、霊に対して肉という意味です。つまり、教会員の皆さんは経済的、物質的なものを与えることによって、支えていかれるということです。なんだか、牧師がこういう箇所を語るのはおこがましいというか、ずうずうしい感じがします。でも、ガラテヤ書には、こう書いてあります。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」。そうです。人が信仰をもって、そのように蒔くならば、豊かな刈り取りをすることになるということです。背後に神様がおられ、みなさんの経済的、物質的な必要を満たしてくださると言うことです。これは、旧訳聖書のマラキ書3章で言われていることと、共通しています。みなさんがささげているのは、牧師にささげているのではなく、牧師を遣わした神様にささげているのです。だから、神様が祝福してくださいます。ハレルヤ!

ところで、きょうの主題は「互いに重荷を負い合う」ということでした。ガラテヤ書で学んだ重荷とは何でしょう?イエス様が十字架で、罪と死とのろいを負ってくださいました。罪と死とのろいは私たちが負ったらダメになる重荷です。ところが、イエス様が身代わりにその重荷を負ってくださり、私たちには軽いくびきを与えてくださいました。そのくびきとは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であります。ですから、私たちが互いに重荷を負い合う、その動機は、隣人愛であります。神様からいただいた愛をもって、互いに重荷を負い合うのです。この重荷は悪い重荷ではなく、良い重荷です。私たちがへりくだりを学び、イエス様に似たものとなるために、必要な重荷です。