2015.3.1「キリストはだれか ヨハネ1:1-3,14」

 「キリストはだれか」ということが、何故そんなに重要なのでしょうか?この世の中には宗教が数えきれないほど多くあり、それぞれの神さまがおられます。また、救いの方法もまちましです。たとえば、イスラム教徒は私たちとおなじ神さまを信じているはずです。しかし、マホメットもしくはコーランを通して神さまを見ています。そうすると、全く別の神さまになり、全く別な救いを求めるようになります。私たちはキリストを通して、本当の神さまがどんなお方かわかります。また、私たちはキリストを通して、本当の救いをいただくことができると信じます。きょうは「キリストがだれか」4つのポイントで学びたいと思います。

 

1.受肉者キリスト

 

この世では人が神になって、拝む対象にまで高められていきます。私たちが他の宗教と異なる点は、神が人となられたということです。多くの人は、クリスマスがキリストの誕生だということは知っているかもしれません。しかし、キリストが、この地上に来られる前、どこにおられたかは知らないのではないでしょうか。ヨハネ1:1-3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」キリストは「ことば」(ギリシャ語ではロゴス)というお方として初めからおられました。神とともにおられ、すべてのものはこの方によって造られました。なんと、キリストが世界を創造されたということです。コロサイ1:16-17「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」このみことばによると、御子であるキリストは万物より先に存在しておられました。そして、見えるものも見えないものもすべて御子によって造られたと書いてあります。聖書全体から考えると、父なる神様は、キリストを通して世界を創造されました。つまり、キリストも世界の創造に参与されていたということです。

世界を造られたお方が、私たちと同じようになられたとは、屈辱的なことではないでしょうか?ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。「人となって」とは、肉体を持たれて、私たちの間に住まわれたということです。当時のギリシャ世界では、肉体は悪と考えられていました。聖なる神が肉体を持つということはナンセンス、無意味でありました。しかし、肉体を持っている私たちを救うために、キリストは肉体を取られたのです。では、この地上に来られたキリストはどのように証言されているのでしょうか?ひとり子としての栄光があり、恵みとまことに満ちておられました。ある人たちは、恵みとまことは相対するものであり、共存できないと言います。なぜなら、恵みは「まあ、良いか」という甘い響きがあります。一方、まことは「真理以外は受け入れない」という厳しさがあります。しかし、イエス様には恵みとまことの両方があったということです。

少し、神学的になりますが、神の御子であるキリストが、人間を救うために、自ら人間イエスとなられたことを「受肉」と言います。受肉の目的は、人間と同化することによって、贖いをまっとうするためでした。もし、人間が蟻を救いたいなら、蟻になるしかありません。しかし、私たち人間がすすんで蟻になりたいでしょうか?正直、イヤですよね。キリストはそれ以上のことを覚悟して人間になられたのであります。イエス様は私たちと同じ肉体を持ちましたが、罪だけは別でした。神の御子は処女マリヤの胎内に聖霊によってみごもられることによって、人間となられました。自然の誕生であるなら、アダムの原罪を受け継ぎ、身代わりになることができません。そのために、御子は聖霊によって罪から守られ、アダムの子孫として誕生したのです。イエス・キリストは肉体を持った私たちを救うために、天から降りて、人間として来られたのです。

 

2啓示者キリスト

 

「神さまを見せてくれたら信じるよ」という人がたくさんいるのではないでしょうか?弟子たちも神さまを見せてほしいと願いました。ヨハネ14:8-10ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

父とは父なる神さまのことです。では、だれを見た者は、神さまを見たのでしょうか?そうです、キリストを見た者であります。イエス様は「私を見た者は、父を見たのです」と言われました。それでは、イエス・キリストはイコール神さまなのでしょうか?それとも、両者はうり二つなのでしょうか?イエス様は神さまがどこにおられると言われたでしょうか?「私が父におり、父が私におられる」と言われました。では、神さまとキリストはどういう関係なのでしょうか?これは、数学の問題になるかもしれません。第一は、キリストの中に神さまがいるということです。第二は神さまの中にキリストがいるということです。両者は一見矛盾しているように思えます。では、この二つを満たす答えは何なのでしょうか?ここにキリストの円があったとします。もう一方に神さまの円があったとします。この二つ円が全く同じ大きさであるならどうでしょう?両者が重なっているとき、キリストの中に神さまがおり、神さまの中にキリストがいるという式がなりたちます。では、父さまとキリストとはどういう関係なのでしょう?そうです。お互いの人格(位格)は違いますが、神という属性においては全く同じだということです。

では、どのようにすれば、父なる神をもっと知ることができるのでしょうか?ヨハネ14: 11「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」イエス様は2つの道を教えられました。1つはイエス様のことばです。イエス様は「私は自分から話しているのではなく、内におられる父なる神です」と言われました。たとえば、マタイの山上の説教を聞いたとき、人々はどう思ったでしょうか?マタイ7:28-29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」イエス様のことばに権威があったのは、イエス様は父なる神さまによって語ったからではないでしょうか?もう1つはイエス様の行ない、わざであります。イエス様は数多くの奇跡を行ないました。しかし、イエス様は「私のうちにおられる父なる神が、ご自分のわざをおこなわれたのだ」と言われました。決定的な証言がヨハネ5章にも記されています。ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」イエス様ご自身も神さまですから、自分で意志して、自分で奇跡を行なうことができました。でも、あえてそれらを封印して、父なる神さまが言われるように語り、父なる神の力によってわざを行ったのは何故でしょう?それは、イエス様はご自分を通して、父なる神さまを啓示するためでありました。ご自分が父なる神様の代わりとして地上に派遣されていることを表わしたかったのです。ですから、私たちはイエス・キリストのことばとわざを見るとき、「ああ、神さまはこういうお方なのか?」と知ることができるのです。

 ヘブル1:1-2「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」自然界を見て、ある程度神さまのことが分かります。預言者たちが書いた聖書を見るとさらに分かるでしょう。それらに比べ、御子イエスは最も完全な神の啓示です。ヨハネ14章では、御父と御子が完全に一体であることを述べられています。私たちは御子イエスを見ることによって、御父を見ることができるのです。なぜなら、御子イエスこそ、最高の神の啓示だからです。

 

3.贖罪者キリスト

 

 贖罪というのは、罪を贖うとか、罪を取り除くという意味です。これはバプテスマのヨハネのイエス様に対する証言です。ヨハネ1:29-30その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。

 もう1箇所、ヘブル人への手紙も引用します。ヘブル9:14「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」では、一緒に考えたいと思います。旧約時代はどのようにして、人間の罪を取り除いたでしょうか?まず、自分が引いて来た羊や牛の上に手を置いて、自分が犯した罪を告白します。その次に、祭司が代わりにそれらの動物を殺します。つまり血を流すことによって、その人の罪が取り除かれました。手を置くということは、「この動物は私の身代わりです」という意味です。本来なら自分が罪のために死ななければならないところを動物が代わり殺されました。なぜ、祭司は祭壇に動物の血を注いだのでしょうか?レビ17:11「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。…いのちとして贖いをするのは血である。」と書いてあります。つまり、いのちである血でしか罪の贖いを成し遂げることできないからです。旧約時代は何百万、何千万の羊や牛が殺されました。それは、罪はただでは赦されない、代価が伴うということを教えています。罪を犯した人たちは、自分の代わりに動物が血を流して死んでいく様を見てどう思ったでしょうか?「ああ、もうあのような罪を犯すのはやめよう」と心に誓ったことでしょう。でも、動物の血では限界がありました。なぜなら、心が変わらなかったからです。エレミヤ17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とあります。

では、キリストはどのようなお方として来られたのでしょうか?バプテスマのヨハネは「世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。なぜ、イエス様が神の小羊なのでしょうか?イスラエルの民はエジプトに奴隷として捕えられていました。モーセが何度もパロに交渉に行きましたがダメでした。脱出の決め手になったのは何でしょう?主は「1歳の羊を殺して、その血を家々の二本の門柱とかもいにつけなさい」と命じました。血が塗られている家は主の怒りが通り過ぎるということでした。もちろん、パロやエジプトの人たちはそれをしませんでした。だから、彼らの長子という長子が主の使いによって殺されてしまいました。それで、パロはイスラエルの民を手放したのです。エジプトはこの世、パロはサタンを象徴しています。そして、羊の血とは、十字架で流されたイエス様の血潮です。父なる神さまはイエス様が流された血をごらんになって、人類の罪を裁かないということをお決めになられたのです。赦しの条件はキリストによってなされた十字架の贖いを自分のものとして受け取るということです。クリスチャンとはキリストの血が塗られた人であります。その人からは、罪のさばきが通り過ぎるということです。

では、キリストの贖いを受けた人には、どのような変化が訪れるのでしょうか?ヘブル9:14「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」良心がきよめられ、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者となるということです。「良心が一体どこにあるのか?」これは永遠の謎かもしれません。ウィットネス・リーという人は、良心は霊の一部であると言っています。イエス様を信じると死んでいた霊が生き返ります。そのとき、良心も再生して正しく機能するようになるということです。この世の人たちは良心が麻痺している状態です。いくら道徳や厳しい罰則によって外側から正そうとしても無理です。ですから、まず第一に良心を目覚めさせる必要があります。良心が生まれかわり、罪責感が取り除かれるとどうなるでしょうか?ヘブル10:19と22「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。…そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」キリストの血が私たちの良心をきよめてくださいます。そして、私たちはキリストの血を通して、大胆に神のみもとに近づくことができるのです。キリストは贖罪者です。

 

4.仲介者キリスト

 

 聖書には新約聖書と旧約聖書があります。英語で新約聖書は、New testament新しい契約という意味です。また、旧約聖書は、Old testament古い契約という意味です。キリスト教は契約の宗教と言っても間違いありません。日本人は農耕民族なので、あまり契約という概念がありません。なぜなら、人間的に親しく、明日も同じところに住んでいるからです。しかし、大陸の人たちは、契約ということがとても重要でした。なぜなら、彼らは今日会っても、明日は会えないかもしれないからです。人間関係よりも、契約の方が重んじられていました。では、初めの契約、アダムと神との契約はどうなりましたか?神さまは「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と言われました。ところが、アダムは善悪の知識の木から取って食べました。それは契約違反したことになります。そのため、アダムは死ぬことになり、エデンから追放され、地が呪われてしまいました。パウロは「ひとりの違反によってすべての人が罪に定められた」(ローマ5:18)と言っています。他にも旧約聖書にはたくさんの契約があります。ノアの契約もあります。主は「すべて肉なるものは、もはや大洪水の水で断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはしない」(創世記9:11)と約束されました。その次はアブラハム契約があります。主はアブラハムに「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する」と言われました。さらにその次は、シナイ契約があります。主はイスラエルの民に「もし、あなたがたが、まことに私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジ19:5-6)と言われました。その後には、主はダビデやソロモンとも契約を結ばれました。

初めの契約と新しい契約の違いは何でしょうか?ヘブル9:15-18「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。」 初めの契約はすべて人間と神さまの間でなされたものです。しかし、新しい契約は仲介者なるキリストを通してなされました。人類が神さまと結んだ契約はすべて失敗に終わりました。旧約時代の人々で、神様に100%従った人は一人もいませんでした。しかし、新しい契約は神様と人間が直接かわしたものではありません。人となられたイエス様が、仲介者として来られ、父なる神と契約を結ばれました。人は失敗することがあるかもしれませんが、イエス様は失敗しません。イエス様はご自身の命を犠牲にして父なる神と契約を結ばれました。そして、三日目に復活しました。さて、イエス様が神さまと契約を結ばれたとき、あなたはどこにいたことになるでしょうか?そうです、あなたはイエス様を信じたとき、バプテスマを受けました。バプテスマとは時間を超えて、キリストと一体になることです。ですから、イエス様が父なる神さまと契約を結ばれたとき、あなたはイエス様のからだの中にいたのです。イエス様がかしらになり、イエス様を信じる者がイエス様のからだになりました。新しい契約は神さまと人間が直接交わしたのではなく、イエス様がなされたのです。私たちはそのとき、イエス様のからだの中にいたのです。では、キリストは新しい契約を成立させるために何をなされたでしょうか?ヘブル人への手紙によると「初めの契約のときの違反を贖うために死なれた」とあります。つまり、古い契約の違反をご自分の死によって償いました。もう、古い契約の時代は終わったのです。それだけではありません。イエス様はご自身が血を流して新しい契約を結ばれました。

では、新しい契約とは何でしょう?クリスチャンになっても、そのことが分からない人がいます。実は、契約という意味のtestamentは遺言という意味があります。ヘブル9:17「遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。」新約聖書はイエス様の遺言と言うこともできます。いつこの遺言が効力を発するのでしょうか?そうです。イエス様が死んだときに初めて有効になるのです。では、契約あるいは遺言の内容とは何でしょう?ヘブル人への手紙によると、その人は罪を取り除かれ、永遠の資産の約束を受けることができると書いてあります。ひとことで言うなら、「救い」を受けるということです。救いを受けた私たちはどこに向かっているのでしょうか?ヘブル12:22-24「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。私たちはみことばとキリストにとどまり、契約の内を歩み続けたいと思います。神の都、天にあるエルサレムを目指して歩みましょう。