2008.09.28 蒔き刈りの法則 ガラテヤ6:6-10

秋は収穫の季節です。もう新米が出ています。稲の場合は、春に蒔いた種が、たくさんの米粒となって収穫できます。りんごや梨も、かつては小さな種でした。それが大きな木になって、たくさんの実を結びます。蒔いたら刈り取る、これは自然界だけにあてはまるのではなく、私たちの生活にもあてはまります。では、蒔くとはどういう意味でしょうか?蒔くとは、行動を蒔く、何かを投資するということでしょう。そして、ある一定の時間が経つと、その結果が現れるわけです。たとえば、真実な行ないをしているならば、信用を刈り取ることができます。また、甘いものや脂っこいものを食べ続けるならば、メタボを刈り取ることになるでしょう。悲しみや憂いを蒔き続けるならば、病気を刈り取るかもしれません。皆さんのように神様のために時間と富をささげるならば、幸いと祝福を刈り取るでしょう。アーメン。

1.どちらを蒔くか

ガラテヤ6:7,8 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」使徒パウロは二通りの蒔き方があると教えています。第一は自分の肉のために蒔くならば、滅びを刈り取るということです。第二は御霊のために蒔くならば、永遠のいのちを刈り取るということです。では、自分の肉のために蒔くとはどういう意味でしょうか?それはガラテヤ5章に書いてあった、肉の行ないをし続けるということす。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興などです。パウロは「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」と言いました。つまり、これは「肉から滅びを刈り取る」ということと一致しています。私は25歳のとき、クリスチャンになりましたが、それ以来、別の道を歩んできました。お酒やタバコもやめました。だれも「私にやめなさい」と言ったわけではありません。ちなみに私を信仰に導いてくれた職場の先輩はずっとタバコを吸っていました。私がタバコを吸っていたのは、話の間が持てなくて吸っていただけです。また、どういう訳かパチンコもマージャンもやめました。やめようと思った訳ではありませんが、やる暇がなくなったからです。たまに、子どもとイトーヨーカードの6階に遊びに行くことがあります。そこに行くとパチンコの台があります。ウルトラマンが出てくるものですが、あんまり面白くないですね。でも、そういうものをやめたので、健康が支えられているのかもしれません。

肉のために蒔くと言ってもいろんなものがありますが、すぐに害になるわけではありません。何年も何十年も続けているうちに、肉体、人格、あるいは霊的な分野に顕著な形で現れるのでしょうね。リンカーンは「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言いました。ある記事を見ましたが、「リンカーンは果たして麻生さんを閣僚に選んでいただろうか?」と書いてありました。麻生首相は若い頃、端正といってもいいくらいの好青年だったそうです。「長い間、政治家をしていたので今のような顔になったのではないか」と書いてありました。政治は、まさしく「党派心、分裂、分派」の世界であります。敵意や争い、嘘もあるかもしれません。そういうところに身をおいていますと厳しいですね。私たちは、生きる環境を肉の行いの少ない方を選ぶべきであります。そして、積極的には御霊に蒔く生き方をしたいと思います。

御霊に蒔くとは、ガラテヤ5:22,23のことでしょう。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。これらは御霊の実です。キリストにつながり、御霊によって生きるとき、だんだんとそういう実が結ばれていくのです。御霊の実と対比されるのが、御霊の賜物であります。御霊の賜物とは神様に仕えるためのいろんな能力です。御霊の賜物が与えられるのは時間がかかりません。そして、あまり苦労もしません。聖霊から一方的に与えられるからです。しかし、御霊の実は、いろんな環境や状況の中で、試され、練られ、あるときは砕かれ、忘れられ、無にされ、けちょんけちょんにされてできてくる。神様は、私たちをそういう所をあえて通らせるようです。そうするうちに、愛、喜び、平安、寛容…自制の実が膨らんでくるのです。最高に甘いトマトをどのように作るかご存知でしょうか。トマトを荒地に植えて、水をほとんどやらない。そして、日をじりじり照らす。すると甘いトマトがなるそうです。私もかつてトマトを植えたことがあります。枝と葉っぱだけが大きく育って、肝心のトマトはそんなになりませんでした。トマトを甘やかしたのかもしれません。

この間、ベン・ウォン師のコーチングセミナーがありました。最後の日このように言われました。「教会にしても個人にしても、自分でもどうにもならないような状況に身を置くことができるだろうか?大半の教会やクリスチャンはいつも自分にとって安全な状況を確保しようとする。私たちは安全地帯にいて、安全地帯の中でいつも動こうとしている。自分たちがちゃんとコントロールしている、把握している中で活動している。しかし、信仰をもって安全地帯を離れることが難しい。あえて、自分にはどうにもならないようなところに身を置く。『私にはできない』という困難に直面する。自分が死ななければならないような状況こそ、神様に叫び求める。そこで、私たちの信仰が成長する」とおっしゃっていました。愛や喜び、平安や寛容も、平坦で何も問題がないところでは育ちません。愛せない人たち、喜べない状況、平安が持てない環境、寛容になれない出来事…そういうところを幾度か通されて、キリストの品性という実が実るのではないでしょうか。柔和とか自制もまさしくそうであります。モーセが柔和になったのは、荒野の40年間があったからです。エジプトの王子から一介の羊飼いになり、人々から忘れ去られ、年ばかりくってしまった。そういうところを通らされたからです。ヨハネやパウロだって最初は愛の人とは思われません。結構、怒りっぽくて、頑固だったでしょう。でも、いろんな苦難を経て、キリストの愛があふれてきたのではないでしょうか。わぉー、私たちの人格、品性、これはぼんやりして生み出されるものではありません。イエス様に必死につながり、イエス様に必死に従うときに、生み出されるものではないでしょうか。アーメン。

2.蒔き刈りの法則 

「エリヤハウス」という「癒しと変革」を行なうミニストリーがあります。1つのカウンセリングでありますが、とても良いものです。ところで、神様はこの自然界を造ったときに、いくつかの法則を与えました。科学者があとからそれを発見したわけです。万有引力の法則とか作用反作用の法則…いろいろあります。自然界だけではなく、神様は道徳上の法則も与えました。このエリヤハウスの働きは、4つの神の法則に基づいています。

①あなたの父と母を敬え

 これは十戒の第五番目です。申命記5:16「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである」。

②さばくとおりさばかれる

 マタイ7:1,2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」。

③種を蒔けば、その刈り取りもする

 このことが本日のテキストに書いてあります。ガラテヤ6:7,8「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」

④すべてのことが増加する

マタイ13:8「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍あるものは三十倍の実を結んだ」。農夫が1粒の種を蒔いて、1粒の実を期待する人はいません。何十倍かの実りになって返ってきます。本来、神様は祝福のために、増加の法則を与えました。しかし、人間が罪に陥ってから、1つの罪が何十倍にもなって自分に返ってくるという呪いにもなりました。

今の4つの法則をいくつかの例によって説明したいと思います。たとえば、自分が小さいときに、父もしくは母に対して、さばいたとします。それは、1つの種を蒔いたことになります。そして、自分が大きくなって、自分の蒔いた種が成長し、実を結びます。そして、それが自分に返ってくるのです。それはいつですか?自分が父もしくは母になってから、子どもから同じようなしうちを受けるということです。それだけではありません。自分の周りの父もしくは、母のような存在から、どういう訳か好意を受けない。なぜなら、自分の中に目上の人を敬うことのできない気質があるからです。また、自分の部下や後輩との関係も悪い。なぜなら、自分には彼らを受け入れ、面倒みるという父の心がないからです。これが、エリヤハウスの中心的な、考え方です。なんだか、因果応報的でありますが、結構、当たっています。

エリヤハウスにキャシーという先生がおられます。彼女が子どものとき、お母さんは怒ると、部屋にとじこもり鍵をかけて3日も4日も出てこなかったそうです。彼女は「お母さん」「お母さん」とドアをノックしました。そのとき、彼女の心の中に裁く気持ち、苦々しい気持ちが起こりました。そして、「絶対、私は家族に対してそういうことはしない!」と決意しました。やがて、キャッシーさんは結婚して家庭を持ちました。どうなったでしょう?何か家族で不和が起こると、キャッシーさんは部屋に閉じこもり鍵をかけました。お母さんと同じように、家族を傷つけてしまったのです。お母さんは心が不安定な人だったのですが、キャッシーさんも不安定でした。やがて、鬱病になりました。もちろん、あとから癒されましたが、お母さんと同じことを気づかずにしていたということです。みなさんの中にそういうことはないでしょうか?お父さんとの関係はどうでしょうか?小さいときに怒りとかさばきの種をまくと、あとから自分自身に帰ってくる。種ですから、一定の時間がかかって、実になるんですね。自分が結婚して、子どもを持つようになると、「ばっ」と現れるとか…。自分じゃ、「父や母と同じようなことをしないぞ!」と誓ったとしても、同じことをしている。それが、子どもから子どもへと連鎖していきます。

でも、ここに救いがあります。神様は人間が罪の種を蒔いて、その結果によって自分自身が破滅することをご存知でした。時が満ちて、神様は、この地上にイエス・キリストを送ってくださいました。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。罪のないイエス様が私たちと1つになってくださいました。私たちの憎しみ、恨み、欲望、不信仰、内側にあるあらゆる醜いものと1つになってくださったのです。そして、イエス様は十字架にかかり、本来ならば、私たちが受けるべき罪の報いをその身に受けてくださったのです。つまり「蒔けば刈り取る」という法則に対して、イエス様の十字架が歯止めとなってくださるということです。本来、私たちが受けるべきダメージが十字架で解消されるということです。「十字架のかげに」という賛美があります。おおー、私たちは罪と呪いが自分にふりかかろうとしているとき、十字架のかげに身を隠すべきです。「どかーん!」ものすごい音がします。でも、この身は大丈夫です。

では、具体的にはどのようにしたら良いのでしょうか?エリヤハウスは5本の指ということを言います。つまり、5つの段階で解決していくということです。認識、悔い改め、赦し、十字架につけて死なす、新しい命をいただく。でも、一番、重要なのは認識、気づくということです。私たちは結構、気づかないで同じことを繰り返しています。もう、それが習慣とか性格にまでなっています。では、どうしたら気がつくのでしょうか?それは、実を見るとわかります。イエス様は「良い木はみな良い実を結ぶ」とか「実によって彼らを見分けることができる」と言われました。私たちの言動というか、生活を見てどうでしょうか?いろんな実があります。良い実もあれば、悪い実もあります。怒り、中毒、忍耐不足、ねたみ、様々な欲望…という悪い実があるでしょうか?悪い実を取ろうとしても無駄なことです。つまり、行ないや考え方を変えようとしても、根本的な解決にはなりません。その実がどこから来ているのか?根っこをさぐらなければなりません。今、起こっていることも大事ですが、その元がどこから来ているのか?根をさぐることが大事です。多くの場合、たどっていくと、それは子ども時代にあります。そこに立ち返って、主の癒しを受けるということです。

3.新しい種をまく

 何故、自分は人と関わることが面倒なのだろうか?何か言われるととても傷つく。挨拶ぐらいなら良いけど、親しく交わることができない。皆さんは、そういうところがないでしょうか?大体、そういう場合は、子どものとき親から拒絶されて、悲しい思いをした人が多いです。お父さんと楽しく遊んだという経験がない。お父さんは気難しくて、いつも怒っていた。小さなことでも頭ごなしに叱られた。自分は価値があって、すばらしい人間だと思ったことが一度もなかった。子どものときに、「拒絶に対する恐れ」という種を蒔いてしまったのです。そういう人に「自信を持って、出て行けば大丈夫よ!」と言っても無理ですね。本当に、子どもの自分が、イエス様から抱きしめられ、はぐくまれ、いのちをいただく必要があります。私は子どもを育てて癒されたところがあります。彼らには「よく生まれてきたねー」「賢いよー」「かっこよいよー」とか、よく言いました。自分が言われなかったからです。でも、自分でそのように子どもに言っていると、自分自身が、癒されたところがあります。

でも、ベン・ウォン師のコーチングを受けて、エリヤハウスだけじゃ足りないなーと思うようになりました。現在、実っている悪い実は、エリヤハウスは子どもの頃に原因があると言います。だから過去をたどって、そこを悔い改め、十字架につけて、新しい命をいただく。確かにある面はすばらしいと思います。でも、新しい良い実はどう結ばれていくのでしょうか?それはこれから新しい種をまいていくしかありません。コーチングはカウンセリングと違って、これから先のことを考えます。「あなたは10年後、どのようになりたいですか?あなたの青写真を見せてください。そのために、あなたは今、何ができるでしょうか?」そのように未来のところから、今のところに戻ってきます。ベン・ウォン師はいろんなチャレンジを与えてくれます。たとえば、「教会の活動を外でやれ!そうすれば新しい人を加えることができる。メッセージを語るだけでなく、一人ひとりと関係を作れ!そうすればキリストの弟子をつくることができる」。こんなふうに言います。でも、長年やってきたスタイルを変えるということは大変です。「遅蒔きながら」という表現がありますが、今からじゃ、手遅れじゃないかという気持ちがいつもあります。このまま進むのは楽です。でも、10年後も今といくらも変わっていないでしょう。では、10年後のために、今から新しい種をまくならどうでしょうか?

ですから、みなさん、私たちの生活を変えるためには2種類必要ですね。カウンセリングのように過去に原因をさぐり、そこを癒していただく方法です。しかし、もう1つは将来を見つめ、どのようになりたいのか?そのために、新しい行動をまいていくということです。今、板橋の先生をコーチングしています。その先生は、「池袋で路傍伝道とか癒し一緒にしよう」と言います。私は「そうだなー」と言いながら、心の中では「恥ずかしいからイヤ」という思いがあります。正直、路傍伝道では、人は救われません。でも、それをやることによって性格が外向きになるということです。だんだんと、慣れてきて、新しい人に伝道できるようになるということです。当教会は内向き過ぎます。その原因は、牧師が内向きだからですね。セルチャーチは、人に指をうけると3本の指がこちらに向きます。「そういう、お前はどうなんだ!」と言い返されます。つまり、模範を示しながら教えていくということです。しかし、こういうやり方は従来の教会と随分違います。これまで私たちは教えて、教え、さらに教え、教えっぱなし。現場でやってみるということがほとんどありませんでした。現実を認めることは辛いことです。台湾の姉妹から7ポイントを指摘されました。自分の欠点を認めると、自分が崩壊してしまいそうな気がします。「今までやって来たことは無駄だったのか?」とイヤーな気持ちになります。でも、ここに秘密が隠されています。新しい種をまくためには、新しい耕地を耕さなければなりません。そのために、木の株をひっこ抜いたり、石ころをどけなければなりません。しばらくそこは畑じゃなかったのです。あきらめていた分野だったからです。でも、10年後、20年後に実がなるように、今から種を蒔くべきではないでしょうか?良いものを得るために新しい種を蒔きましょう。そしてそこに、伝道の種を蒔きましょう。神の国の拡大のために良い種を蒔きましょう。

ガラテヤ6:9、10「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」