2015.3.15「新しい身分 イザヤ43:1-4」

 身分という表現は現代ではあまり使われないかもしれません。前回、「自分はだれか」というアィデンティティについてお話ししました。その続きであります。ちょっと極端ですが、「徳川の将軍と大名、どっちらが偉いでしょうか?」大名がどんなに能力があり、力があったとしても、将軍にはかないません。将軍がたとえ「バカ殿」であったとしても偉いのです。なぜでしょう?身分の中に権威や権力が保証されているからです。私たちは神さまが私たちをどのように見て、どのように扱っておられるかということを知ることはとても重要です。なぜなら、神さまからいただいている身分を知るならば、その身分にふさわしく生きるからです。

 

1.高価で尊い

 

イザヤ43:1,4「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」この箇所はイスラエルに語られたことばです。しかし、イエス・キリストを通して、私たちにも語られていることばです。いくつかの質問をさせていただきます。まず、元来、だれが私たちを造ったのでしょうか?ここには「主」と書いてあります。主というのは、天と地を造られた神さまです。日本では、どの神さまなのか分からないので「創造主」と呼ぶこともあります。創世記1章と2章には、創造主なる神さまが、天と地、そして私たちをも造られたと書いてあります。私たちは神さまから造られたのですが、アダム以来、神さまから離れ、失われた存在でした。では、失われていた私たちを、だれが、どのように見出したのでしょうか?ここには「私があなたを贖ったのだ。私はあなたの名を呼んだ」と書いてあります。「贖う」の元来の意味は、「失われたものを買い戻す」という意味です。新約聖書にはイエス・キリストが十字架で代価を払って、罪の中から私たちを買い戻したと書いてあります。クリスチャンというのは、神さまの呼びかけを聞いて、キリストによってなされた贖いを受け入れた人たちのことです。

 

あなたはどのような存在でしょう?神さまは私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とおっしゃっています。「高価」は英語ではpreciousで「宝石や金属が高価な」という意味です。また、「尊い」は英語ではhonorで「名誉、誉れ」という意味です。私はテレビの『何でも鑑定団』が大好きです。もし、ここに千利休が使った数億円の茶碗があるとします。私はそれでお茶を飲み、流しにポイと置くでしょうか?箱の中に大事に保管し、たまに、それを出してニッコリ眺めるのではないでしょうか?神さまもあなたを高価で尊いと認め、そのように扱ってくださるということです。でも、多くの場合、私たちは神さまの目ではなく、両親やきょうだい、先生、友人、周りの人たちの目で、自分を評価してきたのではないでしょうか?さっきの茶碗でいうと、かたちがいびつだとか、色が黒いとか、古いとか、使い物にならないとか言われるでしょう。私たちもそういう嘘をたくさん聞いてきました。そして「ああ、自分には価値がないんだ。安物なんだ、偽物なんだ」と自分を見るようになります。そして、世の中の片隅で、忘れられ、捨てられたような生き方をするかもしれません。しかし、本当は千利休が使った数億円の茶碗なのです。神さまはあなたの本当の価値を見出して、私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とおっしゃってくださいます。では、神さまの評価を額面どおり受け入れることよって、あなたの人生はどう変わるでしょうか?そうです。自分には価値があると分かり、セルフイメージが変わります。セルフイメージとは、自分に対するイメージ、自己価値であります。箴言23:7(KJV)「なぜなら、彼は、心の中で考える通りの人間であるからだ」。これは、人はみな自分に対して抱いているイメージで生きているという意味です。すべきことが人間の存在価値を決定するのではなく、どのような存在であるのかが、なすべき事柄を決定するのです。日本は進化論に立ち、何ができるかで人の価値を決めます。しかし、人間は神のかたち(イメージ)に造られた特別な存在です。もし、自分がキリストの贖いによって買い取られるほどの価値があるのだと知るなら、それに合った生き方をするでしょう。あなたはこれまでは、親や友人、先生など、人の目で自分を評価していたかもしれません。そうではなく、神さまの御目で自分が何者かを知るべきです。自分の存在を正しく認識することによって、それにふさわしい生き方ができるのです。

 

2.神の子

 

ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」イエス様を信じた私たちはどうなるのでしょうか?「神のこどもとされる特権が与えられた」と書いてあります。私は特権と言う言葉が大好きです。これは「みんなに、だれでも平等に」という意味ではありません。イエス様を受け入れた人、信じた人だけに与えられるものです。世界に何十億にいるかわかりませんが、たった二種類に分けることができます。この世には、神の子どもたちと、そうでない人たちがいるということです。ルカ16章には、「光の子ら」と「この世の子ら」とに分けられています。聖書では、神さまは偉大な王であると記されています。神さまが王であるなら、私たちはどういう立場になるのでしょう?そうです。王子であり、王女です。男性ならPrinceです。プリンスメロンではありません。女性ならPrincesです。なんとすばらしいことでしょう?私たちはディズニーのおとぎ話の世界に生きるのではありません。これが神の国の現実なのです。毎日、数万の人たちがディズニーワールドに行っているでしょう?そこにも、王子や王女がいます。でも、彼らはファンタジーであり、夢の世界です。しかし、聖書はキリストにあって、あなたは王子であり、王女なんだと言っています。どうか「自分はダメなんだ」とうなだれることのないように、そうすると頭から冠が落ちてしまいます。王子であり、王女であるなら、胸を張って堂々と生きるべきです。

 

 Ⅰヨハネ3:2-3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」私たちの後の状態は、どのようになるのでしょう?「私たちはキリストに似た者となる」と書いてあります。これはどういう意味でしょう?私たちは立場的には、神の子どもです。また、王子であり、王女です。でも、キリストが再び現われるまで、中味が完全ではないということを示唆しています。そうなんです。私たちは新しい身分が与えられてはいますが、肉の性質が残っています。罪の世界に住んでいた古い人の記憶や好みや弱さが残っているのです。だから、時たま、王子らしくない、王女らしくない振る舞いや言葉使いをしてしまうのです。でも、大丈夫です。やがてキリストが来られたなら、キリストに似た者となるのです。品性においても、命においてもです。では、この地上では、罪にまみれ弱さの中で生きるのでしょうか?ヨハネの手紙から、キリストが清くあられるように、私たちが自分を清くするのは何故でしょうか?そうなんです。キリストにあって自分が清い存在なので、それにふさわしい生き方をするようになるからです。これはどういう意味でしょう?私は田舎で育ちましたので、子どもの時、汚いドブに落ちたことがありました。ズボンが黒光りし、ひどい匂いを発しています。私は井戸の傍らに行き、汚れたズボンや服を全部脱ぎ捨てます。それから、石鹸で体を洗うでしょう?その後、きれいな服を着ます。次からはドブに嵌らないように気を付けます。わざとドブをまたぐようなことはしません。なぜでしょう?自分はドブのように汚い存在じゃないと分かっているからです。私たちは罪ある世界に生きてはいますが、罪そのものではありません。神の子であり、光の子なのです。だから、それにふさわしい生き方をするのです。

 

3.聖徒

 

Ⅰコリント1:1-2「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」コリント教会の人たちはどのような人たちだったでしょう?Ⅰコリント5章を読むと、教会の中にこの世と同じような不品行がありました。また、霊的な賜物のゆえに高ぶっていました。ねたみや争いもありました。使徒パウロを悩ませた地上最悪の教会でした。でも、この手紙の冒頭で、彼らは何と呼ばれているでしょうか?「聖徒」「聖なるもの」と呼ばれています。聖徒とは英語で、saintです。ローマ・カトリックでは簡単にsaintになることはできません。それなりの功績が必要であり、教会によって認められた人たちだけです。ローマ・カトリックがコリント教会を見たなら、そのような人を発見することはできなかったでしょう。でも、聖書的には、キリストを信じた人ならだれでも、「聖徒」「聖なるもの」なのです。でも、どうして、そのように呼ばれるのでしょうか?それは、キリストを信じたゆえに、神さまのものになったからです。「聖」というもとの意味は、「神さまに選び別たれる」「聖別される」という意味です。旧約聖書で神殿に用いられる器は聖別されました。質も形も台所用品と全く同じです。「しかし、これは神さまの御用のためにだけ用いられる器です」と聖別されました。弟子たちも、この世からイエス様によって聖め別たれた存在でした。この世にあって、この世のものではありません。神さまのものだからです。私たちもイエス様を信じたときから、そのようになったのです。私たちは「聖徒」「聖なるもの」なのです。私たちの生活や状態によらず、神さまがそのように呼んで下さるのです。

 

三浦綾子先生の本を読みますと、「クリスチャンとは赦された罪人に過ぎない」と書いてあります。一面ではそれも当っているかもしれません。でも、赦された罪人であるだけなら、また罪を犯しても良いということになります。好んで罪を犯す人はいないかもしれませんが、罪を犯しても仕方がないというふうになります。なぜなら、その人は「私は赦された罪人に過ぎない」と思っているからです。でも、聖書はそのようには述べていません。テキストには質問があります。「あなたは罪を犯すことがあるかもしれないが、本当は何なのですか?もし、そのことが分かったなら、あなたはどのように生きることができるでしょうか?」とあります。本当は、私たちは「聖徒」「聖なるもの」なのです。そうすると、自分に対するイメージが変わり、聖徒にふさわしく生きるようになるでしょう。たとえば、皆さんがお風呂に入ったとします。お風呂に入ったあと、同じ下着を着るでしょうか?着ないですね。なぜなら、自分はきれいになったと思っているからです。だから、洗った清潔なものを着るのです。ニール・アンダーソン著の『いやし・解放・勝利』にこのように書いてありました。ほとんどのクリスチャンは、自分自身を恵みによって救われた罪人であると言います。しかし、本当に罪人なのでしょうか?それが聖書的なアイデンティティなのでしょうか?そうではありません。神さまは私たちクリスチャンを罪人とは呼ばれず、「聖徒」「聖なる人」と呼んでくださったのです。もし、自分のことを罪人だと考えるなら、どのように生きるのか考えてみてください。おそらく罪人として生活し、罪を犯すでしょう。私たちは自分の本当の存在を認識すべきです。それは罪を犯すことがあるかもしれませんが、「聖徒」なのです。

 

4.義とみなされている

 

ローマ3:24-26「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」私たちが義と認められるのは、だれがどのようなことをなされたからですか?キリスト・イエスによる罪の贖いのゆえにです。義と言う意味は、道徳的に正しいという意味ではありません。この世に道徳的に正しい人がたくさんいるかもしれません。しかし、神の義は人間の義とは全くレベルが違います。行ないにおいて、思いにおいて、性質において100%正しく、神の標準に達しているという意味です。それを測るために、律法という尺度があります。十戒をはじめとして、宗教的な律法、社会的な律法が何百とあります。いくらイエス様が神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛すると2つにまとめたとしてもです。人に腹を立てたり、ばか者と呼んでも罪になります。異性を情欲いだいて見ても罪です。偽りの誓いやむさぼりも罪ですから、もう数えきれないほどの罪を犯していることになるでしょう。でも、神さまは行ないとは別の義を与えるとおっしゃいました。それは、キリストを信じる人に与えられる神の義であります。学校では裏口入学は禁じられており、試験を受けることが必要です。しかし、律法の試験を受けなくても、神の国に入る方法があるのです。イエス様を救い主と信じるなら、すべての罪が免除され、義とされるのです。なぜなら、イエス様が私たちのすべての罪を贖ってくださったからです。さらに質問を続けます。「神さまは罪に対してお怒りになりますが、キリストにあってどう変わられたのでしょう?」はい、キリストの血によって怒りがなだめられたので、もう怒っておられません。「その血による、また信仰による、なだめの供え物になられた」とはどういう意味でしょうか?「なだめ」とは、異教的な響きがありますが、そうではありません。高木慶太師は『信じるだけで救われるか』と言う本でこう述べています。「なだめ」とは、キリストが人類の罪の代価を支払うために、ご自分の命を捨ててくださったことにより、神の義の要求と律法の要求が満足させられ、罪に対する神の怒りがなだめられたことを意味する。アーメン。

 

もう一度お聞きします。神さまはどのような人にご自分の義を与え、義と認めてくださるのでしょうか?イエスを信じる者を義とお認めになる」とあります。これは法的な意味であり、実質的にそうだという意味でありません。たとえば、エジプトを脱出する前の夜、こういうことが命じられました。羊を殺して、その血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がその血をご覧になれば、さばきが通り過ぎるということでした。家の中にいる者は、善人、悪人関係がありません。血が塗られている、家の中にいさえすれば、神の怒りが通り過ぎるのです。同じように、その人がキリストが流された血を受けているなら、神の怒りが通り過ぎ、さらには義と認められるのです。人々や裁判官が何といおうと、宇宙で最も権威がある神さまが「あなたは義だ。あなたは正しい」と言われるのです。悪魔があなたを訴えるなら、「私はキリストの血によって義とされている。文句があるなら神さまのところへ行きなさい」と言えば良いのです。最後にもう1つ質問します。「罪の赦しと義と認められることの違いは何でしょう?」これは、クリスチャンでも誤解している内容です。罪の赦しと義と認めれていることとは厳密には違います。罪の赦しとは罪を犯さない元の状態に戻ることです。罪を犯した状態がマイナスであります。マイナスがとても大きな人もおれば、さほどでない人もいるでしょう。でも、罪を犯した罪人であることには違いがありません。その人が赦されると、プラスマイナスゼロの地点まで行きます。「罪赦されて良かった!」これだけでも、すばらしいことです。では、義と認められるとはどういう意味でしょうか?それは、神さまに受け入れられる状態まで高められることです。プラスマイナスゼロの地点よりも、ずっと高いところです。アダムの罪が赦されたならプラスマイナスゼロです。しかし、イエス様によって与えられる神の義は、もっともっと高いところです。義というのは、いわばプラスプラスの位置と言えます。

 

 私たちクリスチャンはプラスプラスの位置からスタートするべきです。多くの人たちは、マイナスからスタートしてなんとか頑張って、プラスマイナスゼロへ行けたら良いと思っています。しかし、クリスチャンの身分はどうでしょうか?4つありました。高価で尊い存在です。神の子です。聖徒です。義とみなされている存在です。努力する前に、神さまからそのように見られているとは何という幸いでしょう。人となられたイエス様もそうでした。イエス様が30歳になられたとき、ヨルダン川でバプテスマを受けました。神の御霊が鳩のようにイエス様の上にくだられました。それは、メシヤの就任式ともいえるものであり、その時から公生涯がスタートします。その時、天からこのような声がありました。「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(マタイ3:17)。イエス様はまだ何もしていないのに、父なる神さまから是認されていました。イエス様は神さまから認められるために頑張ったという記事はどこにもありません。イエス様は朝早く起きて、父なる神様と交わったことでしょう。その時、「お父様、今日は、カペナウムに行って病人を癒しますよ。人々に福音を伝え、死んだ人がいたらよみがえらせてあげますよ。ぜひ、私の働きを見ていて下さい。」そんな風には祈らなかったと思います。なぜなら、父なる神さまはイエス様に満足しておられたからです。イエス様は父なる神様から認められるために頑張る必要はありませんでした。なぜなら、ご自分は神の子であり、父なる神さまから愛されているという基盤があったからです。私たちの家事や仕事はどうでしょうか?私たちの奉仕はどうでしょうか?神さまから、あるいは人々から認められるためにやっているとしたら寂しい感じがします。私たちはマイナスの地点から始めなくて良いのです。私たちがキリスト様を信じただけで、父なる神さまは喜び、満足してくださいました。私たちはプラスプラス、つまり恵みの地点からスタートすべきです。この世では、人から認められない時、評価されない時があるかもしれません。しかし、聖書は何と言っているでしょうか?「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」「あなたは王子であり、王女だ」「あなたは聖徒であり、義と認められている」ハレルヤ!天と地を造られたお方、最も権威あるお方が、あなたを認めておられるのです。どうぞ、自分を誇りに思ってください。プラスプラス、つまり恵みの地点にいることをお忘れなく。