2015.3.22「神に聞く Ⅱペテロ1:20-21」

 神さまはどのように私たちに語られるのでしょうか?私たちはどのように神さまの声を聞くことができるのでしょうか?神さまの声を聞く方法は、聖書を読むことから始まります。つまり、聖書を読むことは、神さまの声に耳を傾けていることなのです。では、聖書に書かれていない、個人的なことや日常的なことは語って下さらないのでしょうか?もちろん、聖霊が私たちの心に語ってくださいます。でも、物事には基本というものがあります。まず、私たちは神のことばである聖書を読んで、神さまの声に耳を傾けることを体得すべきです。その後、だんだんと神さまの声を聞きわけることができるようになります。

1.聖書はだれが書いたのですか?

 

Ⅱペテロ1:20-21「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」テキスト『養育を受ける』の質問通りに進めて行きたいと思います。

第一の質問、「預言は人間の考えや意志でもたらさられたものでしょうか?」このところには「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」と書いてあります。ギリシャ語の「動かされて」は、「船が風に動かされて」という意味の航海用語であり、適確な場所へ送り込まれるという意味があります。聖霊は風にたとえられますので、そのように人をご自分の目的へと進ませるのです。

第二、「では、預言はどのようにもたらされたのでしょう?」人間が勝手に考え出したものではありません。聖霊が預言者、つまり聖書の記者に語るべき神のことばを与えたのです。

第三、「預言はどうして、文書(聖書)として書き留めらなければならなかったのでしょう?」語られたことばはすぐに消えてなくなります。また、口で言い伝えた場合、だんだんと変質していきます。そのため、文書として書き留めて、後代まで正しく残るようにしたのです。

 第四、「聖書として書き留められるとき、聖霊は人間のどのようなものを用いられたでしょうか?」神さまは人格を無視して、ロボットのように書かせたのではありません。また、「おふでさき」(自動書記)のように、神がかり的に勝手に筆が動いたわけではありません。神の霊がその人の語彙、人格(個性)、その人が集めた資料さえも用いて、神のみこころを表現したのです。聖書は1600年間もかけて、預言者、祭司、王様、学者、羊飼い、農夫、漁師、医者などが書きました。聖霊が、その人たちを用いて、神のことばを書かせました。だから、聖書の本当の著者は神さま(聖霊)ということができます。1冊の本ができあがるのに1600年もかかったということです。しかも、時代の違う人たちが打ち合わせをせずに各書物を書きました。普通でしたら、まとまりのないものになるでしょう。聖書は多様性がありますが、救いという共通のテーマで書かれています。聖書は特別で固有な書物であり、他にこのような書物はありません。

 歴史上、有名な人が聖書に関してこのように述べています。「聖書は古いものでもなければ新しいものでもない。聖書は永遠のものである(ルター)」。「いかなる世界歴史におけるよりも、聖書の中にはより確かな真理が存在する(ニュートン)」。「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選びます(ゲーテ)」。「聖書の存在は、人類がかつて経験したうちで最も大きい恵みである(カント)。」「聖書は神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に含まれている (リンカーン)」。「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は、聖書です(ガンジー)」。「聖書を教えない単なる教育は、無責任な人にピストルを渡すようなものです(ルーズベルト)」。18世紀には啓蒙主義が興り、人々は「聖書は誤りだらけだ」と言い出しました。フランスの詩人、ボード・レールは、「あと100年もすれば、聖書など紙屑かごに捨てられる」と言いました。しかし、皮肉なことに彼が死んだ後、彼の家が聖書の印刷工場になったということです。ナポレオンは「聖書は単なる書物ではなく、それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である」と言いましたが、そのとおりです。聖書は永遠のベストセラーと言われています。どうぞ、私たちは聖書のみことばに親しみ、聖書のみことばの権威を重んじ、聖書のみことばから信仰を得、聖書のみことばに従う者となりたいと思います。

2.聖書の目的は何ですか?


ヨハネ20:31「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」Ⅱテモテ3:15-17「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

 第一の質問、「聖書の第一の目的は何でしょう?」ヨハネは「イエスが神の子キリストであることを、私たちが信じるため。私たちが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と言っています。ある人たちは聖書を文学書として読んでいます。他に聖書は、歴史、哲学、法律、科学を学ぶために読むことも可能です。聖書はいろんな専門分野にも耐えることができるでしょう。しかし、聖書は人間が救われるための必要かつ十分な情報を与えて下さる、いわば救いの専門書です。聖書を通して、イエス・キリストが私のために、どのようなことをして下さったのかわかります。そして、聖霊が私たちに救われるための、知恵を下さいます。

 第二、「聖書はなぜ特別な書物なのでしょうか?」パウロは「聖書はすべて、神の霊感によるものだ」と
言っています。霊感と聞くと、ぱっとひらめきが与えられるインスピレーションを連想するかもしれません。「神の霊感」とは、「神の息吹き」という意味です。つまり、聖霊が神さまのご意志を誤りなく著せるように聖書全体に働いたということです。聖書はヨハネ黙示録で閉じられました。ですから、聖書記者たちに働いた霊感はもうないと私たちは考えています。現在は、聖霊は聖書がどういう意味なのか分かるように、私たちに働いておられます。

第三、「聖書は救われた人にどのような有益な効果をもたらすのでしょうか?」パウロは「教えと戒めと矯正と義の訓練とのため。神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためである」と書いています。私たちは道に迷ったり、道を踏み外す時があるでしょう。そのとき、聖書が正しい道を教え、立ち返らせてくださいます。さらに、聖書は救われた人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者とするために、教えと戒めと矯正を与えてくれます。

第四、「神の人として整えられたかったなら、どういう覚悟が必要でしょうか?」それは、聖書を権威ある神のことばとして認め、心から従うということです。19世紀、自由主義神学の人たちは、「聖書は人間が書いた書物であり、誤りがたくさんある」と言い出しました。人間の理性によって「ここは正しい、ここは正しくない」と読むようになったのです。聖書は聖霊によって書かれた神のことばです。私たちは聖書の権威を認め、聖書のことばに心がから従うべきであります。そのようにした時に、はじめてみことばによって、私たちが整えられるのです。

3.魂の食物である聖書

 

マタイ4:4「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」Ⅰペテロ2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

第一の質問、「私たちは肉の糧だけではなく、何が必要なのでしょうか?」神の口から出る一つ一つのことばが必要です。私たちは魂の糧が必要だということです。私たちは1日ごはんを食べないと「腹へって死にそうだ」と言うでしょう。しかし、魂の糧を1か月も食べていないのに、空腹を感じないとはどういうことでしょうか?それは、霊的に餓死している状態です。

第二、「神の口から出る一つ一つのことば」は、どのようにするとき与えられるのでしょうか?聖書を読んで、黙想し、実行する必要があります。それは、ごはん(パン)良く噛んで、消化させ、自分のからだの一部とすることと同じことです。クリスチャンで聖書的な知識に富んではいますが、全く実行しない人がいます。そうすると頭ばかり大きくなり、体がヒョロヒョロになり、火星人のようになるでしょう。昔、イギリスの作家がタコみたいな火星人を書きました。頭ばかり発達して、手足が退化しているようなクリスチャンは良くありません。

第三、「生まれたばかりのクリスチャンは、何が必要なのでしょう?」ペテロは「純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」と言いました。救わればばかりの人というのは、霊的な赤ん坊と同じです。ですから、「救いの確信」を与えるような神のことばが必要です。成長していくと義の教えのような堅い食物が必要になってきます。

 救われたばかりの人は、混ぜ物のない、霊の乳を飲まなければなりません。ある人たちは、聖書は難しいので、とりあえず名のある神学者が書いた解説書を読もうとします。しかし、本によっては、聖書の霊感を否定し、奇跡を合理的に解釈して、味もそっけもないものにしているものがあります。聖書は神の霊で書かれたものですから、人間の理性を越えています。ですから、聖書の権威をそこねさせるような解説書は読むべきではありません。私たちは、お魚を食べるときどのように食べるでしょうか?頭から骨ごと食べる人がいるでしょうか。骨をお皿の脇にどけながら、まず柔らかい部分を最初に食べます。同じように聖書も難解なところは脇に寄せて、分かるところを読んで行けば良いのです。難解なところは、信仰生活を続けているうちに分かって来るようになります。

私は25歳のとき、座間キリスト教会で洗礼を受けました。その時はまだ日本ホーリネス教団に属していました。私は毎週語られる大川牧師の熱い説教に捕えられました。そして、テープを購入し、ノートに書き取りました。職場の先輩がGood Newsという分かりやすい英語の聖書をプレゼントしてくれたので、英語で読みました。その時は「罪」「信仰」と書いてある日本語の聖書がピンとこなかったからです。その後、副牧師が「ナビゲーターの小冊子を一緒に勉強しましょう」と時間を取ってくれました。ナビゲーターは自分で聖書を調べ、空欄にみことばを書き込むようになっていました。半年後、東京聖書学院で聖書を学ぶことができて感謝でした。その学校は聖書に対してとても保守的で良かったと思っています。基礎科で卒業して、教会で奉仕をしました。しばらくは、勉強会で教えるため、あるいは説教のために聖書を読んでいました。自分の魂の糧のために、聖書を読むようになったのは、ディボーションをしてからです。それから聖書を読むのが楽しくなりました。なんと洗礼を受けてから19年も経っていました。聖書はスルメイカのように、噛めば噛むほど味が出て来ます。神さまは聖書のみことばを通して語られ、信仰を与え、そして奇跡を起こしてくださいます。聖書のみことばは神さまの約束です。私たちは神さまの約束であり、聖書のみことばを握って、神さまに求めるべきであります。

4.みことばを求める

 

詩篇119:9-12「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。」

第一の質問、「若い人が自分の道をきよく保つ方法とは何でしょう?」詩篇の記者は「神さまのことばに従ってそれを守ることです」と言っています。世の中にはコンプライアンスというのがあります。常識的に悪いのは知っていても、個人情報の売買や横領が後を絶ちません。特に若い人は、いろんな誘惑があります。神のみことばが「それはしてはいけない」と命じていれば素直に従うのです。そうすれば守られます。ダニエルと3人の若者はバビロンに連れていかれました。1から10まで偶像に関することでした。でも、彼らはみことばのとおりに生活したので、守られ、祝福されました。

第二、詩篇の記者は、罪を犯さないために、どのようにしているでしょうか?神さまのことばを心にたくわえると言っています。心にたくわえるとは、暗唱するということです。暗唱していると、何かあった場合、ぱっと出て来ます。

第三、詩篇の記者は、どのような態度で、みことばを求めているでしょうか?「私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています」と言っています。これは、みことばに対する真摯な態度です。神さまが何とおっしゃっているか、それは聖書に何と書いてあるかということと同じです。聖書には神さまのみこころが記されているからです。でも、聖書を占いの書物のように「神さまどうしたら良いでしょうか?示してください」と目をつぶって、適当な箇所を開けてはいけません。最初あけたページに「そして、外へ出て行って、首をつった」(マタイ27:5)と書いてありました。次にあけたら「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)と書いてありました。そのように実行したら大変なことになります。聖書は毎日、通読して読むべきです。当教会では聖務表にディボーションの箇所があります。でも、ヨブ記をずっと読むと恵まれないかもしれません。どこを読んでも自由ですが、ちゃんと「しおり」をはさんで、順番に読むべきです。そうすると、その日にあったみことばは与えられるものです。

第四「あなたは、聖書をどのように具体的に読むべきだと思いますか?」という質問があります。これは自分で決めなければなりません。そして、習慣化すべきです。聖書を読んでいない日があれば、「何かおかしい。大切なことを忘れた」と思わなければなりません。ジョージ・ミューラーは信仰の人として有名です。彼はこのように証しています。「私が一番気を使うべきことは、私が神さまのために何をするか、何をすべきかということにあるのではなく、どういうふうにして私の魂が幸福の状態に至り、どういうふうにしたら私の内なる人が強く育てられ、成長するかということにあります。そうしなければ、すべての努力と務めは中身のない、空っぽのものに過ぎません。ですから朝起きると聖書を読み、そして黙想し始めます。毎日、聖句からどういう祝福があるかを捜します。いろいろな働きのためでもなく、メッセージを準備するためでもない、ただ私の魂の糧を捜し、その祝福を求めます。その結果はいつも同じです。何分も過ぎないうちに私の魂は告白と感謝、とりなしと願いをささげるようになり、そしてそれは深い深い祈りに導かれます。」彼は生涯において5万回もの祈りがきかれたそうです。なぜ、そんなに多くの祈りが答えられたのでしょうか?それは、みことばをよく読んで、みことばの約束に土台して求めたからです。

聖書には「恐れるな!」という言葉が365回もあります。とうことは、毎日、神さまは「恐れるな、私が共にいるから」と語っておられるということです。もし、聖書を閉じているなら恐れに支配されてしまいます。しかし、聖書をひとたび開くなら、「恐れるな!」と語ってくださいます。テレビや新聞のニュースは、親切にも、私たちにいろんな恐れや心配を与えてくれます。もし、朝からそういうのを聞いて一日をスタートしたなら、気が重いです。また、寝る前にサスペンスのドラマを見たり、ニュース・スティーションを見たならどうなるでしょう?私たちの潜在意識に「この世は不条理だらけで、希望がない」というメッセージが送り込まれるでしょう。心の中にグッドニュースを入れるべきなのに、愚かにも、この世の悪いニュースを入れています。箴言4:23「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とあります。アーメン。

また、聖書には約3万個の約束が満ちていると言われています。もし、聖書を閉じて読まないなら、神様があなたに与えようとしておられる約束を無駄にしていることになります。また、聖書は聖書のみことばは、問題を打ち砕くハンマーのようです(エレミヤ23:29)。みことばは、時には剣の役目をし、あなたを縛っているロープを断ち切って下さいます。また、みことばは、時には大盾の役目をし、疑いの火矢を払いのけてくれます。また、聖書のみことばは人生の節目、岐路に立つとき確かな導きを与えてくださいます。私は今から28年前、1987年に当亀有教会から招聘を受けました。私の家内は来たくなかったのです。なぜなら、神学校で「日本基督教団は聖書をちゃんと信じていないし、信仰もない」と聞かされてきたからです。親しくしていた兄弟姉妹が私のために祈ってくれました。そのとき、上から聖霊がはとのように下ってくるのが見えました。同時に、イザヤ書の61章のみことばが浮かんできました。イザヤ61:1「神である主の霊が、わたしの上にある。はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ…」とあります。これは、イエス様が公生涯の始まりの時、会堂で引用したみことばです。「いや、そんな馬鹿な、畏れ多い。そんなはずはない」と退けました。しかし、このみことばが心から離れませんでした。最後に、このみことばで決断しました。イザヤ61:1は福音宣教と癒しと解放について記されています。今、振り返ると亀有教会に来てやっていることは、「福音宣教と癒しと解放だなー」と思いました。イザヤ61:2の「恵みの年を告げ知らせる」はヨベルのラッパを吹くということです。私はトランペットを挫折しましたが、福音のラッパを吹くように導かれていると確信します。この教会に来て、弟子訓練やセルチャーチなど、いろいろやってきましたが、どれもイマイチでした。でも、福音のラッパを吹いて、恵みの年を告げ知らせることは継続しています。このように聖書のことばは生きていて、救いを与え、確かな人生を導いてくださいます。どうぞ、みことばに聞きましょう。みことばに耳を傾けましょう。