2008.08.03 子としての身分 ガラテヤ4:1-11

子どものときは、家庭や学校で、いろんなことをしつけられます。「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」とダメ出しを受けながら育ちます。その結果、「ああ、自分はいけない子で、バカなんだ」と思うようになります。また、学校や社会で幅を利かすのが業績志向です。「成績はどうか」とか「何ができるか」ということで人を評価します。勉強のできる人、仕事のできる人が、イコール、すばらしい人間ということになります。そのため、多くの人たちは人と比べながら、「自分はまだ、まだだ」と劣等感を抱いて生きています。本当は行ないよりも、もっと大切なことがあります。それは「自分は何者であるか」というアイディンテティです。もし、自分は何者であるかということを正しく知るならば、良い行ないも、すばらしい能力も生まれてくるのであります。聖書は私たちを何と言っているでしょうか?聖書は、私たちは「神の子ども」であると言っています。「クリスチャンは神様の息子、神様の娘である」ということです。

1.子たる身分

 ガラテヤ4:4-7 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

 私たちが神の子どもとなるために、神様はどのようなことをしてくださったのでしょうか?週報にも書いてありますが、順番に調べて行きたいと思います。

①神はご自分の御子を遣わしました

 神様はアダムとエバを創造しました。神様はイスラエルの民を選びましたが、契約を全うすることはできませんでした。人類は依然として罪と死の下にありました。しかし、定めの時、つまり時が満ちた時、神様は御子イエスをこの地上に遣わしました。それがクリスマスであります。

②女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました

 イエス様は女から生まれました。「当たり前でしょう。人は男から生まれる訳はないでしょう。」と言うかもしれません。しかし、これは預言の成就であります。創世記3章には、「女の子孫がサタンの頭を打ち砕く」と預言されています。またイザヤ書7章には「乙女がみごもり、男の子を生む」と預言されています。イエス様は律法の下で生まれ、律法に完全に従ったのであります。

③律法の下にある者を贖い出した

 贖うとは、「代価を払う」「負債を支払う」という意味です。律法は「あなたには罪があります」と断罪します。しかし、イエス・キリストは私たちの罪を負い、身代わりに裁かれました。そして、律法の下にある人たちを贖い出してくださったのです。だれでも、イエス様の贖いを受けた者は、もう裁かれる必要はないのです。キリストにあって罪赦され、義とされています。

④「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を私たちの心に遣われた

 これは新生と関係があります。だれでも、イエス様を信じると、心に聖霊が入ってきます。そして、その人は霊的に新しく生まれます。これは神の子という立場の変化だけではなく、内側の性質も変わるということです。「神様が私のお父さんなんだ。そして、私は神様の子どもなんだ」という自覚が与えられます。「アバ」とは、イスラエルで、子どもがお父さんを親しく呼ぶ、呼び方です。日本では「パパ」「お父ちゃん」あるいは「ちゃーん」みたいな呼び方です。大変、親しい関係です。

 もし、自分が神の子であることを心から理解したならどうなるでしょうか?神の子とは、「神様の息子、神様の娘」という意味です。神様は王様です。王様の息子を何と言うでしょうか?王子、プリンスであります。では、王様の娘を何と言うでしょうか?王女、プリンセスであります。かつては、私たちは後見人や管理者のもとにありました。本当は王子であり、王女だったのに、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。家庭や学校で、ひどい扱いを受けて育ったかもしれません。この世の価値観のもとで、バカにされたり、不当な扱いを受けたかもしれません。でも、本当の自分はだれだったのでしょうか?王子であり、王女だったのです。これって、すごいことじゃないでしょうか?私は郵便局でアルバイトをしていますが、そこに鈴木宗孝という人が働いています。その人は団地に郵便物を届ける仕事をしています。その人は、自分の名前を見せながら、「俺は吉宗の子孫なんだ。世が世だったら大変なことなんだ。無礼者め、手打ちにいたすぞ」と言いました。私は「なるほど、だから宗孝と言うのか!」と本気に信じました。何度か、話しているうちに、彼はこう言いました。「徳川の子孫が、こんなところでアルバイトなんかしているかよ」と。つまり、からかわれたんですね。しかし、私は、一度はそれを信じたので、彼に対するイメージがなかなか消えないんですね。

 私たちが神様の息子、娘であるとは、狂言とか嘘ではありません。これは本来、神様が私たちに与えたかった身分であり、立場であります。神様は全世界、全宇宙の創造者であり、すべてを所有しておられます。もし、私たちが神様の子どもとなるならば、どうなるのでしょうか?ガラテヤ4:7「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です」と書いてあります。ローマ8:17「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」奴隷であるなら財産を受け継ぐ権利はありません。でも、息子や娘だったら、財産を受け継ぐ特権があります。父なる神様は一体、どれくらい持っているのでしょうか?神様は全世界、全宇宙の所有者であります。昔、NHKの教育テレビでやっていました。「ある天体は核融合を起こした結果、星雲全体が金でできている可能性がある」と言いました。私はまんざら嘘ではないと思います。黙示録21章には天の都のことが記されています。城壁の土台が高価な宝石でできています。また、大通りは純金でできています。私は5年くらい、土木の現場監督をしたことがあります。建物の土台はだいたい、砂利とか強度の弱いコンクリートです。道は路床が砂利で、表層はアスファルトです。つまり、建物の土台とか道路は一番安い材料を使います。ところが、天の都は、土台や道路に、宝石や純金を使っています。ということは、父なる神様はどれほど金持ちかということです。みなさんは、一度や二度、こんなことを思ったことがありせんか?遠い親戚に億万長者がいて、ある時、自分に何億もの遺産が転がり込む。後から、自分のおじさんが億万長者だったということが分かった。そんな話は、夢物語かもしれません。でも、聖書は私たちが神の子どもであるなら、莫大な神様の持ち物を私たちが相続できると言います。ですから、これは夢じゃなくて、本当のことであります。

 ガラテヤ書3章で、私たちは義とされていることを学びました。そして、この4章には、私たちは神の子どもであると書いています。もし、私たちが義とされていて、神の子どもであることを心から自覚していたなら、生活もおのずと変わってくるのではないでしょうか?「そうしちゃいけない」「ああしちゃいけない」と口うるさく言われなくても、王子らしく、王女らしく振舞うのではないでしょうか?私はついこの間まで古い自転車に乗っていました。ギアとかペダルがギコギコして、「いつ分解するかなー」とハラハラ乗っていました。区役所セルの帰り、ドンキホーテの自転車売り場を覗いた事もあります。内装3段で15,000円でした。「うぁー高いなー」と思いました。そのうち、教会の前に自転車が乗り捨ててあることに気がつきました。前のタイヤがパンクして外れており、他は新品同様です。1ヶ月も放置されており、警察にも届けました。その後も、放置されていました。私の中に1つの考えが浮かびました。「この自転車に、今乗っている自転車の前の車輪をくっつければ、完全になるじゃないか。防犯登録は削り取って、スプレーをかけて色を塗り替えたらどうか?夜こっそり、持って来て、細工をしようか?」「待てよ、私は神様から義と認められている存在だ。そんな自転車乗って、おまわりさんからいつ呼び止められるかビクビク運転するのも嫌じゃないか?」「んんー、だけど持ち主はきっと捨てたんだよ。廃物を利用するのも悪くはないじゃないか」。そんな感じでさらに1ヶ月間過ぎました。気がついたら、その自転車はなくなっていました。突然、教会員の有志が私に誕生日プレゼントだと新しい自転車を下さいました。しかも、1台ではなく、家内の分もです。自転車はブリジストンで内装3段、ドンキの倍はする代物です。その時、私は思いました。「もし、私が放置された自転車を改造して乗っていたら、こういうことにはならなかった。ああ、神の子どもとして、ふるまっていたから、神の子どもらしい自転車が与えられたんだ。アーメン」。

 みなさんは、神の子どもとされています。キリストにあって、あなたは王子、王女です。王子、王女らしく胸を張って生きましょう。王なる神様は、天国へ行く前から、この地上であっても必要を満たしてくださいます。

2.逆戻りしているクリスチャン

 ガラテヤ教会の人たちは、神を知っていたのに、幼稚な教えに逆戻りして、再び奴隷となりました。幼稚な教えとは、律法、「・・・してはならない」「・・・しなければならない」という戒めです。私たちも子どものときは、律法的な教えの下にいました。だが、クリスチャンになって恵みによって生きる喜びを知りました。ああ、それなのに、また律法の奴隷になるなんてありえるのでしょうか?私はあると思います。1つはクリスチャン生活とは何かという教えを受けた後、もう1つはいわゆる献身者となったら、律法の奴隷になる恐れがあります。教会によっては、洗礼準備会なるものを10回コースでやるところもあります。10回コースを終わったら、洗礼を受けられるのですが、その頃には、救いの喜びは消え、「クリスチャン生活って大変なんだなー」と重荷が両肩にのしかかっています。救いはただであり、恵みなのですが、クリスチャン生活は一生懸命がんばらなければならない。毎週、聖日礼拝を守る。毎日、聖書を読み、祈ること。十戒から姦淫とかむさぼりは悪いと教えられます。献金をし、神様から与えられたものをよく管理する。自分の賜物を生かして奉仕する。自分を愛するように隣人を愛する。機会をとらえて伝道する。どれも、悪いものではありません。でも、当人はどう思うでしょうか?この世の中で、たくさん守らなければならないことや、行なわなければならない義務があるのに、教会に来たら、さらに多くなった。しかも、もっと高度になった。「これじゃ、やって行けないよー。天国は行きたいから、死ぬ前にまた教会に戻って来たら良いんじゃないかなー。さようなら、またいつか。」となるのではないでしょうか?でも、真面目な人は、それに従って、歯を食いしばってクリスチャン生活を送るかもしれません。でも、その人は立派な律法主義者になります。そして、律法主義の弟子を新たに作っていくでしょう。

 一体何が間違っているのでしょうか?いわゆる勉強会や弟子訓練に何が足りないのでしょうか?それは、いのちです。いのちとは、神のいのち、聖霊の力であります。しかし、外から律法を教えると、神のいのちが逆に窒息してしまうのです。新生したクリスチャンに最も大切なのは、何を行なうかではなく、「あなたは何者であり、新たにどういう性質が与えられているか」であります。鳥は何故、重力に逆らって飛ぶことができるのでしょうか?それは鳥の中にいのちがあるから、落ちないで飛べるのです。同じように、クリスチャンが罪を犯さなくなるためにはどうしたら良いでしょうか?それは「しなければならないこと、してはならないこと」を学ぶことではありません。そんなことは子どものときからずっと教わってきました。でも、それらを守る力がなかったのです。「でも、今は違います。あなたの中に神のいのちがあります。あなたはイエス様を見上げ、イエス様と一緒に生活すれば良いのです。そうすれば、おのずと罪は犯さなくなり、するべきことをすることができるようになるのです。」クリスチャン生活をあんまり複雑にしてはいけません。クリスチャン生活とは、新たに与えられた神のいのちによって、イエス様と一緒に生活することです。もちろん、神の律法も知る必要があります。それは、「ここを越えたら危ないんだ」と確認するためであります。刑罰が怖くて守るのではありません。神様の愛を裏切りたくない、神様の愛に応えたいから守るのです。たとえ、間違って罪を犯しても、大丈夫なのであります。キリストによって、すでに赦されているので、悔い改めることができます。神様はキリストにあってすべてを赦すことに決めておられるんです。もう裁かれないのです。だから、私たちは安心して、いられるんです。これが、律法ではなく、恵みのもとで生きる違いです。

 もう1つは献身した場合です。聖書的にはすべての人が神様に献身するのが標準であります。でも、教会によっては「献身とは、イコール牧師や伝道者になることだ。献身したら、自分の願いも、世の楽しみもみんな捨ててキリストに従うことだ」と理解されています。私も洗礼を受けて、半年後に献身を表明しました。大川牧師は私に「もう、あなたには気を使いませんよ」と言いました。つまり、一信徒ではなく、献身者として扱うということです。神学校では、自我に死んで、キリストのために生きることが強調されました。そこでは、神学生とは呼ばないで、修養生と呼びました。教会でも「修養会」いうのが毎年ありました。修養とは、「徳性を磨き、人格を高めること」であります。修養生時代、「これでもか、これでもか」と叩かれました。教会で奉仕をするようになってから、人々を救いに導くという使命が与えられました。数ではないのですが、やっぱり数だみたいなところがありました。当教会に来ても、1年に何名受洗者が起こされ、礼拝人数が何名になるか気にかかりました。「もっとできるはずじゃないか?少ないなー」という気持ちがいつもありました。あるとき、神様は私にこう言っているように思いました。「パウロはあれだけがんばったのに、お前は何をやっているんだ。歯がゆいぞ!」。私は「今、天に召されたら、恥ずかしくて神様の前には立てないなー」と思いました。しかし、あるとき「天の父の心」というのはどういうものかと教えられました。エディ・レオ師から「トライアスロン」のビデオを見せられて、嗚咽しました。身障者の息子をお父さんがボートや自転車に乗せて、トライアスロンをした実話です。「ああ、私は何もできない霊的な身障者だ。だけど、父なる神様が私をゴールまで運んで行ってくれる。私がやるのではなく、神様が私を通して働きたいんだ」。それを悟ってから楽になりました。いわゆる、業績志向の律法主義から解放されたわけです。だから、献身しているしないは関係ありません。私たちには神様のいのちがあるのです。神様が私たちを通して働きたいと願っているのです。私たちが神様に差し出したら、神様が用いてくださるのです。

 今、推薦している『グレース・ウォーク・ワークブック』に、きょうの箇所の解説が載っていましたので、抜粋させていただきます。「新生体験をしているクリスチャンが律法の下で生活しています。救われた後、徐々に空しい宗教に入ってしまうケースが数多くあります。多くのクリスチャンは、神は雇用主だと信じています。雇用主なる主の言いつけを守っていれば、それで大丈夫と言うのです。それでは、聖書の教えからあまりにもかけ離れています。ガラテヤ書4:4-7には、私たちは奴隷ではなく、子どもであると書かれています。主は、御子のいのちを私たちに与えてくださいました。子であるがゆえに、奴隷ではありません。従業員の態度は、雇用主の顔色をうかがうものです。だが、子どもは違います。雇用主に対してやるべきことは、やらないことをいちいち聞く必要はありません。父親と同じビジョン、同じ夢をもっています。父親の心を知っているからです。ルカ15章には、父親と二人の息子の物語があります。弟息子は父のもとを離れ、財産を使い果たし、豚飼いをしていました。そのとき、弟息子は父の子どもじゃなかったのでしょうか?いいえ、彼はそれでも父の子どもでしたが、失われた存在でした。彼は本心に立ち返り、父のもとに帰りました。父は彼に一番良い着物を与え、指輪をはめさせ、靴を履かせました。弟息子は、父の子どもという身分を回復したのです。兄息子はどうだったでしょうか?彼は父親のもとにずっといたのですが、従業員のような思いで生活していました。せっかく弟が帰ってきたのに、父に対してこう言いました。「ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」兄は、父のもとにいたのに、まことにせちがらい生活をしていました。これは当時の律法学者、パリサイ人の生活です。「父なる神に仕え、戒めを破ったことは一度もありません。でも、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」「子山羊ぐらい食えよ!」と言いたくなりますが、父の心を全く理解できない冷たい人でした。これが律法主義の信仰生活です。豊かなる神様がそばにいるのに、自由と豊かさを味わうことをしない人です。

 私たちは神様の奴隷ではありません。神様の息子であり、娘です。「何ができるか、できないか」「良い子であるか、良い子でないか」関係ありません。父なる神様は、キリストにあって私たちの存在そのものを愛して、受け入れてくださっています。息子であり、娘ならば、父なる神様が必要なものは与えてくださいます。あの放蕩息子にすら、一番良い着物を与え、指輪をはめさせ、靴を履かせたのです。父なる神様のもとに安らぎましょう。そして、父なる神様から助けと力をいただき、この世において勝利ある生活をしましょう。悪魔にまさる、神の子の権威を用いましょう。使徒パウロは8章で言いました。ローマ8:32「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」アーメン。