2008.08.10 生みの苦しみ ガラテヤ4:12-19

人が福音を信じて救われたのに、後から間違った教えが入って、元の木阿弥になってしまったということがあるのでしょうか?楽観的に考えるならば、「人が一旦、信じて救われたらば、滅びることはない、ちゃんと天国に行ける」と考えます。でも、天国だけがゴールではありません。その人が、ゆがんだ信仰を持ったために、荒野の生活を送るということはありえることです。イスラエルの民は荒野を40年さまよい、その時代のたちは約束の地に入ることができませんでした。ガラテヤ教会の人たちは、最初、パウロが宣べ伝えた福音によってイエス様を信じて救われました。しかし、あとから偽兄弟が入り込み、パウロの福音をゆがめてしまいました。そして、前の教えから離れ、律法主義の奴隷となっていました。パウロはそのことを知って、大変憤り、彼らが正しい福音を悟るように書いたのがこのガラテヤ人への手紙であります。きょうは、3つのポイントで語りたいと思います。

1.最初の信仰

 最初、ガラテヤの人たちが、使徒パウロを迎えたときどのような状態だったでしょうか?彼らはパウロを神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように迎えました。そして、福音を信じて喜びに満たされたことでしょう?最初は、パウロに対して、非常に純粋な思いがありましたが、今では、「パウロは本当に使徒だったのだろうか?」「パウロの福音では足りなかったんじゃないだろうか?」と疑いに満ちています。もし、これを現代風に置き換えたら、このようになると思います。亀有教会へ行って、鈴木牧師から福音を聞いて、イエス様を信じたけれど、本当にあれで救われたのだろうか?鈴木先生はどこからどこまで冗談か分からない。私生活は牧師らしくないし、どうもうさんくさい。他の兄弟姉妹も、偽善者じゃないだろうか?あの教会はやっぱりおかしいんじゃないだろうか?もう、行くのはやめよう。それよりも、家々を訪問している、○○の証人の方が正しいんじゃないだろうか?彼らはとても熱心だし、誠実そうだ。わざわざ、私のお家まで訪ねてくれた。「一緒に聖書を勉強しよう!」などと言ってくれた。亀有教会では聖書を勉強せず、伝道もしないで、交わりばかりしている。熱心で誠実な○○証人の方がやっぱり正しいんだ。そうに違いない。だれ、とは言いませんが、そういう方がいるようです。母教会ではその方を非常に失敗して祈っているようですが、何せ、遠いところにあるので、直接的には援助できないようです。

 ガラテヤの教会は最初、パウロに対してどういう態度で接していたのでしょうか?私たちはパウロと言うと、スーパーマンのように格好が良い人だろうと想像します。しかし、ある人が描いた、パウロの絵を見ましたが、ハンサムでもなく、スタイルもあまりよくありませんでした。しかも、パウロは何らかの病気を持っており、それが彼の弱さとなっていました。パウロの病気、また弱さとは何でしょう?聖書学者たちは色んな事を言います。パウロは目の病気があったのではないだろうか?使徒9章にありますがダマスコの途上で、まばゆい光を見ました。そのため、3日間盲目になり、アナニヤに祈ってもらったとき再び見えるようになりました。そのとき、目からうろこが落ちたと描かれています。水晶体が落ちたとは思いませんが、それ以来、目がよく見えなくなったのかもしれません。そのため、パウロの手紙は多くの場合、口述筆記でなされており、最後の部分だけパウロが自ら大きな字で書いています。他の説は、パウロはマラリヤではなかったのではないだろうか?肉体的に弱ると、マラリヤが出てきて大変苦しんだという説です。他にはパウロはてんかんだったのでは?人前で泡をふいて倒れてしまう。そのため、「パウロって本当に正常だろうか」と思われ、恥ずかしい思いをしたという説です。Ⅱコリント12章にありますが、パウロは病気を「肉体のとげ」と言っています。イエス様に「これを私から去らせてください」と3度も祈った。けれども、高慢にならないようにと主が許したものであり、弱さの中に、キリストの力が現われることを悟りました。しかし、このガラテヤ書を見ると、その弱さは、目と関係しているのではという示唆を与えてくれます。15節には「あなたがたは、もし出来れば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか」と書いてあるからです。名前は忘れましたが、目の神経とか網膜がやられる、とても痛い病気があります。具体的にはわかりませんが、パウロの奉仕活動にもものすごくマイナスであったようです。

 でも、ガラテヤの人たちはパウロの容貌とか、肉体的な弱さを見るのではなく、パウロが宣べ伝えた福音を聞いて、主イエス・キリストと出会ったのであります。これはとても大事なことです。中国人はどういう人物であっても、語っている内容が真理であれば、信じるそうです。しかし、日本人の場合は、伝える人がどういう人物であるかまず目が行きます。「ああ、この人は信じるに値する人だなー」と一旦信用したなら、その人が何を言っても信じるようです。だから、日本人は詐欺に遭い易いのかもしれません。そればかりか人を見ると、躓くのも早いです。ですから、できるだけ早く、主イエス・キリストと出会い、聖書の真理に立つならば、信仰生活が安定するのであります。日本において、理想的なのは、伝えている内容も真実であることもさることながら、伝えている本人が信頼に値するということであります。ですから、生まれたばかりのクリスチャンは、できるだけ早く、生けるキリストに出会い、みことばに土台するように導いていく必要があります。人には躓くかもしれませんが、キリストに躓くような人はいないのであります。また、私たちはガラテヤ教会の人たちのように、外見ではなく、宣べ伝えられた福音に目を留める必要があります。現代は映像(AV)の時代で、ほとんどのものが、目と耳から入ります。テレビにおいても、美しい女子アナがもてはやされています。どうせ同じ、報道を聞くなら、「綺麗なネーチャンの方が良い」と思うからかもしれません。箴言31:30「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」と書いてあります。

 とにかく、外見ではなく、霊的なもの、真実なものに目を向けていく、ことが大切であります。いつまでも変わらないものは、主イエス・キリストご自身と、神のみことばであります。

2.ゆがめられた信仰

 パウロが去ったあと、偽兄弟らがやって来て、他の福音を伝えました。パウロは「他の福音と言っても、もう1つ別に福音があるのではない」と怒っています。偽兄弟らは、「信じるだけではだめで、割礼を受け、モーセの律法を守らなければならない」と教えました。つまり、恵みではなく、行ないによる救いを主張したのです。ガラテヤの人たちは、「ああ、そうなのか」とコロっとやられて、真理の道からそれてしまったのです。どうして、彼らはパウロの福音から他の福音の方へ行ってしまったのでしょう?その第一の原因は、律法主義、つまり行ないによる救いは、人間の考えに合っているからです。私たちはもともと、宗教的であり、良い行ないをして救われると言われた方が納得するのです。それは、まことの神様から離れたために、ゆがんだ考えがそなわってしまったのです。「信じるだけではだめか?やっぱり私たちの努力とか行ないが必要なんだ?では、何をすれば良いのですか?」その人たちは、なすべき儀式とか守るべき戒めを教えます。それらを行なうと、「ああ、救われている感じがするなー」と思うようになります。世の中にあるほとんどの宗教は、信じるだけではダメで、お布施をあげたり、功徳を積んだり、一生懸命拝んだり、布教したり、修行する・・・そういうことが含まれています。何か守るべき戒律やお勤めがある方が、安心するのであります。しかし、聖書は信仰によって、恵みによって救われると言います。もし、行ないも必要というのであれば、イエス・キリストの十字架が無駄になるからです。イエス様のあがないは完全であって、私たちはただそれを受け取るだけで良いのです。行ないを主張する人たちは、十字架の敵であります。

 もう1つの原因は、そういう人たちほど熱心だということです。異端ほど熱心なものです。たとえば、熱心なセールスマンとそうでないセールスマンがいたとします。どっちの品物を買うでしょうか?おそらく、熱心なセールスマンが勧める品物を買うでしょう?何故でしょう?「その人がそれほど熱心ならば、勧めている品物はよっぽど良いものに違いない」と思うからです。だけど、熱心が売るための手だったらどうするでしょう?私たちは熱心さのゆえに、ひっかかったというイヤな経験はないでしょうか?高い羽毛布団を買わされたとか、高価なサプリメントを買わされたという経験はないでしょうか?品物ぐらいだったらまだ良いです。でも、間違った教えを受け、間違った宗教に入ったならばえらいことになります。いろんなことに縛られ、社会生活ができなくなくなります。一番残念なのが、まことの神様から離れていくことです。そうです。異端ほど熱心なものです。さきほど読んだガラテヤ書4章に熱心ということばが4回ほど出てきます。4:17「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」異端の特徴は、キリストの恵みではなく、自分たちに熱心にならせることです。自分の教え、自分のやり方に目を向けさせ、結果的にキリストから離れるのです。使徒パウロは、ローマ10章で「その熱心は知識に基づくものではありません」と語っています。

 ここに来られているみなさんは、大丈夫だと思いますが、洗礼を受けた後、来なくなった人はどうでしょうか?おそらく、まちがった教えによって、信仰がゆがめられたのではないでしょうか?あるいは、何かのことに躓いたという場合もあるかもしれません。生まれたての赤ちゃんは本当に弱い存在です。病気になったり、怪我をしたり、いろいろなことがあります。霊的にも同じことであり、信じたばかりの人は、簡単に躓きます。また、1つの教えを受けると、「これしかない!」みたいになり、他のものを寄せ付けないところがあります。それが聖書的で正しければ良いのですが、そうでないものもたくさんあります。キリスト教界において数百年、猛威をふるった教えはヒューマニズムです。彼らは神の権威とか絶対性を言われると猛反対します。30,40年前は、カリスマと反カリスマではないかと思います。異言や預言が絶対なければならないという人たちがいました。それに傷ついた人たちは、すべての霊的賜物を否定しました。そして、教会ができてから今に至るまであるのが律法主義であります。これは、真面目で正しいように見えるので、恐らく7-8割くらいはこれにやられているのではないかと思います。異端ではありませんが、非常に苦しい信仰生活を強いられます。自分をさばき、人をさばき、神様をさばいて生きています。「まだ、だめだ、まだ、だめだ」と自分を打ち叩いて、従わせ、険しい坂道を登っています。かとって信仰を捨てるわけではありません。ただ、ひたすら神様を恐れ、神様の戒めに従う、旧約聖書的な人たちです。何年か前、アメリカからメル・ボンド師が来られ、こう言いました。先生は天に引き上げられ、イエス様を会ったそうです。そのとき、イエス様は「現代、教会の成長を妨げている一番の原因は、律法主義です」と言われたそうです。

3.軌道修正した信仰

 ロケットが月に向かっているとき、軌道がそれたらどうするでしょうか?そのままでは、月に着陸できません。ロケットは絶えず、軌道修正を繰り返しながら、目的地に到達するのであります。信仰も同じだと思います。天国まで、自動操縦で行きたいところですが、そういうわけにはいきません。いろんなことが起こって、まことの信仰からずれたり、離れたりすることがあります。軌道修正を、私たちで言うなら、悔い改めと言えるでしょう。ヨハネ黙示録3:19「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」と書いてあります。父なる神様は優しいだけではなく、愛するがゆえに、叱ったり、懲らしめたりします。そのとき、「ああ、道を修正しよう!」と悔い改めるのです。ガラテヤの教会は、信じた後、誤った教えに引き込まれてしまいました。パウロはそれを非常に危惧しています。ガラテヤ5:4,7でこのように言っています。「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。・・・あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか」。恵みから落ちてしまうことがあるのでしょうか?「一度、信じたんだから絶対大丈夫」というのは聖書的でないかもしれません。パウロは「私のようになってください」と言っています。それは、「あなたがたも私のようにキリストから離れないで、恵みの中を歩んでください」ということでありましょう。

 そして、パウロは心のうちを書いています。ガラテヤ4:19「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」「形造る」は、ギリシャ語では、赤ちゃんが胎の中で形が造られる様を言うようです。パウロは、そのために、もう一度、産みの苦しみをしています。つまり、彼らが福音を信じたときに、産まれたのに、まもなく形が変形してしまった。だから、もういちど、胎の中で形を造り、産み出さなければならないということです。信仰がおかしくなった人を元通りにするということは、それほど大変だということです。捻じ曲がった年数が長ければ、長いほど、元に戻るのが困難になります。カール・マルクスといえば、共産主義を打ちたてた人で有名です。彼は「宗教は民衆の阿片である」と言いました。阿片とは中毒ではなく、痛み止めという意味で言ったようです。マルクスの父はユダヤ教からプロテスタントに改宗しました。そして、マルクス自身も6歳で洗礼を受けました。でも、どこから、無心論者になったのでしょうか?彼はルソーとかへーゲル、唯物論などの哲学を学びました。そして、資本論を書き、多くの人に影響を与えました。労働者の解放ばかりではなく、反キリスト的な影響も与えました。もう、そこまで行くと産みなおすことは不可能です。ですから、信じたばかりの人がちゃんと霊的に成長するように面倒を見る人が必要です。パウロは産みっぱなしではなく、育てる心を持っていました。

 私はこういう箇所を読むと、苦しくなります。メッセージにかなりのウェートを置いていますが、一人ひとりを面倒見るという牧会は、弱いなーと常々思っています。この間、ベン・ウォンのコーチングを久しぶりに聞いてみました。「その人が口で大事だと言ってはいても、本当にその人が大事にしているかは別のことがある。それはどうしたら分かるか?1週間の時間、どのようなことに一番時間を費やしているか。その人が一番時間を費やしているものが、その人の大事に思っていることである。」そのように語っていました。「うぁー、私はセル(共同体)が大事だとか、コーチングが必要だと口で言っています。でも、共同体で過ごす時間、コーチングのためにどれくらい時間をとっているだろうか?」と思いました。資料を作るために勉強をするのは好きですが、実際、生きている人にそれを適用するということが弱い。カウンセリングの勉強は好きですが、人と時間をとってカウンセリングするのはちょっとおっくうです。どうぞ、私のためにも祈ってください。あと10年間、このままで過ごすか?それよりも、だれかとコーチングを始め、それを広げて行くか?パウロは「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」と言いました。「再び」ですから、一度産みの苦しみを体験し、もう一度、産みの苦しみをしているということです。

女の人はかなりの%で産みの苦しみを体験しています。どうでしょう?苦しんだあと、誕生の喜びが来ると思いますが、苦しみは忘れられるでしょうか?おそらく、忘れないと思います。でも、それなのに二人目を生む人がいるのでしょうか?では、男性は産みの苦しみをしないのでしょうか?パウロは再び産みの苦しみをしていると言いました。ですから、男性も生むことができるし、その苦しみも味わうことができるということです。何を生むんでしょうか?それは霊的な子どもです。新しいクリスチャンを生み出すということです。思えば、私を導いてくれた職場の先輩も、私を随分と面倒みてくれました。私の友人となり、どんな話も聞いてくれました。あの先輩と出会っていなければ、絶対、クリスチャンにはなっていなかったと思います。それだけ私はキリスト教とは縁もゆかりもないほど、へん曲がっていたということです。今でも、まだへん曲がっているのに・・・。大川牧師は教えてくれましたけど、産んでくれたのは、職場の先輩だったのです。そして、独り立ちできるまで結構、面倒見てもらいました。最初のころは、金魚のふんみたいにくっついていました。今は偉そうにしていますけど、最初のころは疑問だらけで、質問しまくりました。私も4人の子どもを育てましたけど、まだ育て中ですが、結構、放任主義的なところがあります。なぜなら、私が家庭で放っておかれたからです。「親の世話なんかなるもんか?」みたいに育ちました。今は、その逆の立場です。どうしても自分が育てられたように、育てていく傾向があります。いくら聖書の真理を教えられても、生活は少しずつしか変えられていけないようです。少しずつ変えていきましょう。これを1年続けていけば、10年後はかなり変わっているんじゃないでしょうか?仮面ライダーみたいに、いっぺんに「変身」できたら良いけど、それは無理です。ダイエットのようにリバンド現象が起こります。少しずつ愛の人になり、少しずつ寛容な人になれば良いんじゃないでしょうか。

この世は結果を問います。信仰生活はどうでしょうか?私は信仰は、結果よりもプロセスが大事じゃないかと思います。「こうしなければ」「ああしなければ」と目標を立てるとどうしても律法主義的になります。そして、うまくいかなければ、全部、投げ捨ててしまいます。そうではなく、そこまで達するプロセスが大事です。天国に行くまで、栄光から栄光へと変えられるプロセスです。最初の信仰、ゆがんだ信仰、そして軌道修正する信仰。また、ゆがみが来て、軌道修正する。これを繰り返していく過程において、成長していくのではないかと思います。