2008.08.17 自由の女の子ども ガラテヤ4:21-30

私たちが人々に「教会に来ませんか?」と誘いますと、大体は「いいえ、結構です」と答えるでしょう?かつての私たちも、クリスチャンになる前は、同じように答えたことがあるかもしれません。何故、断るのでしょう?おそらく、「宗教にいっぺん入ったら、抜け出せなくなるから」という理由ではないでしょうか?つまり、そういうものに縛られたくないと思うからです。それでは、みなさんにお伺いします。みなさんの中に、「本当は教会から抜け出したいんだけれど、しかたなく来ているんだ」という人はおられるでしょうか?「地獄へ落とされるのが怖いから?」とか、「休むとうるさく言われるので仕方なく来ている」とか。おそらくいないと思います。そこには2つの理由があります。1つは「教会は出入り自由だ」ということです。当教会はあまりにもさっぱりしています。悪く言うと愛がない、良く言えば自主性を重んじるので、強制は全くしません。もう1つの理由は、イエス様を信じる前は多くのものに縛られていました。「死の恐れ、この世の価値観、罪の習慣・・・いろんなもので縛られていたけど、イエス様のもとで自由が得られました。」おそらく、そういう方がほとんどではないでしょうか?そうです。多くの人たちは、神様のもとへ来ると不自由になると思っていますが、実は、そうではなく、神様のもとには本当の自由があるのです。アーメン。

1.自由の女の子ども

 ガラテヤの教会の人たちは、福音を信じて救われました。キリストにある喜びを体験したのです。ところが、あとからやって来た人たちが、「信じるだけじゃだめなんだ。儀式やモーセの律法を守らなければ救われない」と言いました。彼らは「ああ、そうだったのか」とまことの福音から離れてしまいました。そして、21節にあるように「律法の下にいたいと思う」ようになったのです。使徒パウロは「律法の下にいたいと思う人は、奴隷の女の子どもと同じだ」と言っています。創世記に書いてありますが、アブラハムには二人の子どもがいました。ひとりは女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルです。アブラハムが待ちきれずに、人間的な方法で、そばめによって子どもを得ました。パウロは、それは「肉によって生まれた者だ」と言っています。肉とは人間的と言う意味です。その後、サラによってイサクが生まれました。イサクは自由の女の子どもであり、また約束の子どもです。どちらがアブラハムの後継者かというと、イサクであります。子どもたちが大きくなって、家の中に争いが起きたので、女奴隷ハガルとイシュマエルは追い出されました。しかし、神様はハガルとイシュマエルをあわれんで、「大いなる国民としよう」と約束されました。イシュマエルの子孫こそが、アラブ人であり、イスラム教徒であります。今もなお、イスラム教徒はキリスト教会に激しく、敵対しています。これもみんな、アブラハムのせいです。

 この箇所で、パウロは独特な比喩を用いて、律法と恵みを比べています。アブラハムには二人の子どもがいました。女奴隷から生まれた子どもは、やはり奴隷です。相続人になることはできません。つまり「律法の下にいたいと思う人たちは」奴隷の女の子ども同じだということです。彼らはいつまでも、律法を全うできず、律法の中で、縛られて暮らすしかありません。いくらがんばっても、私たちは律法を全うすることはできないのです。私たちはガラテヤの教会の人たちと同じ異邦人です。律法という言葉すらも聞いたこともありません。皆さんの中で、律法を知っていたという人はどのくらいいるでしょうか?「盗むな」とか「人を殺すな」「目には目を、歯には歯を」という言葉くらいは知っていたかもしれません。では、いつ、律法を学ぶようになったのでしょうか?そうです。クリスチャンになってからです。クリスチャンになってから、「聖書には十戒とかさまざまな律法が書いてある。私たちは神の戒めを守らなければならないんだ」ということが分かります。するとどうなるでしょうか?律法を守らなければ、神様に受け入れてもらえないんだ。律法を守らないと神様からさばかれてしまう。「ああ、安息日を守れと書いてあるので、日曜礼拝を守らなければ」「姦淫を犯すなと書いてあるので、もうHなことはできない」「隣人を愛せよと書いてあるので、人には親切にしなければならない」・・・だんだんと守るべきことが多くなります。そうすると、恵みによって救われて自由なはずだったのに、律法の奴隷になってしまうことになります。それでは、ガラテヤの教会の人たちと同じです。私たちは律法と縁もゆかりもなかったのに、クリスチャンになったがために、律法を知り、律法の奴隷になる可能性もありえるということです。

 それでは、アブラハムのもう一人の子はだれでしょうか?イサクです。イサクのお母さんは、サラです。サラは奴隷ではなく自由人でした。だから、イサクは自由人の女の子どもです。イサクは肉によって生まれたのではなく、約束の子どもであり相続者です。イサクはクリスチャンの型、タイプを表わしています。私たちクリスチャンは恵みによって救われました。救われたとき、御霊によって生まれ、神の子どもとなりました。そうすると、神様が父であり、私たちは神の息子であり、娘です。そしてそれは、父なる神様の相続人ということです。ああ、それなのに、なぜ、律法を守って女奴隷の子どものようになるのですか?私たちは自由の女の子どもですから、奴隷ではありません。神様の奴隷ではなく、神様の子どもです。それでは、約束によって生まれた、神の子どもは律法に対してどのように対処したら良いのでしょうか?第一は肉によって(私たちのがんばりによって)律法を守る義務はありません。ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません」と書いてあります。では、律法は守らなくて良いのですか?もちろん、律法は神のみこころですから守るべきです。でも、イエスの御霊が私たちの中にいて律法を守ることができるようにしてくださるのです。第二は、神のさばきが怖いのからしかたなく守るのではなく、神様の愛に応えるために自分の意思で守るのです。時には、守れないときもあります。でも、イエス様が律法の罰と呪いをすべて負ってくれたので、私たちは常に赦しの中にあるのです。

 ある人たちは、「ああ、クリスチャンになると縛られるんじゃないか。神の戒めとか律法もたくさんあるからイヤだ。このまま自由な生活をしていたい」と言うかもしれません。でも、みなさん、この世では「律法」という言葉こそ使いませんが、私たちを縛るものがたくさん、たくさんあります。まず、この世の法律です。道路交通法をはじめ、たくさんの法律が私たちの身の回りにあります。税金も支払わなくてはなりません。私たちは生きるために仕事をしなければなりません。「働かなければならない」「子どもを育てなければならない」これも一種の律法です。世間体の律法になります。「人から馬鹿にされたくない、良く思われたい」これも律法です。自分の中にも律法があります。それは良心です。悪いことをすると良心の咎めを覚えます。過去の過ちや失敗で縛られている人がいます。ある人は、「私はこうならなければならない。これを得なければならない」という、将来によって縛られています。つまり、私たちがしなければならないこと、してはならないこと、みな律法であります。私たちは生まれてこの方、律法という言葉こそ使いませんが、律法のもとで奴隷だったのではないでしょうか?「まさか?私は奴隷じゃありませんよ」とおっしゃる方に質問します。あなたは「・・・しなければならない」「まだ、だめだ。まだ、達していない」「ああ、もっとがんばらないと」という言葉を良く使うでしょうか?こういう人は立派な律法の奴隷です。

 日本人のほとんどが、律法の奴隷ではないでしょうか?人の目に縛られ、自分の過去にしばられ、この世の価値観に縛られています。どうしたら良いのでしょう?イエス様を信じて、神の子どもとなれば良いのです。恵み深い神様のうちに、本当の自由があります。「御名があがめられ、御国が来ますように。みこころがなされますように」と祈りながら、イエス様に従っていくと、この世の様々な束縛から不思議に解放されます。これまでは飯を食うために、しかたなく働いてきたかもしれません。しかし、「どうしたら私の賜物を最大限に生かして神と人々に仕えることができるだろう」と積極的になります。これまでは、「まだダメだ、まだダメだ」と思ってがんばってきたかもしれません。しかし、「神様、あなたにあって満足します。もし、あなたがチャレンジを与えるなら一緒に達成しましょう!」となります。これまでは「子育てはしんどい。なんと時間と労力を子どもに取られるのだろう?」。しかし、聖書には「子どもは主の賜物、胎の実は報酬である。矢筒の矢である」と書いてあります。子どもが私の次に、神様の働きを拡大してくれると思えば、立派な投資になります。このようにクリスチャンとは、自由な女の子どもの子孫です。私たちは神の子どもであり、さまざまな律法や義務を超越して生きることができるのです。

2.奴隷の女とその子を追い出せ

 ガラテヤ4:30,31 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。パウロは「奴隷の女とその子どもを追い出せ」と言っています。これは一体どういう意味でしょうか?二人の女、ハガルとサラは2つの契約を象徴しています。古い契約(旧約)と新しい契約(新約)です。古い契約は肉によって生まれます。奴隷の女ハガルはイシュマエルを生みました。イシュマエルは律法の型です。新しい契約は霊によって産まれます。自由の女サラはイサクを生みました。イサクはイエス・キリストの型です。古い契約によって律法が与えられました。そして、新しい契約によってイエス・キリストが与えられました。言い換えると、古い契約は律法を生み出し、新しい契約はイエス・キリストを生み出しました。長い間、サラもハガルもアブラハムのもとで共にくらしていました。旧約と新約が同じ家の中にいたということです。また、その子どもたちであるイシュマエルとイサクが同じ家の中にいました。つまり、律法と恵みが同じ家にいました。彼らが暮らしている雰囲気はどのようなものだったでしょうか?ハガルはサラを見下すようになりました。また、イシュマエルはイサクを迫害しました。同じ家の中に律法と恵みが暮らしたので平和がなかったのです。そのために、「奴隷の女とその子どもを追い出せ」という命令が出てきます。

 さて、これを私たちの信仰生活に適用するとどのようになるでしょうか?イサクが乳離れするほどに成長しました。これから堅い食物を食べるようになります。その頃から、イシュマエルと争いが生じてきたので、「奴隷の女とその子どもを追い出せ」といわざるをえなくなります。つまり、私たちが恵みによって成長していくと、「律法を追い出せ」という時がやってくるということです。私たちが恵みによって成熟していくと、自分の中に律法を住まわせておく場所がなくなります。争いの原因は、恵みと律法が一緒になろうとしているからです。だから、平安がないのです。イサクとイシュマエル、つまり、恵みと律法が手をつないで歩むことがありえません。イサクが成長したときに、恵みが「律法を追い出せ」と叫びました。私たちの人生においても、これと同じことが起こらなければなりません。ガラテヤ4章の前半では、「私たちは、本当は相続人であったのに、後見人や管理者の下にあって、奴隷と少しも違わなかった」と書かれています。「ああしろ、こうしろ、こうしちゃだめだ。何やってんだ!」と叱られ、あるときは不当な扱いを受けて育ちました。でも、本当は相続人であり、神の子どもだったのです。神の子どもが成長したら、後見人や管理者は不要になります。後見人や管理者とはだれでしょう?それは律法です。ある程度、成長したら、私たちは律法ではなく、恵みによって生きるべきなのです。しかし、あるクリスチャンたちは、未だに恵みと律法と混ぜ合わせて生活しています。あるときは恵みで生きて、あるときは律法でがんばっています。だから、心に平安がないのです。あなたは、これからも恵みと律法を混ぜ合わせで生きていきますか?それとも、律法を追い出して、恵みだけで生きて行きたいでしょうか?

 私たちはクリスチャンになったとき、霊的に生まれ変わりました。神様を信じています。聖書のみことばにも従おうと思っています。でも、自分の考え方が全部変わったわけではありません。新しくなったところもありますが、昔の考え方で生きているところもあります。昔の考え方とはどんなものでしょうか?それは、私たちが未信者だったころ、後見人や管理者の下にありました。両親や学校の先生、先輩たちから、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、ああしろ、こうしろ」と育てられてきました。そのたびごとに自分は「こうしなければ、ああしなければ」と頑張って生きてきました。そのため、私たちは霊的に生まれはしたものの、考えの中に、恵みという価値観が十分入っていないのです。そのために、子育てや仕事、夫婦の関係、様々な活動をするとき、これまでの律法によってがんばってしまうのです。いつの間にか、子どもをさばき、妻や夫をさばき、同僚をさばき、兄弟姉妹をさばいています。まだ、恵みがうわべだけで、腹の奥底まで達していないのです。相変わらず、恵みではなく、自分の力、自分の知恵、自分の意思でやろうとするのです。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」「心」とは、思いとか考え方という意味です。つまり、「自分の考え方を神のみこころに沿ったものに変えなさい。律法主義ではなく、イエス様の恵みによってするように考えよ」ということです。私たちは考えの中にある律法主義を追い出さなくてはなりません。律法と恵みが同居しているから、平和がないのです。私たちの考えの中から、律法を追い出しましょう。すべてのことを、神の恵みによって行なうように決意しましょう。どんなことでも、イエス様に頼りましょう。どんなことでも、御霊に導かれて進みましょう。

 先週は、家内と子どもたちがいなかったので、ちょっと時間がありました。それで、久しぶりにベン・ウォン師のコーチングをCDから、文章化しました。私はベン・ウォンのメッセージを聞くたびに辛くなります。「セルチャーチは関係が鍵である。関係を作るためには時間を共に過ごす必要がある。大きな事をしなくても良いから、人々を深く愛しなさい。あなたがコーチとなりたいなら、まず自分の生活を変えなさい。言っていることをやっていることを一致させなさい。教会員を変える前に、まず自分が変わらなければならない。牧師室に閉じこもっていないで、外に出なさい。一週間の時間をどのように過ごしているか吟味しなさい。」これまで、合計、6回のセミナーがありました。大体、言っていることは毎回、同じです。でも、それを実行するのがとても難しいのです。「いっそのこと、セルチャーチとか、コーチングなんかやめてしまおうか?日本人にも合わないし、大体、私自身にも合わないんじゃないだろうか?」ベン・ウォン師のメッセージを聞くと、全部否定するか、全部肯定するか2つに1つになります。いままでのやり方で行くか、それとも全く変えるか。捨てるか、選ぶか。どっちかです。私が一番、不得意な分野はコーチングだということが分かりました。神学校のように、教えることはできますが、コーチするのは別の分野です。コーチとは、その人が到達したい目標が達成できるように手助けすることです。そのためには、相手のニーズに応えならが、一緒に歩み、模範を示す必要があります。今回、オリンピックを見て、コーチがいかに重要か知りました。日本は、水泳、柔道、体操、フェンシングと、いくつかのメダルを取りました。しかし、その背後にすばらしいコーチがそれぞれいました。本当に、今、迷っています。

みなさんの中にも、このままこれまでやってきたように進むべきか?それとも、神様のチャレンジを受け止めて,変わるべきでしょうか?みなさんは、神様のみこころは何かわかっているんじゃないでしょうか?私の場合は、「本当にセルチャーチの牧師になりたいなら、人々と時間を過ごしなさい」とチャレンジを受けています。さらっと、表面的に付き合うのは楽です。でも、深く交わると「ああ、鈴木先生はこんな弱さがある。ああ、躓いちゃった」ということが出てきます。そのためには、メッセージや教えだけではなく、心と生活全体が聖くならなければなりません。富士山は遠くから見ると綺麗ですが、いざ登ってみると、美しいとはとても言えないようです。イエス様は遠くからもすばらしかったですが、近づいて交わってみると、もっとすばらしいお方だったでしょう。では、どうすれば良いのでしょうか?私はきょうのメッセージを準備しながら、1つのヒントが与えられました。自分の生活が変わることも、自分の考え方が変わることも、律法でやってはいけないということです。やっぱり、恵みで捉えて、恵みで行なうべきです。そうすると突破口が見えてきます。自分のがんばりでやろうとすると、NoかYes、百かゼロ、どちらかになります。そうではなく、神様から与えられている、チャレンジも、主の恵みによってやってみる。主の恵みとは、イエス様の力、聖霊様の助けという意味です。「聖霊様、この点はどうしたら良いでしょうか?」と絶えず聞きながら、行なえば、あとから結果がでてくるのではないかと思います。

 宿題が1つあります。律法ではなく、恵みで生きるということはどういうことなのか1つ1つの課題に対して取り組んでみましょう。神様のチャレンジを受けるということは、これまでの生き方を全部否定して、全部変えるということではないと思います。神様がくださった良いものもたくさんあると思います。前回も言いましたが、変えられて行くプロセスの中に意義があります。どうぞ、自分の意思の力とかがんばりではなく、聖霊様の助け、つまり恵みによって歩んでいきたいと思います。