2008.08.24 愛によって働く信仰 ガラテヤ5:1-6

ガラテヤ人への手紙に、たびたび、「割礼」という言葉が出てきます。ちょっときわどい感じがしますが、少しだけ説明させていただきます。割礼とは、男性が生まれて八日目に、性器の包皮を切り取る儀式です。これは契約のしるしであり、イスラエルの民が絶対に守るべきことがらでありました。パウロの後からやって来たユダヤ人が、ガラテヤの人たちに「あなたがたも割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救われない」と主張しました。パウロは「人は福音を信じるだけで救われるのであって、割礼など受ける必要はない」とはねつけました。5章の12節にはとても過激なことが言われています。「いっそのこと不具になってしまうほうが良い」は原文では、「いっそのこと全部、切り取ってしまえ」となっています。新共同訳は「いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」となっています。今は訂正しましたが、当教会のホームページでは「デンジャラスな教会」となっていました。ちょっと危ない教会であります。

1.縛られる理由

 割礼を受けるとは、異邦人が一度、ユダヤ人になるということです。それから様々な律法を守らなければなりません。それは旧訳聖書と同じであり、行ないによって義とされる道であります。パウロは「儀式や律法を守ることによって、神の前に義とされることを求めるならば、このような束縛を受けますよ」と、2節、3節、4節に書いています。ちなみに、「義とされると」は、神様に受け入れられ、救われるということです。もし、儀式や戒めを守ることによって、神の前に義とされることを求めるならばどうなるでしょうか?

2節「キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです」。何の益もないとは、何の役にも立たないという意味です。英国の聖書では、no goodとなっています。キリストがNGになるということです。つまり、自分の行ないで救われようとする人にとっては、キリストは不要な存在です。確かにそうであります。たとえば、「イエス様によって救いが与えられますよ」と言うと、「いいえ、結構です」と断られます。そういう人は、「神様にお願いしなくても、自分は大丈夫です」という人です。この間、テレビで女子のレスリングを見ました。銀メダルを取った人が、「自分に感謝します」と言いました。私は、「なんで自分なんだよ、神様だろう!」とテレビに向かって言いました。家内はそばにいて、「あなたは、すぐ反応するんだから」と私をいさめてくれます。日本人の多くの選手は、「頼れるのは自分だ。神様のお世話になんかなっていない」と思っているのでしょう。その点、外国の選手は、試合前に十字を切ったりする人もいます。勝ったら、「プレイザ・ロード、神様をたたえます」と言う人もいるでしょう。神様の栄光のためではなく、自分の栄光のためにだけ頑張るのは限界があると思います。自分を神様としている人は、キリストは不要、何の役にも立たない存在です。

 3節「その人は律法の全体を行なう義務があります」。これは、「1つでも落ち度があったらダメ。全部、完璧に守りなさいよ」という意味です。行ないで救いを得るという道は、一見、やさしそうですがそうではありません。数ある律法を全部、守って、はじめて神様の前に義とされるのです。果たして、人間が神様のように完全無欠になることができるでしょうか?ところで、体操は減点法を取っています。ミスをすると引かれます。もちろん、EとかF難度のわざも入れなくてはなりません。ある床運動の選手は、優勝候補だったのに、最後の着地で尻餅をついてしまいました。それまでは完璧だったのです。あのまま行けば、優勝間違いなし。でも、人間です。機械ではありません。完璧主義で生きている人は、1つの失敗も許すことができません。「まだ、ダメなんじゃないか、これで大丈夫だろうか?」未達成感と重圧感でさいなまされています。そういう人は、遅かれ早かれ、神経がやられてしまうでしょう。

4節「あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまった」と書いてあります。恵みから落ちるとは、どういう意味でしょうか?英国の聖書は、「神様の恵みの領域から落ちて、キリストと何の関係もなくなった」と訳しています。神の恵みがないとすれば、もう裁きと死しかありません。こう言う人がいます。「私の父と母はイエス様を信じていませんでした。もし、両親が地獄にいるとすれば、私も同じところに行きたいです。自分だけが救われて天国に行くのは悪いですから」と言う人がいます。でも、みなさん、親子の情があるのはこの地上だけです。地獄には神の恵みがありません。だから、親も子もないのです。親が子どもの肉を食べるというような、修羅の世界です。キリストから離れ、恵みから落ちるとは、救いがないのと同じです。

このように、律法によって義とされる道は、険しい道であり、行き着くところは死です。日本では律法という言葉は使いませんが、さまざまな決り事があります。やってはいけないこと、やるべきことに満ちています。私たちは生まれたら最後、決まりごとの世界、律法主義の世界に生きていかなければなりません。○○しなければ、受け入れてもらえない。○○したら、排斥されてしまう。家庭において、学校において、職場において、教会においても、様々なきまりごと(律法)に支配されています。きまりごと自体は悪いものではありません。律法は中立です。でも、私たちの中には肉の性質があります。私たちの肉が、律法と出会うと化学変化して、罪を生じさせます。校則や企業コンプライアンスは「あなたは違反してはならない」と言います。しかし、それは人間の本性を理解していません。人間は「○○してはならない、したら処罰されますよ」と言われたら内側にどのようなことが起こるでしょうか?まず、怒りが生じます。その後、「大変だなー」という重い気持ちになります。最後に、「ああ、いやだなー」やる気が萎えてしまいます。それでも、退学とか、職場ですとクビになりたくないので、しかたなく守るんです。律法は私たちを卑屈にさせ、まさしく、奴隷状態になります。

私はあるところで午前中、アルバイトをしています。この間、発見しましたが、階段の1つ1つに、注意書きが書いてありました。「あわてるな、一時停止、左右確認」「雨の日はすべりやすい、気をつけて」とか、標語が貼ってありました。私はそれを見て、腹が立って、階段を蹴りました。それで、足がしばらく痛かったです。2階では毎朝9時過ぎに、職員のミーティングがあります。私は近くで別の作業していますが、いくらか聞こえてきます。「配達事故のないように」「氏名だけではなく、フルネームで確認しなさい」「ドアホーンは3秒間待って、また鳴らすように」とか。特に、うるさい課長がいて、ガミガミ、ガミガミ、細かいことを注意しています。それ聞いていると、カッカ、カッカしてきます。いわゆる、反応してしまうんですね。私は発見しました。今は株式会社ですが公務員は、やって当たり前の世界です。よくやりましたという感謝や喜びがありません。ミスのないように、ミスのないようにと注意しまくられています。規則やコンプライアンス、ダメ出しの世界で仕事したらどうなるでしょうか?モチベーションが下がり、ロボットのように無表情になります。できるだけ責任を取らないために、余計な仕事はしません。儲かる、儲からないも関係ありません。しかし、民間の場合はどうでしょうか?「お客様へのサービスが大切ですよ」「1個配達すると、いくらですよ」と肯定的です。おそらく、このままだと宅急便の方がどんどんシェアーを喰っていくでしょう。みなさん、律法主義が招くのは、死であります。

 家庭、学校、企業、つまりこの世は決まりごとの上に、決まりごとを重ねています。では、教会はどうでしょうか?新約の世界に生きているとは言っても、相変わらず、律法主義でがんじがらめになっているのではないでしょうか?教会も、規則や戒律を前面に出すなら同じことになります。グレイス・ウォークのワークブックにこのように書いてありました。私は永年、宗教的律法が自分の罪深い情欲をコントロールすることができると考えていました。しかし、聖書は全く逆であると教えています。律法は、罪の情欲をかきたてるのです。ローマ7:8で「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです」と語っています。もし、自分が宗教的規則の上に自分の人生を建て上げたなら、罪から解放してくれると思いますか。私たちがやっていることは、実は、罪に肥やしをやっているようなものです。そうです。規則とか決まりごとは、罪をかき立てるものであって、自動車エンジンのガソリンみたいなものです。ですから、私たちの生活は、決まりごとをできるだけ少なくすれば良いですね。小中学校の頃、夏休みの日課表を立てたことがあります。すばらしい日課表です。でも、3日もたつと日課表を見るのもイヤになります。そのとおり、生活するのがなんとしんどいでしょう。しまいには、日課表をどこかに捨ててしまいます。規則や決まりごと、つまり律法は私たちからいのちを奪い、結局はダメにするということです。

2.解放の鍵

 ある人たちは、「規則や決まりごとがないと、人間は怠けてしまい、悪が蔓延してしまうのではないか」と心配するでしょう。そして、世の中においては、さらに多くの規則を作り、罰を重くしていきます。しかし、これとは別の恵みの道があります。この道は、律法による支配ではなく、恵みによる支配と言うことができます。ガラテヤ書5章には、信仰と御霊と愛こそが、律法主義からの解放の鍵であると書いてあります。この3つが私たちを内側から動かして、正しい道を歩ませる力の源であります。

①信仰によって解放されます。5節には「信仰によって義をいただく望みを熱心にいだいている」と書いてあります。私たちが神様から義と認められるのは、信仰によってです。では、何を信じる事によって私たちは義とされるのでしょうか?イエス・キリストが私たちの代わりに律法を全うしてくださいました。そればかりか、私たちの代わりに罪の刑罰を受けて死んでくださいました。神様はイエス・キリストを信じる者を、義と認めてくださるのです。ですから、私たちは神様に受け入れてもらうために何もしなくても良いのです。キリストを受け入れている私たちを見て、神様は、満足していらっしゃるのです。私たちが何かをするのは、マイナスを埋めるためではありません。何かを償ったり、犠牲を払う必要は全くありません。すでにプラスの地点にあるのですから、小さなことをしても、プラス、プラスになります。私たちが住んでいるところは、恵みの世界なんです。ほんの小さな奉仕をしただけで、「わぁ、すごい」と、神様は喜んでくださいます。そうすると、私たちはもっと良いことをしたくなります。

 私はこれまで「人に負けたくない」「人から認められたい」という思いでがんばって来ました。しかし、今は神様から認められているので、心の中が平安です。イエス様がこの世において、何もしていないのに、父なる神様が何とおっしゃったでしょう。「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ」とおっしゃいました。イエス様は父なる神様から好意を得るために頑張った訳ではありません。何もしていない、スタート地点から、神様から認められ、神様から喜ばれていたのです。こういう安心感が必要です。オリンピックの卓球の愛ちゃん、それからレスリングの浜口京子さん。彼女らのご両親はものすごく熱心です。おそらく、小さい頃から、「まだ、だめだ。もっと頑張れ、気合だ、気合だ」と厳しく、訓練されてきたと思います。しかし、彼女らはプレッシャーに弱く、大事なときに勝てない。なぜなら、親から認められるために頑張ってきたからです。異論があるかもしれませんが、スタート地点で認められていたら、もっとリラックスして実力が発揮できるのではないかと思います。私たちは、父なる神様からすでに受け入れられているという信仰が大事です。たとえ失敗しても捨てられたり、裁かれたりはしません。この安心感という土台こそが「もっとやるぞ!」という、チャレンジ精神を生むのです。

②御霊によって解放されます。5節に「御霊によって」と書かれています。16節以降に「御霊によって」と何度も書かれています。ローマ8章には「いのちの御霊の法則」と書かれています。御霊の法則は、罪の法則を打ち消す力があります。私たちが罪に目を向けるのではなく、イエス様に目を向けるならば、御霊のいのちが現われ、自然と義の道に導かれるのです。大切なことは「どうして罪を犯したのか」と罪を研究することではありません。この世では、徹底的に反省し、懺悔し、相当の罰を受け、始末書を書き、「もうお二度としませんから許してください」と言うでしょう。刑に服した人が一向に良くならないのはそのためです。罰だけでは人は良くならないのです。私もかつで、失敗したときは自分の頭を叩いたりしたものでした。不思議とクリスチャンになってから、しなくなりました。犯した罪や失敗を軽く見るということではありません。たしかに、反省は必要です。でも、それだけでは不十分です。今後は、イエス様に目を向け、イエス様の助けをいたたくことに集中すれば良いのです。そうすれば、聖霊が内側からあなたを正しい方向に動かしてくれます。

 また、聖霊は私たちの心の内から願いを起こしてくださいます。ピリピ2:13,14口語訳「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」。神の霊である、聖霊が、私たちの霊に働きかけて、神様への願いを起こさせてくださるのです。いわゆるシンクロナイズドであります。聖霊と私たちの霊が、同調するならば、なんとすばらしいことでしょう。私の願いなのか、神様の願いなのかわからないくらい1つになっている。私は個人的にWWJD、What Would Jesus Do?(イエス様だったらどうする?)は嫌いです。せっかく、神様の霊と私たちの霊が1つになっているのに、「イエス様だったらどうする?」と切り離して、聞くことはないと思います。それこそ、律法であり束縛になります。私たちの内におられ、願いを起こしてくださる聖霊様に信頼するのです。神様の願いが、私たちの願いになる。そうしたら、ものすごい熱い願いになり、簡単には失望することはありません。私は心に平安があれば、何でもトライすることにしています。「あれ、違ってたかなー」と、失敗するときもあります。でも、その失敗も益になります。どうぞ、聖霊のいのちと聖霊の働きかけを信頼しましょう。

③愛によって解放されます。6節「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」。また、22節には、御霊の実は愛であると書かれています。つまり、私たちは、義務感やさばかれないために何かをするのではなく、愛が動機だということです。表面的には罪を犯さないで真面目です。でも、内側にはものすごい葛藤があるかもしれません。「罪を犯さないように、誘惑に負けないように」と、欲望や怒りを抑圧しています。これだったら、ものすごく疲れます。この世において「愛が大事だ」とは、ほとんど言われません。でも、愛で多くのことが解決します。校則や企業コンプライアンスは「あなたは違反してはならない」と言います。それよりも、「友達を愛しましょう」「先生も生徒を愛しましょう」とやったらどうでしょうか?会社でも、「お客さんを愛しましょう」「社員一人ひとりを愛しましょう」とやったら良いですね。地域社会においても愛を前面に出したら、盗みや人殺し、犯罪も少なくなります。教会において、規則や決まりごとよりも、愛を前面に出して行きたいですね。Ⅰペテロ4:8「愛はおおくの罪をおおう」と書いてあります。

規則や律法は罪をかき立てます。しかし、愛は神様に喜んで従いたくなるのです。聖書にはたくさんの命令があります。でも、神様を愛するなら、その戒めが苦にはなりません。Ⅰヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません」と書いてあります。つまり、神様を愛するならば、従順が自然に生まれてくるのです。たとえば、言うことをきかない子どもがいます。言うことをきかないので、もっと厳しくするのも1つの方法です。でも、その子どもを理解し、愛していくならどうでしょう。おそらく子どもは、愛のお礼として、親の言うことを聞くんじゃないでしょうか?ですから、私たちはイエス様の愛、神の愛をもっと、学び、もっと体験する必要があります。そうすれば、神様を悲しませるような罪は犯さなくなります。むしろ、喜んで戒めを守り、恵みの中を歩もうとするでしょう。私はガミガミ言われるのが大嫌いです。親兄弟、学校の先生、上司のほとんどがそうでした。うるさく言われると、卑屈になります。でも、聖書が言っている恵みはそうではありません。イエス様は私を愛してくださり、受け入れてくださり、報いてくださいます。私はこの年になってさらに思うのですが、イエス様を信じて本当に良かったなーと思います。

最後にガラテヤ5:1をお読みいたします。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと(二度と)奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」。私たちは律法のくびきを負う必要はありません。イエス・キリストが律法を完成し、律法の終わりとなってくださったからです。私たちは信仰と御霊と愛によって解放された、信仰生活を歩みたいと思います。神様による恵みの支配を歓迎します。