2008.08.31 隣人を愛せよ ガラテヤ5:7-15

8月も今日で終わりです。なんか雨が多かったように思います。地球温暖化のせいでしょうか、スコールのような大雨が降りました。本来、山間に住んでいる方が土砂崩れなどに気をつけるべきなんですが、都市に住んでいる方は別の問題もあります。車で立体交差の下などを通る時はお気をつけください。ところで、日本は「ふすまとか障子」の文化です。相手と全く遮断しているわけではないけれど、なんとなく様子がわかる。適当な距離をおいて付き合うという文化です。西洋の住まいは壁ですから、全く他人であるか、それとも友人になるか、どちらかであります。大川牧師がヤマアラシの論理ということを言いました。ヤマアラシの若いカップルがある冬の寒い夜、暖をとることにしました。近づくとお互いの刺のゆえに、傷つけ合う。痛いからと離れると寒い。近づくと傷ついて痛い。離れると寒い。私たち人間にも、このようなジレンマがあるのではないでしょうか。きょうは、「隣人を愛せよ」と題して2つのポイントでメッセージさせていただきます。

1.かき乱す者たち

 ガラテヤの教会にパウロのあとから、あるユダヤ人たちがやってきました。彼らは「割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救われない」と主張しました。それで、ガラテヤの多くの人たちの信仰がおかしくなり、福音から離れて行きました。パウロは割礼を主張する人たちに「いっそのこと切り取ってしまうが良い」と言っています。「何を、ですか?」と聞かれても、先週すでに話したので省略します。また、パウロは10節で「あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、裁きを受けるのです」と強く言っています。まことに残念ですが、この世の中には、私たちの信仰に敵対する人たちがおります。うちの有悟は小学校3年生ですが、先週こんなことがあったそうです。クラスのみんなが「人間は猿から生まれたんだ」と言いました。それに対して、有悟は「違うよ。神様が人間を造ったんだ。猿から生まれたんだったら何故、猿を拝まないんだ。」と言ったそうです。その後、先生が「人間は、猿から進化したんですよ」と言ったそうです。すると有悟は「それでも、僕は神様が人間を造ったと信じる」と心の中で思ったそうです。家族でそのことを聞いて、「有悟、偉い!」と拍手しました。その後、私が言いました。もし友人が「人間は猿か進化したんだ」と言ったら、こう言ってあげなさい。「ああ、どうりで、猿に似ているんだ」と。子どものときに、「神様があなたを造ったんだよ。あなたには神様が与えた特別な賜物があるんだよ」と教えられたら何と幸いでしょうか。

ある人たちは、神様を認めないばかりか、イエス様を信じる人たちを馬鹿にしたり、迫害したりします。ある場合は、違ったことを吹きまれて、信仰が覆される場合もあります。ご両親や親しい友人から「あなたは騙されているのよ。この雑誌を見なさい。教会のスキャンダルが書いてあるわよ」などと言われるかもしれません。そういうことが何べんも続くと、「ああ、やっぱりそうか。教会に行くの、やめよう」などと思ったりします。かき乱す者たちはどんな手を使うでしょうか?9節に「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです」とあります。イエス様も、同じようなたとえを用いて話されました。少量のパン種、つまりイースト菌によって、パン全体が膨らみます。しかし、パン種の入ったパンは腐敗するのが早いそうです。ですから、聖書ではパン種は嘘とか偽善というような意味があります。実はこれはサタンが用いる常套手段であります。エデンの園で、サタンはエバに対して「どんな木からも食べてはらないと、神が本当に言われたのですか?それを食べると、神のように善悪を知るようになることを神は知っているのです」と言いました。だから、真理の中に少しだけ嘘を混ぜるのです。それがあとで膨らんできて、真理全体を覆すようになります。これまで、教会は長い歴史の中で、数え切れないほど、サタンの策略にはまってしまいました。中心的なことはお互い同意しています。しかし、枝葉のことで争う。そのことがクローズアップされ、仲たがいすることが良くあります。洗礼の水の量、聖餐式のパンの解釈、聖霊の体験、教会の組織のあり方・・・どうでも良いことに、目がいって、互いに敵対し合う。こういうことが良くありました。

 かき乱す者たちは教会の外からもやってきますし、教会の内側からも起こってきます。その原因は人間の罪とサタンの力です。「信仰に戦いがある」なんて、思いたくありませんが、実際はあるのです。世の終わりには、反キリストや偽預言者がはびこると聖書に書いてあります。また、高慢な者や世を愛する物質主義者とか快楽主義者も増えるでしょう。私たちは「敵対者たちがいるんだ」と初めから理解しておくのと、そうでないとでは全然違います。彼らは私たちの信仰を揺さぶり、結果的にはキリストから離すのが目的です。そのためにはどんな手段も講じるでしょう。日本の教会のいくつかが告訴されて、裁判ざたになっています。雑誌編集者の中には喜んでそういう記事を取り上げる者がいます。また、信徒たちをけしかけてわざわざ裁判ざたにする者もいます。自分の怒りを教会にぶつけて、破壊的なことをする人たちもいます。そのために、信徒たちが散らされ、閉鎖に追い込まれている教会もいくつかあるようです。

それでは、かき乱す者たちから守られるためにはどうすれば良いのでしょうか?私は神の教会は真理を守る家だと思います。もちろん、例外的に教会も牧師もおかしいときがあります。完全ではないかもしれませんが、多くの教会は聖書の真理を保とうと努力してきました。ですから、群れから離れて一人ぼっちにならないように。互いに励まし、互いに祈り、互いに愛し合う神の家に留まってもらいたいと思います。そこには大牧者なるイエス様が臨在し、ご自身の羊たちを守り導いてくださいます。大切なのは、人ではなく、イエス様を見上げていくということです。かき乱す者たちたちは、私たちがなんとかイエス様から目を離して、人間的な事柄に目を向けるようにしむけます。ヘブル12:1、2には、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあります。この間、北京オリンピックが終わりました。日本は400メートル・リレーで銅メダルを取りました。予選でアメリカとイギリスがバトンで失敗したお陰です。それでも、3位は3位です。競技場では何万、何十万にもの人たちが応援しています。そればかりではありません。テレビを見ている人たちがいろんな場所で、声援を送っています。この地上では孤独と思えても、そうではありません。先に行った信仰の先輩たち、そして御使いたちが雲のように取り巻いて、私たちを応援しています。ですから、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、信仰のレースを最後まで走りぬきたいと思います。

2.隣人を愛せよ

 ガラテヤ5:14-15、律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。イエス様は、数多くある戒めを、神を愛することと、隣人を愛することの2つにまとめました。しかし、パウロはここで、隣人を愛すること1つでまとめたのは何故でしょう。おそらくこういうことだと思います。「もし、あなたが隣人を愛していたなら、あなたは神様を愛している人に違いない。なぜなら、隣人を愛することは神様を愛していることの現われだから」と答えることができるのではないでしょうか?だから、1つの戒めで十分なのです。ヨハネも第一の手紙で似たようなことを言っています。Ⅰヨハネ4:19-21「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」つまり、神様から愛を受けた人は、こんどは兄弟姉妹をも愛するようになるのです。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」。このことば、きつい人もおられるでしょうか?その人は、神様の愛をまだ十分に受け取っていない人かもしれません。

 では、なぜ最も近くの兄弟姉妹、隣人を愛することに困難を覚えることがあるのでしょうか?お互いに信仰を持っているということは、未信者との関係よりも複雑な場合があります。「え?あれでもクリスチャン?イエス様を信じているのに、なんであんなことができるの?」未信者だったら赦せるのに、まなじっか神様を信じているから赦せない。そういうことがあるんですね。私たちクリスチャンは罪赦され、また義とされている存在です。神の前で、全く、正しいわけです。しかし、だからと言って、神のように人々をさばいて良いというわけではありません。私たちが兄弟姉妹とさばくとはこういうことです。「神様あなたは何も分かっていないか、それとも、寛容過ぎるんです。こう場合は、白黒はっきりつけて、悪いものは悪いと言うべきです。私があなたの代わりに裁きますので、私と席を替わってください」。わぁ、私たちが兄弟姉妹を裁くとき、なんと恐ろしいことをしているのでしょう?マーリン・キャロラーズがある本の中でこのように書いています。「私は、年間5万人の命を奪っている無謀運転は言うまでもなく、人々が、こぶし、ナイフ、銃で傷つけ合っていることを知っています。しかし、ここで話している武器は、それらと比べて最も分かりにくいものなのです。御霊は私たちが、日々、血を流すことなく互いに負わせ合っている苦痛を、私の心に強く示されました。しかも、これらの目に見えない傷は、「善」の名のもとに負わされているのです。これはとてもサタンの特徴を表わしています。一体どのように人々を傷つけているのでしょうか?恐らくそれは・・・批判によってでしょう。」批判、つまり悪いことばこそが、人との関係を破壊する最も大きな武器だということです。エペソ4:29に「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」とあります。私は講壇に立っているときは、そういうことはありませんが、一緒に食事をしているときが問題です。気が緩むと、ポロっと、ブラック・ジョークが出ることがあります。以前は、批判できるのは頭が良いからだと思っていました。しかし、今は、人の徳を高めることのできる人は、その何十倍も頭の良い人だと思います。

 使徒パウロは、5:13で「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と言いました。私たちは自由とされました。何をやっても、何を言っても自由なのです。律法から解放されているのです。でも、その自由を愛をもって互いに仕えることに用いなさいと命じられています。これこそが、隣人を愛する具体的な行動であります。律法は「あなたは隣人を愛さなければならない」と命じます。しかし、恵みはこう言うでしょう。「神様はあなたを愛しています。聖霊があなたに力を与えるので、あなたは隣人を愛することができます。」すると、あなた自身の中に愛する思いがやってきます。その次に、「その愛を具体的に表わすためには、何をしたら良いだろうか?そうだ、これをしよう」という熱意が湧いてきます。ときどき、うちの子供に、CSの先生たちからお便りが来ます。「有悟君お元気ですか?夏休みはどうでしたか?」私などは「この間、会ったばかりなのに、元気に決っているだろう」と思ったりします。でも、その後、「まあ、このはがきいっぱい、字を書くって大変なことだなー。5分じゃ書けないだろうなー」と関心します。この間、大津で開かれたコーチングセミナーで学んできました。「私はカウンセリングとかコーチングはできない性分だ。しゃべるのは得意だけど、人の話を聞くのが苦手なんだよなー」と思ってきました。でも、イエス様は説教ばかりしていたわけではありません。人々を受け入れ、人々を励まし、人々を育てました。いわゆる、イエス様は愛をもってコーチングをしていたわけです。私の願いはイエス様のようになることです。イエス様がそうしたんだったら、生まれつきだとか、苦手だとか言っておられません。隣人を愛するとは、具体的には、人々の話を聞くとか、励ますとか助ける・・・そういうことに現われるんだなーと思いました。

 あなたの隣人とはだれでしょうか?「良きサマリヤ人のたとえ」があります。旅の途中、道端に倒れていた人がいました。盗賊に襲われ、身ぐるみ剥がされ、傷ついていました。レビ人や祭司は、道端の向こう側を通って、見て見ぬふりです。「いやー、こんな人に関わったら、大変なことになる」と思ったのでしょう。でも、サマリヤ人は違いました。その人の隣人になったのです。彼を宿屋まで連れて行き、介抱してあげました。つまり、ここで教えられていることは、隣人とは物理的な問題ではありません。たまたま、近くで生活しているからということではありません。こちらが近づいてその人の隣人になるという、もっとダイナミックなものです。「神様がこの人を私の隣人として出会わせてくださったんだ」という信仰です。神様は世界中の人々を愛しなさいとは言われていません「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とおっしゃっているのです。あなたが愛すべき、あなたの隣人とはだれでしょうか?あなたが仕えるべき、あなたの隣人とはだれでしょうか?私たちはその人を愛して仕えたら、損すると思ってしまいます。自分の時間とエネルギーを使ってしまうので、面倒だと思うわけです。律法的にイヤイヤで、そういうことをすると確かにそうなります。でも、神様から与えられた自由意思で、自ら決断して、実行するとどうでしょう?喜びが湧いてきます。これは不思議です。愛すると、自分の中に喜びが湧いてきます。相手がどう反応するかを待つ前に、既に、こちら側には喜びがあるのです。これこそ、神様が与えた恵みではないでしょうか?つまり、隣人を愛することができるというのは、神様の恵みだということです。

 本日は、分かち合い礼拝です。この後、10から15分くらい、小グループになって分かち合ってください。週報の中に、どういうことを分かち合うか書いてあります。ちょっと、開いて見て下さい。そして、今、ちょっと書いてみましょう。その後に、分かち合うと、時間が短縮できます。よろしいでしょうか?①これまであなたに隣人愛を示してくれた方とはどんな人ですか?一人だけ名前をあげてください。学生のとき、職場で、あるいは教会で。自分が苦しかったとき、助けられたなー。良い人だったよなーと、思い出すと気分が良くなる人ですね。②あなた自身の中に隣人を愛することのできない何か妨げがありますか?1つだけ上げてください。「あの人が嫌いだ、この人が嫌いだから愛せない」という前に、自分の中に原因があるかもしれません。さきほど言った批判的なことばもその1つです。人々から傷を受けたので、心を開くことができないということもあります。どうせ裏切られるに違いないという、人間不信があるかもしれません。③あなたの隣人に対して具体的にどのように仕えるべきだと思いますか?だれに対して、何をすべきか簡単にお答えください。神様が愛すべき隣人を、そして、何をもって仕えるべきかを既にあなたの心に教えておられると思います。小さなことからでも良いですね。さきほどの、はがき1枚送ることもすばらしいことです。お祈りしましょう。主よ、あなたがまず、私たちを愛してくださったことを感謝します。全く愛を知らない者でしたが、あなたが愛を注いでくださいました。その愛をもって、隣人を愛することができますよう助けてください。アーメン。