2008.07.06 アブラハムの祝福 ガラテヤ3:6-14

これまでの復習を少しさせいただきます。ガラテヤ第二章は信仰によって義とされる、つまり救いが与えられるということでした。そして、第三章のはじめは、信仰によって御霊を受けるということでした。本日は、第三章の中ほどから信仰によってアブラハムの祝福を受けるということを学びたいと思います。アブラハムは、ノアの洪水以後に生まれた人です。神様はアブラハムの子孫を通して世界を祝福することをお考えになりました。アブラハム、イサク、ヤコブ、このヤコブからイスラエルの12部族が誕生しました。しかし、不信仰と不従順のゆえに、イスラエルは神様から捨てられました。神様はもう一度、アブラハムの子孫を起こすことをお考えになりました。それは信仰により、またイエス・キリストによってであります。今度、その対象となる人たちは、イスラエルではなく異邦人であります。異邦人とは「神の選びから漏れている人たち」という意味です。神の国と縁もゆかりもなかった人たちです。しかし、世の終わり、異邦人の私たちから、アブラハムの子孫を見出してくださるとは、なんとすばらしい特権でしょうか。

1.信仰と律法

6節以降には、2つの道が示されています。1つは信仰の道、もう1つは律法の道であります。まず、信仰の道とはどういうものでしょうか?信仰の道のお手本が、アブラハムであります。創世記15章で、アブラハムは神様から「あなたの子孫は、星の数ほどになる」と言われました。そのとき、アブラハムは主を信じました。主はそれを彼の義と認められました(創世記15:6)。アブラハムは75歳で神様から召され、「子孫が与えられる」と言われながらも、紆余曲折し、やがて99歳になりました。妻のサラも年で、もう人間的には全く無理でした。が、奇跡的に100歳のときイサクが誕生しました。アブラハムが「主を信じた」と言っても、その信仰が本当に完全だったのか、正直、疑わしいです。同じように、私たちの信仰が不完全であったとしても、神様がOKと認めてくだされば良いのです。なぜなら、私たちを信じる神様の信仰、神様の真実が完全であるからです。アブラハムのように不完全な信仰であっても、神様が義と認めてくださる。どうぞ、信じるということを考えるとき、あまり力まないでください。本当の信仰とは、「私は大丈夫でないけれど、神様は大丈夫」ということです。イエス様は「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです」(マタイ17:20)と言われました。信仰は大きさではありません。たとえ、からし種のように小さくても、命があれば良いのです。

でも、皆さん、信仰の道というものは狭くて、見出しにくいものです。私たちが「神様がおっしゃられた」と言っても「え?本当にですか?」と疑われるのがオチです。この建物の中にいるときは、「主の導きです」とか、「主が私にそのように示されたのです」と言っても、ほとんどの人は「アーメン」と同意してくださるでしょう。でも、この建物から一歩、外へ出て、信仰の話をしたなら、「あなた頭おかしいんじゃないの」と馬鹿にされます。イエス様はマタイ7:13,14でこのように言われました。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」「まれです」とは、レア、なかなかいないということです。日本において、クリスチャンはレアものです。価値があるんです。日本で売っている世界地図は、ほとんど日本が中心に描かれています。でも、太平洋が中央にあって、どう見ても偏っています。しかし、日本以外で売っている世界地図は、大陸が中心に描かれ、日本は地図の右の縁(へり)です。日本は極東の地で、昔はジパングと言われました。でも、シルクロードの果が日本の京都と言われています。ちなみに、平安京というのは、エルサレム(神の平和)からネーミングされたようです。ですから、異邦の極東の日本まで、福音が伝えられ、今、こうやって一握りのクリスチャンがいるということはすばらしいことであります。だいたい、多くの人がゆっくり休んでいる、日曜日、礼拝に来るというのも、狭い道であります。先週、ある方からお電話がありました。「日曜日以外に礼拝はないのですか?」と聞かれ、「小グループの集会はありますが、今のところ礼拝は日曜日だけです」と答えました。日曜日はご主人がお家にいるらしくて、来るのは無理のようでした。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」私たちはレアものなんです。

 ガラテヤ3:10-12までは、律法の道が書いてあります。神様の律法を守って、神の前に義と認められようとすることです。言い換えると、自分の行ないによって救いを得ようという道です。旧訳聖書には十戒を始めとする、神の律法がたくさん書いてあります。半分は神様に対する戒めです。あとの半分は人間社会に関する戒めで、多くは道徳的なものです。日本には律法という概念はあまりありませんが、その代わり、倫理道徳という考えがあります。仏教や神道も「信仰」ということばを使いますが、やっぱり人間の行ないも必要だと言っています。もし、私たちが道徳や行ないで救いを得ようとするなら、どういうことになるでしょうか?簡単に言うと、「これで良い」という基準がありません。むしろ、「まだ足りない」「まだ不十分だ」という声が聞こえてきます。パウロは申命記27章を引用して「すべてのことを堅く守って実行しなければ、のろわれる」答えています。申命記には主の御声に従い、主の命令を守るなら、何でも祝福されると書いてあります。「あなたのかごも、この鉢も祝福される。あなたは、入るときも祝福され、出て行くときも祝福される」(申命記28:5,6)とあります。しかし、主の御声に聞き従わないとどうなるのでしょうか?「あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる」(申命記28:16,17)。良く見ると、祝福よりも、のろいの方が倍くらいあります。つまり、行ないによって救いを得ようとする道は、一般には良さそうに見えても、最後は悲惨です。世の人は、信仰の道ではなく、行ないの道を行きたがります。最初は平坦で広い道であります。でも、最後は、険しいシナイ山にぶちあたります。富士山の九合目みたいに、岩山がせり立ってきます。

 日本人に多いのが、完璧主義です。仕事場には間違いをなくそう、事故をなくそうというスローガンがよくあります。私はあるところでアルバイトをしていますが、今、お中元が多いんです。数が多いと出てくるのが、誤送、誤配です。日付指定というのがあって、「指定されたその日に配達してくれ」というのが一番厄介です。早すぎてもダメ、遅れてもダメ、その日に着くようにというものです。私なんか「早くたって良いじゃないか」と思いますけど。クレームがつくと、お客さんが利用しなくなるので「間違いがないよう」「間違いのないように」にと上から注意されます。本来なら、品物が多いのは儲かって、喜ばしいはずですが、仕事場は全くそうじゃありません。職員の漏らす言葉は「なかなか減らない。なんで、こんなに多いんだ」であります。商売繁盛じゃないのです。みなさん、事故ゼロ、100%を目指す。それは悪いことではありません。でも、100%完全で当たり前ということになると、98%もダメ、80%じゃぜんぜんダメということになります。なぜなら、100に対する、減点法だからです。完璧主義は、仕事だけではありません。スポーツの世界、学校、私生活まで及んでいます。だから、日本は大陸と比べ、精神的に病む人が非常に多いのではないでしょうか?日本人は失敗を恐れるので、発明や発見が少ないのです。日本は本当に縮み文化です。皆さん、神様は完璧ですが、人間は完璧に作られていません。もし、常に完璧になろうとするならば、必ず、どこかに狂いが生じてきます。

聖書に「義人は信仰によって生きる」と書いてあります。別の訳は「信仰による義人は生きる」であります。義人とは、自分の行ないにではなく、信仰によって神様から義である、完全であると認められた人です。これはどういうことかと申しますと、私には罪があり不完全だけど、神様が恵みによって義と認めてくださっておられる。だから、神様を信頼して行けば、実質的に義となれるんだ。私の努力や行ないではなく、神様がそのように導いてくださる。これが信仰であります。そうすると、私たちの身も魂も生きるのであります。私の心臓はどうなっているのか?私の頭は正常だろうか?私の行ないは完全だろうか?そのように、自分をチェックし始めると、私たちは壊れていきます。心臓を動かしているのは神様です。頭もそうです。多少、物忘れするかもしれないけど、神様が思い出させてくださいます。行ないもそうです。聖霊様が私の総司令官であり、聖霊様に委ねながら行動すれば良いのです。「義人は信仰によって生きる」「信仰による義人は生きる」のです。アーメン。律法の行ないによる道ではなく、信仰の道を選びましょう。

2.のろいから祝福へ

 律法ののろいとはどういうものでしょうか?10節「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、誰でもみな、のろわれる」ということです。これは申命記27章の引用です。そして、申命記28章には祝福とのろいについての様々なリストが上げられています。そこには祝福も書かれていますが、すべての律法を守らなければ祝福は自分のものにはなりません。それだけではありません。律法を守らなければ、さまざまな災いが降りかかります。「すべてのことを堅く守って実行しなければ、誰でもみな、のろわれる」とはどういう意味でしょう。たとえば私は安息日を守っているし、主の御名もみだりに唱えない。殺人も盗みも犯していない。むさぼりの罪もない。ただし、両親は敬っていない。なぜなら、敬えるほどの両親じゃないからだとします。10のうち、9つは守っている。だが、たった1つだけは実行していない。テストだと90点です。それでOKでしょうか?No!すべての律法を守っていません。律法は「あなたには罪があります。だから、あなたは祝福ではなく、のろいを受けるべきです」と言うでしょう。これが律法ののろいです。アダムの子孫で、誰ひとり、律法を完全に守れる人はいません。ところが、イエス様の時代、「私たちは律法を堅く守っています」というグループがいました。ユダヤ教のパリサイ派の人たちです。でも、イエス様は山上の説教で、たとえ、人を殺さなくても、「能なし」とか「ばか者」と言っただけで、同じ刑罰を受けると言われました。また、「情欲をいだいて女を見る者はすでに、心の中で姦淫を犯したのです」と言われました。おおー。そうなると、生身の人間で、誰ひとり律法にかなう人などいなくなります。もう1つの律法ののろいとは何でしょうか?それは「○○するな」とか「○○しなければならない」という戒めに対する私たちの反応です。パウロが言うように、私たちの生まれながらの性質は、律法が来ると、逆らいたくなるのです。「聖書を毎日読まなければならない」といわれたとたん、読む気がしなくなります。「毎週、日曜日礼拝に出なければならない」といわれたとたん、来るのがいやになります。

 イエス様はこういう律法ののろいに対して、どのような解決を与えてくださったのでしょうか?ガラテヤ3:13,14「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」アーメン。キリストは人間の代表になって、この世に来られ、律法を全部守られました。聖書には、「キリストには罪がなかった」と書いてあります。その次に、イエス・キリストは私たちが律法を守れないために来る刑罰を、身代わりに受けてくださったのです。だから、私たちはもう、律法を恐れなくて良いのです。旧約聖書には、安息日に焚き木を拾いに行っただけで、神から打たれて死んだと書いてあります。また、「水がない」とつぶやいただけで、地面が裂け、生きたままで、のみこまれた人たちもいました。「おお、旧約時代に生きていたら、命がいくつあっても足りないなー」と思います。でも、イエス・キリストが、律法を守れないことから来る刑罰をみんなかぶってくださったのです。だから、だれでもキリストにあるなら、さばかれないのです。なぜなら、イエス様が刑罰を受けて、身代わりに死んでくださったからです。また、14節最後に「信仰によって約束の御霊を受ける」と書いてあります。イエス様を信じると、人はもれなく御霊を受けます。御霊がその人を生まれ変わらせ、心の板に律法を書き付けてくださいます。外からの強制ではなく、聖霊が内側からやさしく語ってくださる。御霊が肉の働きに打ち勝ち、神様に従えるように力と導きをくださるのです。イエス様はこのようにして、私たちの律法ののろいから贖い出してくださったのです。

では、最後にアブラハムの祝福とはどういう意味でしょうか?創世記12章で主はアブラハムに対してこのように言われました。「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する」。みなさんこれだけだったら、異教の宗教です。「おお、神様、自分たちを祝福してください」。こういうご利益宗教はたくさんあります。さらに、主はアブラハムにこう言われました。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。アーメン。アブラハムだけが祝福されるだけではなく、アブラハムを通して、すべての民族が祝福されるということです。アブラハムが祝福の基になる、管になるということです。教会では人々が両手を上げて、Bless me, bless me「私を祝福してください」と祈ります。神様はそういう祈りしかしていないクリスチャンを見て、どう思われるでしょうか?困ったなーという顔をするんじゃないでしょうか?でも、「私を通して周りの人々を祝福してください。私たちを通して日本を祝福してください」と祈るとどうでしょうか?「おお、私がかなえたい祈りだなー」と思うでしょう。イエス様はマタイ5章で、「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」と言われました。ご存知のように塩は、食材が持っている味を引き立たせてくれます。また、塩は腐敗をとどめる働きもします。光はどうでしょうか?自分がピカピカ光っていれば良いのでしょうか?光自体は本来見えないものなんです。しかし、何かに当たると反射して、そこが明るくなります。人々があなたの光に照らされて、はじめて光の役目を果たすのです。クリスチャンで、「世の中が悪いとか、どうしようもない」と批判ばかりする人がいます。あなたがそこへ遣わされ、塩気を与え、人々を照らせば良いのです。

 Ⅰコリント12章には、聖霊の賜物が列挙されています。これは力の賜物とか、現れの賜物とも言われています。知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力。9つあります。9つのうち8つが、他者のためのものです。たった1つだけ自分のためものものがあります。それは異言です。異言は自分で神様と交わるための聖霊の賜物です。でも、他の8つは、他の人のためのものです。ということは、神様が与えてくださった賜物というのは、自分が楽しむためではなく、他の人の益のためにあるということです。Ⅰコリント12:7「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです」とあります。私が座間キリスト教会にいたとき、新井宏二先生が癒しの奉仕によく来られました。先生が祈ると、その人は眠ってしまいます。眠っている間に体が自然と動いて、聖霊ご自身がその人を癒されるようです。先生に、癒しの賜物があると聞いて、人々が遠くから訪ねて来ます。夜中に電話もかかってきます。先生は病院に呼ばれたら、祈りに行きます。私はそれを聞いて思いました。「癒しの賜物が与えられたらすばらしいけど、なんだか人にふりまわされて、プライベートな時間もないというのも困るなー」と思いました。それから、20年間、私が祈っても人々が癒されたということはありませんでした。でも、5年か6年前、中嶋先生が来られたから、癒しの賜物が現われ出しました。そのとき、どう思ったでしょうか?「ああ、足や腰の痛い人はいないか?どっか具合の悪い人はいないか?」と思いました。つまり、神様は癒しの賜物と同時に、憐れみの心も与えてくれました。かつてのように、「めんどうだなー」と思わなくなったということです。この賜物をぜひ、用いたいと思うようになりました。

 よく、キリスト教会では「用いられる」ということばを使います。「神様に用いられる」ということはすばらしいことです。これは、アブラハムの祝福のことです。あなたを通して、すべての民族が祝福される。あなたが祝福の基になる、管になるということです。自分が祝福されるのも喜びがあります。でも、それだけだと自己充足的で、わがままです。天の父の心が与えられると、与えたくなります。「私を通して周りの人が祝福されたらどんなにすばらしいだろう!主よ、私を用いてください」と願うようになります。これこそが主の恵みです。でも、恵みと反対のものがあります。それは律法です。「○○しなければならない」「○○しなければならない」という義務感でやります。もっと悪いのが「○○してやっているのに」「○○してあげているのに」であります。これは神様が主体ではなく、自分がやっているのです。神様に用いられるということではありません。神様に用いられるというのは、私たちが器になることです。そして、実際に奉仕をなさるのは神様なんです。私を通して、主が語る。私たちを通して、主が癒す。私たちを通して、主がなさる。だから、すべての栄光は主のものなのです。では、私たちは何にもうれしくないか?そうじゃありません。神様に用いられているという喜びがあります。あなたは律法の道を行きたいでしょうか?律法の道は行ないの道であり、たえず完璧を要求されます。ダメ出しばかりです。間違ってはならないというプレッシャーがあります。一方、信仰の道は神様に頼る道です。私は不完全であっても、主が完全。「私を通して主が働いてくださる」という平安があります。律法は人々の首を絞めて、自由と喜びを奪い取ります。やがては死に至ります。一方、信仰による義人は生きるのです。なぜなら、主の恵みがその人を生かすからです。どうぞ、信仰の道、恵みの道を歩みましょう。