2008.07.13 律法の役割 ガラテヤ3:15-26

来週は台湾チームにお任せしています。証しとかメッセージは台湾チームがします。チームと一緒に主任牧師ではありませんが、牧師夫妻も一緒に来られます。ひょっとしたら特別賛美もするかもしれません。来週まで、そのことを打ち合わせしたいと思います。しかし、その次の週27日は、午後の飛行機なので、奉仕は無理のようです。ところで、聖書には「律法」と言うことばがよく出てきますが、この世の法律とどう違うのでしょうか?英語ではどちらも、Law と言いますので、耳で聞く分には同じです。聖書に出てくる律法は、「モーセの律法」とか「神の戒め」に言い換えることも出来ます。その中には、道徳的なものや祭儀的(宗教的)なものもあります。この世の法律には、「神を愛せよ」とか「あなたの隣人を愛せよ」などというものはありません。ですから、神の律法はこの世の法律よりも、より根本的であり、また宗教的です。きょうは「律法の役割とは何か、また、クリスチャンとは何を目指して生きるのか」ということを学びたいと思います。

1.律法は罪を知らしめる

 ガラテヤ3:21-22「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」ここに、律法と神の約束とが対比されています。律法と神の約束、果たしてどちらが早く来たのでしょうか?少し前の節を見て分かりますが、神の約束あるいは契約は、アブラハムに与えられました。神様はアブラハムとアブラハムの子孫を祝福すると約束されました。「アブラハムの最たる子孫とは、イエス・キリストである」とパウロは解釈しています。そして、アブラハムとの約束の430年後、神はモーセを通して律法を与えました。十戒をはじめとする様々な律法です。しかし、イスラエルの人たちはその律法を守ることができませんでした。では、そのアブラハムとの約束は無効になったのでしょうか?パウロは、「いや、約束が430年後にできた律法によって、取り消されたり、無効とされたりすることはない。律法は、子孫であるキリストが来るまで、すべての人を罪の下に閉じ込めた。だが、今度は、キリストに対する信仰によって、その約束が与えられるんだ」と言っています。ということは、律法は、人々をキリストが来るまで罪に閉じ込めていたということになります。

 すると、私たちは、「ああ、律法というのは旧約時代のイスラエル人のためだったのか?私とは関係ないなー」と思うかもしれません。確かにそうなんです。でも、神の律法が来なければ、「あなたには罪がありますよ」ということは分かりません。神様を知らない人たちは、「失礼な!私には罪なんかありませんよ。法律に触れる罪などは犯していないし、結構、良い人間ですよ」と答えるでしょう。また、ある人たちは、「自分の良い行ないと悪い行ないと足し引きして、良い行ないの方が多ければ、天国にいけるでしょう」と考えています。そこに、律法という尺度を持ってきますと、どんなことが起こるでしょうか?この世でどんなに正しくて立派な人であっても、「あなたには罪があります。あなたは不完全です。そのままでは天国に行けません!」と診断されるでしょう。あるところに洗濯の上手な主婦がいました。彼女は、「私が洗ったシーツは一番白い」と近所で自慢をしていました。初冬にかかった頃、いつものようにシーツを洗濯して物干し竿に干しました。お昼ごはんを食べたあと、ついウトウトと寝てしまいました。「うっ、寒い」と思って、目を覚ましましたら、あたり一面に初雪が降っていました。「ありゃ、雪が降ったの?」と驚いてあたりを見渡しました。すると、くすんだ色の洗濯物が目に留まりました。「なんだ、この灰色のシーツは?」と思いました。なんと、まわりの雪と比べたら、どこよりも白いと思っていたシーツが灰色に見えたわけです。同じように、神の律法は「あなたには罪があります。不完全ですよ」と人々に示す機能があります。

 でも、当時のユダヤ人は律法を守れば、神様に受け入れられる、救われると考えていました。でも、それは大きな間違いでした。律法は人には罪を示す役割がありますが、人を救ったり、命を与えることはできないのです。律法は、さらに罪を増し加え、死に至らせる力があります。ローマ5:20に「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とあります。パウロはローマ書で、「律法が来ると、違反が、罪が増し加わる」と言っています。「え?馬鹿な?」と思うでしょう。人々は、「もしも、自分の周りに規則という壁を作らなければ、何か間違った行ないをしてしまうのではないでしょうか」と心配します。でも、その規則そのものが、誤った道に導くということがあるのです。先日、こういう発見をしました。環七通りを大谷田陸橋から下ってきます。駅のガードをくぐり、アリオを越えたところで右に曲がると亀有教会に来ることができます。その間にグリーンの中央分離帯があります。けっこうそこに、空き缶とかゴミが捨てられています。しかし、看板もたくさん立っています。『ここにゴミを捨てると罰せられます』、そのように書いた看板が、何十メートルおきかに立っています。それを見ていると次第に腹が立ってきました。「ゴミを捨てると、罰せられる!捨ててやろうか!」という思いが起こります。おそらく、だれかが、そういう思いをもって、夜だれもいないとき、ポイと捨てるんじゃないかと思います。「法に触れる」とか「罰せされる」という表示を見て、心の中に化学反応が起こります。言うことを聞かないと罰せられるので従うというのは、人を卑屈にさせます。さらに、それを破りたいという反抗心を起こさせるのではないでしょうか?この世では、いたちごっこをしています。悪いことをする人がいるので、さらに厳しいたくさんの規則を作ります。その規則にムカツクついて、さらに悪いことをする。これが人間の姿ではないでしょうか?

 『恵みの歩み』の著者、スティーブ・マクベイがこのようにおっしゃっていました。先生と奥さんが、あるとき、アムステルダムの美術館を訪れました。一緒に歩きながら、いろんなものを見ていました。そこに、一段高い台がありました。その台の上に美しい家具が飾られていました。その台の前に、立て札があり、「この台の上に上がるな!」と書いてありました。その台の上には、大きな家具があったので、自分が乗ってもどうってことはありません。先生は、口笛を吹きながら、台の上に乗ってみました。先生は、その注意書きを見るまでは、その台に乗ろうなんて思いもしませんでした。しかし、「それをするな!」と言われたとたん、したくなったのです。先生は、牧師としてたくさんの規則を説教してきました。「あなたは毎日、聖書を読むべきですよ。伝道しなければなりません。教会に来なければなりません。祈るべきですよ。」先生は気づきました。「私が規則を押し付けたので、教会員たちは、本当に聖い神様の信仰生活を送ることができなかったんだ。逆に、不従順や反抗心を一生懸命詰め込んでいたんだ」。律法は命を与えるのではなく、罪を犯すことを奮起させ、死に至らせます。でも、恵みはどうでしょうか?聖霊ご自身が、すばらしい信仰生活を送ることができるように導いてくださいます。規則は私たちのまわりに依然として存在します。でも、内側におられる聖霊が、私たちを教え、私たちを励まし、私たちに力を与えてくださいます。規則や律法に対しては、反抗心を持ちながら、卑屈な態度で、嫌々ならが従いました。でも、主の恵みはそうではありません。自由な心で喜んでするのです。

律法は「あなたには罪がありますよ、不完全ですよ」と教えます。旧約時代の人たちは、みなそのようにして生きてきました。でも、完全に律法を守ることはできませんでした。それよりも、律法が来た時、さらに罪が増し加わったのです。では、新約時代は何が違うのでしょうか?それは恵みです。恵みとは、「あなたはキリストによって義とされていますよ。あなたはキリストによって神様から受け入れられていますよ」です。私たちは十字架の死によって、罪が赦されただけの罪人でありません。キリストの復活によって神様から、義と認められているのです。「ああ、私は義とされているんだ。義とされている人の生活とはこうなんじゃないだろうか!」と自然と罪から離れるのです。律法に目をとめると、罪を犯す方に誘い込まれます。しかし、イエス様の恵みに目をとめると、自然と正しい歩みができていくのです。アーメン。

2.律法はキリストに導く

 ガラテヤ3:24-26節「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」この間、常磐牧師セルがありまして、尾山先生が新しい本を持ってこられました。『グレイス・ウォーク・ワークブック』です。8週間かけて1冊を学ぶようになっています。タッチングヘブンは7週間でしたが、これは8週間です。とっても分かりやすいテキストです。来週、届きますので、どうぞ購入して学んでください。この本の中に「養育係」について書いてありました。ガラテヤ3:24は、律法は、人々をキリストに導く、養育係である教えています。聖書の時代、裕福なギリシャ人やローマの家庭では、家庭の養育係(おもに奴隷)がいて、6歳から16歳までの子どもを毎日、教師のところに連れて行く責任がありました。律法はそのような働きをするのです。キリストを信じていない人々に罪の宣告をします。それによって、キリストに導くのです。養育係は、その子どもを教師のもとに連れていけば、それでその仕事は終わりである。ガラテヤ3:25は、私たちがクリスチャンになったとき、「私たちはもはや養育係の下にはいません」と語っています。クリスチャンになれば、もはや律法は必要なくなるのです。私たちには今、イエス・キリストがおられるのです。この時点で、私たちは、もはや、律法の下にいないことが理解できます。私たちの人生において、導きを与える規則は、必要ないのです。私たちには聖霊が内在しています。聖霊が導いてくださいます。私たちがクリスチャンになったとき、律法は私たちの中でその目的を成就しました。今は、ミスター恵み、すなわち、イエス・キリストと結婚しました。

少し前にもメッセージしましたが、私たちは律法という夫がありましたが、一度死んで、キリストと結ばれました。ミスター律法は元気です。でも、私たちは彼と結婚していません。私たちはイエス・キリストと結婚しているのです。そして、私たちがクリスチャンになったとき、新しい霊をいただきました。でも、私たちは同じ脳を持っています。クリスチャンになったとき、脳の移植手術を受けたわけではありません。ミスター律法との結婚生活がどのようだったか覚えています。だから、私たちは律法主義のライフスタイルに戻ってしまうのです。注意しないと、ミスター律法と同じような付き合いをイエス様ともしてしまいます。クリスチャンは「イエス様、あなたと結婚できてとても嬉しいです。あなたのために私は何をして欲しいですか?」と聞きます。イエス様は「私の愛を受け入れて欲しいのだ」と答えます。「主よ。あなたの愛を感謝します。今、あなたのために私に何をしてほしいですか?」「ただ、私の愛を受け入れてほしいのだ」「主よ。あなたが私を愛しておられることはわかります。でも、何をして欲しいのですか?あなたのために何をすることができるのですか?」「ただ私の中で安らいで、私の愛を受け入れて欲しいのだ」。クリスチャンになったばかりの人は、特に真面目な人は、クリスチャンになったら「何か良いことをして神様にお仕えしなければならない」と思います。そして、フラストレーションがたまっていきます。そのとき、ミスター律法と目が合ってしまうのです。すると、彼は「何かお手伝いしましょうか?」とやってきます。「私は何をすれば良いのでしょうか?」ミスター律法は、「お答えしましょう」と言って、ありとあらゆる宗教的規則を差し出します。そして、自分がイエス様と結婚しているのを忘れ、再びミスター律法と関係を持ってしまうのです。これを霊的姦淫と言います。イエス様の導きではなく、規則によって人生を立てようとするときに、そういうことが起こります。

日本には、イエス様と結婚したはずなのに、ミスター律法と浮気しているクリスチャンが非常に多いと思います。教会には奉仕がたくさんあるので、働き人がほしいのです。ですから、「あれして」、「これして」とお願いされます。イエス様のもとに安らぐことを忘れ、奉仕に明け暮れ、その後、疲れてしまいます。自発的にやっているなら良いのですが、半強制的にやらされているなら、ミスター律法と浮気しているクリスチャンです。また、献身者とか神学生も、ミスター律法のところに、戻っていく傾向が多々あります。祈り、聖書の学び、奉仕、伝道、寝る間もなくやらされます。「しょうがないのです。それが訓練ですから」と言うでしょう。今、佐保姉妹も神学校に学びに出かけています。ものすごくやることが多いようです。月曜日はわざわざ学校に掃除に行き、水曜日の祈祷会は厳守です。私が最初に行った神学校もそうでした。社会経験のある人は、仕事の延長でなんとかできます。限られた年数だったら、我慢できます。しかし、私は「弟子訓練と律法主義との境目って何だろうなー」と未だ分からないところがあります。神学校でも、教会でも「大変」「しんどい」「息がつまる」「不自由」そういう雰囲気があるならば、律法主義と結ばれているような気がします。私の家内はいわゆる献身者だった頃は、早天祈祷会に毎日のように出ていました。結婚してから気づいたのですが、家内は朝が弱いということです。そんなのに、「よく、何年間もあちらで早天に出ていなー」と感心します。私はその人が一生懸命やっていること、たとえば、奉仕、伝道、集会出席、献金とかあります。でも、問題なのは、何がその人を動かしているのか?その動機がチェックされるべきだと思います。組織の中で「しなければならない」と駆り立てられてやっているのでしょうか?それとも「主の霊によって、喜んで自由にやっているのか」であります。

昔は奴隷に2種類いました。1つは強制的にやらされている奴隷です。自分は奴隷なので、主人に仕えるのがあたりまえ。賃金はないけど、寝るところが与えられ、ごはんをたべさせてもらっています。主人の顔色を伺い、いつもびくびくしています。もう1つは、自分の意思で奴隷になった人です。イスラエルでは7年間奴隷だったら、その後は、自由になることができます。しかし、奴隷がその主人に仕えたいと思うなら、柱のところに行き、この耳にキリで穴を開けられます。それは、一生、喜んで主人に仕えますという証しです。使徒パウロは自分のことをキリストのしもべと言いました。そのしもべは、英語ではボンド・サーバントです。つまり、後者の方の奴隷で、自らの意思でキリストの奴隷になった人です。日本の国は共依存の国です。教会もともすれば、共依存の教会になります。牧師や一部の人がコントロールし、献身者やクリスチャンが一生懸命奉仕をします。コントロールしているという意識はないかもしれませんが、自分がこれまで律法主義のもとで生きてきたので、そういう雰囲気をずーっとかもし出しているのです。ずーっとその中にいるので、分からないのです。組織やまわりから矯正されてではなく、自発的なものであれば結構です。様々な宗教規則に縛られないで、御霊によって個性的に生きているならば結構です。何年か前、アメリカからメルボンド師がこられたとき、このように言われました。先生は、天に昇り、イエス様とお会いしたことがあります。そのとき、イエス様が「教会を一番、おびやかしているのは律法主義です」と言われたそうです。スティーブ・マクベイ師が本の中でこう述べています。「ある人は、神様のことを上司とし、自分自身を従業員とするのです。自分たちの神との関係は、神が主人でクリスチャンは奴隷なのです。神様が主であり、主人であることは真実です。しかし、神様はそれ以上のお方です」。

 それでは、クリスチャンとはどういう存在なのでしょうか?ガラテヤ3:26「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」29節「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」アーメン。聖書は、「私たちは奴隷ではなく、神のこどもであり、相続人である」と言っています。多くのクリスチャンは、神様の雇用人であると信じています。雇用主なる主の言いつけを守っていれば、それで大丈夫だというのです。しかし、次のガラテヤ4章にも書いてありますが、私たちは奴隷ではなく、神のこどもであり、相続人です。神様を「アバ・父よ!」と呼ぶ存在なのです。子どもと従業員の違いは何でしょうか?従業員の態度は、雇用主の顔色をうかがっています。奴隷の態度です。しかし、子どもは違います。雇用主に対して「やるべきことは何とか、やらないことは何」などをいちいち聞く必要がないのです。なぜなら、父親と同じビジョンを持っているからです。同じ夢を持っているからです。父親の心を持っているからです。コントロールのかかっている教会は、「牧師先生、あれして良いでしょうか?これして良いでしょうか?次に何をしましょうか?」と伺いを立てるでしょう。そして、ある課題があげられたら、一生懸命それを成し遂げ、評価してもらいます。何かおかしいですね。そうじゃありません。本当のクリスチャンはイエス様につながり、イエス様に聞いて行動します。牧師も大切ですが、それ以上に、神様につながり、神様からのビジョンで動いているのです。どうぞ、人ではなく、イエス様、神様に目を向けましょう。イエス様は私たちを「しもべではなく、友と呼ぶ」と言われました。イエス様の愛に応答するがゆえに、イエス様に従うのです。罰を受けるのが怖くて従うのではありません。どうぞ、律法主義とその奴隷根性を捨てましょう。私たちは神のこども、神の相続人です。父なる神様と同じビジョンを持ちましょう。父なる神様と同じ夢を持ちましょう。聖霊によって、父なる神の心を持っていることを感謝します。