2015.4.5「キリストの復活 ローマ4:24-25」

 私は「イエス様の十字架は私の罪のためである」と信じて救われると思っていました。しかし、キリストの復活が私の救いとどのような関係があるかは分かりませんでした。極端に言うならば、「キリストの十字架の贖いを信じて救われるのに、さらにまたキリストの復活を信じる必要があるのか?」ということです。もちろん、私はキリストの復活は信じています。だけど、「救われるためにキリストの十字架だけで良いはずなのに、どうしてキリストの復活まで信じなければならないのか?」ということが良く分かりませんでした。きょうは、私たちが信じるべきことはキリストの十字架ではなく、キリストの復活であるということを申し上げたいと思います。初めにお断りしますが、この度、ウォッチマン・ニーが書かれた『神の福音』第一巻からかなり引用しています。そのため、普段よりも理屈っぽくなっていることを許していただきたいと思います。

 

1.死に渡されたイエス

 

 ローマ4:25前半「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され」と書いてあります。クリスチャンなら、このみことばに対して異議を唱える人はいないでしょう。注意して読むと「私たちの罪のために」と一人称複数で書いてあります。「あなたがたのために」とか「全人類のために」とか「彼らのために」とは書いてありません。きょうこのところに、クリスチャンでない人もおられるでしょう。その方が「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され」た、と言えるでしょうか?おそらく、イエス様を信じていない人は、「きっと、だれかの罪のためでしょう?私のためではありませんよ」と答えるでしょう。注意深く聖書を読みますと「イエス様はすべての人のために死なれました」と書いてありますが、「すべての人の罪のために死なれた」とは書かれていません。もし、イエス様がすべての人の罪のために死なれたのだったら、信じる必要はありません。全世界の人が即座に救われることになるからです。

 

もう一か所、みことばを引用したいと思います。Ⅰヨハネ2:2「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」前半には「私たちの罪のため」とはっきり書いてあります。後半は「世全体のためのなだめの供え物」と書いてあります。これはどういう意味でしょう?キリストはすべての人のために死なれました。つまり、キリストの贖いは世の中のすべての人を包括しています。このような贖いには、救われていない者でさえみな含まれています。そもそも贖いというのは、人とは関係がありません。贖いのみわざは、神さまと罪の間のことです。神さまは愛なるお方なので、罪ある人類を救いたいと思われました。だからと言って、そのまま救うとご自身の義と反することになります。なぜなら、罪に対しては刑罰が必要だからです。そのため父なる神さまは、人類の罪を御子イエスに負わせ、御子を裁きました。御子イエスが十字架で罪を負って裁かれたので、神さまの義が満たされたのです。神さまは、主イエスを信じる人に、神の義と救いを与えることにしました。つまり「キリストの十字架は私の罪の身代わりだった」と言える人に限定されます。贖いは神さまの御前のものです。一方、「身代わり」は私たち信じて救われている人たちに言えることです。人が主イエス様を受け入れる時、その人の罪の問題は解決されます。これが身代わりです。言い換えると、贖いは成就されましたが、救いは成就されていないのです。

 

 教会ではクリスチャンでない人を「未信者」と言いますが、「未だ信じていない人」と書きます。表だっては言いませんが、頭の中では分けています。「求道者」と呼ぶ場合もあります。「道を求める者」と書きます。表だっては言いませんが、頭の中では分けています。でも、大歓迎です。私たちクリスチャンもかつてはみな、「未信者」、「求道者」だったからです。もう一度、本題に戻りますが、贖いは神の御前のものです。身代わりは私たちのためです。贖いは神の要求を満たし、身代わりは私たちに益をもたらしてくれます。イエス様が成されたのは贖いです。私たちが受けたのは身代わりです。つまり、身代わりに関するすべての教えはすべて、クリスチャンに対するものであって、未信者のためではありません。私たちは未信者に対しては、「イエス様はあなたがたのために死んで、贖いを成就されました」と言います。そして、クリスチャンに対しては、「主イエス様が私たちの身代わりとして罪を担われました」と言います。

 

さきほど「贖いは成就されましたが、救いは成就されていない」と申し上げました。贖いは2000年前に起こりました。贖いはキリストによって成就されました。でも、救いは現在のことであり、私たちにおいて実現されます。キリストの贖いは、神さまの義が満たされるためでした。贖いのみわざは、神ご自身を満足させました。しかし、私たちが来て、神さまのなさったことを見て、それを信じ受け入れる時、私たちはこの身代わりを受け入れます。たとえば、新聞広告に電化製品など、「先着5名様に○○の値段で売ります」と書いてあります。私はあのようなチラシは好きではありません。せっかく行っても、買えない場合もあるからです。そうではなく、ダイレクトメールで「これを提示すると半額で買えます」と書いてあるなら行くかもしれません。しかし、これら2つの例は救いを完全に例えていません。なぜなら、救いは無料だからです。罪の問題はキリストの十字架によって、すべて贖われました。良い行ないも、償いも全く必要ではありません。唯一必要なのは信じることだけです。キリストを信じることによって、罪の赦しを得ることができるのです。その人は、「ああ、キリストの死は私の身代わりだった」と言えます。なぜなら、本来、自分が神の前で裁かれるはずだったのに、キリストが私の罪の罰を受けて死なれたからです。私たちはこのことを知ると、負い目なく、神さまのところに近づくことができます。なぜなら、神さまはキリストを信じる人の罪を赦し、義とされることが分かっているからです。神さまは義なる方なので、キリストを信じる人を救わないわけにはいかないのです。

 

2.よみがえられたイエス

 

ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と書いてあります。私はこれまでこのように解釈していました。「キリストが十字架で死なれたのは私たちの罪の赦しのためであった。そして、キリストが復活したのは、私たちが義と認められるためであった」と理解していました。つまり、キリストが私のために死なれたのは罪の赦しを与えるためで、キリストが復活したのは私たちが義と認められるためであると信じていました。つまり、十字架の死だけだと半分で、復活まで信じて完全な信仰だと思っていました。そういえば、ローマ・カトリックでは礼拝堂に入りますと、十字架につけられたキリストの像が表面に飾られています。おそらく、「キリストはあなたの罪のため死なれたんですよ」とアピールするためなのでしょう。しかし、礼拝に来るたびごとに「キリストが死んだ」「キリストが死んだ」と言われるなら、礼拝はお葬式になります。ローマ・カトリックのミサには、罪の贖いが現在も続いているという考えがあるようです。そうなると、「私が犯した罪のために申し訳ないことをした。もう罪は犯しませんのでどうか赦してください」と罪を懺悔するかもしれません。神父の前で罪を告解すると、「あなたはこういう償いが必要ですよ」と言われることがあるそうです。一方、プロテスタントの教会の場合は、十字架にキリスト様がついていません。これは、キリストが復活して今も生きておられるということを表わすためのようです。ですから、プロテスタント教会の礼拝は、お葬式ではなく、よみがえられたキリストをお祝いするという意味があると言うことです。もし、これが正しいとするならば、私たちはキリストが私のために死なれたということと、キリストが私のためによみがえられたという両方を信じなければならないということになります。キリストが私の罪のために死なれたということを信じるだけで救われないとしたら、これまでのメッセージは間違っていたということになります。

 

混ぜ返すようですが、聖書には「キリストの十字架を信じなさい」という言葉は一か所もありません。ただ、主を信じるということについて語っているだけです。反対に「神がイエスを死人の中から復活されたことを信じなさい」とは書いてあります。いくつかみことばを引用したいと思います。ローマ10:9「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」Ⅰコリント15:17「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」Ⅱテモテ2:8「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロは、「私たちの信仰の根拠は、神がイエスを死人の中から復活させたことである」と言っています。本当に、聖書は「主イエスの十字架を信じなさい」と言わないで、「神がイエスを死人の中から復活させたことを信じなさい」と言っているのでしょうか?聖書を見ると、イエス様が十字架につけられたという事実を述べているだけです。Ⅰペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」と事実として書いてあり、「信じなさい」とは書かれていません。ウォッチマン・ニーの本には「聖書は、主イエスの十字架や死が私たちの信仰の対象であるとは言いません。むしろ、復活が私たちの信仰の対象であると言います」と書いてありました。こんなことを言うと、「鈴木牧師は、キリストの十字架を否定する異端である」とネットが炎上する可能性があります。

 

パウロは、復活がなければ、私たちの信仰はむなしいと言いました。だから、復活は信じるべきものです。では、キリストによる十字架の贖いはどうなのでしょうか?ウォッチマン・ニーは本の中でこう述べています。「贖いは神と主イエスの間のことであり、それは人に対する神の要求ではありません。贖いは、主が人の心を満足させるために行われたものではありません。それは、神の聖、義、栄光の要求を、主イエスが満足させたことです。主の死と、主が成就された贖いのみわざは、神と主イエスとの間で行われたことです。それは、私たちの信仰の対象として述べられているのではありません。私たちの信仰の根拠は、神がイエスを死人の中から復活させたことです。…私たちは、イエスが十字架の上で死なれ、贖いのみわざを成就された、と言うことができます。しかし、神がそのようなみわざに満足しておられることをどのようにして知るのでしょうか?私たちは、主の贖いのみわざが私たちにとって最も利にかなっていることを知っています。しかし、それが神にとっても同じであることを、どのようにして知るのでしょうか?もし、十字架しかないなら、もし主の死だけしかないなら、もし主の墓が空っぽでないなら、主の死のみわざが私たちのために成就したことが何であるか、私たちは分からないでしょう。ですから、主の贖いのみわざに関しては、十字架の面だけではなく、復活の面もあるのです。」

 

3.復活の意味

 

 イエス様は十字架の上で「完了した」と言われました。これはギリシャ語の商業用語で、「一回ですべてを完済した」という意味です。つまり、イエス様がご自身の命によって、代価を払ったということです。私たちはこのイエス様を信じることによって、義とされ、救いを得られたはずです。つまり、復活を待つ前に、贖いのわざは完了したということです。なのに、どうして復活を信じなければならないのでしょうか?さきほどの、ローマ4:25を英語の抄訳聖書はこのように訳しています。And raised to secure our justification 、「私たちの義認の保証のためによみがえらされた」という意味です。J.B.フィリップ訳もraised again to secure our justificationと同じように書かれています。つまり、復活は私たちが義と認められたことの証拠であるということです。ウォッチマン・ニーはこのようなたとえ話をよってこのことを説明しています。私がかなりのお金を借りていて、それがあまりにも多額で、借金を返済する方法がないとします。私は一人の兄弟のところへ行って、「あなたは、私がお金を借りているあの人のことを良く知っていますね。あなたがた二人は良い友人です。どうか私のためにお願いしてください。たとえ全部質屋に持っていっても、私は借金を返せません。私は今日、生活していくことさえ難しいのです。ぜひともお願いします」と頼んだとします。兄弟は蘇州にいる貸し主のところに行ってくれました。そして、事情を話したら、「私はそれを忘れましょう」と、借金の証文を返してくれました。ところが、貸し主は「友よ。せっかく来たんだからと、二、三日、ここに泊まって行きませんか」と言いました。一方、私は上海でやきもちしています。彼は何か問題があったために、戻ってこれなったのかもしれません。彼が戻って来ない限り、平安はありません。彼が上海に戻って証文を見せてくれて、はじめてその問題が解決されことを知るのです。

 

 今のは、あまり良いたとえではありませんが、イエス様の復活も同じです。イエス様が十字架で死なれるやいなや、罪の事実は解決されました。イエス様は私のために代価を払ってくださったのです。ところが、もしイエス様が死人の中から復活されなかったなら、イエス様が戻ってこなかったなら、私たちの心は不安なままです。イエス様が私たちの罪を負ったために、神の怒りを受けて罰せられました。イエス様は私たちのために死んで、贖いを完了してくださったのです。でも、どうしてそのみわざが成し遂げられているのを知ることができるでしょう。父なる神は、主イエス様が私たちの罪を完全に解決されたことを証明するために、彼をよみがえらされたのです。パウロは「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」と言いました。これを読むと、「復活は人が義とされる目的のためである」と解釈しがちです。つまり、主が復活され、それから私たちが義とされると考えてしまいます。ところが、本当はその逆なのです。私たちが義とされたので、主が復活させられたのです。これは、主イエスの復活が、私たちの義認の証拠であることを意味します。主が神の義の要求を満たされたので、神さまは彼を復活させられたのです。さきほどの借金の話と兼ね合わせて考えたいと思います。イエス様が十字架で「すべてを完済した」と言われました。そして、「私はイエス様の十字架を信じます、十字架を信頼します」と言ったとします。しかし、私は証文を見ていません。もしかしたら、天国に行ったとき、神さまから「イエスの十字架では不十分でしたよ」と言われたら、どうするでしょうか?では、どうして主の十字架で十分であると分かるのでしょうか?それは、復活です。私たちは十字架ではなく、主の復活を見るべきなのです。もし主の十字架のみわざが正しくなかったとしたら、神さまはイエス様を復活させられなかったでしょう。イエス様が復活されたのは、私たちが義とされたからです。私たちがイエス様の血潮を信頼して義とされているので、主イエスは復活させられたのです。ハレルヤ!復活は主がなだめの供え物を成し遂げたことの証拠です。神さまが満足されたので、主イエス様は復活されたのです。

 

 私はクリスチャンになって36年にもなりますが、復活の意味がよく分かりませんでした。「とにかくキリストの十字架と復活の両方を信じるべきだ」と考えていました。つまり、「イエス様の十字架が私のためであると信じれば救われる」と信じ、復活は二の次に考えていました。つまり、「イエス様が死者の中から初穂として復活したので、いずれ私たちも復活できる」と信じていました。キリストの十字架を信じれば、自分にも、きっと復活が与えられると信じて来ました。ということは、キリストの十字架を信じれば、結果的に、キリストの復活に預かれると信じていたのです。興味深いことに、使徒たちは十字架を宣べ伝えたのではなく、キリストの復活を宣べ伝えました。使徒たちはキリストの十字架の死ではなく、キリストの復活を宣べ伝えたので迫害されたのです。福音は英語でgood news「良い知らせ」です。ギリシャ語でエウワンゲリオンと言います。このことばは、もともとは戦地から届けられた、「先勝報告」のことを指したそうです。あるときギリシャとペルシャが戦争しました。当時は、戦争に勝てば領土と戦利品を獲ることができました。逆に、負けたなら奴隷にされるので、一刻も早く町から逃げなければなりません。町の市民は、戦地からの知らせを一日千秋の思いで待っていました。やがて、戦地から一人の男性が息を切らして走ってきました。「喜べ、勝った」と告げて絶命しました。これがマラソンの紀元だと言われています。戦争に勝ったという「良い知らせ」が、エウワンゲリオンです。イエス様が復活したという知らせほど、人類にとって最良の知らせはありません。イエス・キリストが十字架で人類のすべての罪を贖いました。この方を信じる者は救われ義とされます。神さまからキリストをよみがえらせたのは、私たちが義とされることの証拠です。復活がないと、本当に罪赦され、義とされるのか分かりません。事実、キリストがよみがえられたので、私たちの信仰は確かなものとなり、もはや自分の罪の中にはいないのです。ハレルヤ!アーメン。

 

 きょうはウォッチマン・ニーの受け売りが多くて、かえって混乱を与えてしまったかもしれません。きょうのメッセージをまとめて終わりたいと思います。イエス様が死に渡されたのは、私たちの罪のためであります。私たちは「イエス様が代価を払った」と言います。でも、だれにその代価を払ったのでしょうか?サタンではありません。サタンも罪を犯したので、代価を受け取る資格はありません。父なる神さまが人の罪をさばかないで救うためには、ご自身の義が満たされなければなりません。もし、罪に対して刑罰を与えずに赦すならば、ご自身の義がすたれます。でも神さまは私たちを愛して、救いたいのです。そのため、ご自分の分身ともいえる御子イエスに罪を負わせて罰したのです。つまりは、神ご自身の義に対する代価であります。イエス様は神さまだったので、人にならなければ、死ぬことができませんでした。また、人になったからこそ私たちの身代わりになることができたのです。イエス様はゲッセマネの園で悩まれました。罪を負うことによって、父から裁かれ引き離されるからです。でも、イエス様は自ら進んで十字架にかけられ死なれました。イエス様の死によって罪の贖いが全うされ、恵みによって人類を救う道が開かれました。今度、父なる神様は、贖いの死を全うした御子イエスをよみがえらせたのです。罪があるから死があるのです。しかし、御子イエスが罪を全部支払ったので、死と墓が彼にふさわしいものでなくなりました。私たちから見ると、キリストがよみがえらされたので、私たちも義と認められることが分かったのです。つまり、キリストの復活は、私たちが義と認められることの保証です。私たちはイエス様の復活を信じるときに、これから先、何があっても裁かれることはないと平安で過ごすことができるのです。パウロはこのように言っています。ローマ8:34「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」