2015.4.12「神に祈る ヘブル4:14-16」

 世界中の人たちが何らかの神さまに祈っていると思います。たとい、無神論の人であっても、肉親の死が迫っているときなどは祈るのではないでしょうか?問題は「だれに、だれのお名前によって祈るか」であります。もし、そこに祈りを聞いてくださる確かなる神さまがいなければ、空しい叫びに終わってしまうからです。日本人は「いわしの頭も信心から」と言いますが、信じる対象よりも、信じる心が大事だと思っています。しかし、私たちのことを心配してくださる、全知全能の神さまがおられたなら、からし種ほどの信仰でも大丈夫なのであります。きょうは、「神に祈る」と題して、祈りの基本について学びたいと思います。

 

1.神さまとの交わり

 

祈りは端的に言うと、神さまとの交わりであります。神さまに語り、神さまに聞くということを交互に行うことです。残念なのは神さまが肉眼で見えないことと、神さまの声が肉声で聞こえないことであります。だから、どうしてもそこには信仰が必要です。どういう信仰かと言うと、私たちの祈りを聞いてくださるお方が確かにいらっしゃるという信仰です。さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:14-16)また、「養育」というテキストにあるいくつか質問をしながら進めたいと思います。

 

第一の質問、「神の子イエス様は、あなたに対してどのようなお方でしょうか?」ヘブル4章には「もろもろの天を通られた偉大な大祭司であり、私たちの弱さに同情してくださるお方」と書いてあります。「もろもろの天」とは何でしょう。聖書では3つの天のことが記されています。第一の天とは私たちが住んでいるこの地上です。目に見える物質があり、自然科学の法則が通用するところです。第二の天は、霊的な世界で悪霊や天使が動き回っている領域です。エペソ2章には「空中」と書いてあります。第三の天は、神さまがおられるところ、つまりは神の御座です。使徒パウロは第三の天にのぼり、直接、神さまからの啓示をうけたようであります。イエス様は大祭司になるために、第三の天から、第一の天に肉体を持ってこられました。死んで陰府に下って第二の天に行かれました。そして、復活昇天して、もとおられた第三の天の御座に座られました。現在、イエス様は大祭司として私たちをとりなし、王の王として支配しておられます。

 

第二、「私たちは神さまから何を受けることができるのでしょうか?」私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けることができます。あわれみと恵みは若干異なります。ウォッチマン・ニ―はこのように教えています。「あわれみは特に旧約の言葉で、恵みは特に新約の言葉である。あわれみは、あなたの現在の状態の哀れさについて語ります。そして、恵みは将来の状態、すなわち将来あなたが救われてもたらされるであろう輝かしい前途について語ります。」よく分かったでしょうか?つまり、あわれみは消極的で、恵みは積極的だということです。私は「罪を犯して申し訳ないなー」と思っているときに、主のあわれみを求めます。イエス様は十字架の上で「あわれみそのもの」となられました。だから、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。ハレルヤ!

 

 第三、「私たちが大胆に神さまの恵みの御座に近づくことができるのは何故でしょう?」ヘブル書には「すべての点で、私たちと同じように試みに会われた大祭司がおられるから」と書いてあります。イエス様は天からこの地上に来られ、肉体をもって生まれてくださいました。赤ん坊、子ども、青年、大人として成長されました。大家族の長男で、大工であったヨセフの仕事を継ぎました。イエス様は人間として疲れ、飢え、渇きを経験しました。もちろん、イエス様は私たちたちの同じように、泣いたり、嘆いたり、喜んだり、笑ったりしたのです。悪魔の試みや人々のあざけりや裏切りも経験しました。イエス様は神さまですから前から全部ご存じでしたが、私たちのことを同情できるために自ら体験されたのです。英語で「その人の身になって考える」ことを、「その人の靴に足を入れる」と言います。イエス様は今でも私たちの靴に足を入れれてくださいます。だから、飾らず、気落ちせず、恵みの座に転がり込むことができるのです。福音書に全身らい病の患者が出て来ます。現代では、らい病は差別用語で、聖書では「ツァラト」とヘブル語をそのまま使っています。当時は、らい病は恐ろしい病気で、だれもさわることができませんでした。彼は「お心でしたら、きよめていただけるのですが?」とイエス様の前に来てひれふしました。まさしく、彼はイエス様の前に転がりこんだのです。イエス様は手をのばして彼にさわり、「私の心だ。きよくなれ」と言われました。イエス様はことばだけではなく、彼にさわったのです。彼のような行動こそが、主の御座に近づくことなのです。

 

第四、「では、祈りは簡単に言うなら、何なのでしょうか?」おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことです。敬虔なクリスチャンなら、「そんなの困ったときの神頼みだ」と軽蔑するかもしれません。しかし、人間とはそういうものです。本当に困らないと、神さまの前に出て祈らないのです。もう、八方塞がりでどうにもならないときに、初めて祈るのです。でも、そういう祈りでも神さまは聞いてくださいます。そういうことを体験した人は、次からは、困る前にお祈りしようと思うのです。

 

 テキストはこのようにまとめています。祈りとは神さまとの会話、交わりです。神さまと私たちの間の障害となる罪を、大祭司であられるイエス様がご自身の血潮によって取り除いてくださいました。ですから、私たちは神さまの子どもとして、大胆に恵みの御座に出ることができます。イエス様の血潮によって、私たちの良心がきよめられ、大胆に神さまに近づき、何でも申し上げることができるとは何と幸いでしょう。祈りは宗教的な義務ではなく、すばらしい神の子としての特権です。また、祈りは礼拝や公の席だけでするものではなく、奥まった部屋から始まります(マタイ6:6)。そこでは、ダビデのように、主の前に何でも申し上げることができます。祈りは私たちの信仰を引き上げ、私たちの内側も主のように変えられていきます(Ⅱコリント3:17-18)。アーメン、主と親しく交わると、私たちも主の御姿へと変えられていくのです。

 

2.求める祈り

 

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9-13)

 

第一の質問、「最も端的な祈りとは何でしょう?」とあります。祈りは端的に言うと、神さまに求めることです。イエス様は子どもが父親に願うように、何でも求めて良いとおっしゃっています。そして、父なる神さまは最も良いものを与えて下さると約束しておられます。しかし、霊的に私たちが成長していくとどうなるでしょうか?特に必要がなくても、神さまと常に交わるようになります。また、他の人の必要のためにとりなすようになります。とりなすとは、他の人の必要のために代わりに祈るということです。そうなったら霊的な大人になった証拠です。

 

第二、「まるで、宇宙の法則のように堅く定まった法則とは何でしょう?」多くの人たちは、罪がきよめられたクリスチャンでなければ祈りが聞かれないと思っています。ここには、「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる」と書いてあります。「だれでも」であります。ある新興宗教の人たちは、朝から晩までタイコをたたいて祈っています。商売が繁盛するように、病気が治るように祈っています。では、彼らの祈りが全く聞かれないか、というとそうではありません。新興宗教になぜ多くの人たちが集まるのでしょうか?実際に、商売が繁盛し、病気が治るからです。その点、私たちクリスチャンは貪欲さが足りません。「御心ならばお願いします。ご迷惑になるでしょうから、もし御心でなければ結構です」と祈ります。私もたまに、「お手すきなときで結構ですから?」と頼まれたりします。「ああ、謙遜な人だなー」と思いますが、どこかに「ついでの時で良いんだな」と気を抜いてしまいます。でも、「先生、すぐ必要なんです」と言われたならどうするでしょうか?昨年のクリスマス「明日、アナのジェット機が必要なんです。先生、賜物があるんですから作ってください」と言われました。期待とプレッシャーを感じて「すぐ済ませようか」と思いました。神さまにプレッシャーをかけてはいけませんが、「求める」とギリシャ語には、credit(要求する)という意味もあります。イエス様はヨハネ14:14で、「あなたがたが、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう」と言われました。ここに一度来られたことのあるメル・ボンド師は「もし、なかったなら、作って出してあげますという意味です」と教えてくれました。私たちの神さまは無から有を生み出す神さまです。ハレルヤ!私たちが大きいことを本気で願うならどうでしょうか?イエス様は「おお、私にそれができると思って願っているんだな」と、本気になって答えてくださるでしょう。

 

第三、地上の父と天の父の共通点は何でしょう?自分の子どもには良いものを与えるということです。イエス様は、「悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与える」とおっしゃっています。それは、泥棒を働いている父親でも、自分の子どもには良い物を与えるということです。ましてや、神さまは良き神さま、良き天の父です。なおさら、良いものを私たちに与えたいと願っておられるということです。私は子どもの時ひもじい思いをしました。着るものや持ち物も他の友達と比べると見劣りがしました。自分が親になって、「子どもには良い物を与えたいなー」と思います。昨年、ビル・ジョンソンと言う人がアメリカから来られ、このように教えてくれました。自分が立派な身なりをして、高級車に乗っている。しかし、子どもや妻がみすぼらしい生活しているなら、人々はどう思うだろうか?「ああ、わがままな父親であり、夫だなー」と思われるでしょう。つまり、子どもは親を反映しているということです。「私たちは神の子どもなのですから、それにふさわしい生活をしていいんです」と教えてくれました。

 

第四、天の父が私たちに最も与えたいものとは何でしょう?聖霊であります。リビングバイブルは「だとしたら天の父が、求める者に聖霊を下さらないなんてことはありえません。もってけ泥棒!」と訳しています。「もってけ泥棒」は私が付け加えたものです。聖霊が与えられるということは三位一体の神さまが私たちの内側に住んでくださるということです。このことは神さまの永遠の計画、永遠の目的でした。全宇宙を創られた神さまが、聖霊によって私たちの中におられることにまさる恵みはありません。なぜなら、神さまを持っているとは、全宇宙を持っていると同じだからです。

 

 テキストのまとめの部分をお読みします。「神様に求めるのは、他力本願的で良くない。一生懸命努力した上で、それでもだめったら祈るべきだ」という人がいます。また、ある人は「もう何もしてもダメだ。祈ることしかできない」と言います。では祈りは最後の1%にかけるような、最後の手段なのでしょうか。E.Mバウンズは、「『私に求めよ』とは、神がその働きを進歩させ、勝利をもたらせるための一条件である。キリストの王国での成功の秘訣は祈る能力である。祈りの力を用いる人はキリストの王国の強者であり、聖者である」と言いました。「求めよ、そうすれば与えられます」は宇宙の法則です。地上の父が、子どもに良いものを与えるように、天の父は良いものを与えたいと願っておられます。ルカによる福音書は、最も良いものとは聖霊であると教えています。なぜなら、聖霊は神さまご自身だからです。

 

3.主の名によって

 

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネ16:23-24)

 

①父とはだれの父ですか?

 

 キリストの父です。イエス様を信じると私たちの父にもなります。イエス様は神さまを「父と呼んでいい」とおっしゃいました。クリスチャンでも、神さまをお父様と呼べない人がいます。「神さま」「神さま」と呼んでいます。ある人は「ヤハウエ」とか「エホバ」と呼ぶ人たちもいます。もし、私の子どもが「鈴木靖尋さん」と読んだら、どういう気持ちがするでしょうか?「あれ、記憶喪失にもなったのかな?」と思うでしょう。「パパ」とか「おやじ」で良いのです。」パウロは「御霊によってアバ、父と呼ぶ」と言いました。「アバ」は「お父ちゃん」という意味です。

 

②だれの名によって求めるならば与えられるのですか?

 

 主イエス・キリストの名です。なぜ、イエス様の名で求めるのでしょう?イエス様は私たちの贖い主であり、仲介者です。父なる神様はイエス様の名で求められたなら、答えないではいられないのです。

 

③求めたらどうなるのですか?

 

 与えられます。

 

④その結果、どうなるのでしょう?

 

私たちの喜びが満ち満ちたものとなります。

 

 テキストの解説書にはこのように書かれています。日本中の人が祈っているでしょうが、イエス様の御名で祈っている人は少ないでしょう。イエス様の御名で祈るのは、的外れのような私たちの祈りでも、最善になるようにイエス様が神さまの前で執り成してくださるからです。この世では、悪しき力が支配しています。悪魔は空中の権威をもって、神に届かないように、私たちの祈りを迎撃しようとします。ですから、主イエス・キリストの御名を用いるときに、あたかもロケットが成層圏をやぶって宇宙に飛び出すように、神様のところに祈りが突き進んでいけるのです。10年くらい前に、新松戸教会の津村牧師が来られ、夜の集会を導いてくださいました。そのとき、アーメンの仕方を教えてくれました。「アー」でグルグルと錐もみをし、「メン」で槍のように突き抜けるということです。一緒にやってみましょう。「ア~~~」「メン!」。

 

4.感謝と賛美をもって

 

ピリピ4:6-7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」詩篇100:4「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」

 

第一、「祈る前の状態はどのようなものだったでしょうか?」思い煩っていました。その人は、思い煩っていたので、「思い煩うな」と言われているのです。「クリスチャンになると悩みがない」と言う人がいますが、地上では悩んだり、思い煩うことがあります。特に、家庭を持つと自分ではなく、子どもたちのために思い煩ってしまいます。

 

第二、「願い事を神さまにどのように知らせるべきでしょう?」感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただくということです。旧約聖書のレビ記には、油を添えたり、香をたくように書かれています。もし、私が人に何かを頼むときどうするでしょうか?いきなりは頼みません。「この間は、大変お世話になりました」と前のことを感謝するでしょう。神さまも同じで、いつも自分に要求ばかりしている人は敬遠したくなるでしょう。そうではなく、感謝をもってささげる祈りでありたいと思います。

 

第三、「そのように祈ったら、何が与えられるのでしょう?」人のすべての考えにまさる神の平安が与えられます。そして、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。心というのは、感情です。恐れや不安やいらだちが消えて平安になります。また、思いというのはマインド、考え方つまり認知です。祈る前は、問題そのものに集中していました。しかし、祈った後は、問題の上におられる神さまに集中します。そうすると、「神さまにはできる」という信仰がやってきます。平安でおだやかな気持ちになると、「自分が今、何ができるか」分かってきます。小さな一歩を進むとき、神さまがさらに私たちを後押ししてくださいます。

 

マーリン・キャロザーズという牧師が『讃美の力』という本を書いています。ジムと言う人は長い間、アルコール中毒のお父さんのことで悩んでいました。なだめたり、脅したりいろんな手を使っても効果がありませんでした。あるとき、『讃美の力』を読みました。ジムは「お父さんのアルコール中毒のことを神さまに感謝しよう。いまの状態がお父さんの人生に対する神さまのすばらしい計画のうちにあるのだから、神さまに賛美しようじゃないか」と言いました。それから、すべてのことを一つ一つ神に感謝し、讃美を続けました。それからジムの父は自分の酒ぐせが問題だということをはっきりと認め、キリストに助けを求め、完全に癒されてしまったのです。どうぞ祈りの中に、感謝と賛美を混ぜ合わせてください。まだ、現実ではそうなっていないのに。さものようになったかのように感謝して祈ってください。そうすると、天の窓が開かれ、神さまの方から手が差し伸べられてきます。解決策は三次元の目に見える世界ではなく、目に見えない、神さまから与えられます。祈りは「神さまから解決を引き出す秘訣」と言って良いでしょう。