2008.06.22 信仰による義 ガラテヤ2:15-21

信仰生活は恵みです。多くの人たちは、イエス・キリストを信じるだけで救われるということを信じていません。数々の戒めを守ったり、良い行ないも必要だろうと思っています。それでも、さんざん福音を聞かされて、「ああ、そうか。信じるだけで良いのですね。アーメン」と洗礼を受けます。でも、多くのクリスチャンたちは、「信じたあとは自分の力でがんばらなくちゃいけないのですね」と古い生き方に逆戻りしています。力の源を神様に求めるべきなのに、昔の方法である、自分の力と知恵により頼みます。すると、信仰生活がなかなか前に進みません。それは、まるでサイドブレーキをかけながら、走るようなものです。イエス様を信じたら新しく生まれ変わります。だったら、古い生き方をやめて、キリスト・モードに生きたらいかがでしょうか?

1.信仰による義

ガラテヤ2:16はガラテヤ人への手紙の心臓部であり、また福音の中心でもあります。ガラテヤ2:16「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

パウロが言う救いとは、神様から義と認められることです。でも、日本人には「義」ということばがよく分かりません。これは単なる正しさではありません。神の律法にかなっている正しさであります。人間の社会では、正しい人もいますし、あまり正しくない人もいます。あの人と比べたら、私は正しい方だとか相対的な世界です。しかし、そこに神様の律法をもってきたら、どのくらい足りないかよく分かります。神の義は100%の正しさ、完全無欠という意味です。この世に完全無欠な人が果たしているでしょうか?裁判官でも罪を犯します。どこかの判事が部下の女性職員によくないメールを送り続けて免職されるかもしれません。彼は法律の専門家ではありますから、良くないことは百も承知だったでしょう。でも、男の性(さが)には勝てなかったのであります。ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と書いてありますが、もとの意味は「神の栄光に達しない、短い」という意味です。そうです。生まれながらの人は、神様の義、100%の正しさに達することができないのです。ですから、律法の役目というのは、人を救うのではなく、「あなたはここが足りませんよ。こういうところに罪がありますよ」と教えてくれる基準みたいなものであります。おおー、神の律法を人に当ててみて、それに達する人は一人もいないのです。ま、人に当てる前に、どうぞ自分に当ててください。

 パウロは「人は律法の行ないによっては義と認められない」と言っています。では、どうしたら良いのでしょうか?「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」と言っています。これはどういう意味でしょうか?ローマ3章には、キリストを信じる者に、神の義が与えられると書いてあります。学校では赤点が30点でしょうか?70点とれたらグッドかもしれません。でも、99点でもダメなんです。常に100点を取らなければ神の義には達しません。でも、神様がイエス様を信じるものに、神の義をプレゼントしてくれたらどうでしょうか?あなたの義がたったの20点でも、いや3点でも構わないのです。のびたのように0点だって良いのです。エペソ2:8、9「あなたがたは恵みによって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」とあります。私たちが義とされる、つまり救われるためには信仰だけであり、行ないではありません。でも、ガラテヤのクリスチャンたちは混乱していました。ガラテヤ3:17をリビングバイブルで紹介いたします。「しかし、もし、キリスト様の救いを信じた私たちに、あとになって、それは間違いだった。やっぱり割礼を受け、ユダヤ教のおきてをみな守らなければ救われない、とわかったとしたら、どうなるでしょうか。キリスト様を信じたおかげで、さんざんな目に会ったことになるわけです。しかし、私たちの主に関する限り、そんなことは、絶対にありえないのです」。非常に、リビングバイブルは、分かりやすいので、そこからもう少し解説させていただきます。もし、キリストを信じるだけではダメで、ユダヤ教の掟、律法を守らなければならいとしたら3つのことが起こります。第一はキリスト様を信じたおかげで、さんざんな目に会うという。第二は、前に打ち壊した方法をもう一度打ち建てようとする罪を犯す。第三は、キリストの死は犬死だったことになる。せっかく恵みによってクリスチャンになったのに、たくさんの戒めや義務があるのでしょうか?律法主義のクリスチャンは、がんばり屋で禁欲的です。だから、「ああ、この世の人の方がよっぽど気楽だ」と思うかもしれません。よく、布教活動をしておられる、エホバの証人の方々は、果たしてどのように思っていらっしゃるのでしょうか?おそらく、そうしなければ終わりの日に救われないと、追いまくられるような気持ちで頑張っているんじゃないでしょうか?

 みなさん、救いは私たちの行ないによるのではありません。救いは私たちがイエス様を信じることによって与えられる恵みであり、賜物です。私たちすべきことは、まずキリストのうちに安ぐことなのです。マタイ11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」クリスチャンになったために、やるべきことが多くなり、よけいに疲れたというのは問題です。それは律法主義が頭の中にあるからです。私たちの生まれた世界は「律法」ということばこそ使いませんが、律法主義です。小さいときから「これしちゃいけない」「あれしちゃいけない」で育ちました。学校へ入ると、「宿題やりなさい」「廊下を走ってはいけません」「髪の毛をのばしちゃいけません」「タバコを吸ってはいけません」。しつけとか、校則自体がそんなに悪いとは思いません。身を守るための規則や集団生活の規則というものが当然あるでしょう。でも、そこで人々は、大きな間違いを犯すことになります。私はこれを守っているから親から受け入れられている。私が勉強すると親や先生から好かれるんだ。私はこれができると友達から「すごい」と言われる。一生懸命、良い子になったり、一生懸命、学力や良い行ないを身に着けます。そうすることによって、自分は価値が在り、人々から受け入れられるんだ。逆に、何もしない、何もできないならば自分には価値がないし、だれからも受け入れられないんだと考えるようになります。必ずしも規則が悪いのではなく、規則からこういう間違った考え、間違った価値観が生まれるのです。私たちのアイディンテティ、自己存在は、そういうものでは決まりません。人は行ないによって決まるのではないのです。でも、残念ながら、大人になるとこういう質問をします。「あなたのお名前は?」と聞かれたら、「はい○○です」と答えるでしょう。その次にどういう質問をするでしょうか?「あなたは何をしていますか」と職業を聞くでしょう。何をしているかが、その人のアイディンテティが決まるのではないでしょうか?「私はアルバイトをしています」。これだけだと寂しい。でも、「私は牧師です」と言うと、「ま、アルバイトでも良いか?」となります。でも、これは間違った答えからです。私たちのアイディンテティは、私は神の子どもです。キリストに属する者、クリスチャンです。これにまさる不動のアイディンテティはありません。

でも、私たちはあまりにも律法的なこの世の中で生きてきたので、クリスチャンになっても、「ああ、神様に受け入れられるためには、もっと聖書を読まなければならない、もっと礼拝に来なければならない、もっと献金しなければならない、もっと奉仕をしなければならない、もっときよめられなければならない。」と考えたら、立派な律法主義者です。どこがいけないんでしょうか?2つあります。1つは動機が間違っています。私たちの肉で神様を喜ばせることはできません。もし、私が神様のためにアップルパイを一生懸命作ったとします。りんごを煮て、生地を練って、焼いて・・・「神様、あなたのためにアップルパイを作りました。どうぞ」と捧げます。でも、もし、神様がアップルパイが嫌いだったらどうでしょうか?私たちは神様を喜ばせる必要はないのです。なぜなら、キリストにあってすでに満足しているからです。2つ目の間違いは、あなた自身がかんばることです。日本人は「がんばれ、がんばれ」と励ましの気持ちで言います。でも、がんばるというのは自分の力や能力でやることです。でも、クリスチャン生活はそうではありません。キリストの命をいただいて、キリストがあなたを通して、現れるようにすれば良いのです。その具体的な方法は、第二のポイントでお話したいと思います。でも、この第一のポイントで、しっかり心にとめてもらいたいことは「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」ということです。救いは行ないによらない、神の恵みだということです。また、キリストにあって神様は満足しています。これ以上、私たちが何かをしなければならないということはないのです。キリストにあって神様は私たちのありのままを受け入れて下さっておられるのです。どうぞ、キリストに安らいでください。キリストに安らいでください。

2.キリストにあって生きる

私たちは律法、つまり戒めが来ると、逆らいたくなります。「そうしなさい」と言われると「そうしたくないよ」と反応します。「そうしちゃだめだよ」と言われたら、「ふん、やっちゃうよ」となるのです。これは私たちの内にある肉なんです。この肉をどうにかしない限り、あなたはすばらしいクリスチャンになることはできません。パウロはローマ7章で「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。・・・私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と悩んでいます。この世の中は、決まり、決まりであふれています。コンプライアンスなんて、聞こえは良いのですが、けっきょくは決まりです。クリスチャンになって、さらに決まりが増えたらどうなるでしょうか?この世でもいっぱい、いっぱいなのに、「教会に来たら、天国の律法がある!」いやですねー。そうじゃないんです。イエス様を信頼してゆけば、自然と、この世のきまりや律法を守って生きてゆけるのです。「では、クリスチャンになって聖書を読まなくても良いのですか?伝道をしなくて良いのですか?でも、聖書には伝道しろと書いてありますよ。また、奉仕も献金も良い行ないもしなさいと書いてあるじゃないですか?不品行とか悪口など、罪を犯さないようにとも書いてありますよ。隣人と愛しなさいと書いてありますよ。」でも、それらの良い命令や戒めも、律法になる恐れがあります。いや、本来、聖書を読むこと、伝道、献金、奉仕、隣人を愛することは、恵みであり特権なんです。なぜなら、私たちの内におられるイエス様が、私たちを通して、そうさせてくださるからです。はっきり言わせてもらいます。クリスチャン生活は倫理や道徳の生活ではありません。キリストが私たちの内から現れてやってくださること、いわば奇跡なのです。そうですクリスチャン生活というのは奇跡なのです。ハレルヤ!アーメン。

 では、どうしたらその境地に達することができるのか?それが2:19,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」パウロは「律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」と言いました。これはどういう意味でしょうか?これは、ローマ7章の「夫と妻のたとえ」でよく分かります。夫は律法です。決して間違いを犯さない正しい人です。いつも、私を「あれが足りない、これは間違っている」とあら探しをします。妻はああ、うちの人が死んでくれたら、「やさしい他の男性と結婚できるのになー」と思っています。でも、夫は健康そのもので、病気1つしません。このまま私が他の男性のところへ行けば、姦淫になるので許されません。たった1つだけ律法である夫から解放されることができます。それは、一度、死んで、生まれ変われば良いのです。もし、キリストと結ばれるならば、一度、死んで、よみがえることができるのです。つまり、律法が死んだのではなくて、律法に対する自分が死ねば、律法から解放されます。その後は、キリストと結婚して、キリストにあって生きれば良いのです。それが、この聖句の意味なのです。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

クリスチャンは新しく生まれた存在です。「イエス様のようになりなさい」と言われなくても、イエス様の命が内にあるのです。ですから、自分にではなく、イエス様に信頼して生きるならば、イエス様の命があふれ出てくるのです。でも、そうさせないものが自分の中に、まだあります。それは何でしょうか?それは肉です。罪ではありません。正確的には肉です。私たちは、たとえ生まれ変わってクリスチャンになっても、肉があります。では、肉とは何でしょう?肉とは神様に頼らないで、自分の考えや力でやるという独立心です。アダム以来、人間は長い間、神様から離れて生きてきたので、「神なしでやっていこう」という性質が私たちの中に染み込んでいるのです。律法の問題は解決しました。今度は、肉の問題です。どうしたら良いのでしょう?それは、自分の意思で、私たちが持っていると思っている1つ1つの権利をイエス様に明け渡すことです。スティーブ・マクベイという牧師が『恵みの歩み』という本を書いています。また、先生は2回ほど日本に来て講演をしてくださいました。1990年10月6日土曜日、先生は死ぬ経験を通らされした。「神様、私は16歳からあなたのために説教してきました。21年間も一生懸命にやってきたのに、私から何を望んでいるのですか?」と言いました。神様が霊に語りかけました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」と。「神様は、私がいろんなことができるから、そのために私を欲しかったと思っていた。私に教会を建てて欲しいと思っていた。私に説教してほしいと思っていた。カウンセリングをして欲しかった。病気の人のために祈り、婚約式や結婚式の司式をすること。亡くなった人の葬儀をすること。ミニストリーをするために、牧会をするために神様は私を欲しいと思っていた。しかし、そうではないということを突然、分かった。それらのことをするために私を欲しかったわけではない。神様は私自身を欲しいということが分かった。神様はお手伝いさんを求めているのではなくて、花嫁を求めておられるのだ。」

 先生は、横たわりならが、数日前に、ある人からもらった「紙」のことを思い出しました。その「紙」の一番上には、「完全に神様にゆだねる」と書いてありました。左側には神様にゆだねる様々な領域が書いてありました。自分の人生、自分の将来、自分の幸せ、家族、気持ちよい環境。右側には自分が持っていると思っている権利が書いてありました。私がしてほしいようにしてもらう権利、自分の住みたいところに住む権利。その紙を持ちながら、祈り始めました。祈りながら、少しずつ、自分が今まで持っていたすべてのものを神様にゆだねていきました。自分に対する確信や自分の能力もすべて神様にゆだねました。自分の背景、自分の教育も、説教の能力、牧会者としての様々なスキル、すべてを神様にゆだねていきました。最後に、自分の名前をサインしました。最後にこのように書いてありました。神様は私に対して、やりたいようにやって良いという権利を持っておられることを認めます。神様は私に対して、好きなようにして良い。私の内側に対しても、やりたいようにやって良い。私を通して、やりたいようにやって良い。今まで、それらは自分のものだと思っていたが、それらを全部、神様にゆだねる。「全部、神様のご支配のもとにゆだねます」。その下に自分の名前を書きました。スティーブ・マクベイ、1990年、10月6日、契約書。イエス様はあなたのうちにあって働きたいのです。でも、あなたがそれらを握っていたのでは、イエス様が働けないのです。私たちはイエス・キリストに私の全部をゆだねたら、とんでもないことになると恐れているのではないでしょうか?第一は好きなことができない。私の趣味や楽しみはどうなるんだ。第二に、世の中はそんなに甘くない。たくさんしなければならないことがある。私には多くの責任があるんだ。第三、目に見えないイエス様にそれほど、頼って大丈夫のか?自分がいなくなるんじゃないのか?多くの人は「恵みによって歩む」ことは、砂糖漬けの甘いクリスチャン、怠け者のクリスチャンなんだと誤解しています。でも、「自分に死んで、キリストに生きる」となると、「結構、ハードル高いなー」と思いませんか?私は奥が深いと思います。信じるだけで救われるという恵みです。しかし、クリスチャン生活も恵みでなんです。

責任という英語は、responsibilityと言います。しかし、これは2つのことばでできています。response応答と、ability能力です。つまりこういうことなんです。私たちがなすべき責任とは何でしょうか?それは、神様の能力に応答することであります。律法主義は、私たちの努力で、何かを成し遂げることです。「自分で何かを成し遂げないと自分には価値がないんだ」と一生懸命がんばります。律法主義は私たちの側に責任があります。でも、恵みは神様が事を行います。私たちの責任は、単純に神様の能力に応答することであり、神様がなさりたいことに対してゆだねることです。律法主義は自分の努力で神の祝福を勝ち取ろうとします。しかし、恵みはキリスト様に安らぎ、神様から与えられる祝福を待ち望みます。私たちがキリストにとどまるときに、私たちの内からキリストが現われて来て、自然と実が結ばれていくのです。自分が小さくなるときに、イエス様が大きくなってくださいます。自分が弱くなるときに、イエス様が強くなっていきます。これが恵みの世界です。私は、まだ50%しか体験していませんが、すべてのものを主にゆだねる祈りはしました。でも、肉がまだありますので、「私がやらないでだれがやる」と、気づかないうちに握っています。「ああ、いけない、いけない」と、そのたびことに、主にゆだねています。みなさん、どうせ恵みで救われたのでしたら、信仰生活も恵みで歩もうではありませんか。クリスチャン生活は道徳や倫理以上のものです。いえ、奇跡的な生き方です。