2015.4.19「助け主、聖霊 ヨハネ14:16-17」

日本の教会は、聖霊のことをほとんど言わない教会もあれば、聖霊を過度に強調するグループもあります。なぜ、ある教会は聖霊のことを言うのを避けるのでしょう?それは聖霊の賜物による混乱を恐れるからです。私は保守的な教団の神学校に2年通いましたが、母教会はカリスマ派でしたので両方の立場を知っているつもりです。聖霊の賜物も重要ですが、神であられる聖霊が与えられていることをもっと喜ぶべきです。聖霊の賜物については、次の『本当の弟子』というところで学びたいと思います。

 

1.聖霊とはだれですか?

 

ヨハネ14:16「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」もう一箇所、お読みいたします。ヨハネ16:7「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」「養育を受ける」のテキストに従いながら質問したいと思います。 

第一、「元来、『助け主』とはだれのことなのでしょうか?」旧約聖書では「神の霊」として記されていますが、新約聖書では「聖霊」という名前で出ています。あるいは「御霊」と呼んでいる箇所もあります。聖霊を「助け主」という名前でイエス様が紹介しているのは、ヨハネによる福音書だけです。

第二、「このところで聖霊は何と呼ばれているでしょうか?」イエス様は「もうひとりの助け主」と言われました。弟子たちにとって「助け主」はイエス様でした。「もうひとりの」というギリシャ語は、「姿かたちが同じでありながら、別の人格の」という意味です。たとえば、ここに2枚のCDがあります(昔はビデオテープ)。見た感じ2枚とも同じでありますが、別々の存在であります。3枚持ってくると、三位一体を説明することができます。正面から見ると1枚ですが、真横から見ると3枚に見えます。また「助け主」はギリシャ語ではパラクレートスと言いますが、「援助者として呼ばれたる者」という意味です。聖霊はあなたを助けるために父が遣わされた、もう一人の(別の)助け主なのです。聖霊は単なる力ではなく、私たちと同じような人格を持っておられます。つまり、知性、感情、意思があり、悲しんだり、喜んだりするということです。

第三、「聖霊とイエス様とではどこが同じで、どこが違うのでしょうか?」能力が同じで、位格(人格)が違います。厳密にいうならば、地上におられた時のイエス様は肉体を持っておられました。そのため、いろんな限界がありました。しかし、聖霊がイエス様のうちに宿っておられたので、病の癒しや奇跡を行なうことができたのです。

第四、「だれが、どこから聖霊を遣わすのでしょうか?」イエス様が天にお帰りになって、父なる神のもとから遣わされました。そのことが使徒の働きに記されています。使徒2:33「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」簡単に言うとイエス様と聖霊がバトンタッチしたということです。私たちのところに来られた聖霊は、旧約聖書の聖霊とは幾分違います。どこが違うかというと、一時、イエス様の内側におられたことがあるという点です。ですから、聖霊のことを「キリストの御霊」と呼ぶこともあります。イエス様の内側におられたことのある聖霊が、私たちの内側に住むということはすばらしいことではないでしょうか?2000年前、弟子たちにとってイエス様が助け主であったように、聖霊が私たちにとって助け主だということです。ハレルヤ!私たちが「イエス様」と助けを求めているとき、実はキリストの御霊である聖霊が助けておられるのです。

2.聖霊降臨(ペンテコステ)

 

ルカ24:49「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」使徒2:1-4五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

第一の質問です。「弟子たちには何が必要だったのでしょうか?」いと高き所から力を着せられることでした。「いと高き所」とは、神さまがいらっしゃる天からという意味です。旧約聖書にエリシャという預言者が出て来ます。彼は力を得たいがためにエリヤの後をどこまでも追いかけました。エリヤがたつ巻に乗って天に上って行ったとき、彼の外套が天から落ちて来ました。エリシャは自分の着物を裂き、その外套を拾い上げました。その後、エリシャはエリヤ以上の奇跡を行なうことができました。同じように2階座敷にいた弟子たちは、力としての聖霊を上から(upon)受けることができました。私は聖霊のバプテスマという用語は誤解を招くのであまり使いません。2階座敷にいた弟子たちは、上から(upon)と内に(in)が同時に起こったのではないかと思います。

第二、「約束の聖霊はいつ地上に注がれたのでしょうか?」ペンテコステの日です。イエス様が復活してから50日目です。「五旬節の祭り」とも呼ばれ、大麦の収穫が終わり、これから小麦の収穫が始まります。その日、霊的な初穂である教会の群れが誕生しました。旧約時代にも聖霊はおられました。サムソンやダビデも聖霊を受けていました。しかし、彼らは聖霊を上から(upon)受けていましたが、内(in)には受けていませんでした。だから聖霊は一時しかおられなかったのです。ペンテコステ以降は、聖霊がキリストを信じる人にもれなく、永遠に住んで下さることになりました。これはすばらしい恵みではないでしょうか?ルカ福音書には、私たちが求めるべき最も良いものは聖霊であると記されています。

第三、「聖霊はどのようなものにたとえられているでしょうか?」「激しい風」あるいは「炎」として例えられています。ヨハネ3章には「聖霊が風のように思いのまま吹く」と書かれています。つまり、聖霊は私たちの目で見ることができないし、私たちがコントロールできません。イエス様のときは、聖霊は鳩のように下って来られました。ところが、使徒の働きでは、激しい風と燃える炎のようにやって来ました。チャールズ・スウィンドルという人は、「弟子たちが聖霊の火を受けたとき、内側にあった醜い罪が焼き尽くされ、灰のようになった」と言いました。みなさん、灰には何の魅力もありません。しかし、灰は聖霊の風によって、自由に動かされます。私たちの自我や肉が聖霊の炎によって焼き尽くされるとき、はじめて神さまが用いることができるのではないでしょうか。

第四、「弟子たちはどのように変化したでしょうか?」「聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」と書いてあります。ペンテコステ派の人たちは、これは「異言だ」と言います。福音派の人たちは「外国のことばだ」と言います。この箇所を見ると、騒ぎで集まって来た人たちが、自国のことばで福音を聞くことができました。ということは、「地の果てにまでキリスト証人になる」という世界宣教のためのしるしだったと考えることができます。確かに聖霊は力として注がれました。しかし、その力とはキリストを証するための力でした。その後、もう一度、弟子たちは聖霊に満たされました。使徒4章を見ると、彼らは迫害をも恐れず、大胆に福音を語るように変えられたことがわかります。つまり、聖霊を受けるのは異言によって神さまと親しく交わるだけではなく、福音を大胆に語る者と変えられるということです。聖霊は自己満足のためではなく、宣教の霊であり、神さまの働きをするための霊だということです。

3.聖霊の内住

 

ローマ8:9「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。ローマ8:14-16「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」

第一の質問「だれの内に御霊(聖霊)が住んでおられるのでしょうか?」キリストを信じている人です。パウロは「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と言っています。つまり、キリストを信じている人はもれなく聖霊を内側にいただいているということです。以下のような問答がクリスチャンの間で良くあります。ペンテコステ派の人たちは「あなたは聖霊を受けていますか?」と質問します。福音派の人は「はい、受けていますよ?」と答えます。すると、「いつですか?」と聞きます。「はい、信じたときです」と答えます。すると、「まさか、そんなことはないでしょう?では、あなたは異言を語ることができますか?」と聞きます。「いえ、異言は出ません」と答えます。すると、「いや、あなたは聖霊を受けてはいません」と言われるでしょう?二人の会話はとてもちぐはぐです。ペンテコステ派の人たちが「聖霊を受けましたか」と聞くのは、「聖霊のバプテスマを受けましたか?聖霊を上から受けましたか?」と聞いているのです。それに対して、福音派の人は「はい、信じたとき聖霊を内側にいただきましたよ」という意味なのです。ですから、「聖霊を受ける」とか「聖霊のバプテスマ」は通じない場合が多いということです。両者に問題があります。聖霊はキリストを信じたときに内に(in)いただきます。さらに、聖霊を上から(upon)受ける必要があります。コルネリオのように信じた時に受ける人もおれば、エペソの人たちのように後から受ける人もいます。私も長い間、混乱がありました。しかし、ウィットネス・リーの『命の経験』という本を読んでやっと納得しました。私は「聖霊のバプテスマ」はペンテコステに成就した出来事であり、繰り返す必要がないと信じています。ただし、個人が聖霊を内だけではなく、上から受ける必要があるということは信じています。

第二は、「『アバ、父よ』と神さまを呼べるのは、だれの働きのゆえですか?」神の御霊の働きのゆえです。私たちがイエス様を信じたら、聖霊が「あなたは神の子どもになりました。だから、神さまをアバ、父よと呼んで良いのよ」と教えてくれます。エペソ1章には「約束の聖霊をもって証印を押された」と書いてあります。昔、王様が大事な手紙を書くとき、閉じた合わせ目に蝋を垂らし、そこに指輪で証印を押しました。その手紙が受取人の手元に届くまでだれも開封することができません。もし、途中で封を開けたらその人は死刑に処せられます。私たちも神さまのもとへ行くまで、封印されているので、どんな被造物も私たちから救いを奪い取ることができません。私たちクリスチャンは神さまのもの、神さまの子どもなのです。ハレルヤ!

第三、「あなたが救われている(神の子となっている)ことをあかしするのはだれでしょう?」 御霊ご自身と私たちの霊です。日本語の場合、内におられる聖霊を「御霊」というふうに書いています。しかし、ギリシャ語の聖書では私たちの霊なのか、神の霊なのか区別をつけることができません。多くの場合、文脈から「こっちは御霊で、こっちは霊かな」と分けているのです。たとえばガラテヤ5章に「御霊によって歩みなさい」あるいは「御霊に導かれて、歩もうではありませんか」とあります。実際のところ、神の霊なのか、私たちの新生した霊なのか分からないのです。ウィットネス・リーは「両者が混じり合っている」と言っています。

第四、「あなたの内に聖霊はおられますか?また、その理由は何ですか?」神さまを「アバ、父」と呼べること、神さまを「天のお父様」と呼べることです。神さまを「お父様」と呼べることを当たり前だと思ってはいけません。私たちがイエス様を信じたとき、聖霊によって新生し、私たちの霊の部分に臨在してくださいます。そして、私たちの霊に「あなたは神さまの子どもになったのだから、神さまをお父さんと呼んで良いんだよ。恥ずかしがらずに、大胆に呼びなさい」と勧めてくださるからできるのです。ハレルヤ!

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。ペンテコステ以来、主イエスを信じてクリスチャンになったなら、もれなくその人の内側に聖霊がおられます。聖霊は私たちの霊に臨在し、私たちの魂に語りかけます。最初は自分の声なのか、御霊の声なのか分かりませんが、経験とともに分かるようになります。御霊はみことばを悟らせ、神さまがどう思われているのかまで示してくださいます。私たちの態度としては、聖霊がご人格を持った神であることを認め、このお方にすべてをゆだね、全面的に従うことを祈る必要があります。そうすれば、聖霊はいつでも、あなたに語りかけ、強い御腕をもって、あなたを導いてくださるでしょう。

 

4.聖霊の主な働き

 

ヨハネ16:13-15「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」

第一の問いです。「聖霊は何と呼ばれていますか?」「真理の御霊」と呼ばれています。

第二、「聖霊は私たちにどんなことをしてくださいますか?」「すべての真理に導きいれる」と書いてあります。つまり、聖書のことばを理解させてくださるということです。でも、それだけではありません。イエス様から受けたものを知らせてくれます。また、やがて起ころうとしていることを示してくださいます。聖霊を私たちの頭で限定してはいけません。私たちにかくされていることも、将来のことも教えてくださるということです。

第三、「聖霊が最も現したいことは何でしょう?」「キリストの栄光を現わすこと」です。ある方々は聖霊を強調するあまり、自分たちは「聖霊派です」と言います。ある人は「聖霊様おはようございます」と言います。悪くはないと思います。でも、聖霊はとても謙遜で、自分ではなくキリストの栄光を現わしたいと願っておられます。私たちが「イエス様!」と呼んだならば、同時にそれはキリストの御霊である聖霊にも語りかけているということです。

第四の問いです。「聖霊があなたの傍らで、聖書のみことばを教えてくださることを信じますか?」ある人たちは、勝手に聖書を読むと間違えるので、牧師の教えのもとで、あるいは注解書を見ながら読むべきだと言います。もちろん、異端には注意すべきです。しかし、多くの場合聖書は読めばわかるようになっています。かえって理性中心の合理的な解釈を持ち込むと混乱します。聖書は聖霊が原著者ですから、聖霊に聞くのが一番です。聖霊は真理の御霊として、あなたの傍らにいて家庭教師のように親しく教えてくださいます。

私は1979年の6月に座間キリスト教会で洗礼を受けました。その年の2月に大川牧師が聖霊体験をされ、教会が喜びと活気に満ちていました。翌年、ホーリネス教団の神学校に入学しました。そこで、「座間キリスト教会はおかしい。異言を話したり、癒しをしている」と聞きました。その教会から通っていましたので、針のむしろみたいな経験をしました。卒業後、夕拝や早天礼拝で説教の奉仕をするようになりました。大川牧師が説教に対する評価が厳しいので、準備がとても大変でした。いろんな注解書を読みあさり、苦心してなんとか仕上げるという状態でした。数年間、そういうことを続けましたが、注解書を読めば読むほど、頭が痛くなりました。知識を得れば得るほど、恐れも増し加わりました。他の人の借り物で、全く力がありませんでした。ある時、準備したものを全部捨てて、床に平伏しました。目をつぶって、「このところから何を語ったら良いのか」神さまにお聞きました。それから私の説教スタイルが変わりました。それでも、聖書を人々に語るため、あるいは教えるために読んでいました。1990年、亀有教会に赴任して3年目、ディボーションに触れました。ディボーションというのは、聖書をありのまま観察し、そこから教えをいだだくシンプルなものでした。そこで、教えられたのが「真理の御霊」でした。真理の御霊が教えてくださることを信じて、恐れないで聖書をそのまま読むことにしました。そうすると本当に、聖書が面白くなり、文字が浮き出てくるような感じがしました。それから、説教の準備の仕方が全く変わりました。聖書を何度も読んで観察し、気づいたことを書き留めます。ギリシャ語や英語の聖書も読みますが、注解書や他の本は見ません。その後、目をつぶりみことばを瞑想します。そうすると、何を言うべきなのか、ポイントが見えてきます。目を開けて、忘れないうちにそれらを紙に書き留めます。その後、注解書や他の本、人々の例話を付け加えます。聖霊様が私にメッセージをくださったという確信があります。それから、私の説教スタイルが変わりました。

テキストのまとめの部分をお読みして終えたいと思います。聖霊は三位一体の神さまです。単なる力ではなく、ペルソナ(人格)がおありです。キリストの御霊として聖霊が自分自身の中に宿っておられることを認めましょう。クリスチャンになるとわかりますが、聖霊は様々な霊的な賜物を与えてくださいます。ですから、多くの場合、聖霊というと働きの方に目が行きがちです。でも、聖霊はキリストを証しし、キリストの栄光を現すお方として来られたことを忘れてはいけません。聖霊の働きを強調する教団や団体は、聖霊とキリストを分けて考えますが、そうではありません。御子イエスさまがいつでも御父を示したように、聖霊はいつでもキリストをお示しになられるのです。聖霊はみことばを悟らせてくださる真理の御霊として、あなたと共におられます。聖霊はみことばを通して語られますが、他のことについても語りかけてくださいます。聖霊の御声を聞いて、聖霊によって歩みましょう。