2008.06.29 御霊による完成 ガラテヤ3:1-5

パウロは「ああ愚かなガラテヤ人」と嘆いています。英語の聖書にはfoolishということばが1節と3節に、2回出てきます。パウロがガラテヤに行って、十字架につけられたイエス・キリストをありありと示しました。彼らはそのとき、イエス様を信じて救われました。そのとき、聖霊を受け、なんらかの奇跡な体験したと思われます。それなのに後からやって来た人たちが、「福音を信じるだけじゃだめなんだ。さらに律法を守る必要があるんだ」と言いました。そして、彼らはそれを真に受け、迷って、真理の道から外れて行きました。だから、パウロは「ああ愚かなガラテヤ人、一体だれが迷わせたんだ!」と怒っています。

1.御霊を受ける

ガラテヤ書のテーマは、「人は信じたら義とされる。律法の行ないは不要だ」ということです。しかし、ここでは「人は信じたら御霊を受ける。律法の行ないは不要だ」と言い換えています。ガラテヤの人たちはイエス様を信じたときに、明らかに聖霊を受けたようです。それに対してパウロは、「御霊を受けたのは、律法を行なったからか、それとも信仰をもって聞いたからか」と聞いています。5節にも「律法を行なったからか、それとも信仰をもって聞いたからか」と繰り返しています。しかし、私たちは「御霊を受ける」とはどういう意味かを最初に知らなければなりません。ペンテコステ系の教会は「御霊を受ける」というのは、イコール、「聖霊のバプテスマを受ける」と解釈します。クリスチャンになっても、御霊を受けなければ一人前じゃない。だから、「あなたは御霊を受けましたか?」とよく聞くようです。彼らはイエス様を信じるのと、受霊、つまり御霊を受けるのは別の体験だと言うわけです。そうしますと、ガラテヤ人への手紙3章の内容と矛盾してしまいます。ガラテヤの教会員はパウロの十字架の福音を聞いて、信じて、即、聖霊を受けたようです。使徒の働きの人たちように、異言や預言を語ったのかもしれません。でも、そういう現象がある、ないは別として、イエス様を信じるならば、聖霊をもれなく受けるのです。そうでないと、御霊を受けたのは「律法を行なったからか、それとも信仰をもって聞いたからか」とは聞けなくなります。ガラテヤの人たちはイエス様を信じたら聖霊を受けたのです。律法の行ないによらないで、信仰のみで受けたのです。

パウロは、ローマ8:9で「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と語っています。つまり、イエス様を信じているクリスチャンであるならば、もれなくキリストの御霊、つまり聖霊を宿しているということです。ですから、「私はキリスト信じたとき、御霊を受けました」と答えるのが正しいのです。しかし、使徒の働き19章にエペソの教会のことが書いてあります。使徒19:2、3「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。とんで5、6節、これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。これは例外的なことです。なぜなら、エペソの人たちは本当の福音を聞いていなかったからです。彼らはヨハネの悔い改めのバプテスマしか受けていません。当時、ペンテコステから20年以上たっていたにもかかわらず、ちゃんとした福音が伝わっていなかったために、聖霊を受けていない人たちがいたのです。でも、今の時代はそういうことはありません。イエス・キリストの福音を聞いて、信じれば、そのとき人は聖霊を受けるのです。なぜなら、そのとき、人は「イエス様を受け入れます」と祈っているからです。イエス様を受け入れるとは、すなわち聖霊を受け入れることであります。これを「聖霊の内住」と言います。コリント3章と6章に、「私たちは神の神殿である」と書かれています。なぜなら、神の霊、聖霊が私たちの内に住んでおられるからです。どうぞ、みなさんご自分の中に、神の霊、聖霊が宿っておられることを信仰によって認めましょう。これはいわば、パックなのです。イエス様を信じると同時に御霊も受けるのです。イエス様を信じたけれど、御霊がいないという人はいないのです。イエス様を信じたら、あなたの内に御霊が宿るのです。どうぞ、ご安心ください。

でも、聖書には御霊を受ける、つまり内住の御霊だけではなく、もう1つ上の経験も書いてあります。ここで「えー?」と言わないで下さい。ヨハネ7章でイエス様はこのように言われました。ヨハネ7:38、39 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」ここには、「心の奥底から、聖霊が川のように流れ出る」と言われています。みなさん「流れ出る」とはどういう意味でしょうか?水をコップに注いだとします。水がコップの半分では、流れ出ることはありません。では、水がコップ一杯になったらどうでしょうか?水はコップに満たされたかもしれませんが、まだ流れ出てはいません。でも、もっと水が上から注がれるならば、縁からあふれて、水が流れ出ます。私はこれを「聖霊の満たし」と呼んでいます。表現は違いますが、使徒1:8には「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」とも書いてあります。では、聖霊に満たされるとどうなるのでしょうか?そして何らかの力があたえられます。その力というのは、聖霊の賜物と関係しているのではないかと思います。これをペンテコステ系の教会は聖霊のバプテスマと呼んでいます。しかし、私はあえて聖霊のバプテスマという表現は避けるようにしています。なぜなら、聖霊のバプテスマとは、ペンテコステの日、この地上に注がれた聖霊であると理解しているからです。それは預言の成就であり、歴史的には1回限りの出来ごとだからです。でも、ペンテコステ以降、人々は聖霊を内側に宿すことが可能になり、また聖霊に満たされることも可能になったと信じています。では、使徒の働き10章で、コルネリオたちが預言や異言を語っているところはどう理解するのでしょうか?彼らは聖霊の内住と聖霊の満たしが同時に来たんじゃないかと思います。

しかし、私はイエス様を信じたときに聖霊が宿るという出来ごとと、聖霊に満たされ何らかの賜物や力が現われるのは、別ではないかと思います。カルバリー・チャペルのチャック・スミスがある本でこのように述べています。「聖霊があなたの内側から溢れ流れ出るという体験は、ミニストリーのために不可欠です。私たちは聖霊によって満たされるだけの器ではなく、周りの世界に触れるために外側に向かって流れ出る水路となるのです。これこそが聖霊の目的であると信じます。使徒1:8の「上に来られる」という体験は、具体的な結果を生み出す聖霊のダイナミックな力を私たちに与え、私たちを力強いキリストの証人とするのです。これこそが神のご計画なのです。聖霊が私の外側に向かって流れるとき、私は神の道具となり、神ご自身が私を通して私の周りの世界に触れることが出来るのです。私から、ダイナミックな聖霊の力が流れ出て行くのです。」アーメン。私はいろんな聖会に出て、たくさんの先生から按手して祈っていただいたので、そのときがいつなのか分かりません。日本や外国の先生方、数えても20人は下りません。その当時また、按手というのが流行りました。長い列を作って・・・。大体、大川先生が好きでしたねー。アルゼンチンとか、アメリカ、カナダによく行っておられました。でも、癒しの働きが顕著になったのは、岡山県の中嶋先生が来られてからです。とにかく、今は、祈るとき、「自分が管になり、聖霊が流れて、聖霊ご自身が何かをなさるんだなー」という感覚はあります。中嶋先生も同じようなことをおっしゃっていましたが、準備はいりません。ただ、スイッチを押せば、良いだけなんです。スイッチをオンにすれば、自動的に流れるので、気張る必要もないです。

ちょっと、話題がそれてしまいましたが、第一のポイントで学ぶことは、イエス様を信じたら、聖霊を受けます。行ないではありません。クリスチャンであるなら、もれなく、イエスの御霊、聖霊が内に宿っておられるのです。神様があなたの内側におられる。ということは、あなたは神の神殿です。旧約聖書では、神様がおられるところはいつでも、聖いと言われました。もし、あなたの内側に神様がおられ、あなたが神殿であるならば、あなたはどうなんでしょうか?そうです。あなたは聖いのです。だから、パウロはコリントの人たちを「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」(Ⅰコリント1:2)と呼んでいます。あなたは神様の目から見たら聖い存在なのです。ハレルヤ!ある人は、「内におられるイエス様は確かに聖いかもしれないけど、私は汚れているわ」と言うかもしれません。もしそうだったら、「私は生ゴミで、生ゴミの中にダイヤモンドがあるだけよ」と言っているのと同じことになります。そうじゃありません。私を神殿にして神の霊が住んでいらっしゃるのですから、私は聖い存在なのです。おー、内におられるキリストの御霊、聖霊を認め、歓迎し、そして従いましょう。

2.御霊による完成

 ガラテヤ1:3「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」ここにも、foolishということばが使われています。「あなたがたは馬鹿じゃないのか?御霊で始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか?」となります。関西弁なら「あんたら、アホとちやうか・・・」ということです。偽兄弟たちは、福音を信じただけではダメで、モーセの律法や儀式を守らなければならないと迷わせました。ガラテヤの人たちはイエス様を信じて、義とされ、御霊を受けました。その後で、律法を守らなければならないとなると、それは、肉で仕上げるということです。現代の教会も信じて、洗礼を受けた後は、「○○を守らなければならない」と言います。教会によっては「信徒必携」という、生徒手帳に似たものもあります。おそらく、こういうことが書かれていると思います。洗礼を受けたということは、当教会の教会員になることです。第一、聖書に安息日を守れと書いてあるので、聖日礼拝を守ってください。水曜日の祈祷会に出席できるように努力してください。第二、聖書には十分の一献金も書いてありますので、収入の十分の一を捧げてください。これは神様のものだとマラキ書に書いてあります。でも、必ず祝福されますよ。第三、聖書をお読んでお祈りしましょう。聖書に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る1つ1つのことばによる」と書いてあるからです。みことばは心のごはんですよ。第四、クリスチャンは伝道すべきです。聖書に「全世界に出ていって、福音を宣べ伝えよ」と書いてあるからです。第五、教会の指導者に従ってください。聖書に「指導者たちの言うこと聞き、また服従しなさい」(ヘブル13:14)と書いてあるからです。第六、不品行や性的罪は犯さないようにしましょう。今までの知らないで犯した罪は赦されましたが、これからはちゃんと罪を悔い改め、罪から離れましょう。

 言っていることは、間違いないと思います。なぜなら、聖書が言っていることだからです。では、新約聖書の時代の人たちが、ユダヤ人と同じ律法主義にならないかと聞かれたら、立派になるんです。彼らは、「確かに救われたのはイエス様の十字架の恵みである、アーメン」と100%信じています。でも、いざ、信仰生活となると、聖書の教えや戒めを持ってきます。聖書の教えや戒めは間違っていません。でも、それを恵みではなく、律法にしてしまうのです。ひょっとしたら、無意識かもしれませんし、あるいは「弟子訓練」という名目かもしれません。こういう教会、いっぱいあります。福音派、ペンテコステ派は真面目ですからねー、結構、律法主義的です。日本基督教団はそうでもないかもしれません。あんまり戒律的ではないし、酒やタバコもOKです。なぜ、新約聖書が律法になるのでしょうか?Ⅱコリント3章にそのことが解説されています。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」おそらく、こういうことになると思います。聖書から戒めや教えを語るとき、それは石の板に書かれた文字と同じになります。それを聞く人は、イスラエルの人たちのように心におおいがかけられ、鈍くなります。つまり、内側にある肉の性質が反応し、「ああ、しなければならないことが多くて大変だなー、これは」と苦しくなります。そして、文字が人を殺すように、熱心さや自由を奪います。私はあるところにアルバイトに行っています。毎日、職員たちのミィーティングがあります。近くで仕事をしていると、課長のような人が、ダメ直し的なことを口うるさく言っているのが聞こえます。「間違ってはいけない。事故を起こしてはいけない」。言っていることは正しいのです。でも、おそらく、聞いて人たちは右から左に聞き受け流しているんじゃないかと思います。一緒に仕事をしている人が、「鈴木さんも同じように説教しているんでしょう」と言います。私は「いや、いや、違うよ。私の場合は励ましだよ」と答えています。私は「人間は、お説教を食らうと、耳と閉ざし、ついでに心も閉ざし、最後にやる気をなくしてしまう」のではないかと思います。

 パウロは「私たちは文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです」と言いました。そして、3:16、17「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」と書いてあります。つまりこういうことなんです。私たちはイエス様を信じたときに新しく生まれ、聖霊が宿りました。新しい契約とは、外側ではなく、内側から働くものです。私たちが霊的に生まれてから、聖霊が私たちの内に神の律法を語ってくださるのです。それだけではありません。主の御霊である聖霊が、その人を生かし、律法を守れるようにしてくださる。それは律法ではなく、恵みであり特権となります。自分の意思や力や頑張りでやるのではなく、聖霊が私の内から溢れてきて、聖霊ご自身がなさってくださる。聖霊こそが私たちの源であり、同時に、私たちの手となり、足となり、口となってくださる。これは私がやっているのか、聖霊様がやっているのかわからなくなる。もちろん、私たちは土の器ですから、疲れるときもあります。そのときは休んだら良いでしょう。でも、義務感でやっているのではなく、自主的ですから、喜びがあります。さっきあげた6つの課題。聖書を読み、祈り、礼拝することは苦痛でしょうか?そうじゃないですね。愛する神様との交わりは楽しいことであり、特権です。神様と交わると結果的に、霊肉共に強められ、すばらしい導きも得られます。伝道や証しも義務感でやると辛くなりますが、私の救い主をぜひ、知っていただきたい。「この方は私の命、私の喜びです」と自慢すれば、それが証しになります。初代教会の弟子たちは「やめろ!」と言われても、やめなかった。それは、外からの命令ではなく、内側から主の命が溢れてきたからです。

どうぞ、奉仕や献金も律法にしないでください。それらは、主の恵みであり、特権なのです。神様があなたを祝福し、神様があなたを用いてくださる。奉仕の主役は神様で、私たちは管(チャンネル)なんです。神様が私たちを通して働きたいと願っている。神様が私たちを通して語りたいと願っている。神様が私たちをとおして隣人を愛したいと願っている。神様が私たちを通して人々を癒したいと願っている。だから、もし何か1つでも良いことができたならば、それは私の力ではなく、神様がなさったことです。栄光は私ではなく、神様にあります。もし、私が頑張ったのなら、私が感謝されないと気分が悪いですね。でも、私におられる神様がなさったのなら、人から別に感謝されなくても良いです。だけど、私自身は「ああ、いつも忠実に働いておられる聖霊様、感謝します」と祈れば良いですね。みなさん、これが御霊で始めたことを、御霊で完成するということなんです。昔の口語訳では「仕上げる」と言いました。私たちは御霊で始めたことを、肉で仕上げてはいけません。御霊で仕上げるのです。第一のポイントで、聖霊に満たされる経験があると申し上げました。確かにイエス様を信じたら、聖霊が内側に与えられます。これは恵みです。でも、聖霊に満たされ、力あるミニストリーができるようになるためにはどうしたら良いのでしょうか?「ああ、そういうような体験が欲しい」と、東西南北と私のように巡り歩く人もいるでしょう。ある人は、「過去の罪を全部、悔い改めなければならない」と言います。またある人は、「断食して祈り、待ち望まなければならない」と言います。でも、それらはやはり肉で仕上げることと同じです。あるクリスチャンたちは、聖霊に満たされるために、一生懸命祈り、一生懸命、何かをしなければならないと努力しています。しかし、それは肉で仕上げていることと同じです。では、どうしたら良いのでしょうか?ただ求めれば良いのです。その後は、満たされたと信じれば良いのです。もちろん、聖霊の賜物が開かれるためにはきっかけも必要です。だれかから、ちょんと突っつかれることも必要かもしれません。でも、最終的に、それは信仰であり恵みです。満たすのは自分ではなく、あちら様(神様)だからです。

ルカ11:13にすばらしい約束があります。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」事実はこうです。私たちが満たされたいと願っている以上に、神様の方が満たしたいと願っているのです。なぜなら、私たちの信仰生活は、聖霊なしはできないからです。人を愛することも、祈ることも、聖書を読むことも、みんな聖霊が必要です。伝道やミニストリーもみんな聖霊の力です。どうぞ、聖霊を求めましょう。聖霊に満たされるなら、肉の働きは消え、聖なる歩みが少しずつ、実として現われてきます。その実も、自分ではなく、神様が結ばせてくださいます。私たちのなすべき分は、ただイエス様を信頼して、従って行くということです。アーメン。