2015.4.26「教会とは エペソ2:19-22」

 「教会」あるいはchurchは、聖書的な呼び名ではありません。これは紀元後4世紀、コンタンティヌス帝がキリスト教をローマ国教としたことに由来しています。彼らにとって「教会」は、建物や制度、聖職者の組織をさしていました。しかし、新約聖書ではエクレーシアと言って、「キリスト者の集まり」という意味です。ウォッチマンニーはいみじくも「召会(召された会)」と呼んでいます。しかし、教会という呼び名が2000年間も定着していますので、これでいくしかありません。私たちは呼び名はともかく、「教会というのは聖書的にこういうものなんだ」という正しい理解が必要です。使徒パウロは、教会を家族、神殿、からだと3つに例えて説明しています。

1.神の家族

エペソ2:19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」家族という概念の中にどのようなものが含まれているでしょうか?一般的に家族というのは血縁で構成されており、そこには父と母、兄弟姉妹がいます。おじいちゃんやおばあちゃんもいるでしょう。また、家族というのはその家で生まれたという一点が重要であり、能力の有無とか、障害のあるないは関係ありません。無条件で愛され、養育され、保護されることが求められます。残念ながら、この地上には完全な家族はありません。生育史において色んな傷を受けます。そのため、「神の家族へようこそ!」と言われても、「大丈夫かな?怖いなー」と疑ってしまいます。私も洗礼を受けた直後から、「鈴木兄弟」と呼ばれ、熱烈な歓迎を受けました。しかし、何年間か教会生活を送って行くにつれ、自分と合わない人がいることを発見しました。表だって喧嘩はしませんが、その人を避けたり、口をきかないということがありました。私たちは生まれ育った家庭環境やこれまで会った人たちのデーターが刷り込まれています。そこには、家族も含めて人々から受けたいやな記憶があります。そのため、教会でそういう人と似た人に会った場合、どうしても先入観で見てしまいます。「この人はこういう人なんだ」と短期間で決めつけてしまうことはないでしょうか?でも、神さまは私たちの心の傷を癒すため、あるいは私たちを聖めるために、気の合わない人たちを神の家族に置いているということも事実です。

 そこで、私たちは「神の家族とはこういうものである」ということを聖書から学ぶ必要があります。昔、このようなコマーシャルがありました。「戸締り用心、火の用心」と歌ったあと、「人類はみな兄弟!」と言いました。もし、人類がみな兄弟だったなら、戸締り用心、火の用心は必要ありません。ちなみに、火災の50%以上は放火だそうです。肉体的に生まれたままの状態では罪がありますし、民族、身分、性格の壁などを乗り越えることができません。パウロは「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」と言っています。「こいういうわけで」の前を見ますと、いくつかの根拠が記されています。まず、私たちは罪の中に死んでいたのにキリストの恵みによって生かされたということです。また、私たちは良い行ないをするように、キリストにあって造られた存在です。その次に問題なのは、異邦人とイスラエルに代表される民族間の壁であります。また、お互いが持っている敵意というものがあります。民族間の壁とお互いが持っている敵意がキリストの十字架によって葬り去られました。エペソ2:18「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」ここに重要なポイントが記されています。私たちが人間同士お互いに近づく前になすべきことがあります。それは、キリストによって、御霊において、父のみもとに近づくということです。「キリストによって」とは、十字架の贖いです。また、「御霊において」とは御霊による新生です。それらのことによって、私たち父なる神様のところに近づくことができるのです。私たちは父なる神さまを持っていることにより、神の家族であり、1つになることができるのです。これはどういうことでしょうか?私たちは地上の父と母から肉体的に誕生しました。同時に私たちは罪の中で失われていた存在でした。しかし、愛なる神さまは御子イエスを与えて、私たちを買い戻してくださったのです。私たちはイエス様を信じたとき、霊的に生まれ変わり、御霊によって「アバ父よ」と呼ぶことができるようになりました。しかし、横を見ると自分と同じようにイエス様を信じて、霊的に生まれ変わった人たちがいます。その人たちが兄弟姉妹であり、神の家族なのです。私たちは永遠の滅びから救われ、永遠の御国で共に暮らす運命共同体ということができます。そのことが分かると、人種、国籍、性格、考え方、好みの違いというものが二次的なものになります。私たちは、かつては罪人でしたが、今は同じ神さまを父と仰ぐ、神の子どもであり神の家族なのです。

 神の家族として、最も重要な戒めとは何なのでしょうか?イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12)と言われました。ヨハネもこのように言いました。Ⅰヨハネ4:7「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」ですから、神の家族である教会でもっとも大切な戒めは「互いに愛し合う」ということです。この愛は、アガペーの愛であり、人間の愛ではありません。人間の愛は好き嫌いのレベルです。しかし、アガペーの愛は無条件の愛であり、神さましか持っていない愛です。ですから、私たちはたえず神さまからアガペーの愛をいただいて、互いに愛し合うのです。私たちは罪の中にいたことがあるので、どうしても「この人のここがヘン」「この人のここが赦せない」とさばいてしまいます。それはアガペーの愛と反対のものです。私たちは天国に行くまで不完全であり、工事中です。工事現場にかかっている看板のように、「工事中、ご迷惑をおかけします」と、お互いに頭を下げている存在です。つまり、教会は自ら愛を学ぶところであって、人から愛を要求するところではありません。どうぞ、イエス様が私たちを愛されたように、互いに愛し合いましょう。

2.聖霊の宮

エペソ2:20-22「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」神の家族で最も大切なことは「互いに愛し合う」ということでした。教会はそれだけで良さそうなのですが、神の家族では表現できないものがあります。それはともに建てられ、神の御住まいになるということです。Ⅰペテロ1:5「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」とあるように、私たち一人ひとりは生ける石です。普通の石は人格がありませんが、生ける石は人格もあり感覚もあります。そういう石が組み合わされて、神の御住まい、神殿になるということです。旧約聖書では神殿は山から石を切り出して、加工して積み上げました。一方、新約の私たちは生ける石ですが、とがった石もあれば、ざらざらした石もあります。やたら大きな石もあれば、長細い石もあるでしょう。そのままでは、神殿の石として使用することができません。そのために、削って形を整える必要があります。その後、生ける石が互いに組み合わされて神殿となって、そこに聖霊なる神さまが住んでくださるのです。エペソ人への手紙を読むと分かりますが、神さまの永遠の計画は、私たちの中に住むということでした。旧約聖書では石でできた神殿でしたが、新約聖書において神さまは、生ける石が組み合わされて、その中にご自分が住むことを願っておられます。

 この建物は、どのような構造になっているでしょうか?パウロは、「礎石はキリスト・イエスご自身である」と言っています。Ⅰペテロ2:7「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のです。礎石の上には建物の土台が必要です。パウロは、「使徒と預言者という土台の上に建てられており」と言っています。使徒と預言者は、聖書のみことばと言い換えることができます。当教会は誤りない神のみことば聖書に土台する教会です。ところで、生ける石を取り扱う専門家がいます。エペソ4:11-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。生ける石を取り扱う専門家を五職と呼んでいます。まず、石を現地から調達する人は伝道者です。伝道者は自らも伝道し、聖徒たちにも伝道するように勧めます。次には石を形作る人が必要です。それは、教師の役目です。教師はみことばをノミにして出っ張ったところを削ります。カキーン、生ける石は「痛い!」と叫びます。教師は自らも教えますが、互いに教え合うように指導します。その次は、石を積み重ねる仕事があります。これは牧師の役目です。牧師は自らも牧会しますが、聖徒たちにも互いに牧会するように勧めます。さて、建物を建てるときは、監督がいるものです。監督とは建築者と品質管理者です。建築者は建物全体のことを良く知っています。建物が設計図通り建てられているか見るのは使徒の役目です。使徒は教会の永遠の目的を知って、自らも教会を建て、聖徒たちにも教会を建てさせます。最後は、品質管理の監督です。これは預言者の役目です。預言者は教会が罪から離れ、神のみこころに従っているかどうかチェックします。自らも預言しますが、聖徒たちにも預言することを勧めます。

十数年前から、セルチャーチ・ムーブメントが起こりました。その少し後、ハウスチャーチ・ムーブメントが起こりました。彼らが良く引用する聖句はマタイ18:20です。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」彼らと言うと他人事になりますが、私も片足を突っ込んでいます。このみことばから、「二人三人が教会の最小単位であり、二人三人でも教会なんだ」という考えが生まれます。そのため、ハウスチャーチの人たちは、少人数でも教会なのだからと、洗礼や聖餐を行ないます。それを見て、伝統的な教会は「聖礼典は牧師がすべきでしょう!」と反対します。しかし、聖書には「牧師が聖礼典をすべきだ」とは書いていないのでどちらも間違いではありません。ただし、「二人三人の集まりが果たして教会と言えるだろうか?」ということです。別な言い方をすると、生ける石がたった十個集まって、神殿ができるかということです。部屋なら可能ですが、建物は無理です。建物はいろんなパーツが必要であり、一部屋しかない建物はさびしいです。玄関、リビング、台所、寝室、子ども部屋、物置…それらが集まって一個の建物になります。ですから、「セルが教会だ」とか、「ハウスチャーチが教会だ」と言う人もいますが、聖書的にはそれらを部屋と呼ぶべきではないかと思います。部屋と部屋が組み合わさって、完全な建物になるのです。しかし、彼らが教会を烏合の衆ではなく、命のつながりを強調したことはすばらしいことです。

 聖書を見て分かりますが、神さまは聖霊によって、私たち個人の中におられます。同時に、私たちの間、つまり共同体の中にもおられます。Ⅰコリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」「あなたがた」と、複数形になっています。また、「宿っておられる」とは、英語の詳訳聖書は、permanent dwelling in you「永続的に住んでくださる」と訳しています。私たちの中に住むことが神さまの永遠の目的でした。でも、それは天国に行ってからではなく、この地上の教会で実現しているということは何とすばらしいことでしょう。私たちは教会を単なる集まりと考えてはいけません。私たちの間に神さまが住んでいてくださるからです。やがてこの集まりは、黙示録に記されている天のエルサレムに合流し、組み合わされるでしょう。世の中にはいろんな組織や団体があります。教会は、学校、企業、政治、サークル、市民運動、NPO、宗教団体などとは違います。どこが違うのでしょう?三位一体の神さまが私たちの中に住んでいてくださるということです。神さまが、クリスチャンの集まりをご自分の住まいとしてくださるとは何と言う特権でしょう。ハレルヤ!私たちは神の神殿なのです。

3.キリストのからだ

エペソ1:20-23「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」教会が神の家族であるとき、私たちは互いに愛し合うことを第一にするでしょう。また、教会が聖霊の宮であるとき、私たちが互いに建て上げ、整えられることを第一にするでしょう。でも、これらの2つだでは、教会が自分自身のためだけにしか存在していません。3つ目の概念は、教会はキリストのからだであるということです。もし、教会がキリストのからだであることを知るならば、教会が何のためにこの世に存在するか分かるでしょう。ただ今読んだ、エペソ人への手紙1章から少し考えてみたいと思います。テキストには「復活したキリストはどのような存在ですか?」という質問があります。みことばから、キリストは父なる神の座に着いておられ、すべての支配、権威、権力、主権の上にあります。また、キリストはいっさいのものの上に立つかしらであります。次の質問は「教会(私たち)のかしらはだれですか?」とあります。教会のかしらは、主イエス・キリストであります。教会の歴史の中で、教会のかしら、首長はだれかという論争がありました。教会のかしらは教皇でも、女王でもありません。また、聖職者や長老、教団でもありません。教会のかしらはイエス・キリストであります。教会はすぐこの世と同じような組織に逆戻りする傾向があります。なぜなら、肉は目に見えるかしらを求めてしまうからです。

 もし、キリストがかしらであるならば、私たち教会は何なのでしょうか?これはものすごく重要な質問です。キリストが教会のかしらであることは間違いありません。では、キリストのからだとは何なのでしょうか?そうです。私たち教会がキリストのからだなのです。イエス様は復活、昇天し、罪の贖いを果たしたはずです。でも、イエス様にはやり残した使命があります。それを教会というご自身のからだでなさりたいのです。Ⅰコリント12章には、私たち一人一人はからだの各器官であると書かれています。手、足、目、口、耳、頭などがあります。弱い器官もあれば、強い器官もあるでしょう。目立つ器官もあれば、あまり目立たない器官もあるでしょう。パウロはそういうからだの器官は、御霊が与えてくださった霊的賜物であると言っています。それは自分の意志ではなく、御霊の主権で一人一人に与えられています。その目的は全体の益になるためです。また、それはかつて2000年前、イエス様が地上でおられたときのみわざを教会が継続して行うためでもあります。私たちはイエス様が再び地上に戻って来られるまで、この世に向かって、イエス様のからだとしてなすべき使命があるのです。テキストにこのようにまとめられています。キリストは復活・昇天した後、すべてを治めるかしらになられました。では、キリストのからだはどこにあるのでしょうか?それは、イエス様を信じて生まれ変わった人たちこそが、キリストのからだなのです。かつてイエス様がこの地上でミニストリーをされた同じことを、からだである教会が継続して行うように求められています。「いっさいのものをいっさいのものによって満たす」とは、この世のすべての分野にということです。神さまはご自分の良きものを、教会という器を通して、ビジネス、政治、芸術、医療、教育などすべての分野に満たしたいのです。だから、教会はこの世から孤立せず、むしろこの世に派遣されていく、御国の大臣、ミニスターなのです。アーメン。

キリストのからだの器官として大事なこととは何でしょう?エペソ4:15-16「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」もし、私たちの各器官が自分勝手に動いたらどうなるでしょうか?右手と左手が別々に動き、右足と左足が別々に動いたならどうなるでしょうか?もし、そういうロボットを作るならば、ポンコツ・ロボットです。意外にも、教会はポンコツなところがあります。なかなか協力しあって、活動するということが困難です。私たちはだれに聞くべきなのでしょうか?私たちのからだの各器官はだれの命令で動いているのでしょうか?そうです。脳であり、かしらです。教会のかしらはイエス・キリストであり、イエス・キリストがすべての司令官であることを知るべきです。だから、各器官はキリストに聞くべきです。「キリストに聞け!」これを教会は忘れてはいけません。役員会でも教会総会でも、「キリストに聞け!」であります。各器官にとって最も重要なことは、キリストに聞いて、組み合わされ、結び合わされることです。サタンはこのことが一番嫌いです。だから、教会に分裂を与え、一致しないように邪魔しています。そして、各器官が孤立して行うので、小さな働きしかできません。テキストには「私たちが建てられていくために、最も必要なものは何ですか?」とあります。それは、他の器官に対する互いの愛です。私たちの器官を見ても分かりますが、それぞれ形が違います。働きも違います。得意なところもありますが、不得意なところもあります。同じように、私たちが隣人を見たとき、形や働きや性格や好み、考え方も違います。でも、共通しているのは同じ御霊をいただき、同じ御霊によって生かされているということです。同じ神からのいのちをいただいているということです。ハレルヤ!「私はいやだ、勝手にやる」と、1つの器官がからだから離れるならどうなるでしょう?血液も神経も届かなくなり死んでしまいます。同じように、孤立して、信仰生活を続けることは不可能です。もちろん救いがあるのですから天国は生けるでしょう。でも、キリストの働きを、生き生きとこの地上で行うことは不可能です。私たちは、互いにコミュニケーションを取り合い、働きの違うものどうしが協力し合い、キリストにあって1つであるという認識が必要です。お互いに、違いがあること尊重しましょう。お互いに、組み合わされるべき存在であることを認めましょう。