2008.05.04 信仰の訓練 Ⅰテモテ4:6-11

ゴールデンウィークの半ばですが、どこも混んでいるようです 。空いているのは教会だけ、ということはないでしょう。上海では 、礼拝堂に入りきれないくらい人が集まっており、ある教会では洗礼 は8ヶ月待ちだそうです。洗礼を受けるためには勉強会に出席し 、試験を合格しなければならないからです。その点 、当教会は楽ですね。1週間前でも大丈夫です。でも 、準備会はちゃんとしたいと思っています。洗礼は受けたけれど 、準備会が、まだ終えられていない方々が何名かおられるようです 。ま、なんとかしたいと思っております。きょうは「信仰の訓練 」と題してメッセージしますが、私たちの信仰はそのままにしておく と、弱って使い物にならなくなります。この筋肉と同じであります 。信仰を鍛えると、偉大なことが信じられるようになり 、すばらしい御わざがたくさん起こります。なぜなら 、神様は私たちの信仰を通して働かれるからです。

1.敬虔のための訓練

 Ⅱテモテ4:8「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが 、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は 、すべてに有益です」。世の人たちはもっぱら、肉体の健康、肉体の鍛錬のことばかり考え ています。健康器具とか健康サプリは数え切れないほどたくさんあり ます。もちろん、肉体の訓練も大切ですが、それ以上に大切なものが あります。パウロは、「むしろ、敬虔のために自分を訓練しなさい 。なぜなら、今のいのちと未来のいのちに関係するからだ 」と言っています。つまり、外なる人である肉体はこの世限りのもの ですが、内なる人である霊と魂は永遠のものだからです。Ⅱコリント4:16「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにさ れています」。私も50代半ばになりました。先日、家内の免許証を見る機会があり ましたが、思わず「お互い年をとったねー」と言ってしまいました 。私も、若い頃はいくら暑くても平気でしたが、先週は 、まだ夏にもなっていないのに、暑くてたまりませんでした 。俳優のハリソン・フォードは65才ですが、インディ ・ジョーンズⅣに、また出演しています。たいした若さであります 。私もあと10年は大丈夫ですね。でも、6人目が生まれたらどうし ようかと心配です。でも、大切なのは肉体よりも、内なる人でありま す。パウロは、エペソ3:16「どうか父が・・・あなたがたの内なる人を強くして くださいますように」と祈っています。敬虔のための訓練は、内なる人の訓練とイコールだ ということです。

 では、敬虔になるとはどういうことでしょうか。ある人は、 「敬虔とは、神を恐れて、罪を犯さず、きよい生活をすることだ 」と言うでしょう。しかし、テキストには「神の約束を握り 、信仰をもって生きることだ」と書かれています。昔から敬虔なクリ スチャンとは、「酒を飲まず、タバコもすわない。女性遊びや 、ギャンブルなんかとんでもない」と言われてきました。しかし、ヘブル11:6に「信仰がなければ、神によろこばれることはできま せん」と書いてあります。神の戒めを守り、罪を犯さないことはすばらしい ことです。でも、神様が喜ばれる人とは、信仰をもって神様に求める 人だということです。旧訳聖書にヤコブという人物が出てきます 。彼は兄をだまして長男の権利を奪い取ったひどい人物でした 。創世記32章で、ヤコブは御使いと戦い、「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と言いました。それだけ、執拗に神様に求めました 。ヤコブは人間的には問題がありましたが、主はヤコブを愛されまし た。新約聖書ではペテロを典型的な例としてあげることができます 。ペテロは自分はイエス様の一番弟子だと思っていましたが 、イエス様を3度も知らないと言いました。しかし 、ペンテコステの日、ペテロの説教で3000人が救われました 。ペテロは欠点がありましたが、信仰の人でした。イエス様は信仰の あるペテロをとても愛しました。ヘブル11章をみますと 、信仰の列伝と言いましょうか、敬虔な人たちの名前が列挙されてい ます。しかし、ほとんどの人は失敗したことがあります 。ノアはぶどう酒を飲んで裸で寝ているところを息子たちに見られま した。アブラハムは自分の妻を妹だと2度も偽りました。他には 、女性に弱かったサムソンも入っているし、姦淫と殺人を犯したダビ デも入っています。彼らを見たら、とても敬虔な人とは思えないとこ ろがあります。でも、聖書は「信仰によって」「信仰によって 」と度々書いてあります。神様は信仰をもって御自身に求めてくる人 が好きなのであります。昔、羽鳥明という先生の説教を聞いたことが あります。ある人に二人の息子がいました。長男は頭が良くて有名な 大学に入りました。次男は高校中退で、遊んでばかりいました 。長男は大変優秀でまじめでしたけれど、「お父さん 」とひとことも言ったことがない。しかし、次男の方は「親父 、お金くれ」とか「親父、疲れたろう、肩もんでやるよ 」と親しく交わる。果たして、父親は、どちらの方を愛しやすいだろ うかというお話でした。

ホーム・ページに敬虔とは、どういうことかをあるクリスチャンが書 いていました。私が肩身が狭いと思うのも、自分が一般的なイメージ としての敬虔にほど遠いキリスト者だからです。要するにクリスチャ ンであるからといって、何も特別な人物ではなく、特別な生き方をし ているわけではないのです。ごく普通の人間が、日曜日ごとに集まっ て、一週間のための生きる力を求めて礼拝し、礼拝が終われば 、それぞれの生活に戻っていきます。ただ一つ言えるとすれば、 「こんなわたしのためにイエス・キリストがこの世においでになり 、十字架の上で死んでくださった。」ということを信じようとしてい るのが、キリスト者なのだと思います。・・・言いたいことはわかり ます。クリスチャンは確かに恵みによって救われましたが 、世の人と同じではありません。恵みによってキリストに贖われたら 、今度は恵みによってキリストに似た者と変えられていかなければな りません。エディ・レオ師が4年前に来られたとき、 「敬虔とはイエス様のようになることである」と以下のようにメッセ ージして下さいました。今日の教会の目標は何でしょうか 。大きくなること、あるいは栄えることです。「イエス様を信じなさ い。あなたはイエス様を信じるなら、お金持ちになりますよ」。 「イエス様を信じなさい。あなたの問題は自動的に解消されますよ 」。「あなたは人生を楽しめますよ」。「すばらしい人生が待ってい ますよ」。このような福音を語ります。しかし、イエス様のようにな るというところにフォーカスが向けられていません 。イエス様のようになるという目標を持っているでしょうか 。みなさんのセルグループはどうでしょうか。あなたのセルグループ は「イエス様のようになる」ということに焦点を当てているでしょう か。もし、私たちがイエス様になるということに焦点を合わせるなら ば、リバイバルが起こるでしょう。そして、そのリバイバルは消えて なくなることはありません。だから、イエス様のようになりましょう 。アーメンです。

では、イエス様のようになるとはどういう意味でしょうか 。イエス様のようになるとは、水の上を歩くことでしょうか ?イエス様のようになるとは、髪の毛を長くすることでしょうか ?ある人は、「イエス様のようになるとは、イエス様を真似すること だ」と言います。しかし、ノンクリスチャンでも、イエス様を真似す ることはできます。インドのガンジーでさえも、イエス様を真似しま した。彼は聖書を読み、イエス様を真似はしましたが 、それではキリスト教ではありません。もし、私がイエス様を真似す るだけならば、まだ私が自分の人生を生きているということになりま す。もし、私のこのエゴが生きているならば、自分で自分の人生を生 きている人のしるしは何でしょうか。自己というものは 、たえず他からの利益を得ようとします。自己はたえず 、何かを獲得しようとします。時に、私たちは、霊的なことをするか もしれないが、実際のところ、「私は何かを獲得したい 、利益を得たいという」ことはないでしょうか。私たちは祈るのは 、何故でしょうか?祝福されたいからです。聖書を読むのは 、成功者になりたいからです。他の人たちに良いことをします 。それは何故でしょうか?その人たちから良いことをしてもらいたい からです。私たちは人々に仕えます。何故でしょう ?その人たちは私のビジネスパートナーとなってくれるためです 。祈ること、聖書を読むこと、他の人を愛することは悪いことではあ りません。しかし、私たちの動機は何かということです。もし 、それが自己から生じているならば、他からいつも何かを利益を得よ うとします。だから、それを自己中心と言うことになります。

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました 。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きてお られるのです。いま私が、この世に生きているのは 、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰 によっているのです。」本当の敬虔とは、肉の働きを殺すということです。イエス様のようで ない品性を十字架につけて殺すということです。それによってイエス 様の命、イエス様の品性が私たちを通して現われてくるのです 。これが敬虔、これが霊的な生活です。イエス様のようでない品性を すべて殺すと、イエス様の品性だけが現されるようになります 。私がどんどん、どんどん減っていく。そして、私の内におられるイ エス様がどんどん、どんどん溢れていく。これが、完全になることの プロセスです。完全になるというのは、私たちのこの肉が大きくなる ことではなく、イエス様が私のうちに現れてくることです 。第一の結論ですが、敬虔のための訓練とは、キリストに似た者とな るということです。そのためには、肉に死んで、キリストご自身に満 たされていくということです。

2.みことばで祈る

 みことばで祈るとはどういうことでしょうか。テキストを見ますと 、16C、フランスのマダム・ガイオンという女性が初めて実践しま した。彼女はカトリックの人でしたが、みことばで祈ることをライフ スタイルにしました。すると、文字通り、神の栄光に満たされました 。しかし、当時の教会から、異端扱いされ、彼女が書いた『イエス ・キリストの深さを体験する』という本も焼かれました。彼女は 、迫害と投獄の間も、神の栄光と喜びに満たされて 、ついにこの世を去りました。彼女の本はどうなったのでしょうか ?彼女の本が町の人たちに配られ、ついには、町中の人々がリバイバ ルを体験しました。その本は、後になって、クエーカー教徒やジョン ・ウェスレー、ウォッチマンニーなどに影響を与えました。では 、みことばで祈るとはどういうことでしょうか?まず 、テキストには詩篇23が例にあげられています。これをもし 、みことばで祈るとしたらこのようになるのではないでしょうか。 「主よ、あなたは私の羊飼いです。だから、私には 、乏しいことがありません。これまでもそうでしたが 、これからもきっと必要を満たしてくださると信じます。あなたは 、私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主よ 、あなたのもとで、もっとリラックスさせてください 。あなたは私のたましいを生き返らせてくださいます。これまで 、私を何度も生かしてくださりありがとうございます 。御名のために、私を義の道に導かれます。私が守られてきたは 、私の力ではなく、あなたの御名のゆえです。感謝します。たとい 、私が死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません 。あなたが私とともにおられるからです。あなたのむちとあなたの杖 は、私の慰めです。主よ、あなたの訓練を喜びますから 、あなたの弟子にしてください。あなたは、私の敵の前で 、私のために食事を整え、私の頭に油をそそいでくださいます 。私の杯は、あふれています。おお、私の貧乏人根性を癒してくださ い。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが 、私を追って来るでしょう。ハレルヤ!私は、いつまでも、主よ 、あなたの家に住まいましょう。御国に、私のためにすばらしいマン ションが用意されていることを感謝します。」

 1節1節ずつ、イメージしながらやればもっと良いでしょう 。テキストには詩篇42,43篇、そして121篇がのっています 。みことばを自分のことばに変えて、祈りのように 、祈っていくとどうでしょう。するとまるで、父なる神様が 、私に語っているような感じがします。私たちは神様の臨在を感じな ら、みことばを宣言することができます。神様が私にいろんな約束や 励ましをもって語ってくださいます。そして、私自身が神様に信仰を もって応答していくのです。すると、みことばを通して 、神様のご人格、神様のご性質と出会うことができます。そのとき 、私たちは「タッチング・ヘブン・チェンジング」、つまり、 「天国に触れて、私たちの心が変えられる」のです。ハレルヤ !私はみことばを瞑想することは、強調してきましたが、 「みことばで祈る」というのは、はじめてです。そのためには 、もっとイメージを働かせ、自分の環境に神様を歓迎する必要があり ます。また、そのことは詩篇42,43篇のように 、自分の魂に語りかけることにもなります。うまくいかないと 、私たちも詩篇の記者のように、鬱的になります。「わが魂よ。なぜ、お前は絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れて いるのか。神を待ち望めよ。私はなおも神をほめたたえるぞ!」みたいになります。以前、自分自身との会話というものは 、どうしても過去の否定的な事柄に集中しがちだということを申し上 げました。しかし、みことばで祈ると、すぐ神様の臨在の中に入るこ とができます。すると、神様の真実が見えるようになります 。それを続けていると、「ああ、この現実も神様の御手の中にあるに 違いない。主がきっと、なんとかしてくださる。ハレルヤ! 」と希望がわいてきます。どうも、自分自身の中には 、希望を見つけるような要素がないようです。やはり 、みことばを見ていくと、触発されて、あとから希望が出てきます 。一種の化学変化であります。みことばと祈りを混ぜると 、希望が発生します。最近は、硫化水素で自殺を計る何十人もいます 。何と何を混ぜるかわかりませんが、「混ぜるな、危険」です 。でも、みことばと祈りを混ぜると、希望が発生します 。私たちはみことばと祈りを混ぜることにしましょう。

 先週は新年度の教会総会がありました。しかし、私自身の中に 「燃えるようなビジョンがないなー」と感じました 。当初は3年後に礼拝100名とがんばってきました。でも 、セルチャーチの学びをはじめてから、「教会は人数の多さではない 」と分かりました。今、ベン・ウォン師のもとでコーチングを学んで います。私もある若い先生をコーチしています。彼は教会成長の学び を終えたばかりで、教会のビジョンを私に見せてくれました 。グラフが書いてあり、あと3年後には78名の礼拝 、5年後には100名を超えています。今、まだ12名しか集まって いないのに、「えー?」と思いました。彼はチョー ・ヨンギ先生に傾倒しており、「夢をもって告白すればそうなる 」と言います。私は心の中で「懐かしいなー、私もかつてそうだった んだよな。でも、そうならなかったんだよな」と思いました 。情熱的な若い先生をうらやましいと思います。私は数を追いかける のをやめてから、何を具体的に求めたら良いかわからなくなりました 。自分の野望ではなく、神様のビジョンにフォーカスしていくという ことはそう易しいことではありません。ベン・ウォン先生から、 「大切なのは実ではなく、根っこだ」となんべんも聞かされています 。実というのは人数とか大きさであります。でも、それよりも大切な のは根っこ、つまり価値感だということです。これまでの牧師は会社 を経営するように、教会を牧会してきました。大きな会堂を建て 、大勢の人が集う教会を目指してきました。それが成功であり 、自己目的の達成でした。でも、会社の経営と神の教会が同じわけが ありません。業績を求めた結果、教会分裂、家庭の崩壊 、ストレスから来るバーンアウトや不祥事が起こり 、たくさんの人が傷を受けました。やっていることは良い事かもしれ ないけれど、動機がどうなのか?それは神の価値感と一致しているの だろうか?と問われるようになりました。私自身も内側において 、古い価値感が崩壊し、新しい価値感に入れ替わっているところです 。パソコンで言うと、まだ、インストールが終わっていない。95 %くらいできているけど、あと5%くらいです。あともう少しです。

 ですから、数の目標やビジョンを掲げる前に、絶対的なものがあるは ずです。それは、まず、各自がキリストに似た者となるということで す。新約聖書において、キリストの似姿に変えられるというのは 、最も大切な目標の1つです。自我に死んでキリストに生きるという 、敬虔のための訓練です。さらにそのことができるようになるため 、「みことばの祈り」があるということを学びました。もし 、私たちがもっと父なる神様とみことばを通して交わるならば 、信仰と希望が神様から与えられるのではないかと思います 。先ほどあげた、チョー・ヨンギ師の場合は、まず自分の夢やビジョ ンを掲げ、その後、「神様、これを告白しますので 、かなえてください」というところがありした。順番が逆のような気 がします。夢やビジョンは自分の中から出てくるものではなくて 、神様から与えられるものではないかと思います。それをしないで 、自分の夢やビジョンを神様に押し付けるというのは違うんじゃない かと思います。この世の成功と神の国の成功は、違います 。私たちはどうしても、祝福の量を金銭や持ち物、あるいは大きさや 人数で計ってしまうところがあります。イエス様は 「受けるより与える方が幸いである」とおっしゃいました 。ですから、より多く与える教会、より多く与えるクリスチャンがす ばらしいのであります。ベン・ウォン師もよくおっしゃっています 。自分の教会だけを見るのではなく、日本や世界の教会を見なさい 。建物の中に集まっている人だけを見るのではなく 、建物の外にいる人を見なさい。今のことだけを見るのではなく 、10年先、30年先のことを見なさい。自分たちの能力や資源を見 るのではなく、人々の必要を満たそうとする神様を見なさい 。私たちは視点を変える必要があります。みなさんも、何に対して 、フォーカスしていくべきかお考えください。イエス様が教会に与え た最大の使命は何でしょうか。それはマルコ16章であり 、マタイ28章です。全世界に出て行き、福音を宣べ伝えること 。行って、すべての国民をキリストの弟子にすることです。どうぞ 、この使命を果たすために、自分は何をすべきか、このこともお考え ください。私たちはあまりにも、「私を祝福してください 。私を祝福してください」と祈り過ぎてきました。こんどからは、 「この町の人たちを、日本の人たちを祝福してください 」と祈っていきたいと思います。