2008.05.11 神の約束への確信 マルコ4:26-29

きょうは「母の日」であります。また、教会暦では 「ペテンテコステ(聖霊降臨日)」であります。子供の代表として 、母の日ですから、「お母さんありがとうございます 」と申し上げます。お母さんなくして、この世に生まれることはでき ませんでした。また、私たちを育ててくださり感謝します。また 、ペンテコステですから、「聖霊様、私たちのところにお越しくださ り、ありがとうございます」。聖霊様なくして、新たに生まれること はできませんでした。聖霊様が私たちを慰め、導いてくださることを 感謝します。不思議なことに、肉体的な誕生とはお母さんが関係して います。そして、霊的な誕生には聖霊様が関係しています。 「誕生つながり」です。しかしながら、そういうのとは全く関係なく 、タッチングヘブン・チェンジングライフの第6回目を学びたいと思 います。

1.みことばによる癒し

 癒しは、お医者さんやお薬を通しても与えられます 。これを一般恩寵と言います。多くの場合は、お医者さんやお薬は 、元来、人間が持っている自然治癒を助けるためにあります 。もう1つの癒しは、神様による病の癒しであり、これを特別恩寵と 言います。これには大体、3種類あります。第一はとりなしの祈りで す。私たちは「○○さんの病気を癒してください」と心を合わせて祈 ります。第二は賜物による癒しです。聖霊はある人に賜物を与えて病 気を治します。来週は岡山県から中嶋先生が当教会に来られます 。最近はさらにパワーアップして色んな奇跡が起こっているようです 。どうぞ、ご期待ください。求める人には与えられます。第三は 、みことばによる癒しです。神様が下さるみことばを信仰によってと らえるときに、奇跡が起こります。韓国にチョーヨンギ牧師がおられ ますが、先生の場合はご自身も手を置いて祈りますが 、信徒が何十万人もいますので、間に合いません。先生は 、人々に神様からみことばをいただくようにメッセージして信仰を鼓 舞します。すると、人々が自分で聖書を読んで祈り 、それぞれ信仰によって癒されるのです。これが省エネで、一番 、良いかもしれません。

 マルコ福音書4章には、「種まきのたとえ」が書いてあります 。神のことばは種であり、土地とは私たちの心です 。醜くて乾いた種の内側には、偉大な可能性が隠されています 。根や、湯気、枝、葉、花が出てきます。「湯気? 」と思うかもしれませんが、豆などは室の中で発芽するとき熱が出て くるそうです。最後には、他の植物や樹木を生み出すために 、実ができます。神のことばも種であります。神様は 、御わざを行うために、私たちの心に、神のことばを蒔くことから始 められます。詩篇107:20「主はみことばを送って彼らをいやし 、その滅びの穴から彼らを助け出された」。テキストにはこのように書いてあります。「あなたはあらゆる種類 の病気から癒されたいですか?肉体、魂、霊的な病すらも癒されるこ とができるのです。あなたの心の中に神の種を植えなさい。 」とあります。では、どのような土地が良いのでしょうか ?4つの福音書には、実を結ぶための良い土地の条件がそれぞれ書い てあります。第一は、みことばを受け入れる心です。第二は 、みことばを理解する心です。第三は、みことばを喜んで行う心です 。第四は、すすんで証をする心です。道端や岩地のように頑なな心で はダメです。よく耕された柔らかい土地のような心が必要です。

 そして、神のみことばを与えてくださるのは神様です。神様は 、私たちが聖書を読んでいるとき、あるいは祈っているとき 、みことばを下さいます。しかも、突然です。「あっそうかー。 」そのみことばは、現在のあなたに必要な生けるみことばです 。これは神からの啓示であり、あなたが考え出したものではありませ ん。神様があなたにみことばを送ってくださったのです。あなたは 、そのみことばを、心の中に植えつけなければなりません。つまり 、みことばを受け入れ、理解し、喜んで行い、告白するのです 。でも、多くの場合、「非現実的だなー」と思って 、ほったらかしにします。すると、サタンがやってきて 、そのみことばを持ち去って行きます。たとえ話では 、鳥が食べてしまうと書いてあります。気がつくと 、先ほどの信仰も消えてしまっています。結構、私たちは 、神様がみことばを送っているにも関わらず、無にしていることが多 いのではないでしょうか。箴言4:20-22にすばらしい教訓が記 されています。「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ 。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て 。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする 。」このところには、「耳を傾け、目から離さず、心のうちに保て 」と書いてあります。そうするとどうなるか?「それはいのちとなり、その全身を健やかにする」のです。みことばは、全身を健やかにする。ここにも癒しのことが書 かれています。

 私は男性の更年期障害なのか、1999年頃から皮膚病になりました 。乾癬といって、アトピーと同じくらい治るのが難しい病気なようで す。しかし、2003年ぐらいに、ほとんど治りました。しかし 、昨年からまた、ぶり返してきました。前ほどではないのですが 、背中や足にけっこうできています。皮膚がむけて、赤くなり 、このままでは好きな温泉も行けません。しかし、あるとき 、いくつかのことが思い浮かびました。「皮膚とは何か?それは 、外部と内部を隔てている壁ではないか。その壁が破れているという ことは、霊的防御が破れていることだ。きっと、祈りが足りないから ではないだろうか?」アーメンだなーと思いました。その次 、イエス様の変貌山のことが思い浮かびました。イエス様が「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く輝いた」 (ルカ9:29)とあります。「おそらく、顔の肌まで白く輝いたのではないだろうか 。私も主の栄光が、一番外側の皮膚まで来るように満たされよう 」と思いました。それから、このテキストで学んだように、 「問題が起こったときこそ、主を礼拝できるチャンスにしょう。 」1箇所、1箇所にお薬を塗るとき、「主よ、感謝します。主よ 、ほめたたえます」と礼拝しています。「それからどうしよう 。皮膚にはビタミンAだ、野菜ジュースを飲もう。玄米食をまた始め よう。それから、ストレスをためないでリラックスしよう。 」そんな風に、ちょうどやっていたところです。

 でも、きょうの箇所には、「主から癒しのことばをいただけ! 」と書いてあります。マタイ8章には、イエス様がなされた多くの癒 しの御わざが記されています。ローマの百人隊長のしもべが病気でし た。イエス様が「行って、直してあげよう」とおっしゃったのに 、百人隊長はどう答えたでしょうか?「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は 、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください 。そうすれば、私のしもべは直りますから」(マタイ8:8)。彼はイエス様のことばには力があるということを知っていました 。だから、「ただおことばを下さい。そうすれば私のしもべは直りま す」と言ったのです。イエス様は「イスラエルのうちに 、こんな信仰は見たこともない」と感動され、「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われました。そのとき、百人隊長のしもべは癒されたのです 。百人隊長は、イエス様がわざわざ手をおかなくても 、おことばだけで癒されると信じていたのです。すばらしいですね 、ハレルヤ!その後、イエス様はどうしたでしょうか?マタイ8:16「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい 、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを 追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。」とあります。イエス様は、みことばで、悪霊を追い出し 、病気の人をお直しになりました。ハレルヤ。マタイ8:17に何と書いてあるでしょうか。「これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであっ た。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った 。』」アーメン。イエス様が癒しをなされたのには、理由がありました 。それは、イザヤ書53章の成就であります。イエス様は 、まさしく、十字架において、私たちの罪だけではなく 、病も負ってくださったのです。私たちはこういうみことばを読むと き、トゥーンときます。「病の問題はすでに解決されているんだ。 」ある人は、「神のみこころならば、私は癒されるでしょう 」と言います。それは、種を植えるのではなく、種を殺すことになり ます。「聖書が、『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った』と、おっしゃっている。アーメン。信じます。私のものとします」 。後は、自動的に、種から芽が出て育つように、癒しは起こるのです 。どうぞ、神様がみことばを自分に送ってくださることを期待しまし ょう。その次には、いただいたみことばをしっかりと握りましょう。

2.みことばの告白

 後半は告白の重要さについて学びたいと思います。テキストにはこの ように書いてあります。多くの人たちは告白の意味を理解していない ために、癒しを受け取ることに失敗しています。告白はギリシャ語で 「ホモ・ロゲオー」と言いますが、「同じことを言う 」という意味です。私たちの人生に神様の力が現れるために 、神様が癒しについて言われた同じことを、私たちは言い続ける必要 があります。もし神様が「キリストの打ち傷によって 、あなたは癒されたのです」と言われたならば、同じことを告白しな ければなりません。では、みことばを告白することがどうして 、重要なのでしょうか?ヘブル3:1「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖 なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり 、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」このみことばの意味は、私たちが聖書に基づいた告白をすると 、キリストが直ちに、私たちの大祭司、あるいは使徒になってくださ るということです。大祭司とは神様と私たちとの仲介者と言う意味で す。イエス様は「父よ。あの人が、あなたの約束のみことばを告白し ていますよ。これは叶えてやるしかありませんよ」と執り成してくだ さるのです。では、「使徒になる」とはどういう意味でしょう ?使徒は「神様から遣わされた者」と言う意味です 。イエス様が使徒と呼ばれているのは、おそらくこの箇所だけでしょ う。私はクリスチャン29年やって、ようやく分かったことがありま す。子供が、『救世主メシヤ』という漫画を見たせいか、 「メシヤってなあに?」と聞きました。「メシヤって救世主だよ 」といえば、それまでですが、なぜ、私たちにメシヤが必要なのか 、改めて考えさせられました。聖なる神様と罪びとである私たちとで は、あまりにも高低差があります。神様は私たちのところに義を曲げ てまで降りて来られません。かといって、私たちも自分の正しさで上 ることもできません。そこで、神様は自分の分身とも言える 、御子イエスを私たちのもとに遣わして下さったのです。本来なら 、私たちは神様に「○○してくれ」などと要求できない者でした 。しかし、イエス様がメシヤとなって、私たちのところに降りてくだ さったのです。私たちはイエス様というキリストを通して 、神様に近づける存在となりました。なぜなら、イエス様が十字架で 私たちのすべての罪を贖ってくださったからです。逆に言うと 、罪をあがなうイエス・キリストなしでは、まことの神様には近づけ ないということです。

 でも、すばらしいことにイエス様は使徒であり大祭司となってくださ いました。その結果、どうなったのでしょう。ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け 、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために 、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」アーメン。だから、私たちは恵みによって癒しを受けることができる のです。ですから、私たちは聖書のみことばをもっと告白すべきです 。「あなたは十字架で、私の病を解決してくださいました。主よ 、あなたの打ち傷によって、私は癒されました」と告白するとき 、主は喜んでくださいます。私たちには、偉大な大祭司がいるのです 。だから、ヘブル4:14では「私たちの信仰を堅く保とうではありませんか」と私たちチャレンジしています。大祭司なるイエス様は父なる神様の ところに、私たちの信仰による求めを届けてくださいます 。私たちにとって大事なのは、その信仰の告白を堅く保つことです 。決して離さないで、捨てないことです。あなたは、一、二度 、求めはしたけれど、「どうせ無理だよ」と自分で却下したものはあ りませんか?この点、日本人はとっても、遠慮深いですね。「神様 、お手すきでしたらお願いします。ご無理であれば、結構なんです 」と遠慮します。この点、韓国のクリスチャンは、すごいです。 「アボジハナニム、叶えてくださらなければ、私は死んでしまいます 。チューよ、あなたしかいないのです。チューよ、信じます 。感謝します。ありがとうございます」。まだ、もらっていないのに 、もらったつもりでいます。日本人クリスチャンは 、それくらいのずうずうしさがなければなりません 。テキストにありますが、あなたが信仰を堅く守っていないもの 、諦めて棚から降ろしたものは何でしょうか?私は教会にリバイバル が起こることです。これを、諦めて、引き降ろしていました 。みなさんにとって、信仰を堅く保つべきものは何でしょうか ?体の癒しでしょうか?夫婦の関係でしょうか?あるいは偉大な使命 でしょうか?金銭面が満たされることでしょうか?結婚でしょうか ?うちの下の子供は、レゴブロックのテレビを見て 「マサチューセッツ工科大学に行きたい」と言いました 。今から準備をしたら、間に合うかもしれません。柏美樹ちゃんは 、来週から、アラバマに留学します。口で告白して 、願い求めればそうなるのです。詩篇81:10にすばらしいみことばがあります。「わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地 から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが 、それを満たそう。」主は、「あなたの口を大きくあけよ、私はそれを満たそう 」と言われます。それは、私たちが主に、はっきりと告白して 、求めるべきだということです。

 また、テキストには「敬虔になるとは、神様の約束を真剣に見つめる ことである。敬虔さを通して、私たちは神様からたくさんの約束を見 出し、それを手に入れることができる」と書いてありました 。前回も申し上げましたが、「敬虔とは、罪を犯さず聖い生活を送る ことだ」と考えられてきたようですが、そうではありませんでした 。これには、目が開かれました。信仰生活を長年やっていますと、 「神様に求めることは幼稚なクリスチャン」みたいに 、思ってしまいます。「大きなことを言わないで、身の丈を知る 。失敗しないクリスチャンが良い」みたいに、思っていました 。しかし、「本当の敬虔さとは、信仰と関係があり 、約様の約束を見出し、それを手に入れることだ」とわかりました 。私もやっぱり、リバイバル(霊的復興)を信じたいと思います 。いや、日本にリバイバル、当教会にリバイバルが起こることを信じ ます。2000年からのゴスペルで小さなリバイバルが当教会に起こ りました。これは、とっても評価できることです。日本キリスト教団 では、うちは、けっこう若い人が多い方です。でも、もっと 、もっと、求めて行きたいと思います。7月に台湾から宣教のために 、10名来られます。「ああ、なんで引き受けちゃったんだろうなー 。めんどうだなー」というところも実はありました。でも、日本の 、当教会のリバイバルのために、わざわざ遠くから助っ人に来られる のです。大変、ありがたいことではないでしょうか!

私たちは、信仰に反することをこの口がしゃべってしまい、結局 、信仰をキャンセルしてしまうことがあります。ヤコブ書3章にあり ますが、この舌にはとても力があります。たとえて言うなら 、それは馬の「くつわ」であり、船の楫です。しかし、「舌は体の小さな器官ではあるが、体全体を引き回すことができる」と書いてあります。この舌で体全体を汚し、人生の車輪を焼くことも できます。しかし、またこの舌を正しく制御するならば 、私たちの体全体が良くなり、また信仰のみわざが前進していくので す。舌は奇跡を生み出す力にもなれば、破壊的な力にもなります 。ですから、「年をとったから」とか言うのをやめましょう。 「お金がないから」と言うのをやめましょう。「協力者がいないから できない」と言うのは、やめましょう。すみません、これは 、みんな私自身に対しての戒めです。そういう否定的なことばは 、信仰の火を消してしまいます。私たちをますます、老化させ 、神様が備えた可能性をキャンセルすることになります。おおー 。私たちの身近な訓練は、この口、この舌を守ることであります 。どうぞ、私たちの感情とか、感覚を信じないようにしましょう 。神のみことば、神の約束という事実を信じていくときに 、あとから感情や感覚が後から追いかけてくるのです。

 一般の本屋さんに言っても、「ことばの力」とか「暗示力」 「積極思考の力」みたいな本が売られています。確かに 、それらの本でもある程度のことは起こるでしょう。でも 、私たちの場合は、神様の約束である、神のことばに土台する告白で す。詩篇107:20「主はみことばを送って彼らをいやし 、その滅びの穴から彼らを助け出された」。本当に、神様がみことばを送ったのだったら、必ずそれはなるので す。神様がくださる、みことばの種をいただきましょう 。そのためには、地味ですけど、聖書を読む必要があります 。占いみたいに、あちこちぱっと開けるのではなく 、しおりを挟んで毎日、順番に読んでいきます。すると、突然 、神様が「あなたの約束はこれです」と語ってくださいます 。どうぞ、それを右から左に受け流さないで、心の中にしっかりとど めましょう。信じて告白しましょう。そうするなら 、種から芽が出て、成長し、おのずと実が結ばれるのです 。信仰は肉の力で、がんばるものではありません。一度、信じたら 、神様にゆだねならが忍耐深く待つのです。そうすれば、時が来て 、癒しが起こるのです。私はお風呂であることを発見しました 。私はお湯がいっぱいなお風呂に入るのが大好きです。ですから 、シャワーのお湯を湯船にいれます。5人もいますので 、表面には髪の毛とかアカが浮かんでいるときがあります 。お湯がたまっていますが、何も起こりません。でも 、あるところに来ると、湯船の縁からお湯があふれ出します 。そうすると、表面に浮かんでいる髪の毛とかアカが、突然 、流れ出します。そして、お湯がきれいになります。私は 「これだなー」と思いました。時が満ちたとき、癒しが起こるのです 。お湯がたまっているときは、何も起こっていないように感じます 。でも、縁に達してあふれるときがきます。すると 、事が起こるのです。癒しも、リバイバルも、奇跡も同じ理屈であり ます。ですから、御わざが起こるまで、あきらめないでください 。期待して、祈り続けましょう。