2015.5.24「御霊の導き Ⅰコリント2:9-14」

 本日はペンテコステ礼拝ですが、『タッチングヘブン』のテキストからメッセージさせていただきます。聖霊というとき、ある人たちは聖霊の賜物とか力あるわざに興味がいきがちです。もちろん、そういうことも重要ですが、聖霊は私たちの霊に語りながら、私たちが神さまのみ旨の内を歩めるように導いてくださるお方です。新約聖書では単に御霊としか出てこないときがあります。ギリシャ語は大文字で区別していませんので、神の御霊なのか、私たちの霊なのか区別できないところがあります。それだけ聖霊は私たちと共に住み、共に歩んで下さるお方なのです。きょうは「御霊の導き」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。

 

1.御霊による悟り

 

 聖霊は私たちに悟りを与えてくださいます。では、聖霊は何を私たちに教え、何を私たちに悟らせてくださるのでしょうか?それは神のことばである聖書です。聖書それ自体は、神の霊感よるもので誤りなき神のことばであります。しかし、私たちが聖書を読むとき、すぐ分からないことがあります。「これはどういう意味なのだろう?」という解釈の問題、「私にとってどういう意味なのだろう?」という適用の問題があります。ある人たちには、「聖書は難しいし、自分で読むと間違って解釈してしまう」という先入観があります。そして、注解書やだれか神学者の力を借りて読もうとします。昔、ローマ・カトリックではヴルガータというラテン語訳の聖書のみに権威が置かれました。中世の頃、一般の人たちはラテン語が分かりませんでした。しかし、教会は自国のことばに翻訳することを禁じました。それで、教会のミサに来て、ラテン語の聖書を解き明かしてもらいました。一般の人たちは聖書を持っていなかったのです。聖職者や神学者の教える聖書を学んだのであります。ですから、ヨーロッパ中に神話やジンクス、あるいは魔術が横行したのであります。彼らは霊的に全く盲目でありました。1517年、ルターの宗教改革後、聖書が印刷され、だれもが自国のことばで読めるようになったのです。ところが何百年たっても、目の前の聖書を読まないで、参考書や解説書を読むとは何事でしょう?プロテスタント教会も同じような過ちを犯しているということです。本当はどうなのでしょうか?聖書の原著者である聖霊に聞けば、聖霊が教えてくださる。なぜなら、聖霊は真理の御霊だからです。

 ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ1613「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」これらは、イエス様が弟子たちに言われたことばです。当時の弟子たちでさえ、イエス様がおっしゃることを全部理解できませんでした。そのため、イエス様はご自分の後、父のもとから遣わされる聖霊にゆだねたのであります。聖霊が来たら、ご自分が話したことを思い起こさせ、また悟らせてくださるということをご存じだったのです。私たちは使徒の働き2章のペテロの大説教を知っています。彼はペンテコステの日、集まって来たエルサレムの人たちに大胆に語りました。キリストの死と復活の意味を旧約聖書から解き明かしました。ペテロが「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と言ったら、3000人がイエス様を信じました。ペテロは、美しの門で足なえがいやされた後、もう一度、説教しました。すると、大勢の人たちが信じ、男性だけでも5000人ほどになりました。当時の宗教的指導者たちはあわてました。ペテロやヨハネを捕えて、「何の権威によって、だれの名によってやっているのか」と尋問しました。使徒413「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」この「無学な、普通の人」と言う意味は、「専門的な教育を受けていない素人」という意味です。律法の専門家たちは、「この知恵をどこから得たんだろう?」と驚いたに違いありません。なぜ、できたんでしょう?それは、ペテロが御霊によって語っていたからです。

 『タッチングヘブン』のテキストにこのように書かれています。「神さまの御声を聞きたいと願う人は、聖書に書かれている神のことばを勤勉に読んで行う人なのです。私たちが神のことばを瞑想し、行なうことをし続けるならば、聖霊は私たちの心にとどめているみことばを悟らせ、教えてくださるのです。聖霊はしばしば、私たちが問題や誘惑に直面しているとき、教え、悟らせてくださいます。」あるホームページに、ミサワ・ホーム中国(株)の正野社長の証がありました。中国といっても、岡山県であります。1982年、創業社長が急性膵炎で倒れ、わずか三日後に急逝しました。それで、専務取締役だった正野さんが急きょ社長に就任しました。会社は石油危機と事業拡大で赤字経営に陥っていましたが、業績は下降の一途をたどるばかりでした。トップとしてビジョンと具体的な戦略を示さなければなりません。赤字経営を立て直す場合、業績の悪い社員を解雇する合理化策は経営の常道です。彼はイエス様の十字架の贖いで恵みに入れられている社員を解雇することができませんでした。しかし、そうなると共倒れは必至です。損得を優先すべきか、神の愛を優先すべきか。二者択一に迫られ、ジレンマの中で進退きわまった彼に、次のみことばがくっきりと示されました。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」コリント13:13。彼は倒産を覚悟の上で、解雇しないという信仰者の道を選びました。その結果、会社はどうなったでしょうか。予想もしていなかった奇跡が起こったのです。社員たちは、この社長ならついていこうと思ったのでしょう。愛はメンバーの一致をもたらし、そこから新しいいのちが生まれます。業績はぐんぐん伸び始め、わずか2年で2億円もの赤字を解消し、高収益会社に一変してしまいました。

 このように聖霊は私たちにみことばを示して、脱出の道を示してくださいます。そのためには、聖書を普段から読んで、心の中にみことばを蓄えている必要があります。そして、私たちが祈るときに、聖霊はみことばを与えて導いてくださるのです。

 

2.御霊によるコミュニケート

 

『タッチングヘブン』の25日目に、「神さまは私たちの霊的な感覚によってコミュニケートされる」と書いてあります。コミュニケートとは、情報・知識・感情などを伝達するという意味です。神さまは霊ですから、私たちが新生すると、私たちの霊が神さまの霊と伝達し合うことができるようになります。霊は霊によってでしか伝達できません。たとえば水と油であるなら、混ざることができません。しかし、水と水であるならたやすく混ざり合うことができます。私たちは私たちの霊を通してでしか、神さまと伝達し合うことができないのです。その根拠となるみことばが、Ⅰコリント29-12です。「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」アーメン。生まれながらの人は、神の御霊に属することを受け入れません。それらが愚かに見えるし、またそれを理解することもできません。しかし、御霊を受けている人、クリスチャンは神さまの思いが分かります。なぜなら、神さまが聖霊によって、私たちの霊に語りかけてくださるからです。

 テキストには神さまからの語りかけには3種類あると記されています。第一は、神さまは霊的な耳を通して語られます。このところに「耳が聞いたことのないもの」とあります。神様は私たちに言葉を与えられます。1つの言葉もあるし、2つ、3つの言葉もあります。勇気を出して1つ目の言葉を言うと、2つ目のことばが出て来ます。それをさらに語るならば、もっと言葉が出てきます。これを聖書では、預言と呼びます。そもそも預言とは、泡のように溢れ出てくるという意味があります。しかし、これは1つか2つの言葉から始まります。たとえば、だれかに手を置いて祈るとします。突然、あなたの霊の世界に、ある言葉が浮かんできます。「拒絶」「傷」「自信がない」。何かそういう言葉です。神様はあなたに、この人の人生のあることを語りかけていることがわかるでしょう。しかし、それはあまりにも単純なことなので、それはあなた自身から出ていることではないかと思います。しかし、それはあなたではありません。神様があなたを通して語っておられるのです。ですから、それを口に出す必要があります。そうすると力強いことが起きてきます。

 第二は、神さまは霊的な目を通して語られます。このところに、「目が見たことのないもの」とあります。神さまは私たちの霊に絵あるいはビジョンを見せてくれます。止まっているような風景の絵かもしれないし、あるいは映画のように動いている絵かもしれません。エディ先生がチームでモンゴルに伝道旅行に行きました。そのときの運転手が、とても悲しそうで、全く自信がないように見えました。食事をしているとき、チームの何人が「運転手にあることが与えられた」と言いました。運転手を自分たちの席に呼んで、彼のために祈りました。その時に映画のような絵が示されました。彼が8歳のとき、だれかが彼に唾をかけました。そして彼に「お前は、豚のようだ」と言って侮辱しました。その言葉によって彼は非常に傷つきました。その後、彼は大きな都市に引っ越しましたが、彼の人生は大きく変わってしまいました。彼は拒絶されたという思いをもって生きてきました。このことを彼に伝えました。彼は泣きながら「どうしてそんなことがわかったのですか?」と言いました。神様はその人を癒されました。次の日、彼は全く変えられていたのです。

 第三は、神さまは霊的な感覚を通して語られます。「人の心に思い浮かんだことのないもの」とあります。これは霊的な印象あるいは直観と言っても良いでしょう。たとえば、部屋に入ると、あなたはそこで失望落胆を感じることがあるかもしれません。また、だれかのために祈っていると、この人と一緒に泣きたいと思うような重い悲しみを感じるかもしれません。神さまはあなたに伝えたいのです。しかし、私たちはたいてい、それを「ただの自分の感情だ」と思ってしまいます。ですから、私たちは常に練習していなければなりません。これもモンゴルの証ですが、一人の盲人の牧師が出席していました。1週間くらい前に急に目が見えなくなり、奥さんが無理やり彼を連れてきたのです。チームのメンバーの人たちは「彼はある罪を犯している。もし、彼が罪を告白するなら神さまが癒される」という共通の印象を持ちました。その牧師を個室に連れて行き、話を聞きました。その牧師は問題から逃避するために、毎日、深酒をあおっていたそうです。彼がその罪を告白した直後、目が見えるようになったそうです。聖霊様はそのようにして、印象を通して語りかけることがあります。

 私もエディ先生のご指導にならいこれらのことを何度も実践しました。その人の祝福のために祈ると、ことばとか絵が与えられます。しかし、初心者がやるとあまりにもダイレクトなので、逆に傷をつけることがあります。蒲郡教会で、みんなが輪になって実践する時がありました。北海道の一人の兄弟が私を呼んで預言してくれました。彼は私に「あなたは業績志向の人です」とズバッと言いました。その頃の私は、業績志向から「恵みの歩み」に換えていた時でした。その時、私は非常に傷つきました。人をさばくような預言はだれにでもできます。私たちは他の人の欠点が良く見えます。しかし、預言の一番大きな目的は「建て上げ」であり、「励まし」です。もし、この人が「業績志向だな」と分かったなら私だったらこう言うでしょう。「神さまはあなたがどんなにがんばっているか良くご存じです。でも、がんばっていないときもあなたを愛しているよ。行ないではなく、存在そのものを認めているよ」と。とにかく3つの神からのコミュニケートは他者に適用するときは訓練が必要です。ですから、本当に親しい人から始めましょう。また、聖霊様に対して、いつでも開かれた心を持ちましょう。

 

3.御霊による祈り

 

 エペソ人への手紙6章後半には、「悪魔の策略に立ち向かうために、神のすべての武具を身に付けなさい」と記されています。その後、いくつかの神の武具が記されていますが、最後にそれらの武具を動かす武器が記されています。最終兵器、ultimate weaponとは何なのでしょうか?エペソ618「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」あるおばあちゃんが「もう、私は年をとって、奉仕も満足にできません。ただ、お祈りするしかできません」と言ったそうです。それは「ピストルも機関銃も持っていない。ただ、ミサイルしか持っていない」と言っているようなものです。御霊による祈りは、それほど敵なる悪魔に破壊的な力を与えるということです。そうなんです。私たちは自分の知恵や知識によって対抗しようとするかもしれません。しかし、悪魔は何万年も生きて、人類をだましてきました。悪魔の方がはるかに、知恵や知識があるのです。だから、教会が何か議論しているとき、悪魔は寝ています。しかし、教会が心を合わせて祈り出すなら、「おっ!これは大変だ」と本気になるでしょう。しかし、御霊による祈りというのはどういう祈りなのでしょうか?ある人たちは「それは異言による祈りだ」と言うかもしれません。もちろん、異言による祈りも重要ですが、それよりももっと根本的な祈り方があります。

 『天路歴程』を書いたジョン・バニヤンは、1660年、勝手に説教したということで逮捕されました。彼は三度も投獄され、計12年半に亘りました。彼は獄中の中で数冊のパンフレットを書きました。その中に『私は霊をもって祈ろう』というのがあります。バニヤンは国教会の祈祷書に反対し、聖霊の導きに従って自由に祈ることが大切であると主張しました。「今日の、自ら知者だと思い上がっている人たちは、祈りの形式も内容も、自分の思いどおりに書き上げる能力を持っていると思い込んでいます。そして、毎日の祈りを、あらかじめ決めてしまっています。その日が来るもう何年も前から。クリスマスの祈りがあります。イースターの祈りがあります。公の礼拝の時には、それぞれの祈りにどの言葉をいくつ使うかまで、教会の聖職者たちは決めています。『祈祷書』を書いた人たちは、使徒がしようとしなかったことをあえてしたわけです。ある祈りを前もって決めておいて、それを何度も何度も繰り返して使う、ということです。しかし、使徒たちはそれをしませんでした。パウロがみずから認めるように、『私たちは、どのように祈ったら良いか分からない』からです。もし、聖霊がとりなしてくださらないならば。」私も同感です。私は結婚式も葬儀においても、式文の祈りはほとんど用いません。いつでも、聖霊の助けと導きによって祈るようにしています。さきほど、聖霊によるコミュニケーションに、言葉、絵、印象の3つがあると申し上げました。まさしく、それらが与えられるように祈ります。美辞麗句を伴ったどんな立派な祈りであっても、御霊による祈りにはかないません。なぜなら、御霊こそが私たちに祈りを与え、御霊こそが神さまにその祈りを届けてくださるからです。

 『タッチングヘブン』のテキストには、たびたび、「霊によって祈り、霊において神さまと交わりましょう」と書いてあります。そして、霊によって祈るとは、異言で祈ることであるとも書いてあります。ですから、私はこのテキストを公にすることを少し恐れました。これまでは、希望者だけにプレゼントしてきました。アッセンブリー教団などでは、公の礼拝でも異言の祈りとか霊の歌を歌うようです。私は福音派の出身ですので、未信者の方が躓かないように公にはしないようにしています。Ⅰコリント14章にも「初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか」と書いてあるからです。おそらく、20名以下の少人数の集会であるならば異言で祈るのは問題がないかもしれません。しかし、異言を禁じるべきかと言うとそうではありません。使徒パウロは「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいます。…私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」と言っています。ですから、「異言は変だ」とか、「そんなのいらない」と言ってはなりません。使徒パウロは「私たちは、どのように祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ826と言いました。私は「言いようもない深いうめき」も異言の1つではないかと思います。私たちの知性では追いつかない、言葉でどう表現したら良いか分からない時があります。そういう時に、御霊が神のみこころに従って、とりなしてくださるのです。私は夜、寝ているとき、異言で祈っている時があります。私の祈りが少ないので、聖霊様がお祈りしておられるのでしょう。目覚めてから、異言で祈ろうとしますが、あまり出てきません。おそらく知性が邪魔をするのではないかと思います。

 私はみなさんに「祈りましょう」とあまり強調しない牧師の一人かもしれません。私は祈りの課題を見ながら、1つ1つ祈るととても疲れます。何だかお勤めみたいに思ってしまうからです。確かに、祈りの課題や祈りのノートは必要だと思います。でも、何よりも御霊によって導かれて祈るなら、疲れることはありません。もちろん祈り出すときは、「大変だなー」と思います。しかし、車がローギアから加速していくように、祈り出すとだんだん調子が出てきます。でも、やっと走り始めたころ終わってしまうので、ダメだなーと思います。御霊の祈りがエペソ6章後半に記されているということは、偶然ではないと思います。エペソ6章後半は霊的戦いについて書かれています。もちろん、祈りは神さまとの交わりが主であって、霊的戦いではないと思います。しかし、私たち聖徒が祈るのを邪魔する力もあるということは確かです。なぜなら、私たちが祈るときに神の御手がこの地上にさしのべられ、御国が前進していくからです。その時、父なる神様は悪霊どもを蹴散らすために、天使たちを送ってくださると信じます。どうぞ、聖霊が私たちの内におられ、私たちと共におられることを忘れないようにしましょう。私たちが聖書を読むとき、示しを受けたいとき、祈るとき、聖霊が助け導いてくださることを感謝します。