2008.05.25 垂直と水平 ヘブル10:19-26

先週は特別礼拝が入りましたが、本日は、タッチング・ヘブン・チェンジングライフの第七週目です。このシリーズの最後のメッセ ージになります。

1.神との関係(垂直)

 ギリシャ語で人はアンソロポスと言いまして、「上を見上げる存在 」という意味があります。つまり、人間は他の動物とは違って 、宗教性を持っている、神様を仰ぐ存在だということです。いや 、私は何も信じないし、何も拝まないなどとう人はいません 。人間は、何かを礼拝しなければならないように造られているのです 。英語で礼拝はworshipと言いますが、「価値 」と関係があります。また、礼拝はギリシャ語ではプロスキュネオー であり、「ひざまずく」という意味があります。ということは 、人間は「自分にとってそれは価値があるなー」と思うものにひざま ずくということです。それが、人によってはお金であったり、仕事 、異性、子ども、趣味、名誉、快楽であったりします 。その中には良いものもあるでしょうし、他の人が見たら「え? 」というものもあるでしょう。あなたがひざまずいているものとは一 体何でしょうか?十戒の第一番目はご存知でしょうか?「あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない 。あなたは自分のために、偶像を造ってはならない」です。ヘブル語の聖書には、「あなたは私の顔の前に 、他の神々があってはならない」というふうに書かれています 。神様はあなただけを見たいのです。もし、神の御顔とあなたの間に 、何か他のものがあるならば、それが偶像だということです 。多くの人たちは、「私が何に価値を置き、何を拝もうと勝手じゃな いか」と言うでしょう。しかし、それはあなたを束縛し 、まことの神から引き離してしまう偶像になるでしょう。

私たちがまことの神様を礼拝するならばどういうことが起こるでしょ う。マタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい 。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます 。」アーメン。私たちが神様を第一とするときに、すべてのものが理路整 然となって、神様の祝福がそこに臨むます。私たちが個人的に神様に 向かって礼拝をささげるときに、どんなことが起こるのでしょうか ?「あなたが価値の源です。あなたが私を支えてくださる方であり 、お金や人ではありません。また私の力や能力でもありません 。あなたは私を愛し、導いてくださる神です。主よ 、あなたに従います」。そのとき、あなたの中にある問題 、いろんな願いや思いがグルグルと動き回り、所定の位置に収まりま す。そして、あなたの心を神の平安が支配します。あなたは 、神様に問題をゆだねつつ、前向きに生きようと思うようになります 。また、主と交わる時、良心もきよめられます。日本人は良心とは良 いものだと考えていますが、そうではありません。文化や教育の影響 、あるいは汚れや罪責感でかなりゆがんでいます。ヘブル書9章と1 0章には「良心にイエス様の血の注ぎを受けよ」と書かれています。それは実際、どのように行うのでしょうか ?まず、心のしこりとなっている、犯した罪を主の前に告白します 。すると、イエス様の血がきよめて下さいます。「私はすでに赦され ている。神の御前で義とされている」という思いが心のそこから湧き 上がってくるでしょう。さらに、汚れや悪をイエス様の血によってき よめてもらいましょう。あなたの心は、まるで、洗濯機で洗われたよ うになります。神を礼拝するとは、神様と交わることです。すると 、あなたの心は、聖霊によって再生され、リニューアルされるのです 。ハレルヤ!

まず、何よりも、神様との個人的な関係を打ち立てることです。 「私は神様から愛されている。イエス様は私のものだ、救い主 、助け主だ。私は特別な存在なんだ!」これくらい思ってもぜんぜん 、問題でありません。使徒パウロは「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって 、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4 :19)と言いました。「私の神は」と言えるほど、親しい関係だったのです 。私は8人兄弟の7番目で生まれたので、一人分の価値(存在 )が乏しいものでした。セルフイメージがとても低くて 、劣等感のかたまりでした。私は小さいときから「ありがとう 」とか「感謝します」なんて言ったことがありません。また 、人をほめることもありませんでした。むしろ、人の欠点をあげつら い、けなす方が得意でした。なぜなら、自分に劣等感があったからで す。しかし、聖書の神は「わたしがあなたを形造った。わたしがあなたを贖った 。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛してい る」(イザヤ43)とおっしゃってくれました。つまり、神様は「靖尋 、あなたは特別だよ。あなたには価値がある」とおっしゃってくれた のです。英語では、You are special.であります。アメリカでは、女の子から、You are special.と言われたら、もう決まりなんだそうです。 「私は神様から特別に愛されているなー」と時々感じるときがありま す。たとえば、温泉に行ったとき、広い湯船にたった一人でつかって いるときです。結構、そういう時があるんですね。そのとき、 「ああ、神様は私を特別に愛しておられるんだなー」と感じます 。おそらく、神様はあなたにだけ分かるような方法で、 「私はお前を特別に愛しているよ」ということを示してくださるでし ょう。こういう神様との1対1の出会いがあると、人々の間に出て行 くことができます。このことを体験すると、人と比較する必要もない し、比較される必要もありません。オンリユーの人生を生きることが できます。まずは、神様との垂直な関係です。

2.共同体との関係(水平)

 神様との関係が垂直であるならば、人との関係は水平であります 。でも、水平には2種類あります。第一は教会の兄弟姉妹との関係で す。これを共同体との関係と言って良いと思います 。もう1種類の水平は、この世の人々との関係です。言い換えると 、家庭、職場、学校、地域社会の人たちとの関係です。まず 、兄弟姉妹との関係であります。私は25歳のとき初めて 、教会というところに足を運びました。クリスチャンといえば 、私を導いてくれた職場の先輩だけです。週報を見たときに 、まず驚きました。○○兄、○○姉と書いてあります。「ありゃー 、教会というところは親族で構成されている所かな? 」と思いました。礼拝後、「昼食をどうぞ」と誘われました 。二階に上がったら、女の人たちばかりでした。半年くらいは昼食に 残るということはありませんでした。それから水曜日の夜 、祈祷会に先輩と一緒に出かけました。前半の30分 、いろんな人が証をします。その話の内容にまずびっくりしました 。「そんなの神様がやったんじゃないよ。あなたが勝手に思っている だけだよ!この人たちはなんとおめでたい人たちなんだろう 」と思いました。ある晩、神学生と呼ばれる人たちが前で話しました 。「導かれました」「与えられました」「示されました 」と口々に言うのです。「あれー?この人たちは、自分の意思という ものがないのかなー。本当に変な人たちだなー」と思いました 。その中に、現在の家内が含まれていました。そのように、始めは 、私を導いてくれた会社の先輩だけが、私の友であり 、信仰の仲間でした。

 しかし、だんだんと礼拝以外の集会にも参加するようになりました 。青年会、聖歌隊、英語礼拝、祈祷会、早天祈祷会・・ ・気がついてみると教会にいりびたりでした。1年もたたないうちに 、献身し、聖書学院に行きました。神学校で小林和夫先生が 「聖徒の交わり」ということを教えてくれました。 「聖徒とは神様との関係をもっている人のことを言う 。聖徒の交わりとは、神様との関係をもっている人たち同士の交わり であり、それを教会と言う」と教えてくれました。ああ 、教会というのは、「聖徒の交わりなんだ、なるほどなー」 。授業の時は分かったつもりでいましたが、「聖徒の交わり 」って何のことだか分かりませんでした。信仰生活 、5年くらいたった頃からでしょうか?聖書に「互いに 」という言葉がたくさんあることに気がつきました。 「互いに愛し合いなさい」「互いに励まし合い」「互いに戒め 、互いに教え」「互いに重荷を負い合い」・・・たくさんあります 。その頃から、共同体とかセルを求めていたんですね 。座間キリスト教会はどんどん大きくなり、私が去る頃には礼拝が3 40名くらいでした。あれから21年たち、大和キリスト教会になっ て、毎週1200人くらい集まっているようです。悪口ではありませ んが、「会衆」はありますが、「互いに」という本当に親しい関係は あまりありませんでした。私は1995年頃から、セル教会を目指し 、「神の共同体である教会を建てたいなー」と思うようになりました 。

 なぜ、一人と神様との関係だけで不十分なのでしょうか ?神様を信じていれば、それで良いのではないでしょうか? 「めんどうくさいじゃないですか、他の人と一緒になるということは ?」創世記に神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」とおっしゃいました。神様は唯一のはずなのに、御自身の中に、父 、子、聖霊という共同体を持っておられます。「神が愛である 」とおっしゃる場合、御自身の中に、他の人格がいなければ 、愛であるとは言えません。つまり、父、子、聖霊なる神が愛し合っ ておられる。そのかたちに、人を創造されたのです。つまり 、愛の共同体こそが、人間だということです。ベン・ウォン先生が 、聖書はマタイによる福音書からではなく、創世記から始まると何ベ ンも言われます。創世記には教会というものがありませんでしたが 、人々が神様を礼拝しました。では、一体どこで人々は神を礼拝した のでしょうか?それは家庭です。アダムとエバ、ノア、アブラハム 、みんな家族で神様を礼拝しました。それが現代には教会という場所 が、礼拝をささげるところとなりました。教会は共同体よりも 、建物や組織、制度をさす言葉になりました。実は 、新約聖書も現代のような教会をさしているのではありません 。教会はもとの意味は、エクレーシアであり、「神によって召し集め られた民」という意味です。建物や制度の意味はまったくありません 。人々こそが教会だったのです。つまり、イエス様を信じている人の 群れが教会なんです。コロサイ1:27でパウロはこう言っています 。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト 、栄光の望みのことです」。英語の聖書は、among youとなっています。個人の中にキリストがいるだけではありませ ん。あなたとあなたの間にも、キリストがおられるのです 。なぜそれが奥義であり、栄光の望みなのでしょうか ?神様は三位一体の共同体です。父子聖霊と麗しい愛の共同体を持っ ていらっしゃいます。もし、あなたがたが同じ神のかたちを持ってい るならば、そこに神様が住んでくださるということです。もし 、教会がいがみ合い、争い合っているなら、サタンが「ああ 、私のかたちにぴったりだ」とやって来て、住みついてしまうでしょ う。サタンを追い出し、私たちが互いに愛し合うなら 、三位一体の神様が「ああ、私たちと同じかたちだ 」とそこに神様が再び、住んでくださるでしょう。すると 、祝福してくださいと特別に願わなくても、神様ご自身がそこにおい でになられて、祝福してくださるのです。ハレルヤ!

3.この世との関係(水平)

もう1種類の水平は、この世の人々との関係です。家庭、職場 、学校、地域社会の人たちとの関係です。神学的に「この世」は 、神から離れ、神と敵対している世界を意味します。ですから 、教会の歴史の中で、「教会に関することは聖いが 、この世のものは汚れている」という考えが生まれました。つまり 、聖書、礼拝、祈り、伝道、世界宣教など神様に関するものは聖であ る。しかし、ビジネス、政治、教育、医療、芸術など 、この世に関するものは俗的だと分けて考えるようになったのです 。ですから、私たちが奉仕というとき、もっぱら教会という建物の中 でやることが奉仕(ミニストリー)だと言われてきました 。会社に行っているときはお金をかせいでいる時で 、奉仕と関係ないのでしょうか?また、家庭で食事を作ったり 、洗濯をするのは、奉仕をしていないことになるのでしょうか ?ヨハネ3:16は聖書でもっとも有名なみことばの1つです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに 、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びること なく、永遠のいのちを持つためである。」私たちは長い間、「世を愛された」と言うとき、「世とは私であり 、あなたのことですよ」と教えられてきました。確かに 、世というところにあなたの名前を入れて読んでも 、間違いはありません。でも、聖書をそのまま読むと 、神様はイエス様を与えるほどに、「この世界」を愛されたのです 。「この世界」はクリスチャンだけではありません 。神様に背いている人たちもそうです。また、人間だけではなく 、動物、木々や植物、あらゆる被造物も含まれています。つまり 、神様は人間だけを救うだけではなく、この自然界をも救い 、回復したいと願っておられるのです。こう考えると、 「神様が造られたものに、聖いも聖くないもない」ということになり ます。そうです、神様は教会に関することだけではなく、ビジネス 、政治、家庭、教育、医療、科学、芸術にも関心を持っておられると いうことです。そうすると、イエス様が言われた、あなたがたは地の 塩、世の光という意味が良くわかってくるのではないでしょうか?

昨日は「ゲアリー・スキナーのセミナー」があり、本郷台キリスト教会まで行ってきました。ゲアリー・スキナー師のお父さんはカナダ人ですが、アフリカの宣教師でした。ゲアリー・スキナーはアフリカで生まれたので、肌の色は白くてもアフリカ人です。1983年神様から召命が与えられ、ウガンダに行きました。当時のウガンダは内戦の真っ最中で、ゲアリー一家は、弾丸が飛び交う中を暮らしました。強盗に襲われたのが3度あり、ある時は銃を頭に突きつけられました。強盗が3回、引き金を引きましたが、3回とも玉が出ませんでし た。「お前らはクリスチャンだな?」と言って、強盗は去ったそうです。ホテルの一室から集会をはじめましたが、不思議な導きで、劇場が手に入りました。14年で5500人の会衆になり、教会の成長が横ばいの状態になりました。ディボーションしていたとき、神様が「あなたは一体何者だと思っている。あなたは何人の人を牧会できると思っているんだ。イエス様でさえ12人の弟子しか育てられなかった。そうだ、10人以上牧会できる人はいない!」と言われました。そのとき、教会はセルグループを大事にすべきだと気づかされました。このままだと教会は、私の技能、私の情熱までしか成長しない。しかし、教会のすべての人の技能、すべての人の情熱をたばねて用いていけば、どこまでも成長できると分かりました。いろいろ研究した後、「これからセルチャーチになる」と告げました。1年後に1500人が教会を離れました。しかし、現在は1400のセルがあり、2万人の教会になっているそうです。

最後に、いくつか教えられたことを箇条書きで、お分かちしたいと思います。

①まず、ビジョンから始める。

 神様は大いなるビジョンを与えるために、一人の人を選ばれる 。その次に、チームの人に分かち合う。先生は、10人のリーダーた ちを牧会し、そのリーダーたちがさらに10人を牧会 。さらにその下には10人。励まし、信頼して委ねていく 。その関係は、イエス様と弟子たちの親しい友の関係。牧会は 、特定の人とか肩書きのある人ではなく、だれでも牧会の賜物を与え ておられる。

②町や国を変える人を育てる。

 神様はゲアリー・スキナーに語りました。「単に教会を建て上げるた めではなく、町や国を変える人を育てなさい。日曜日 、教会の建物の中ですることよりも、毎日、地域社会でなされること が一番大事である」。実際、その教会では地域のリーダーシップの学 校をはじめました。政治家、ビジネスマン、教育の指導者を聖書から 訓練しているそうです。教会員の中にも政治家や弁護士が何人もいる そうです。

③地域の問題を自分の(教会の)問題とする。

町を行きめぐり、町の問題をさぐる。次にその問題をクリエィティブ な仕方で解決していく。カンパラには、貧困、ストリートチルドレン 、エイズ、やもめの問題がありました。そのとき、ヤコブ1 :27のみことばが与えられました。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や 、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく 守ることです」。エイズ孤児を施設ではなく、家庭のような共同体で世話をしよう と考えました。その一環として、ワトトのクワイヤーが誕生しました 。孤児ややもめに仕えることは、イエス様に仕えることと同じである 。真の解決は、お金や政府にあるのではなく、神の教会にある 。アフリカではウガンダだけが、エイズ患者の数が減っているそうで す。

④神さまは教会を通して国々を祝福しようと願っておられる。

 神様はアブラハムの子孫、イスラエルを通して国々を祝福しようと考 えられた。しかし、イスラエルは神に従おうとはしなかった 。新約になり、神様は教会を通して国々を祝福しようとお考えになっ ておられる。「御国が来るように」とは、世の終わりのことだけでは ない。今、私たちがイエス様と共に支配することである 。霊的な分野と世俗的な分野とに分けてはいけない 。生活のすべてが神様のもの、生活のすべての領域が霊的なものであ る。富やお金も神様からのプレゼントである。神の御国のために正し く管理するように与えられたもの。

 私は教会がこの世に対してなすべきことは、福音を伝え 、魂の救いを与えることだけだと思っていました。しかし 、霊的な窓からだけではなく、ホーリスティック(全人格的)な窓から見る必要があります。身体的な窓、社会的な窓 、心理的な窓もあります。まず、何よりも先にすべきことは 、隣人を愛することです。その人が「信じない」と言っても 、見返りを求めない愛で愛して、関係作りをしていくことが大切です。愛して仕えていく中で、神様が福音を分かち合うチャンスを与えてくださるのです。