<ローマ人への手紙 5章1節-5節>
5:1
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
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このローマ5章5節の「この希望は失望に終わることがありません。」という「みことば」に、これまでどれだけの人が励まされてきたことでしょうか。
私もその一人です。
本日は、「失望しない希望がある」と、なぜパウロは確信を持って語ることができたのか。
そして、その希望とは何か。
また、そのパウロを常に守り導いてくださっている神様について、より深く知ることができるようにと祈りながら、みことばに耳を傾けていきましょう。
まず、「ローマ人への手紙」が書かれた背景なのですが、執筆年代は、イエス様が十字架に架かられてよみがえられた時から、20年以上経っていた、紀元56-57年ごろだと言われています。
この手紙は、パウロが第三回目の伝道旅行で、ギリシャのコリントに滞在した時に、ローマの教会に宛てて書かれたようです。
この時代のローマは、世界の政治、経済、軍事の中心地としての影響力が絶大で、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」と言われていました。「すべての道はローマに通じる」ということわざがあるほど交通網が発達し、世界のあらゆる民族がローマに移り住むようになっていました。
ユダヤ人も多く住んでおり、その頃すでにイエス様の福音はローマにも伝わり、キリスト教会も出来ていたようでした。使徒の働きや、パウロ書簡にたびたび名前が出てくる、パウロの助け手となったアクラとプリスキラという夫妻も、ローマの教会の人だったようです。
パウロはこのとき、まだ一度もローマに出向いたことがなく、ローマに行くことを切望していました。
ローマに直接出向いて、ローマのキリスト者たちを励まし、教えたいと願っていたのです。
それは、間違った教えや、共同体をかき乱す人たちがいたからです。
ローマの1章と16章にそのあたりの事情が記されています。
この時パウロの年齢がいくつだったかは解りませんが、そんなに若くはなかったはずです。
しかし、パウロはとてもパワフルに活動していました。
そして彼の生き方はいつでも「命懸け」でした。
自分の命を顧みず「命懸け」で、異邦人福音伝道を続けたパウロが語る言葉には、大変重みがあります。
では、5:1から見ていきましょう。
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5:1
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
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◆希望とは何でしょう・・・希望とは、
①主イエスによって、神との平和を持つことです。
5:1は日本語聖書だと、「ですから~」で始まりますので、その「ですから~」と切り出すまでに至る、1章~4章でパウロが語った話の経緯があります。簡単に振り返ってみたいと思います。
1章から2章では、異邦人とユダヤ人のそれぞれの罪について言及し、3章では、
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3:23,24
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
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と、イエス様の十字架の贖いのゆえに、信じる者は神から義と認められると述べました。
続く4章では、旧約聖書からの引用で、「アブラハムの信仰」を例に出しました。
そして、ローマ4章の一番最後の節、25節で、 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と語り、5章1節の「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」につながります。
私たち人間は、みな罪人ですが、信仰によって、神との平和を持つことができるという、「希望」があります。
アダムの罪によって神から遠く離れてしまった私たち人間は、イエス様の血によって、神と不和となっていた関係から和解し、平和の関係へと変えられたのです。
そして、続く2節。
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5:2
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
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◆希望とは何でしょう・・・希望とは、
②主イエスによって、神の栄光にあずかることです。
2節の、「神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」は、口語訳では、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。新共同訳では「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」と訳されています。
「神の栄光にあずかる」とは、第Ⅱコリント3:18に書かれているように、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」ということです。これは、「永遠のいのち」への希望です。
ですから私たちは、「主イエス・キリストによって神の栄光にあずかる希望を誇りにしている」のです。
続く、3節、4節を読みましょう。
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5:3
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
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「患難さえも喜んでいます。」・・・というのは、この世的な価値判断では到底考えられない感覚ですが、これは、命懸けで福音を伝えたパウロの真実の証です。
彼はどんなときも主に在って喜んでいました。
ピリピ4:4に書かれてある通り、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と語っては、苦難の中にある兄弟たちを励ましていました。
そうやって人を励ませるのは、いつも自分自身が主にあって喜べているからですよね。
「患難は忍耐を生み出し、」・・・ここで言うパウロの忍耐は、彼の生き様を見ればわかるように、消極的にただ黙って我慢をするような忍耐ではなく、不屈の精神で、不動の信仰をもって、平たく言えば、「腹をくくって」神を証し、積極的に生きていくということです。
パウロがどんな患難に遭ってきたかということは、第Ⅱコリントの11章に詳しく書かれています。
<第Ⅱコリント11章24-27節>
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11:24
ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25
むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26
幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27
労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
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・・っと、「まったく、パウロはよく生きていられたな~」と思ってしまうようなことが列挙されています。
そして、パウロの患難は外側のことだけではなく、心の内にもありました。
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11:28
このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29
だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
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ここから、パウロがどれだけコリント教会のひとりひとりに気を配り、心労を重ねていたかということが、よくわかります。
ここでみなさんに考えていただきたいのは、このことは、聖書に書かれている遠い昔の外国の人の話ではないということです。現代に生きている私たちにも、それぞれ人生の荒波があります。
次々と湧き上がる困難な問題や、襲いかかってくる苦難は、仕事上でも、学校の中でも、家庭の中でも、健康上でもあるでしょう。また、信仰をもっているが故の圧迫や、困難も数々あるでしょう。
それでも、「さすがにパウロのような患難は来ないだろう。命懸けで何かをするなんてことも、そうそうないだろう。」と思ってはいないでしょうか。そんなことはわかりません。
今ある平和な時間が、あっというまに取り去られることがあるかもしれません。
そんな時、患難さえも喜び、忍耐を生み出すことができるのは、信仰を土台として、腹をくくった生き方をしている人たちではないでしょうか。
信じるべきもの、守るべきものがはっきりとしている人は幸いです。
私は今はまだ、「腹くくりの訓練中」ですが、しっかりとした信仰を土台として、覚悟を決めて生きていきたいと思っています。
次にパウロは、「忍耐が練られた品性を生み出し」と言っています。ここでの「練られた品性」は、「熟練」とか、「練達」した人柄のことを指します。
数々の人生のトライアル(試み)によって練られた人格は、鋼のように強くしなやかで、そして柔和で、精錬されて不純物が取り除かれた、なんとも純粋な品性を生み出します。
本当に、このような人格者となりたいものです。
そして、この「練られた品性」が「希望」を生み出すのです。
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5:5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
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◆希望とは何でしょう・・・希望とは、
③聖霊によって、心に注がれる神の愛です。
冒頭でも申しましたが、この5節の、「この希望は失望に終わることがありません。」という御言葉が、どれだけ私たちの心を慰め、勇気づけてくださることでしょうか。
パウロはなぜ、このように確信を持って「この希望は失望に終わることがありません。」と言えるのでしょうか。
それは当然のことですが、パウロを守り導いておられる主なる神様が、本当に素晴らしいお方だからです。
パウロは、主イエスキリストに、全信頼を置いています。
それは、ガラテヤ2:20で、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」とパウロ自らが語った通りです。
そして、パウロが「その希望は失望しない」と語ったのには、確かな根拠があるからです。
その根拠とは、5節の後半、「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ということです。
「聖霊によって私たちが神を愛する」というのではなく、「聖霊によって神の側からの豊かな愛が、私たちの心に注がれ続けている」から、「この希望は失望に終わることがない」のです。
聖霊によらなければ、私たちは何ひとつ受けることも、成し遂げることもできません。
思い起こせば、2011年3月11日に東日本大震災が起こったとき、私は必死で聖書をめくりました。
被災地に家族や友人がいて、安否がわからず不安な日々を送っている方たちのために、神様からの励ましと慰めの言葉を探そうと思ったのでした。
しかし、どの御言葉も、私には伝わりにくい言葉のように思えました。
「御言葉には力があるはずではなかったのか。」と、がく然としました。
そんな時に、このローマの5章5節の「この希望は失望に終わることがありません。」という御言葉が目に飛び込んで来ました。この時、私にとってこの御言葉は、ただ「励まされた」とか、「慰められた」とか、「確信を持ちました」とかいう類ではなく、もっともっと私の心の奥底の深い部分に突き刺さりました。
まさに、聖霊によって神の愛が私の心に注がれた瞬間でした。
「失望しない希望」が、確かにあるんだと私は確信したのです。
神様はこの時、「御言葉には力があるから、御言葉で人を励まそう!」と短絡的に考えていた私の、そのおこがましい心を打ち砕き、私自身が、まずその御言葉をしっかりと握り締めることを教えてくださったのです。
最後に、
◆希望とは・・・
④神様からの約束の成就を、期待して待つことです。
「希望」という言葉は、旧約聖書の原語のヘブル語では<へ>hwqt(ティクバー)と言います。この言葉の語源は<ヘ>hwq (カバー)で、意味は「待つ」です。動詞では、「期待する」という意味もあります。
つまり聖書の語る「希望」とは「神様からの約束の成就を期待して待つ」ことです。
神様からの約束は、聖書にたくさん書かれています。
信じるものに与えられる日々の恵みもそうですし、主に従う者が栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行くことや、イエス様が再びこの地に来られるという再臨もそうです。
では、私たちは日々どんな風にして、神様からの約束の成就を期待して待てばよいのでしょうか。
亀有教会の牧師館北側の花壇に、初雪カズラという観葉植物を植えているのですが・・・
その初雪カズラ、花壇から牧師館の床の方に芽を出し、壁の裏側の隙間を伝って伸びたらしく、なんと、2階の窓枠の隙間から新芽が顔を出しています。
花壇の初雪カズラの根っこが建物の床の方に伸びて、壁の裏側の隙間に間違って芽を出してしまい、薄暗い中で、はるか上方に見えるほんのわずかな光に向かって枝を伸ばした結果、このような不思議なことが起こりました。
この植物が生きようと必死になって、一筋の光に向かって枝を伸ばしたように、私たちもただひたすら、光であるイエス様を見上げて、聖霊によって、神様からの一方的な愛の注ぎを受けながら、患難をも喜び、自らの枝を伸ばしていけば良いのではないでしょうか。
◆希望とは何でしょう・・・希望とは、
①主イエスによって、神との平和を持つことです。
②主イエスによって、神の栄光にあずかることです。
③聖霊によって、私たちの心に注がれる神の愛です。
④神様からの約束の成就を、期待して待つことです。
そして、私たちの最大の希望とは、
私たちの罪のために、十字架に架かって尊い血潮を流し、罪を贖ってくださり、父なる神と私たちとの仲保者なってくださった御方、生ける神の御子イエス・キリスト、その御方ご自身なのです。