2015.6.7「エリヤの聖書的基盤 申命記5:16」

エリヤハウスとはジョン・サンフォード師が創設した、内面の癒しのミニストリーです。テキストの序文をお読みいたします。「現代、私たちが享受しているあらゆる技術の発達は、正確かつ不動の自然法則を発見し、それに従うことから生まれたと言っても良いでしょう。自然法則に従うことこそ、科学全般に欠かせない条件です。しかし、矛盾があります。私たちは、科学に関して最も謙遜で従順な態度であるのに、私たちの霊と心を治めている法則に関しては傲慢になり、すっかり惑わされているのです。神さまは自然界の法則と共に道徳的な法則も造られたのです。」サンフォード師は3つのみことばをご自分のミニストリーの基礎に置いています。

 1.あなたの父母を敬え

 

 申命記5:16「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えられようとしておられる地で、幸せになるためである。」エペソ6:2-3「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。」十戒は、前半の4つは神さまに対する戒めであり、後半の6つは人に対する戒めになっています。第五戒の「父と母を敬え」は神さまと人々をつなぐ橋のような役目をしています。だから、パウロはこれを第一の戒めであると言っています。サンフォード師は「あらゆるクリスチャン・カウンセリングの基礎となる単純な1つの鍵は、第五戒にあります。この1つの原則、すなわち自分の両親を敬う人にとって人生は良きものとなり、そうしない人にとって人生は困難なものになります。あらゆる夫婦の問題、子育てのジレンマ、道徳的、あるいは不道徳的傾向のすべての根本を説明するのに十分です」と言いました。ある姉妹が「たえず職場の上司の横暴ぶりに頭を痛めています。私は常に不当な扱いを受け、いつ職場を追い出されるか分かりません」と相談しに来たとします。そういう場合、カウンセラーは「あなたのお父さんとの関係はどうでしたか?」と尋ねます。多くの場合、「自分のお父さんも横暴であり、そういうお父さんを心の中でさばいていた」と答えるそうです。サンフォードご夫妻はこのように述べています。私たちは年間1200時間カウンセリングに費やしながら、20年間やって来ました。自分の両親、あるいは自分を育ててくれた人との関係こそが、私たちの人生の根となり、幹となっているものです。現時点において現れてくるものは、それらの根から生じるものなのです。カウンセリングは根本的には意外と単純なものであり、神の律法はそれほど基本的なものだということです。」

しかし、「もし、敬えるような父母だったら敬えるよ」と反発したくなるでしょう。確かに利己的で、自分のことしか考えない親がいます。「躾け」と言いながらも虐待を加えている親もいないわけではありません。聖書で「敬え」というのは、両親の行ないや人格に基礎を置くものではありません。神さまがその両親を私に与えたという一点のゆえに「敬え」ということなのです。申命記6章に書いてありますが、イスラエルでは親が子どもに、唯一の神と、その神を第一に愛することを教えました。なぜなら、そのことが子ども自身の幸せと繁栄につながるからです。もし、子どもが、親に逆らって言うことを聞かないならどうなるでしょうか?そうすると、その子は神さまを信じることができず、不幸な道を歩んでしまいます。ですから、父と母を敬って、聖書の教えに聞き従うことは、その子自身にとって幸いことなのです。でも、残念なことに世の中に完全な親はいません。子どもの人格を否定したり、感情的に叱ったりするかもしれません。親自身も神さまを信じていないし、この世の考えや習わしに従って生きているかもしれません。そうなると、聖書の戒めから来る祝福は、逆に呪いとなってしまうでしょう。

 

養育をする親に問題があるかもしれませんが、子どもにも問題があります。子どもの中にも罪があるので、罪深い反応をしてしまうかもしれません。親が聖人であれ、ひどい人物であれ、正常な人であれ、精神疾患を持つ人であれ、大切なのは子どもがどう反応したかです。サンフォード師ご夫妻は、残虐な虐待を受けていながら、愛情豊かで優しい大人へと成長した人々の例を数多く見てきたそうです。たとえ親が一生懸命、子育てをし、良いしつけをしようとしたところで、子供の方は「懲らしめてくれてありがとう」とは言いません。そのため、親に対して否定的な気持ちを持つ場合があります。エリヤハウスの先生がこのような証をしています。私は、実は子供時代にそういう心の問題がありました。私は非常に意地っ張りな娘でした。親から懲らしめを受けるのが嫌いでした。心から父や母を敬うことをしませんでした。そういうことがある度に、「どうしてお尻をぶたれるの」「どうしてあれをさせてくれないの」「これをさせてくれないの」と思いました。ということは、心の中で何度も何度も両親を敬わない気持ちを抱いてしまったということです。私は、まだ幼い少女の時に「私が大きくなって子供が生まれたら、お母さんみたいにはならないわ。もっといいお母さんになるわ」と思っていました。しかし、実際自分が親になってみて、初めて「子育てというのはそれほど楽なものじゃない」と気付きました。私は自分の親に対して敬わない思い、赦せない気持ち、苦々しい思いという悪い種を蒔いてしまっていました。だから、自分と子供との関係においても問題を刈り取るようになっていたのです。

 

 

人格における根の部分は人生初期の6年間ぐらいで形成されます。幼い時、私たちがほんの小さな子供だった時に、「こうだ」と思ってしまった思いが、現在、刈り取っている結果の原因だということです。子供の時に受けた心の傷やその傷から持ってしまった怒りの気持ちがどれほど今の自分を支配しているかということを知らないで生きている人がたくさんいます。しかし、その傷に気付き、またそこにある悪い思いを悔い改める時に多くの人々がそのような束縛から解放され、人々との関係、神様との関係において回復を経験していくのです。第一の法則はこれです。「私たちが親を敬うことのできたあらゆる領域において人生は上手く行き、敬うことのできなかったあらゆる領域において人生は上手く行かない。」ということです。

 

2.さばいてはいけない

マタイ7:1-2「裁いてはいけません。裁かれないためです。あなた方がさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」ローマ2:1「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」イエス様は「人を裁くと、自分も同じように裁かれる」と言われました。自然界には作用反作用の法則があります。道徳的な世界にも「裁くと裁かれる」という絶対的な法則があるということです。私たちはどうして他の人を裁くような性質があるのでしょうか?それはアダムとエバが「善悪の知識の木」から実を取って食べたことに起因していると考えられます。本来、善悪は絶対者なる神さまのお決めになることです。ところが人間は、この木の実を食べてから、神さまよりもしゃしゃり出て、「これは悪ですよね」とさばくようになったのです。もし、他の人のことをさばくとどうなるでしょうか?自分の中に「ああ、私は同じことをしてはいけない」という呪いが生じます。そして、その人が同じことをした場合、神さまからあわれみを求めることができなります。なぜなら、他の人のことをさばいて、自分のことを赦してくれとは虫が良すぎるからです。私は家内に対して「テレビを見過ぎだ」と怒ってさばいたことが何度もあります。そうすると自分が笑点とか他の番組を見ていると、心が落ち着きません。なぜでしょう?人にテレビを見るなと言って、自分が見ているからです。だから、パウロはすべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」と言っています。

 テキストにはこのように書かれています。裁く思いとは私たちが誰かに対して、「この人はこうだ」と決めつける思い、責めるような思いを抱くことです。どこからそういう思いを抱いてしまうのでしょう。これもやはり幼い時から、心に抱く印象です。また、人生で辛い出来事を経験すると、私たちは裁く思いを持つようになります。また、成長してからでも意識してそのような思いを抱くことがあります。意識して持ってしまった思いは、見つけやすいものです。しかし、多くの場合、大人になってから、子供の時に父親や母親に対してどのような裁く思いを持ってしまったかは思い出せなくなっていることがあります。だからこそ、「聖霊様、私の心を示して下さい」と祈ることが必要なのです。また、もう一つ覚えておくことは、人生に悪い実がなっているならば、必ず悪い根が存在することです。私たちがさばくときに、私たちも同時にさばかれます。エリヤハウスの先生の証です。私が子どものとき、母は怒ると、鍵をかけて3、4日も出て来ないでひきこもっていました。小さい頃、「お母さん」「お母さん」とドアをノックしました。そのとき、私の心の中に裁く気持ち、苦々しい気持ちが起こりました。そして、「絶対、私は家族に対してそういうことはしない!」と決意しました。しかし、自分が結婚してから、絶対にしないということをするようになりました。私は母が傷つけたようなやり方で、自分の家族を傷つけました。お母さんがした同じことをやっていたのです。過去の傷と恨みが残っていました。私がお母さんを裁いたため、私自身もさばかれることになったのです。

 

 エリヤハウスでは「苦い根の裁き」というテーマで詳しく学びます。子どものとき、両親をさばくとそれが根のように心の中に居座ります。するとそこから幹が伸び、枝が張り、花が咲き、実がなります。どんな実でしょう?「さばき」の実です。その人は他の人をさばくので、他の人はそれによって汚されます。ヘブル12章には「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」と戒めています。バートとマーサというご夫妻がサンフォード師のところに相談にやってきました。バートは「マーサの太り過ぎに我慢できないと言いました。一方、マーサは「バートがいつも批判するのをやめてくれさえすれば、もっと簡単に痩せることができる」と言いました。二人にいくつかの質問をしていくと根が見えて来ました。バートを育てた母親は肥満していただけではなく、だらしない人でした。家はいつも散らかり放題、トイレに行くときも戸を開けたままでした。バートは母親の外見と習慣に対して、裁く気持ちを抱きました。一方、マーサの父親は非常に気難しい人で、マーサがいくら努力しても、父に気に入ってもらうことができませんでした。マーサは批判的な父を裁きました。バートとマーサが初めて出会った当時、マーサはほっそりした美しい女性でした。しかし、結婚して妊娠してお腹が大きくなるにつれ、バートは彼女のことを感謝したりほめることができなくなりました。出産後も元の体に戻るまでしばらく時間がかかりました。バートは以前にも増して苛立ち、批判的になりました。バートは今では、自分は母とそっくりな女と結婚してしまったと確信するようになっていました。一方、マーサは責められると動揺して不安になり、慰めを得るために食べ続け、ますます太っていきました。これこそが、裁きの法則です。

 

 何かの行為をしたり、心に裁く気持ちを抱いたりするのは、壁に向かってボールを投げつけるようなものです。ボールの重さと大きさ、壁までの距離、そして投げつける力がわかれば、物理学者はボールがいつ、どのくらいの反動力で跳ね返ってくるかを割り出すことができます。これは自然界の法則です。私たちは容易にそれを理解します。しかし、これは道徳的、霊的な世界にもあてはまることです。イエス様は「裁いてはいけません。裁かれないためです。あなた方がさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」と言われました。バートは母親を裁いたので、肥満を刈り取ることになりました。自分の妻ほど、その刈り取りをするのにふさわしい人物が他にいるでしょうか?しかし、マーサ自身にも裁く気持ちがあったので、それがまず批判的になりやすい男性を結婚相手として引き寄せ、その後相手が批判的になるよう仕向けました。マーサの蒔いた種が熟し、バートを通してそれを刈り取ることになったのです。苦い根の裁きはあらゆる夫婦の関係において、またおそらく人生全般においても、最も共通で根本的な罪なのです。第二番目の法則はこれです。「私たちが人を裁いたのと同じ領域において、私たちは損害を受ける。」ということです。

3.種を蒔けば、刈り取りもする

ガラテヤ6:7-8「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」サンフォード師が書いた『内なる人の変革』という本の中で、このように説明されています。「種蒔きと刈り取りの法則は、アダムとエバが創造される以前から、この宇宙全体においてとこしえに働くものでした。罪が入る前、この法則は祝福が増幅するために造られたものだったのです。そしてそれは、今でも変わりません。しかし罪の幕開けによって、この同じ法則が今度は破滅の方向へ撥ね返るようになったのです。そのため、創造を計画された初めの時から人が罪を犯すことをご存じだった父は、私たちに降りかかるべき悪を刈り取るため、イエスを遣わすことを計画されたのです。箴言13:21「わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい人に報いる」とあります。神の法則は、他のあらゆる自然界の法則がそれ相応の結果をもたらすと同様に、報いや罰を私たちに降りかからせるべく、積極的に働きかけるのです。」サンフォード師のことばを聞くと、「ああ、因果応報か?」と嫌になるかもしれません。確かにそういうところがあると思います。しかし、神さまはこの自然界を造られたとき、法則も一緒に造られました。神さまは愛なる方なのですが、法則を曲げない義なる方でもあります。本来は御霊によって善を蒔けばいのちを刈り取るという良い法則です。しかし、同時に肉を蒔けば滅びを刈り取るという悪い方にも働くということです。

自然界を見てもわかりますが、種を蒔けば刈り取りがあります。私たちが蒔く種は、ごく小さいものかもしれません。子どもの頃、家族のだれかに対して抱いた怒りや恨みなのです。私たちはもう、それらを忘れてしまっています。それにきづかないまま、またはそれを無視したまま時間が経てば経つほど、その種は成長していきます。テキストにはこのように書いてあります。「私たちは種を蒔いて、すぐにその実を刈り取るわけではありません。芽が出てもまだ刈り取りではありません。花が咲いても、まだ刈り取りではありません。実がなってその実が熟して初めて、刈り取りが起こります。実際の人生においては、種を蒔いた時から、実際にその結果を刈り取るまで、10年、20年、30年、40年という歳月が流れることがあります。アメリカで最近の傾向として、結婚して25年経つような夫婦での離婚が広がっています。突然、問題が持ち上がって、どうしてこんなことになったのか分からないという人が私たちのもとにカウンセリングを受けに訪れます。子供の時に何らかの種まきをしていたとしたら、40年、50年経ってからでは、どういうところから、この結果が出ているのか分からなくなってしまうのも否定できません。」独身のときは、まだ実がみのっていないので分かりません。結婚して子どもが与えられたとき、子どものときに蒔いた種がバーッと姿を現わすことは良くあることではないでしょうか?不思議なことに、自分が親にしたことを、子どもが自分に同じことをやるということがあります。そんなとき、「ああー、かつての私だった」と頭をかかえてしまいます。

しかし、種蒔きの法則はそれで終わりではありません。1粒の種を蒔いたら1粒の実しか結ばないでしょうか?そんなことはありません。アダムとエバが最初に与えられた命令は「生めよ。ふえよ。地を満たせ」でした。神の御国においてもすべてものは増加します。マタイ13:8「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ」とあります。そうです。種蒔きと刈り取りの法則に加えて、増加の原則というものが働きます。絵に描いてありますが、ここにいる一人の人がボールを投げます。何らかの罪の種を蒔くということです。それからずっと時間が経って、この人は前より年をとっています。最初に投げたボールはそれほど大きくありませんでしたが、受け取る時には大きな物となって跳ね返ってきます。子供の時、投げた玉は小さかったのに、大人になって返って来ているボールは、その人を押しつぶすほど、大きくなっています。蒔いたものは何倍にもなって自分のところに戻ってくるのです(良いことであっても悪いことであっても、です)。罪や苦々しい思いという種を蒔くと、ダンプトラックのタイヤみたいに大きくなって戻ってきます。幼いとき、苦い気持ちを蒔くと、苦いものも30,60,100倍に戻ってくるのです。子どものときに苦々しい思いという種をまきました。「退職後はどのような生活をしようかなー」と思っていますが、巨大なボールが戻ってきます。結婚生活はダメになり、息子も娘も家出しました。その人は、「なんとか助けて下さい」と叫びます。第三の法則はこれです。「私たちは確実に自分の蒔いた物を刈り取る。しかし、そこには増加の法則も伴う。」ということです。

 安っぽい恵みなど、ありません。あらゆる罪は結果を要求します。赦しとは、神が反対側を向かれることや、神の掟を曲げられることではありません。イエス様はこういわれました。マタイ5:17「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」イエス様が十字架にかかられて、私たちが刈り取らなければならなかったものを、イエス様が代わりにその身に受けてくださったのです。イエス様は十字架の上で私たち一人ひとりのために、そのことを成してくださったのです。イエス様が私たちのために身代わりとなって十字架で死ぬためには、先ず私たちと一体になる必要がありました。私たちの罪と一体化されてはじめて、十字架の上でイエス様は刈り取りをすることができたのです。このために、十字架が必要だったのです。神はこの世を愛されたがゆえに、御子イエスを通して、私たちが本来刈り取るべき刈り取りを受けてくださったのです。しかし、十字架は自動的に働くのではありません。もし私たちが告白して悔い改めないなら、すべての結果を自らの手で刈り取りことになるのです。しかし、一瞬の告白で豊かなあわれみを得ることができます。私たちのところに、刈り取りの法則のゆえに、大きな罪と災いが襲いかかろうとしています。しかし、罪を告白して悔い改めたなら、その手前にキリストの十字架がたてられるのです。キリストの十字架こそがすべての呪いを打ち砕いてくれる神さまからの解決なのです。父なる神さまは脱出の道を与えてくださいました。それがキリストの十字架です。