2015.6.21「パフォーマンス指向 ガラテヤ3:1-3」

 この世で、パフォーマンス(Performance)は、楽曲を演奏する、演劇やコントを上演する、ダンスを披露するという意味で使われています。しかし、本来、パフォーマンスには、良い行ない、功績、偉業という意味があります。私たちは良い行ないや功績ではなく、恵みによって救われたはずです。しかし、クリスチャン生活をしていく中で、不要に思われていたものが、もう一度、息を吹き返すということはないでしょうか?「神さまを喜ばせたい」「神さまのお役に立ちたい」という思いは立派ですが、「良い行ないや功績がなくてはならない」という思いが起こったらどうでしょう。初めは純粋だったかもしれませんが、「神さまや人々から認めてもらうために、もっとやらなければならない」と休まずに頑張ってしまいます。 

 

1.パフォーマンス指向とは何か

 

 新生したクリスチャンが常に持つ傾向は、人間的努力による頑張りに逆戻りしてしまうことです。頭と霊では、救いが無償の賜物であるとわかっていても、何かをすることによって愛を得ようとする習慣が、まだ心に残っているからです。神の愛に根ざしていない動機から仕える中で、自分でも気づかない内に、頑張りや緊張、恐れに蝕まれていってしまうのです。「パフォーマンス指向」という言葉は、私たちの働きや、その結果成し遂げたことを指すのではなく、私たちを動かしている誤った動機を指しています。アメリカからきた先生が「なんで日本の教会は忙しいのか?」と驚いたそうです。日本のクリスチャンは「主のためにしなければ」と、必要以上に「もっとしなくっちゃ」と、あせって頑張るところがあると見抜きました。日本では、勤勉に対する美徳が成功を収めています。しかし、そのために人間関係が犠牲になっています。教会の中でも純粋な主の愛がありません。「もっとしなくっちゃ」、「良いクリスチャンにならなくっちゃ」という偽りのメッセージが伝わっています。どうでしょうか?思い当たる節はないでしょうか?

 私はこのことに長い間はまっていたので、渦中にいたときは何なのか分かりませんでした。しかし、今は90%くらい癒されたので、パフォーマンスで動いている人をみるとよく分かります。クリスチャンは存在そのものがすばらしいとか、恵みによって救われているということを頭では分かっています。はじめはそのことで感動したかもしれません。しかし、救われてから昔の価値観、つまり、肉が働きます。「もっと神さまのためにできるはずだ」と自分の力で頑張ります。しかし、心の深いところでは、「まだ足りない、まだ不十分だ。これでは神さまから受け入れてもらえない」という恐れがあります。私は8人兄弟の7番目で生まれましたが、優秀な兄や姉のため、全くほめてもらえませんでした。どうしても自分の存在価値を認めさせる必要がありました。そのため図工や運動会などで、たくさんの賞状を集めました。大人になって、資格を取らなければと努力しましたがけっこう挫折しました。クリスチャンになって、「あなたは高価で尊い」と言われ、私の存在そのものがすばらしいと分かりました。しかし、献身してから、牧師や周りの人たちの対応が変わりました。「言動がきよくない」とか「献身したのだから」と言われ、「あれ、このままじゃダメなの?」と不安を感じました。聖書勉強の他に様々な奉仕が舞い込んできて、猛烈に働くクリスチャンになりました。教会の倉庫で、全国に大川牧師の礼拝テープを配送していた時がありました。関根音楽主事から「一生懸命やっているね」と言われた時、「しもべは気が狂いそうです」と答えました。あるとき大和キリスト教会で3回説教を語る機会がありました。2回目の説教の後、ホルンの宮田四郎先生から、「とても大変そうに見える」と言われました。この状態は、亀有の会堂建築後もしばらく続きました。これはおかしいと分かったのは、2000年くらいに「恵みの歩み」というセミナーと、エリヤハウスの「パフォーマンス指向」に出会ってからです。ウォッチマン・ニーの本の中に、「肉にある者は、神を喜ばせることができない。肉によって神さまを喜ばせる必要はない」と書いてありましたが、とても安心したことを覚えています。

 エリヤハウスのジョン・サンフォード師はご自身の本の中でこのように述べています。新生したクリスチャンの中でも、人間的な努力に再び陥ってしまうという傾向が常に見られます。霊の部分と頭では、救いが無償の賜物であることを理解しても、心にはまだ、何かをすることによって愛を得ようとする習慣が残っているのです。多くの場合、「救われた」私たちは、いつの間にか、神の愛以外の動機で奉仕をするようになり、葛藤と苛立ちと不安に満ちた人間的な努力に陥ってしまいます。しかも、自分ではそのことに気づいていません(惑わされています)。たとえ薄々感づいてはいても、なぜ、どのような動機によってそうなってしまうのかまでは分かっていません。「パフォーマンス指向」という言葉は、私たちの働きや、その結果、成し遂げたことを指すのではなく、私たちを動かしている誤った動機を指しています。アーメン。では、「誤った動機」とは何でしょう?「良いことをしなければ愛されない、受け入れられないのでは?」という不安や恐れ、緊張があるということです。外からはとても真面目で全く問題がなさそうに見えます。しかし、神さまへの愛からではなく、神さまや他の人たちから認めてもらいたいために頑張っているのです。こういう人の心の奥底には、「このままでは受け入れられていない」という不安と恐れが隠されています。「パフォーマンス指向」とは、私たちが行う奉仕の内容ではなく、私たちを駆り立てている間違った動機を指す用語なのです。

 

2.パフォーマンス指向はどこから来るか

 

ジョン・サンフォード師は、幼い子どもは、程度の差はあれ、皆何らかの偽りを受け入れ、それを自分の性質に取り込むと言っています。中でも最も広く浸透し、私たちの行動を腐敗させている嘘は、「正しく振舞わなければ愛されない」「パパやママの言う通りにしないと、受け入れてもらえない」というものです。たとえば、トイレ・トレーニングで、「よくできたわね。ママはあなたのことが大好きよ」と言ったとします。もちろん、母親は、子どもが何度、下着を汚したとしても同じように愛してくれるでしょう。しかし、まだ幼い頭脳はその行動と愛を結び付け、逆の結論に達するのです。「トイレのことでも、他のことでもちゃんとやれなかったら、ママは私のことを愛してくれない」と考えます。「まあ、新しい服が良く似合っているわねえ。ママはあなたが大好きよ」と言ったとします。子どもは外見を良くすると愛される、そしてだらしない恰好をしたり、見た目が悪いと愛されないというメッセージを受け取るかもしれません。「一晩寝て、一度も泣かなかったね。いい子だ。お父さんはお前のことを誇りに思っているよ。大好きだ。」しかし、子どもの心は、良き振る舞いと愛されることを融合させてしまいます。「私のかわいい息子はどこへ行ってしまったのかしら。さっきまでここにいたのに。こんなことをする子が私の子であるはずないわ」。このような文句は私たちに「自分の本当の姿は受け入れられない、お人形さんのような愛らしい姿、他の人がこうあるべきだと考える姿だけが自分のあるべき姿であると直接教えます。そして自分がそうなれないと、不安に襲われます。他の人から見離されたり、自分を失ったりするのを恐れるあまり、自分自身を作ることで身を守るのです。皮肉なことに、期待されている姿を演じるのに成功すればするほど、実際に自分の本来の姿から離れていってしまいます。子どもは、いたずらをして当然。天使のような瞳と汚れた肌のいたずらっ子、それが私たちの姿なのです。

ある姉妹は小さい時、抱っこされた覚えがありませんでした。褒め言葉を聞いたこともありません。どこかで絶えず、「良い子でなければ受け入れられない」という印象がありました。人と一緒になることを恐れ、批判的になり、どうしても受け入れられません。無理やり頑張ってみますが、安心感がありませんでした。また、あるお兄さんは、妹と比較されました。妹の方がトイレが早くできるようになりました。食事もお兄さんより早くなりました。二人の間に競争がありました。親もつい比較して、「妹はできたでしょう。見てごらん」と言いました。お兄ちゃんは嫉妬の気持ちが起こり、あせって妹より早くできるように食事をすましました。そして、周りの人たちと競争するようになりました。無意識に他の人よりちょっとでもすぐれている態度を取ることにより、自分の価値観を確認したくなりました。このような人たちは、周りとの関係がおかしくなりやすいのです。クリスチャンになるとき霊は新しく生まれ変わりますが、心(思い)はそうではありません。福音によって新しくなっているところもあれば、そうでないところもあります。特にパフォーマンスがやっかいなのは、本人が「私は神さまのために良いことをしている」という自負心があることです。ガラテヤの教会員は信仰によって救われたということを体験しました。ところが、後から来た人たちが、「信仰だけではなく、律法を守らなければ救われない」と言いました。彼らは、「ああ、そうだったのか?」と恐れがやってきました。そして、正しい行ないによって神さまに近づこうとしました。彼らは律法を守り、とても宗教的になりました。しかし、そうすればするほど、神の子ではなく、奴隷に逆戻りしてしまったのです。

ジョン・サンフォード師の『内なる人の変革』で、このように述べています。教会においては、パフォーマンス指向は、クリスチャン精神とはかけ離れた宗教的な霊を作り出します。宗教とは人間の神への探求、人が聖書を学んだり、教会に通ったり、良い行ないをしたり、献身することによって神を見出し、神を喜ばせようとすることです。クリスチャンの信仰はその逆です。神が人を見つけ、その絶えざる愛を人に降り注ぐことなのです。宗教においては人が神にしがみつこうとしますが、真の信仰は神が人を捕えることです。宗教においては人間的な努力、恐れ、自分は駄目だ、自分には無理だという誤った罪意識があります。信仰においては、自分中心の世界は御父の手に明け渡され、自分でするよりも上手に神が私たちを作り変えてくださるということから来る安息と平安があるのです。信仰にあっては、どんな苦闘も平安のうちに守られています。神が私たちを愛し、選んでくださったのです。一時的に神との交わりから離れてしまうことはあっても、神の愛から外れることはなく、そんな時にも、神が私たちを追いかけ、捕えてくださるのです。ですから安心です。失敗する自由が与えられているため、それほど失敗しなくても良くなるのです。宗教的な人々は、パフォーマンス指向を神に向けます。そして、厳しい「要求」を私たちに課す父親というイメージで神を見るのです。聖霊を受けるや否やパフォーマンス指向の人は意識下で、「さあ、神さまの期待に応えるために頑張らなくては」と思い、完全を目指すのですが、それは実はイエスへの愛から出ている動機ではなく、拒絶されることへの肉的な恐れから来るものなのです。パフォーマンス指向と宗教心が結びついているということです。

 

3.パフォーマンス指向の実

 

 これまでは目に見えない根の部分についてお話ししました。実とは外側から見えるものです。パフォーマンス指向の実にはどのようなものがあるでしょうか?第一は、「どうせ自分は」という「負け犬」的姿勢を身につけることもあります。たとえば、人に好かれようと一所懸命になるあまり、自分自身を見失います。愛を得るために自分を身売りしている、あるいは人を騙しているように感じます。

第二は絶対に「成功」しなければ、と思い込むということです。ガラテヤ110「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」テキストにはこのような特徴が記されています。人からの賞賛が必要。人からの褒め言葉が信じられない。常に自己防衛的。あらゆることについて「自分がやらなければ」と思う。常に超多忙。他人を責めがち(やっていない人をさばくということです)。疲れている。隠されていることもあるが怒りがある。人のために何かミニストリーをすることはあっても、自分が人からのミニストリーを受けることができない。何かしてもらったら、お返しせずにいられない。周りの人々や状況をコントロールしようとする。真に親密な関係を持つことができない。孤独。人から赦されることを要求するあまり、その人自らの意志で赦してくれるようになるのを待てない。リーダー的立場に立つと、人々の自発性や喜びを抹殺してしまう。あてはまることはあったでしょうか?超多忙、疲れている、人をコントロールするようなところがある。でも、なぜ、そんなに頑張らなければならないのでしょう?その人は存在ではなく、行ないに価値観を置いているからではないでしょうか?もう1つは、神さまよりも人の評価を重んじているということです。私も牧師として「あれもしなければ、これもしなければ」とやってきました。「あなたは私たちの献金で生活しているのだから、もっとやってくれないと困る」という声なき声も聞こえてきます。「伝道して、受洗者を上げて、教会をもっと大きくしなければ」という負い目がいつもありました。しかし、ある時から、神のしもべ、牧師という存在そのものがすばらしいんだと悟りました。「弟子訓練もセルも失敗したなー」とがっかりしたときがありました。でも、私はみことばを語るpreacher説教者であることは失敗していないと悟りました。数年前、死人を何人もよみがえられたタンザニアのガジマ師の聖会に出席しました。彼のメッセージはとてもシンプルでしたが力がありました。私はそのとき、学歴や資格よりも、神さまからの油注ぎにはかなわないということを知りました。私の説教には神さまからの油注ぎがあると自覚しました。アーメン。何かできるからではなく、神さまは私を召して下さった、そのことが大事だと悟りました。

テキストには、パフォーマンス指向がもたらすものとして以下のことがあげられています。

パフォーマンス指向がもたらすもの…恐れ、頑張り、慢性的疲労感、不安感。

パフォーマンス指向の極端な結果…鬱、虐待(抑圧的)。

パフォーマンス指向の人は、批判を受けるのが難しい。

パフォーマンス指向の人は常に忙しい。

 どうでしょう?ご自分自身がパフォーマンス指向の人でしょうか?あるいは身近な人がパフォーマンス指向の人でしょうか?パフォーマンス指向の人は、自分の最も身近な人に対して、その人がどれだけのことを自分にしてくれたかによって、愛情を示す度合いを変えます。良くしてくれない相手には、愛を与えません。「ふさわしくない」からです。自分もそのように扱われてきたので、周りの人に対してもそのような接し方をしています。クリスチャンの愛は、パフォーマンス指向的な行動の反対でなければなりません。相手が良い行ないをしても良い行ないをしなくても、変わらぬ愛を与えることです。これは、自分の中に、ありのままを愛してくれているキリストの愛がない人には不可能です。条件付きの愛で生きて来た人は、人を支配する道具として、愛を利用し続けるのです。結果として、多くの人が傷を受けることになります。

 

4.パフォーマンス指向のいやし

 

ジョン・サンフォード師はこう教えています。「キリストのために生きるのをやめなさい」と言うのではありません。古い動機が死に、新しい動機が誕生しなければならないのです。私たちは十字架につけられるまでは、その奉仕の裏には必ず罰を恐れる気持ちからであったり、神さまの愛を得るためであったり、そうしなければならないという義務感があったり、間違った良心の呵責からであったり、他人の目を気にしてであったり、受け入れられないのではないかという恐れがあったりと、すべて間違った動機からなのです。それらはすべて死ななければなりません。私たち一人ひとりを駆り立てる純粋な動機は、私たちを通して流れるイエスの愛でなければいけません。何かを期待してするのではなく、また相手から同様にされることを求めてでもなく、自分が受け入れられ愛されていることを確認するためでもなく、恐れを遠ざけるためでもありません。これらの必要は、イエスという賜物によってのみ、真に満たされるものなのです。しかし私たちの不信仰な心がこの事実を真に悟るまでは、私たちは頑張り続けることでしょう。ついにパフォーマンスに死んだ後にも、主のために前と同じ奉仕を同じ形ですることになるかもしれませんが、私たちを通して流れるものは肉的なものからイエスの愛にかわるため、周りの人もすぐに気づくでしょう。アーメン。ジョン・サンフォード師のことばの中に、「動機」ということばが何度も出て来ました。間違った古い動機を捨てて、新しい純粋な動機に取り替えるということです。この作業のためにはどうしても、パフォーマンス指向は醜い罪であることを認めなければなりません。パフォーマンス指向はその人の生活、生き方になっています。樹木は、根、幹、実という3つから成り立っています。パフォーマンス指向は幹の部分、つまりその人の構造になっています。ですから、これは十字架に持っていくしかありません。古い構造は死ななければなりません。頑張って死のうとすると駄目であり、頑張ってはできません。「主よ。あなたの十字架で死なせてください」と願いましょう。

パフォーマンス指向の人は、これまで十分な愛を受けてこなかったのです。受けたとしても、条件付きの愛です。自分の受け止め方も歪んでいたかもしれません。でも、結果的には、愛をもらいたい、認めてもらいたいと必死に頑張って来ました。行ないは立派だったかもしれませんが、「こんなにやっているのに、分かってもらえない」と人をさばいていました。ですから、パフォーマンス指向の人は無条件の愛を神さまからたくさんいただくべきです。クリスチャンになったからと言って、奉仕をしなければならないという強迫観念を持つ必要はありません。神さまはキリストにあって、何をしなくても、私たち存在そのものを愛して、受け入れておられるからです。また、過去において、自分に十分な愛を与えてくれなかった最も身近で重要な人々を赦す必要があります。このことによって、パフォーマンス指向が身についた原因の根っこが癒されます。最も身近で重要な人々は分かってくれなかったかもしれませんが、イエス様は分かってくれています。イエス様は受け損なったものを全部、贖ってくださいます。極端に言うなら、人から認められることを手放すべきです。人とは元来いい加減で、自己中心的な存在です。それよりも、神さまの御目のもとで生きれば良いのです。たとえ失敗しても私の存在価値は失われません。疲れたときは休んで良いのです。神さまのもとで安息しましょう。神さまから「それはしなくて良いと言われれば」たとえ良いことでもしなくて良いのです。私たちは肉にではなく、内におられるイエス様によって生きれば良いのです。