2015.6.28「親子逆転と代理配偶者 Ⅱコリント12:14」

 親子逆転という言葉を聞かれたことがあるでしょうか?日本では子どもが親の手伝いをすることは美徳とされています。特に片親が親の役目を果たしていない時、長男もしくは長女が家を支えるということがあります。とかくそういう子どもは頭が良くて、能力があります。だから、周りの人たちは「良くやっているわねー、偉いわねー」とほめます。でも、そういう子どもが大きくなると、周りの人たちから嫌がられます。なぜでしょう?とかく仕切りたがるからです。その人はとても優秀かもしれません。でも、その人といるとなんだか支配されているような感じがするのです。その人が結婚して家庭を持ったとします。外にいるときは解放されて自由ですが、家の中ではたくさんの責任を負っているので気が休まることがありません。自分もしくは身近な人のことで思い当たるふしがあるでしょうか?

 

1.親子逆転とは

 

サンフォード師は『内なる人の変革』という本の中で、このように定義しています。「親子逆転」とは、片親もしくは両親が未熟過ぎたり、親としての務めを果たせていなかったりするため、子どもが自分の親の親代わりになるという責任を負ってしまうときに起こる問題を表現する用語です。これは神の定めた秩序を逆にするものです。子どもが気兼ねなく子どもでいられ、安心できる家庭を提供することは親の務めです。親が子どもの面倒を見るのであって、その逆ではありません。様ざまな雑用や責任を任せていくことは子どもにとって良い訓練ですが、家族の面倒を見るという責任の重圧は、あくまでも子どもではなく両親の方に置かれるべきです。親子逆転の罪は、憎むのが難しい罪です。多くの人にとって、それが人生の「崇高な」目的となってしまっているからです。その犠牲的な奉仕は、みことばに基づいたもののように思えます。しかし、神が私たちに、人のために自分のいのちを捨てなさいと言われたのは、神ご自身のためであって、私たちの傷ついた心からくる不純な動機のためではありません。なぜそこに罪の側面があるかというなら、うまく務めを果たしていない親に対して、軽蔑の気持ちが隠されているからです。親を敬うことが必要であり大切なのですが、親によって失望させられ、がっかりした気持ちを抱いてしまっています。

 歯科医でエリヤハウスの奉仕をしておられるジョンという人の証です。私は1950年、4人兄弟の長男として生まれました。父は一生懸命働きましたが、給与が良くありませんでした。父は2つの仕事を持っていたために、家にほとんどいませんでした。それでも豊かとは言えず、月末になると、食べ物が家に無い状態がありました。私は10歳で新聞配達をし、弟にも自分のもとで働かせ、小遣いをやりました。月末に食糧がなくなると、自分の稼いだお金でステーキを家族に食べさせました。私が家族の必要を満たしているという誇りを持ちました。弟や妹は喜んでくれたし、母も自分の息子はすばらしいことをしていると思っていました。ただし、お父さんは複雑な表情をしていましたが、なぜだか分かりませんでした。私は自分のことを誇りに思っていました。夜、父が仕事に出て行くと、母はいろんなことを話してくれました。確かに、母が息子に対する特別な関係だったかもしれません。しかし、そういう自分に誇りを抱いていました。私は弟と二人の妹をいつも守っていました。弟やもう一人の妹が、幼い妹をからかっているとき、「妹をもっと大事にしなさい」と叱りました。一番下の妹が私を慕ってくれたことを誇りに思っていました。私は弟を狩りや魚釣りに連れて行きました。お父さんが自分でやってくれたらいいのにと思ったことを弟にやってあげました。弟は自分のことを愛してくれたし、私も弟を愛しました。そういう自分を誇りに思っていました。

 彼の証の中に時々出て来たフレーズは何だったでしょうか?そうです。自分を誇りに思っていたということです。それから、彼自身の中にあった隠された思いとは何でしょうか?なぜ、父親は複雑な表情をしていたのでしょうか?彼自身がおっしゃっていますが、父を愛していましたが、尊敬はしていなかったのです。なぜそこに罪の側面があるかというならば、うまく務めを果たしていない親に対する軽蔑の気持ちが隠されていたからです。彼は大人になってどういう人になったでしょうか?彼は、頼るべき強い人になるという態度を身につけました。職場でも教会でも私が一番、献身においても私が一番と思っていました。彼は牧師に仕えましたが、牧師から祝福されたいという気持ちになれませんでした。時々、牧師よりも自分の方が良くわかっていると思いました。彼は「自分が重要だ」と思うあまり、他の人のことを認めることができませんでした。彼は家庭を持ちましたが、子どもたちに最高の子育てをしなければならないと思っていたので、ちっとも平安がありませんでした。自分の家庭を持っても、なお自分の弟のことを面倒見ていました。弟はすでに立派な大人だったのに狩りに連れて行きました。彼は親子逆転の典型的な例だと思います。彼の中には自分が一番だというプライドがありました。職場でも教会でも、家庭の中ででもそうでした。

 

2.親子逆転の実

 

大人になったときに現われる、親子逆転の実とはどういうものでしょうか?

・弱い人々を助ける強い人間

・問題解決をする人、命を与える人

・どんなに疲れていても休むことができない

・周りの状況を常にコントロールし、人間関係が常に上手にいっていなければ気がすまない。

親子逆転の夫は「嫁と姑」の口論を見ていられません。本当は口論をしながら、二人で仲直りしていくものです。子どものときに、たくさんの喧嘩を見てきたので、そういうことは想像もできません。一方、親子逆転の妻の場合は、気も体も休まることがありません。ストレスがたまる生き方をしています。

・何事もうまくいっていなければ気がすまない

・人を信頼するのが難しい。自分の方がちゃんとできると信じているので他の人に任せることができません。他の人の自主性を奪います。また、夫婦の場合は、配偶者を出し抜こうとします。夫もしくは妻の役目を奪い、人間性を尊敬することができません。

・神を信頼することが難しい。 神さまのすることを、弱くて助けが必要な存在と思っています。だから、「私にはできません」と言えません。

・高慢さ。この人は「崇高な殉教者」です。人々と神様のために尽しているのに、なぜ人から恨まれるのか分かりません。

・非常に大きな恐れ。 「もし自分が今やっていることをやめてしまったら、家族の生活や自分の生活、世の中すべてがめちゃめちゃになってしまう。私のせいで」と思っています。

・乱暴や無秩序にどう対処していいかわからない

・感じることができない。問題が起こると、感情を殺して理性で解決しようとします。配偶者や子どもたちと親密な関係を築き、一体になることができません。

 今、思えば、私の一番上の兄と一番上の姉が親子逆転の傾向を持っていました。我が家は8人の兄弟がいましたが、父が国鉄をやめてから働かないで毎晩お酒を飲むようになりました。時々、怒り出しては母を殴り、私たち子どもにも暴力が及ぶことがありました。一番上の姉はお嫁に行ってからも、実家の私たち兄弟を経済的に支えてくれました。長女はいつも母の見方でした。また、一番上の兄は稼業を継がないで、関東の会社から仕送りをしてくれました。母は長女を「姉さん」、長男を「兄さん」と呼んで頼っていました。しかし、私たち下の子どもは、長女のお世話が好きでありませんでした。彼女が買ってくれたセーターや靴が気に入りませんでした。また、長男がお盆や正月に帰って来ますが、私たちを「百姓」と馬鹿にしました。勉強を教えるとき「こんなことも分からないのか?」と見下しました。また、お年玉を投げるようにくれたので、ありがたいとは思いませんでした。特に上から二番目の兄は頭があまり良くなかったので、良くできる長女と長男を心の底から憎んでいました。つまり、親が親らしく経済的にも精神的にも治めなかったので、下にいる子どもたちが不安になったのです。長女や長男が家をささえたので、バランスがくずれてしまったのです。成人してから長女の家や長男の家を何度か訪問したことがありました。その時は分かりませんでしたが、今思うと、親子逆転の実がそれぞれの家庭にもあることを知りました。長女の家では、彼女が忙しく動いて、一緒にテーブルに座っていることができません。長男は会社にいるときは明朗活発でとても能力がありますが、家ではとても支配的です。彼らは自分を犠牲にして、私たち弟や妹の世話をしてくれました。私たちが高校を出られたのも、彼らのおかげです。でも、彼らは父親をとても憎んでいました。「なんで私が、なんで俺が」と怒りを持ちながら、実家を支えたからそうなったのだと思います。

 

3.親子逆転のいやし(ミニストリーをする人の立場から)

 

まず、自分の親を赦すことです。ある人は、ちゃんとしてくれなかったお父さんを赦すのは簡単でした。しかし、そこにいたお母さんを赦すことができませんでした。だから、両親を赦すことが必要です。注意することは、その人の気持ちの部分を取り扱うことです。心の奥に怒りが隠されていることをわかってもらいます。「それでも自分で頑張ることができる子どもの絵」を見せます。子どもが親の代わりをするのはフェアーではありません、無理です。心の中が怒りでいっぱいになります。自分自身の子ども時代を失った怒りとさみしさがあります。親の面倒をみることが、子どもの責任でないということをわからないうちにやっていたからです。しかし、もっと深い部分において、だれも私の面倒を見てくれる人はいないと思っていました。周りの人は利用するだけなんだと怒っていました。子どもらしさを失った小さな子どもがいます。基本的信頼感、つまり、お父さんがみんなを守ってくれることを信頼できなかったのです。エリヤハウスでは癒しを行なう場合「5本の指」のステップで行います。

第一は認識です。何を赦すべきか、ということを認識するように助けます。いなくなった親、かまってくれなかった親に対して腹を立てたこと(憎しみを持ったこと)が分かるように助けます。心の動機が隠されています。

第二は親を赦す祈りをします。親がしたこと、あるいはしてくれなかったことについての赦しのことばをイエス様に聞いてもらい、受け入れてもらいます。

第三は悔い改めです。親をさばいたことについて悔い改めます。神様を弱々しいと思ったことも赦さなければなりません。大切なことは、大人の自分が赦すことを選ぶことです。神様がその人の子供の部分に触れて下さるように祈っていきます。

第四は十字架と復活です。親子逆転の構造とその行ないを十字架につけます。新しい構造が与えられるように祈ります。

第五サポートです。新しい行ないを勧め、励まします。可能であれば、親に電話して「愛しているよ」と伝えます。親や配偶者、同僚をコントロールしようとするのをやめます。指摘されたら、コントロールしようとしていたことを認めます。

 さきほどの、ジョンはどうなったのでしょうか?ここからは彼の証です。「神様どういうことでしょう?私は一生懸命、最高の自分になろうとしています。私の仕事を見ても成功しています。子どもは良い服を着ています。みんなをバケーションにも連れて行ってやっています。それなのにどうして私の人生に問題があるのでしょうか?」。妻が私にミニストリーをしてくれました。彼女は私に言いました。「あなたは私に対しても距離を置いています。他の人に対しても距離を置いています。そして、人々を遠のけています。あなたは私を自分の心の中に入れません。他の人も心の中に入れません」。ジョン。私には石の心があって、自分自身と他の人々の間に高い壁をめぐらしていました。他の人には許容範囲内で恵みを与えていました。私は自分の心の動機が間違っていたことを悟りました。自分がすべてのことを面倒見ていかなければならないと思っていました。私は母のことを赦しました。自分の父をさげすんでいたことに気づきました。自分は父親を尊敬していないことに気づきました。神さまに対して悔い改めました。父に対して悔い改めました。妻に対して悔い改めました。母に対して悔い改めました。そして、父を赦すことを選び取りました。父は私たちに食べさせるため一日16時間働いていました。そのため不在だったのです。父を赦しました。それから、父は私のことを赦してくれた。母も私のことを赦してくれました。妻も私のことを赦してくれました。神様も私のことを赦してくれました。親子逆転のパターンが次の世代へと受け継がれていきます。けれども私は子どもたちが大きくならないうちに、カウンセリングを受けたので、そのパターンを止めることができました。神様は家族の悪いところを止めて、癒すことができます。

 

4.代理配偶者

 

代理配偶者は親子逆転のさらに深刻な形です。親が同性、あるいは異性の子どもに対して不適切な頼り方をする時に生じる状態です。母親もしくは父親が不在のとき、たいていは、異性の子に不適切な心理的な頼り方をします。子どもが残された親に対し、肉体関係までは行かなくても、配偶者のようになります。心理的な面で夫と妻になります。息子(娘)が母親(父親)に性的な思いを抱くことが決してなくても、無意識のうちに、好ましくない感情と刺激とを打ち消さなければなりません。心の深い部分に、「これは母親(父親)だから、そんなふうに思ったり、感じたりしてはいけない」という声にならない思いが生じてきます。そして、子どもは性的な欲求が起こったとき、スイッチを切るメカニズムが生まれてしまいます。その人が大人になり結婚したときに、妻もしくは夫と自由な関係を持つことができなくなるのです。たとえば、夫が亡くなってしまった場合、妻は夫に話すべきことを長男に話すかもしれません。長男は彼女のカウンセラーのようになって、「こうしたら良いんだよ」とアドバイスをします。長男はお母さんを愛しているのですが、なんだか恋人のように思えてきます。お母さんも長男を恋人みたいに思えてきます。お母さんから抱きしめられると変な気持ちになります。実際はそうでないので、長男は「こんなことを感じてはいけないのだ」とスイッチを切ってしまいます。やがて長男が結婚したとき、自分の妻がお母さんのように思えてしまって、親しい関係を持つことができないということです。これは娘とお父さんという、逆の例にもあるということです。代理配偶者は親子逆転よりもさらに深刻なものです。親が心理的な必要を満たすために、子どもを打ち明け相手にするからです。

こういうことは、日本ではあまり話さない内容ではないかと思います。日本は恥の文化なので、かつてこういう状況があったことを話さないでしょう。でも、代理配偶者であったことの実が必ず現れます。特に、結婚生活がうまくいかなくなるということです。それでは、どのようにしたら癒されるのでしょうか?現在、ミニストリーを受けている人の多くは、両親から離れて生活しています。親子逆転や代理配偶者の実のほとんどは、親以外の身近な人々との関係において現われます。まず、両親を赦すことです。そうすると、自分をそのような行動に駆り立てている力が取り除かれ、変化が起こり始めます。また、お父さんもしくはお母さんと出来てしまった心理的な関係を御霊の剣によって断ち切る祈りも必要です。親に対する隠れた憎しみと怒りを悔い改めます。そして、新しい生き方を身につけるようにします。

きょうは、親子逆転と代理配偶者という、普段は話さない内容を分かち合いました。しかし、この教えを分かち合った後も、罪の問題なのかどうなのか分からない人がいます。なぜなら、その人は責任感が強くて、成功し、すばらしい生活、豊かな生活をしているからです。やっていることはすばらしいかもしれません。しかし、心というか、動機の面で罪があります。その人は、何故こういうことをしているのか、自分が何でもかんでもコントロールしていることを気がついていません。そして、まわりの人を傷つけ、汚していきます。なぜなら、コントロールは愛を生み出すことができません。天のお父様はすべてのことを担っており、だれよりも力があります。それなのに神様は、一方的に私たちをコントロールしません。愛のゆえに自由にして下さいます。エリヤハウスでは「コントロールすることは殺人に近い」と教えます。なぜなら、コントロールされている人は良い気がしないからです。人間性を尊重されていないと感じます。その人は、愛で接しているのではありません。コントロールによって人との関係を持っています。コントロールとは愛の反対から出ているものです。だから、親子逆転の罪を認め、悔い改める必要があります。もし、あなたがそれをしないならば、子どもから孫へと転嫁されていきます。長男が長女が一番のターゲットになります。せっかく彼らが親孝行をしているのに、罪とされるのは遺憾なことであります。でも、それは神さまの秩序に反していることなので、悪い実がみのってしまいます。そういう人は偉大なる父なる神さまのもとで安らぐ必要があります。そういうい人は、子ども時代がなかったので、安らいだことがないのです。詩篇23篇にはこうあります。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」