2008.04.06 神様との親密な交わり 詩25:10-14 

きょうから7週間、「タッチングヘブン・チェンジングライフ」というテキストから、特別なメッセージをお届けしたいと思います。ヘブンは神様とも訳せますので、「神様に触れることによって、変えられる人生」という意味になります。このテキストは7週間、つまり49日間で終えるようになっています。作者のエディレオ師から「依存症から解放されるためには、別の新しいことを49日間、やり続けると解放される」と聞きました。つまり、新しいライフスタイルを身に着けるためには49日間続ける必要があるということです。「49日」とは、仏教でも特別な数字であり、何か関係があるのかと思います。あるいはぜんぜん、ないかもしれません。きょうは、「神様との親密な交わり」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。

1.神を恐れる

神様との親密な交わりを学ぼうとしているのに、まず「神を恐れよ」とは、一体どういうことでしょうか?旧約聖書を読みますと、神様は全宇宙と私たちを造られたお方であることが、まずわかります。つまり、神様は創造者であり、私たちは被造物です。神様と私たちとは、まったく違うのです。神様は聖なるお方であり、私たちよりもはるかに高いところに住んでおられます。私たち人間には罪があり、本来、神様には近づけない存在です。新興宗教の方々は、神様がまるで友達であるかのように錯覚しています。「親神様」とか、「エホバ様」などと、親しくは言えないのです。では、どのようにして神様との交わりが確立されるのでしょうか?それは、救い主イエス・キリストのあがないのゆえであります。イエス様が私たちの罪を十字架であがなって下さったので、私たちはイエス様を通して、神様に近づくことができるのです。イエス様は、ヨハネ14:6で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。そうです、神様への道は、イエス・キリストだけなのです。この世には、いろんな教祖やいろんな儀式や、いろんな教えがあるかもしれませんが、どれもこれも真の神様に到達することができません。イエス様だけが唯一の道なのです。この一点において、人間が作った宗教か、それとも神様が定めて下さったものなのかが分かります。クリスチャンは、キリストに属するという意味ですから、私たちはキリスト様のゆえに、神様に近づくことができるのです。

しかし、その前に、私たちは神様を恐れなければなりません。箴言1:7「主を恐れることは知識の初めである」と書いてあります。また、伝道者の書12:13「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と書いてあります。本来、私たちは何を始めに学ばなければならないのでしょうか?それは「神を恐れる」ということです。私たちが、第一に必要なのは、算数とか国語の知識ではありません。「神は創造者であり、私たちは被造物である。だから、私たちは神を恐れなければならない」ということです。ユダヤ人は家庭で親がそのことを教えます。もし、日本の学校でこのことを教えるならば、細かい校則は不要であります。女子学院の最初の校長、矢島楫子先生は、すべての校則を撤廃しました。明治時代の女学校では、外出は月に1度、外出は舎監の許可を得ること。門限は7時を厳守、髪飾りはつけぬこと、着物は地味な紺か縞物、その他 履物、ショール、小遣いの額まで定められていました。男女の交際はもちろん厳禁です。矢島楫子先生はそうした校則らしい校則を、すべて取り払いました。そして、生徒たちにこう言いました。「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と。この校則撤廃はみごと功を奏し、生徒たちの自立の精神を大いに伸ばしたということです。当教会にも、特にきまりはありません。普通の教会では「信徒必携」みたいな手帳を渡していますが、うちにはありません。世の中にたくさんの法律やきまりがあるのに、教会に来まで、きまりがあったらどうなるでしょうか。「神を恐れよ」という律法1つで、この世も教会もおさまりがつくのではないでしょうか?世の人たちは、神を恐れていないので、人が見ていないところで悪いことします。だから、法律をたくさん作っても、犯罪は減らないのであります。

では、主を恐れるとどのような祝福を得るのでしょうか?詩篇12:12-14「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」とあります。主を恐れる人に主ご自身が、選ぶべき道を教えてくださいます。その結果どうなるでしょうか?第一に、幸せの中に住むことができます。第二はその子孫は地を受け継ぎます。第三は主がその人と親しくされ、ご自身の契約を知らせてくださいます。人間ならだれしも幸福になりたいものです。でも、幸福を人生の目的にしてはいけません。主を恐れて暮らすと、その結果、幸せになるのです。では、主を恐れるとは具体的にどういう意味でしょうか?テキストに書いてあります。「主を恐れるとは、たとえだれが見ていなくても、罪を犯しません。主を恐れる人は、神様はどこにもおられ、私たちの思いと態度と行いを知り、それを瞬時にさばくことを悟っています」と書いてあります。残念ながら、日本人にはこの考えがありません。日本人は神ではなく、人の目を気にして生きています。箴言29:25「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」とあります。人の顔色をうかがって生きる人は、とても不自由な人生です。私もかつては、人の目を恐れて生きていました。でも、人の目というものはいい加減なものです。いい加減な人の目に、自分を合わせて生きていくなら混乱してしまいます。子供は親からあまりにも「ああじゃない、こうじゃない」とうるさく干渉されると、子供は子供らしくなくなります。親の顔色を伺って育った子供は、思春期のとき自分を確立できなくなり、精神的な病気になるのではないでしょうか。「神様が見ているんだよ。そして、神様が報いてくださるんだよ。人ではなく、神様を恐れて生きるんだよ」。子供にこのように教えるならば、心に平和と統一性が与えられるでしょう。アーメン。

2.神と交わる

 神様は私たちと親密な関係を持つことを望んでおられます。キリストは十字架で私たちのすべての罪をあがなってくださいました。ですから、私たちは大胆に神様の御座に近づくことができるのです。ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。クリスチャンになると、神様が天のお父様になり、私たちは神の子供になります。子供はお父さんに気兼ねなく、何でも話すことができます。ところが、「天のお父様」と言うと、「もう一人いたなー」と地上の父親を思い出します。地上の父親と親しい関係がなかった人は、癒しが必要です。この私も、まだ癒しの途上です。先週、子供を連れて日光江戸村に行ってきました。1つものすごく感動したことがありました。手裏剣の的当てコーナーがあって、小さな女の子が投げていました。1回500円で、5枚手裏剣を投げることができます。的にいくつ当たったかによって景品がもらえるようになっています。忍者の格好をしたお兄さんが指導してくれますが、女の子が投げても、手裏剣が的に刺さらず、ポロっと落ちます。本当は5枚でおしまいなのですが、はい、「あと2枚あるよ」となかなか減らない。7枚くらい投げてやっと1つ刺さりました。女の子が最後の1枚を投げました。すると、そのとき、お兄さんも同時に手裏剣を投げました。一度に2つ刺さり、合計3つになりました。女の子はそれで景品をもらえるようになりました。私はそばで見ていて、嗚咽するくらい感動しました。家内には涙をかくしていましたが、「神様は律法主義の神様ではなく、あわれみ深い天のお父様なんだ」ということを思い浮かべることができました。

では、何が親しい神様との、交わりを妨げるでしょうか?イザヤ59:1,2「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」とあります。「咎」はヘブル語では「ペシャ」と言い、「決められた制限、限界線を越えて、逸脱する行為」という意味です。神様は私たちに制限とか限界線を与えておられます。しかし、私たちはそれを飛び越えてしまうときがあります。たとえば、私には妻が一人おり、大変親しくさせていただいております。しかし、私が他の女性に妻と同じことをするならば、それは咎であり、決められた制限を越える罪になります。また、「罪」はヘブル語では「ハタート」と言い、「的からはずれること、または、的に達しない」という意味です。本来、私たちは隣人を愛すべきなのに、愛が足りなかったり、愛でないものを渡したりします。親切さを忘れ、怒りや意地悪で返したりすることが、たまにあるのではないでしょうか。もし、私たちの心に咎とか、罪があるならどうなるでしょうか?それは対人間のことだけではありません。そういう罪が、神様との仕切りとなり、神様の御顔が隠されてしまうのです。最初はレースカーテンかもしれませんが、やがて分厚いカーテンになり、最後にはコンクリートの壁になったらどうなるでしょうか。

私たちの心が頑なにならない前に、すぐ神様の前に出る必要があります。Ⅰヨハネ1:7-9「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。Ⅰヨハネはクリスチャンのために書かれたものです。私たちはイエス様を信じるときには、自分が犯した個々の罪は悔い改めませんでした。「今まで、神様に背を向けていましたが、向きを変えて、あなたに従います」。これが、信じるための悔い改めです。この種の悔い改めは一生に一度あれば良いでしょう。でも、クリスチャンなってからの罪の悔い改めは、天国に行くまで続きます。私たちは罪あるこの世で毎日、生きています。ですから、いろんな汚れを受けたり、自らも罪を犯します。身の魂も次第に、汚れてくるわけです。私たちは毎日、衣服を洗濯をし、お風呂に入って体を洗います。歯もみがくし、顔を洗うでしょう。また、うがいもするでしょう。罪の悔い改めはそれらと全く同じです。体をきれいにするのは、石鹸とか水でが、私たちの心をきれいにするのは何でしょう。それは、御子イエスの血です。イエス様が十字架ですべての罪をすでに支払ってくださいました。一生分の罪の代価が前払いされているのです。私たちがこの地上で、罪を悔い改めるとき、天国の口座から代金が振り込まれるのです。そして、犯した罪が赦され、すべての悪からきよめられるのです。ハレルヤ!

神様は「私たちが自分の罪を悔い改めないと決して赦さない」というお方ではありません。よく、親が子供に「しぶとい子ね、早くごめんなさいと言いなさい」と強要します。親は子供が「ごめんなさい」を言うまで気持ちがおさまらないので意地になります。しかし、天の父はそうではありません。天の父は私たちが「ごめんなさい」を言う前からすでに赦しておられるのです。「キリストにあって、私はあなたをすでに赦しているよ。私との交わりを回復するために、その罪を言い表しなさい」とおっしゃっているのです。悔い改めよりも、罪の赦しが先行しているのです。私たちはキリストにあって、すでに赦しの中にいるのです。だから、「私はこれこれ、しかじかをしてしまいました。どうかお赦しください」と告白できるのです。問題は、神様にあるのではありません。私たちの側にあるのです。「雲上快晴」という言葉を聞いたことがあります。雨の日は、太陽が見えず、薄暗いですね。でも、ジェット機で飛ぶとどうなるでしょうか。「雲上快晴」であります。神様は私たちをいつも無条件の愛で愛しておられます。神様の愛は、私たちの状態によって、変わることがありません。私たちがちょっと、顔を上げて神様に向けるなら、光が差し込んできます。私たちは「罪を悔い改めろ」といわれなくても、罪を持っているのがいやになるのです。どうぞ、神様の無条件の愛を腹一杯、心一杯、魂一杯いただきましょう。

3.神を愛する

神様は私たちの父です。私たちは神の子供として、父なる神の愛を受けるべきです。その次に、私たちは何をすべきでしょうか?それは、神様を愛し、そして隣人を愛するということです。神様を愛し、隣人を愛することは、神様の愛への応答であります。月が太陽の光を受けて、反映しているように、私たちも神様の愛を受けて、反映することができます。しかし、月を見ると光の量が毎日のように違います。半分しか光っていないときもあれば、三日月のときもあります。新月になるとほとんど光っていません。これは、私たちが神様にどのくらい向いているかということと同じことです。主の御顔を半分しか見ないで、半分しか従わないならば、半月の明るさです。主の御顔をあまり見ない、ほとんど見ない人は、三日月か新月の明るさでしょう。でも、主の御顔をまっすぐ見て、全き心で従おうとするなら、満月の明るさであります。満月の明るさで、神様の愛を反映したいですね。

では、神を愛するという具体的な行為は何でしょうか?それは、神様と交わることです。神との交わりの中には、神様を礼拝すること、聖書を読むこと、神様に祈ることが含まれます。こういう日曜日の公の礼拝も大切ですが、日々、自分の生活の中で主と交わることも大切です。また、神様から与えられた賜物によって、奉仕することも大切です。奉仕はキリストのからだなる教会の奉仕もあるでしょうし、この世に出て人々に仕えることも奉仕です。会社の仕事や、家事を神様の御前でするようにしたらなんと幸いでしょう。そして、神様の戒めに喜んで従うこと、これも神様を愛する現われであります。ヨハネ14:21「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」アーメン。私たちが神様の戒めを守るならば、イエス様が私たちに現れてくださるのです。テキストにはこのように書いてあります。「神様が命じられたみことばを、私たちが守り、行うならばどうなるでしょうか?もし、私たちが神様を愛するなら、神様は確かに、ご自分を私たちに現してくださるでしょう。その意味は、神様が私たちに現実となってくださるということです。主を愛している人は、主を経験することができるようになります。」「神様が私たちに現実となる」。なんと、すばらしいことでしょう。遠く、インドネシアだけではなく、この日本においても、私たちは神様を体験することができます。

 もう1つ、神を愛するという具体的な行為は何でしょうか?それは兄弟姉妹をも愛するということです。Ⅰヨハネ4:11,12「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。ヨハネは口をすっぱくして、「互いに愛し合いなさい」と勧めています。なぜでしょう?私たちがよく使う「教会」は、建物とか組織を連想させます。でも、元来、「教会」をさす聖書の「エクレーシア」は、「神の民、神の共同体」という意味です。イエス様のもとに、3人、4人、5人集まり、互いに愛し合うなら、そこが教会になるのです。私はセルチャーチということを10年以上も、提唱しています。互いに愛し合える人数は何人くらいでしょうか。80人では無理です。おそらく、20人も無理でしょう。10人が限度ではないでしょうか?私たちが育った家庭や、学校では、「互いに愛し合う」ということを学びませんでした。みんなライバルであり、弱さを隠して生きています。私はある人たちが提唱しているように、裸になることは不可能だと思います。ありのままになり、思ったことを何でも言うというのは、主にある兄弟姉妹の交わりではありません。エペソ人への手紙4章には「新しい人を身につけるべきである」と書いてあります。新しい人とは、キリストを着るということです。裸の部分にキリストを着る時、相手を尊敬して、徳を高めるようなことばを出すことができます。また、裸の部分にキリストを着る時、自分の弱さが気にならなくなります。また、キリストを着る時、相手から何か言われてもあまり傷つかないです。裸だと、けっこう痛いんじゃないでしょうか。背中なんか、ペシッとたたかれたら痛いですね。「裸になったら、傷ついてしまった。もう、二度と、心を開かない」という人もおられるかもしれません。やはり、人格の一番深いところに、キリストを着ましょう。そうすれば、互いに愛し合うことができます。

 きょうは、「神を恐れる」「神と交わる」「神を愛する」と3つのポイントで学びました。どうぞ、上なる神様と交わりましょう。上から力をいただきましょう。そうすれば、兄弟姉妹を愛することができます。また、この世に対して、キリスト様を証することができます。「タッチングヘブン・チェンジングライフ」。手を伸ばして、神様に触れることによって、あなたの人生が変えられます。