2008.03.02 十字架につけろ マルコ15:6-20

もうすぐイースター、復活祭です。でも、その前に十字架があります。十字架と復活はキリスト教の中心です。でも、福音書を見ますと、イエス様は直ちに十字架につけられたわけではありません。その前に、不当なさばきを受け、殴られ、さんざん嘲弄にされ、つばきをかけられ、鞭打たれ、それから十字架につけられたのであります。イエス様は何も悪いことをしていないのに、そのような不当な扱いを受けたのであります。「何も悪いことをしていないのに、不当な扱いを受けた」。みなさんは、こういう言葉を聞いて、心にぐっと来るものはないでしょうか?きょうは、イエス様が何故、不当な苦しみを受けられたのか、Ⅰペテロ2章のみことばをいくつか引用しながら学びたいと思います。

1.不当な苦しみ

 Ⅰペテロ2:19-21「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」この所では、「キリストもあなたと同じように不当な苦しみを受けましたよ」と教えています。では、そのことは私たちとどのような関係があるのでしょうか?

①宗教家たち

 マルコ15:1には、「祭司長、長老、律法学者らが協議をこらしたすえ、イエス様を縛って、ピラトに引き渡した」と書いてあります。彼らは真夜中、裁判を開き、「イエスが自らを神とした」というかどで死刑を宣告しました。ところが、当時、イスラエルはローマに支配されていたので、死刑の執行は勝手にできませんでした。彼らはイエス様をローマの法律で死刑にするために、冒瀆罪を騒乱罪にすりかえたのです。ルカ23:2にありますが、彼らはピラトにこのように訴えています。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」神に仕える者たちが、このような嘘をでっちあげて良いのでしょうか?彼らは嘘をでっちあげるために協議したのです。私は、祭司長、長老、律法学者たちは、正義がなされない社会を代表しているように思います。

たとえば、イージス艦の事故、真相解明が、なぜこんなに長引くのでしょうか?海上保安本部で一番最初に取り調べるべきなのに、防衛相らが航海長を取り調べていたということです。なんだか、口裏を合わせていたというか、怪しいなーという感じがします。あの事故に対する防衛省の対応が報道されてから、国民中が怒ったと思います。なぜでしょうか?私たち一人ひとりの中に、国家という巨大な組織に対する、怒りがあります。なぜなら、正義が行われていないからです。でも、個人の力はあまりにも微力で何もできません。長いものに巻かれ、泣き寝入りするしかありません。でも、その国の自衛隊の大きな船が漁船を大破させた。イージス艦はちっともどけないで、小さな漁船が右往左往している。しかも、事故直後も救助もせず、原因を隠蔽している。「なんとひどい!」。私たち一人ひとりが持っている、国家とか巨大な組織に対する怨念が、そこに向けられているんじゃないかと思います。皆さんにも、「正義がちっともなされていない」という、怒りがないでしょうか?

②ピラト(ローマ総督)

 ピラトはローマの総督でした。彼はイエス様には罪がなく、ユダヤ人の嫉妬が原因だとわかっていました。ピラトには目の前のイエス様を許すこともできました。マルコ15:15「それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。」とあります。ピラトは妥協の人であり、真理などどうでも良いのです。自分の生活、自分の立場、自分の名声が大事なのです。ピラトの妻は「あの正しい人には関わり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しい目にあいましたから」(マタイ27:19)と言いました。ピラトもピラトなら、その妻も妻であります。

 ピラトと彼の妻は、私たちにとって何を象徴しているでしょうか?社長と社長夫人、つまり権力を持っている経営者ではないかと思います。みなさんもそういうところで、仕事して嫌な思いをしていませんか?Ⅰペテロ2章には「横暴な主人」として書かれています。横暴な主人のもとで、働く人々は大変です。うまくゴマをする人が、出世する世の中であります。正しいこと正しいと主張するなら、職を失うか左遷されてしまいます。「真理がうとんじられている、世の中、公平じゃない」そういう怒りはないでしょうか?

③群衆

 1週間前、イエス様がエルサレムに入場したとき、人々は「ホサナ、ホサナ」と歓迎しました。ところが、こんどは一変して「十字架につけろ、十字架につけろ!」と叫びました。なんという変わりようでしょうか。扇動した宗教家たちも悪いけれど、それにふりまわされる、群集も何とおろかでしょうか?私は、群衆はいい加減なことを言う世間を代表していると思います。「世間が何と言うだろう」「世間様に申し訳がたたない」「世間の恥さらしだ」。日本では、「世間」という、だれかわからない存在を恐れて生きています。ウェブで調べてみましたが、「世間」という言葉は、仏教用語だそうです。世間の「世」は「移り変わること」。また「間」は「ものが個々別々に差別化されて見られる」。つまり、世間は、本来、平等であるものに区別を作って、それにこだわって生活しているので、真実がおおわれ、無常で、破壊的なんだということです。よくわかりそうでわからない?

とにかく、ここで言う世間と言うのは「人の目」ということです。都会ではあまり感じませんが、田舎に行けば行くほど、この「人の目」が気になります。また、「世間」は親族であるかもしれません。普段は何も助けないくせに、冠婚葬祭になるときに口を出します。また、子供たちが行く学校もある意味では「世間」かもしれません。そこには神の真理とは別な価値観とか「きまり」があります。また、子供たちは、先生や生徒の間で、たえず気を配りながら生活しなければなりません。私にとっては学校は本当に窮屈で嫌なところでした。不登校の子供の気持ちがよくわかります。私の場合は家の中が学校よりもひどかったので、学校へ行かざるをえませんでした。現代は、ひきこもりたくさんいるようですが、私の場合はひきこもる場所がありませんでした。私は世間には反発しながらも、目を気にしていました。会社でも「使い物にならない」と言われないように、一生懸命働いていました。みなさんはいかがでしょうか?人の目、近所、親戚、学校、会社は気にならないでしょうか?それに対する怒りはないでしょうか?

④ローマ兵

 ローマ兵は高慢で偏屈なユダヤ人を憎んでいました。ユダヤ人は彼らにとって、最も扱いにくい存在だったのです。ところが、目の前にユダヤ人の王が現れました。彼らはここぞとばかりに、ユダヤ人の王様に憎しみをぶつけたのです。ローマ兵の赤いマントは古くなると、紫色に変色します。彼らはこれをイエス様に着せました。また王様には冠ですが、だれかが茨の冠を編んで、イエス様の頭にかぶせました。棘とげの冠をかぶせたというよりも、ぐさっと押し付けました。そして、王様の杓の代わりに、葦の棒を持たせました。その後、彼らは次々とイエス様の前にひざまずき、「王様、ばんざい」と叫びました。だんだん、エスカレートしてきて、今度は葦の棒を取り上げ、イエス様の頭、つまり茨の冠の上からたたきました。鋭くて長いとげが、イエス様の額に食い込んだでしょう。彼らはよってたかってつばきをかけ、嘲弄しました。イエス様の顔はつばきでびしょびしょになり髭にまでしたたりました。それから、裸にされ、鞭を体中に浴びせられました。ローマの鞭は先端が何本にも分かれ、その先には動物の骨や鉛が埋め込まれていました。パッションという映画をご覧になった方もおられると思いますが、屈強なローマ兵たちが、力まかせに鞭を振り下ろします。背中が終わったと思ったら、今度は裏返しにして、お腹や顔にも撃ち当てます。鞭の先端が体に食い込み、その鞭を引っ張るときに、皮膚だけではなく肉までも引き裂かれるでしょう。パッションではあたりが血の海でした。ユダヤ人の鞭は39回ですが、ローマの鞭は制限がなかったんじゃないかと思います。

 イエス様を嘲弄して、残酷なことをしたローマ兵とはあなたにとってだれでしょうか?それはあなたを馬鹿にし、あなたの尊厳を奪い、あなたを傷つけた人ではないでしょうか。大変残念ですが、その人は、お父さんやお母さんの場合があります。おじさん、おばさん、お兄さん、お姉さんかもしれません。学校時代、悪口を言ったり、暴力を与えた人がいるでしょう。友達ではありません「あいつ、あの野郎」です。学校の先公も敵だったんじゃないでしょうか。会社に入ると、憎っくき上司がいたかもしれません。自分を裏切った、友人、彼女、彼氏。中にはだれか名前も知らない人に危害を加えられた人もいるかもしれません。そういう人たちが、あなたのローマ兵です。

 では、不当な扱いを受けたイエス様はどのように対処されたでしょうか。Ⅰペテロ2:22,23「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」アーメン。イエス様は何も悪いことをしていないのに、馬鹿にされ、痛めつけられたのです。でも、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」。ローマ12章で使徒パウロこう言われました。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」(ローマ12:19)。どうぞ、みなさんが持っている、怒りを憎しみを、神様のところに持って行きましょう。父なる神様にゆだねましょう。

2.癒しを受けるため

 Ⅰペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」。十字架は私たちが犯した罪をあがなうためであり、加害者としての面を取り扱います。一方、十字架まで、イエス様が受けた数々の苦しみは、私たちが受けた傷の癒し、つまり被害者の側面を扱います。戦後、多くの宣教師たちが日本に来て、福音を宣べ伝えました。アメリカやヨーロッパで、リバイバルが起きましたが、その流れを汲む人たちがやってきたわけです。でも、そのメッセージの多くは「罪を悔い改めよ!」でした。「あなたがたは罪びとです。このままでは地獄に行きます。罪を悔い改めなさい。キリストはあなたの身代わりになり十字架で死なれました。あなたも救い主イエスキリストを信じなさい」と言います。間違ってはいません。でも、アメリカやヨーロッパはキリスト教国です。かつてはイエス様を信じていたのに、信仰から離れていたわけです。でも、日本は全く福音が届いていない国でした。そこに、「罪を悔い改めなさい」と大上段でバッサリ。本来は恵みで信じるべきなのに、さばきが怖くて信じるという人が多かったのではないでしょうか。また、聖書をよく見ると、罪のあがないと同時に、癒しも語られています。もちろん、罪を犯したという加害者としての面が重要でありますが、悪を受けたという被害者としての面も忘れてはいけません。日本人の場合は、被害者としての傷が癒され、神の愛を体験し、その後、罪を犯したことの悔い改めという順番も成り立つのではないかと思います。とにかく、聖書は両方を語っています。

 イザヤ書53:3-6「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」イザヤ書はキリストの受難の預言ですが、やはり、2つの面が語られています。イエス様は私たちの悲しみや病、恥、痛みを担ってくださいました。まさしく「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」。もう1つの面は、来週語りますが、イエス様は私たちが犯した罪や咎を負ってくださいました。そのために、イエス様は刺し通され、懲らしめられ、砕かれたのです。それは十字架のあがないの死であります。傷の癒しと罪の赦しの両方が必要であります。もし、極論を言うならば、傷の癒しよりも罪の赦しの方が重要です。でも、救われて、恵まれたクリスチャンを送るためには癒しも必要です。

 先週、私はエリヤ・ハウスに行ってきました。そのセミナーは、学びを終了した人たちのものでした。でも、行くとさらに深い取り扱いを受け、癒しから変革へと進みます。午後は、ワークショップと言って、実際にミニストリーを受けます。私は手稲教会の益田先生ご夫妻と奈良から来られた宮谷牧師夫人から祈ってもらいました。私の父は酒乱で母に暴力をいつも振るっていました。父になぐられ、うめいている母の声が今も忘れられません。兄弟同士でもよく喧嘩をしました。ある正月は流血沙汰になりました。すぐ上の兄は、理由もないのに私をよく殴りました。小学生のとき、何かの憲章で縦笛が当たりました。茶とアイボリーの縦笛です。兄は「俺に貸せ」と学校に持っていき、壊れたかなくなったという記憶があります。また、私は記念切手を集めていました。登校前に、郵便局に並んで買った貴重なものもありました。ある時、兄が国体の切手シートをよこせと言いました。私は嫌だと言い、引っ張り合っていました。兄はそれをぐちゃぐちゃにしました。私はワァーと泣きわめきました。そばで見ていた、父が「そんなもんあるからだ」とストーブにくべてしまいました。それ以来、私は切手も他のコレクションもしなくなりました。私の家は無政府状態でした。私には家でも学校でも、守りがありませんでした。まさしく、不当な扱いを受けていると感じました。ですから、私の心の叫びは「なんでだよ、俺は悪くないのに。ちくしょー、ちくしょー」でした。だから、私が好むテレビ番組は、水戸黄門、遠山の金さん、必殺仕置き人です。この間「三匹が斬る」という昔の番組を見ました。最後に、正義の味方が悪いやつらを切ってくれる。私は気が付いたら、涙を流していました。悪代官とか、盗賊は、私を苦しめた人たちなんでしょう。しかし、家内はそんなテレビはつまらないと言って、サスペンスとか救急救命士みたいなものを見ます。私は人が騙されたり、ひどい目に合わされるのを見るとドキドキして見ることができません。そのドラマと一体になってしまうんです。だから、見たくないのです。

 詩篇には神様のことをこのようにたとえています。主は私の岩、やぐら、とりで、避けどころ、要塞。私たちを守ってくれるお方です。私には守りがありませんでした。しかし、万軍の主が私たちたちを守ってくださいます。また、神様は正義を行い、悪をさばくお方です。その神様が私の見方であるならなんと幸いでしょうか。そして、イエス様は私たちが打たれた傷、受けた苦しみや恥を癒してくださいます。どのように癒してくださるのでしょうか?私たちの過去を変えることはできません。それは確かに起った事実です。ある人は、それがあまりにもひどかったので、「あれは嘘であり、だれか他の人のことだったんだ」と思っています。それは、トラウマから自分を守るための1つの本能です。でも、それでは問題の解決にはなりません。トラウマは思いがけないときに、ひっこり出てきては、私たちを暗くするからです。イエス様は永遠の神様ですから、私たちの過去にも行ってくださいます。イエス様にとって過去も現在も未来もありません。イエス様は過去に行って、私たちの記憶を癒してくださいます。私は過去のことを言ってから、3人の先生方に祈ってもらいました。私の家はふすまとか障子で、プライベートがありませんでした。私はいつも飯台で勉強していました。広い8畳の部屋の真ん中にテーブルを置いて、座っていました。先生の一人が「イエス様はどこにおられますか?」と言われました。最初はぼんやりでしたが、白い衣を来たイエス様がおられるようでした。「変貌山のイエス様かな?」と思いました。裾が長い衣でした。よく見ると、小さな私がイエス様の衣の中に隠れていました。頭も背中もすっぽり入っていました。聖書に衣の裾をつかんだ女性が出てきますが、衣の中に入るというのは滑稽な感じがしました。でも、その衣は私の恥を覆い隠し、私を守ってくれる衣でした。集会の終わりのころ、ある先生が「めん鳥がひなを翼の下にかばうように、あなたを集める」という聖句を引用しました。そのとき、「ああ、そうか!」と、そのときの幻の意味が分かりました。

 最後は私の体験談でしたが、皆さんの中にも人から受けた傷があるのではないでしょうか。ある人は、「神様、なんであのとき助けてくれなかったの!」と神様を恨んでいるかもしれません。ある人はとても乱暴な人でした。祈り手が、「目をつぶって子供のころを思い出してください」と言いました。お父さんは酒を飲むと荒れて、家中のものをひっくり返しました。少年だったころの自分が、部屋の片隅で泣いていました。しばらくすると、台所の窓が見えました。その窓ガラスは、お父さんが物を投げたために、穴がぽっかり開いていました。「ああ、あの窓は、数日前にお父さんが暴れた時のものだったなー」と思い出しました。もう少し、家の中を見回してみました。すると、イエス様が穴の開いた窓の外から家の中を見ておられました。「あー、イエス様だ」と彼は言いました。祈り手が「イエス様はどんなお顔をしているの」と尋ねました。彼は突然、泣き出しました。「イエス様が悲しそうな顔をして、僕を見ていたよ」と言いました。あなたにも暗い、触れたくない出来事があると思います。さんざん馬鹿にされ、傷つけられたイエス様は「私も残念だと思うよ」「私も気の毒に思うよ」とおっしゃって、あなたを慰めてくださいます。