2008.03.09 わが神、わが神 マルコ15:21-34

先週は、私たちの被害者的な立場の癒しについて学びました。イエス様が十字架につけられる前に受けたさまざまな苦しみや不当な扱いは、私たちが受けた傷の癒しのためでした。イエス様は私たちが受けた傷、悲しみ、病を負ってくださったのです。キリストの打ち傷のゆえに、私たちは癒されたのです。そして、本日は私たちの加害者的な立場についてです。これは神に対して犯した罪、人々に対して犯した罪であります。イエス様は私たちの身代わりに十字架にかかり、私たちのために死なれました。そのことによって、私たちの罪が赦されたのであります。きょうは、キリスト教の中心である十字架の贖いについて共に学びたいと思います。

1.十字架を負わされた男

 マルコ15:21「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。」イエス様は、数えきれないほどの鞭を受けられた後、十字架を負わされました。イエス様は前の晩、裁判にかけられ、一睡もしていませ。朝はローマ兵からさんざん嘲弄された後、体中に鞭を浴びせられました。その後、イエス様は重い十字架を背負い、エルサレムの狭い石畳を歩まれました。疲労困憊していたので、途中、何度か倒れてしまいました。ローマ兵は「これでは、死刑執行が遅れてしまう」といらいらしてきました。沿道を見渡すと、背の高い色黒の男がいました。ローマ兵は「おい、お前がこれを担げ!」とその男に命令しました。当時は、ローマ兵はだれにでも、労役を課することができました。その男は、「十字架を負ったら、人々から自分が犯罪人と思われるじゃないか」と、顔から火が出るくらい恥ずかしい思いをしたでしょう。「ああ、なんと俺は運が悪いんだ!近所の者たちに見られたら物笑いにされるだろう。ああ、貧乏くじをひいた」と嘆きながら、十字架を背負いました。 

しかし、このところにその男の名前と二人の息子たちの名前が記されています。「アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人」です。シモンは、過ぎ越しの祭りに参加するために、クレネからエルサレムに上って来ていました。アレキサンデルとルポスは彼の息子たちで、おそらく初代教会では名の知れたクリスチャンではなかったかと思います。これは伝説ですが、シモンはそのとき、「ああ、へたこいたー」と本当に恥ずかしい思いをしました。ところが、あとから十字架につけられたお方がよみがえり、救い主キリストだということがわかりました。シモンはそのとき、「イエス様の十字架を担いだのは俺だよ。俺はなんと光栄なことをしたんだ!」と思ったことでしょう。それから、彼の妻も子供たちもイエス様を信じて救われたのではないでしょうか。その証拠となる、もう1つの記述はローマ16章にもあります。ローマ16:13「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」もし、パウロが言うルポスとマルコ15章のルポスが同じ人物だったら、お母さんもすばらしい人でした。使徒パウロから「私の母」と慕われるくらいのすばらしい人物でした。はっきりとは分かりません。しかし、これはキリスト教会では有名な美しい伝説です。

ここで注目すべきことは「無理やり負わされた十字架」であります。シモンはそのとき、たまたまというか偶然にその場にでくわしました。しかも、ローマ兵につかまって、無理やり十字架を負うはめになりました。「ああ、なんというドジ間抜け、俺はついてないなー」と思ったことでしょう。でもそうではありません。後から、そのことは一生記念すべき恵みであり、特権となったのです。私たちの人生においても、無理やり負わされる十字架というものがあるでしょう。親の借金を負わされたとか、子供の病気、会社の責任もあるかもしれません。現代は、親の介護なども大きな問題です。「なんで俺が、なんで私が」と愚痴が出るかもしれません。でも、あとからそれが恵みになることがあります。教会に来るきっかけも様々で、自分の問題ではなく、家族のだれかの問題で来られる方が多いんです。昔、座間キリスト教会にいたときですが、「自分の子供が知恵遅れじゃないか」と悩みを持ってこられたお母さんがいました。あとから、ご主人も他の子供たちも救われました。あるとき、「弟が父をバットで殴った」ということで、お姉さんが教会に来られました。まずご兄弟が洗礼受け、その後、奥さん、さらにご主人が洗礼を受けられました。そのご主人は学校の先生でした。ある歯医者さんは、本田弘慈先生の特伝のとき、無理やり教会に連れられて来ました。本田先生が最後に招きをしました。「今日、イエス様を信じる人は立ってください」と言いました。そのご主人はあたりを見ながら、もじもじしていました。本田が「ほら、そこの人。もじもじしていないで立ちなさい」と言いました。彼は「うるせー、おやじなだー」とぶつぶつ言って立ちました。彼はそれでクリスチャンになりました。イエス様はヨハネ福音書で、「今は分からないが後で分かる」とおっしゃいました。私たちの人生において、無理やり負わされる十字架、それも恵みになるということです。また、無理やりにでなければ、イエス様の救いに預かれない人もいるということです。

2.十字架につけた

15:22-25 そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。さいとうたかおの漫画に、「ゴルゴ13」というのがありますが、ここから取られたものです。イエス様は金曜日に十字架につけられましたが、13日が正しいかどうかは分かりません。その場所がなぜゴルゴタと呼ばれたのか、2つの説があります。1つはその丘の形がしゃれこうべに似ていたからだという説です。もう1つは、そこは刑場であり、人骨がたくさんころがっていたからだという説です。どちらにしても、あまり気持ちの良いものじゃありません。十字架は人間が考えだした最も醜悪な死刑の道具です。人を昆虫のように、虫ピンに刺し、ジワジワと殺すのが目的です。1週間も生きて、最後は発狂して死ぬ人もいたそうです。ローマの哲学者キケロは「ローマ市民に、十字架を触れさせてはならない」と言いました。そういう醜悪な死刑の道具が、なぜ、ネックレスになったり、病院や教会のシンボルになっているのでしょうか。

 24節には「それから、彼らは、イエスを十字架につけた」とあります。たった一言で終わっているのは、当時、十字架刑はだれもが知っており、わざわざ説明する必要がないからです。でも、現代人のためには少し説明が必要です。イエス様は仰向けに寝かされ、手と足に釘を打ち込まれました。釘と言っても、鉄をたたいて作ったもので犬釘のようにごついものでした。足は右と左、重ねられて釘が打ち込まれました。パッションという映画がありましたが、監督はメル・ギムソンでした。イエス様が釘で十字架に固定されるシーンがありました。そのとき、イエス様の手首をおさえつけた手は、メル・ギムソンの手だったそうです。彼は「自分がイエス様を十字架につけたんだ」ということを言いたかったのでしょう。その後、ロープでひっぱって、十字架を起こします。十字架の根元が、40センチくらいのくぼ地に「どすん」と落ちます。全身の体重が両手と足の3点に集中します。カトリックのある人が、イエス様と同じかっこうで十字架にかかってみたそうです。もちろん、釘ではなくロープでした。横隔膜が下にひっぱられ、そのままでは息ができません。息を吸おうと体を持ち上げると、両腕と足に体重がかかり、ものすごく痛い。その人は5分も耐えられなかったそうです。

イエス様はそれだけではありません、両脇の強盗、道を行く人たち、祭司長たちから馬鹿にされました。不思議なことに彼らが言ったことは共通していました。「他人は救ったが、自分は救えないのか。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。そうしたら信じる」でした。十字架は、私たちが考えるほど高くはなく、足元に触ろうと思えば触れた高さです。だから、彼らの声がはっきりと聞こえるのです。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」は、イエス様にとって、最後で最大の誘惑でした。恐らく、サタンが人々の口を借りて、「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」と言わせたのではないかと思います。イエス様は降りようと思えば、それができたのです。もし、イエス様が「馬鹿馬鹿しくて、こんなのやってられない」と、十字架から降りたらどうなったでしょう?人類の贖いは、成し遂げられなかったことになります。私たちは今もなお、死と罪の暗闇の中にいなければなりません。でも、イエス様は肉体の苦しみと、人々の罵倒を耐え忍ばれました。ですから、イエス様を十字架にとどめておいたのは3本の釘ではなく、イエス様ご自身だったのです。イエス様は全類の罪、いや、あなたと私の罪をあがなうために、十字架に付けられていたのです。

『塩狩峠』という映画がありました。三浦綾子さんが、実話にもとづいて作った小説を映画化したものです。永野青年は、伝道師から「君はイエスを神の子だと信じるのですか」と問われたとき、「信じます」とキッパリ言いました。「しかし、人の前で、自分はキリストの弟子だということができますか」と問われたとき、「言えると思います」と答えました。「君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか」と問われたら、「この世のすべての罪を背負って、死なれました」と答えました。「しかし、永野君、キリストを十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか」と問いました。すると、「とんでもない、ぼくは、キリストを十字架につけた覚えはありません」と答えました。伝道師は「それじゃ、君はキリストと何の縁もない人間ですよ」と言いました。永野青年は反論しました。「先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか」。伝道師は「何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようもない問題なんですよ」と言いました。それから永野青年の求道生活が始まりました。彼は職場の同僚を良きサマリヤ人のように愛する決心をしました。しかし、隣人を心から愛せない自分を発見したとき、自分の罪深さが分かり、同時にイエス様の救いも分かりました。そうです。キリストを十字架につけたのは、人々ではなく、私たちの罪、私の罪なんです。イエス・キリストはあなたの罪、私の罪のために十字架につけられたのです。

3.わが神、わが神

 イエス様は朝の9時に十字架につけられました。12時になったとき全地が暗くなり、午後3時まで及びました。過ぎ越しの祭りの頃は満月なので、日食は起こりません。それなのに、あたり一面が真っ暗になったのです。まるで、父なる神様が御顔を隠されたかのようです。そしてイエス様は暗闇の中で、大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」。これは当時、語られていたアラム語です。歴史的に、南ユダはバビロンに70年間捕らえられました。彼らは帰還後、ヘブル語ではなくアラム語を使うようになりました。マルコは、あえてイエス様が語られたアラム語を福音書に残しました。その意味は、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」です。ある新興宗教の人たちは、「俺たちの教祖は立派に死んでいったのに、あんたのところの教祖は、なんとみじめに死んでいったことか」と馬鹿にします。この十字架の言葉は、キリスト教会で最も「不可解な言葉」として知られています。イエス様はこの地上に何のために来られたのか十分に知っていたはずです。ゲツセマネでも覚悟ができていたはずです。なのに、この期に及んで、何故このような言葉を発せられたのでしょうか?実は、この言葉こそ、贖いにおける奥義であり、もっとも深遠な意味をもっています。1つの考え方は、イエス様は十字架上で詩篇22篇のことばを語っておられたのではないかということです。確かに、詩篇22:1は「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」で始まります。そして、不思議なことに22篇はイエス様の十字架の苦しみをそのまま現しています。でも、それだけではありません。この詩篇の最後は、賛美と勝利で終わっています。ということは、イエス様の叫びは敗北ではなく、勝利に終わることがはっきりしていたということです。

 もう1つの解釈は、この時点において、イエス様は父なる神様から完全に捨てられたということです。イエス様は父なる神様と一瞬たりとも離れたことはありません、永遠から一緒でした。でも、全人類の罪を負ったために、神から断罪され、捨てられてしまいました。そのため、「父よ」とは呼べなくなり、「わが神、わが神」と呼ぶしかありませんでした。本来なら、私たちが地獄から「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか!」というべきだったのです。でも、イエス様が代わりに、地獄に落とされ、「わが神、わが神」と叫ばれたのです。少しへそ曲がりの人は、「どうせ、3日後によみがえるんだろう」と言うかもしれません。でも、そうではありません。使徒パウロはこのように言っています。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」イエス・キリストは罪を背負ったというよりも、罪そのものになられたのです。このことはたとえ、復活しても残ることです。職場で、デスクの中にあるはずのお金がなくなったとします。だれかが「取ったのはあなたではないか」と言いました。あなたに嫌疑がかけられました。みんなも白い目であなたを見ます。でも、3日目に、お金を無くした人が、「あった、あった。他の場所にしまっておいていた」と言いました。「ああ、やれやれ!これで解決した」ということになるでしょうか?あなたは3日間、嫌疑がかけられたんです。その罪の痛みはあなたの心に残るでしょう。イエス様は、一片の罪もないお方なのに、全人類の罪をかぶり、罪そのものとなったのです。父なる神から断罪され、地獄に落とされたのです。なぜでしょう。それはあなたと私を救うためです。

 愛なる神様は全人類を愛したい。でも、罪がある限りは裁かなければなりません。「いいよ、いいよ。なんでも赦すよ」と言ったら、その場で神様でなくなります。罪ある人類を赦し、同時に神ご自身の義をどうしたら満足させることができるでしょう。これは大きなジレンマです。神様は、御子イエスに人類の罪をかぶせ、人類の代わりに罰するしかありませんでした。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。神様は、実に、そのひとり子を十字架の死にお与えになったほどに、あなたを愛されたのです。それは、御子イエスを信じる者が、ひとりとして滅びることなく永遠の命を持つためです。全人類の罪を負った御子イエスに、神の怒りが全部下りました。御子は断罪され、地獄に落とされました。そのことによって、神の怒りがなだめられたのです。使徒パウロは「なだめの供え物として、公にお示しになった」(ローマ3:25)と言いました。もう、神様は怒っておられません。和解の道が備えられました。あなたはイエス・キリストを信じるだけで、あなたの罪が赦され、神の前で義とされるのです。ヨハネは「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:10)と言いました。つまり、十字架にこそ、神の愛が現されているのです。

すべての贖いのわざはキリストにあって完成しました。私の罪、あなたの罪の代価が、すでに支払われたのです。問題は、あなたがこのキリストをどうするかです。先ほどの、永野青年のように、「ぼくは、キリストを十字架につけた覚えはありません」と言うこともできます。確かに、イエス様は頼まれもしないのに、十字架で罪を負って死んでくださいました。そうです。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったのです。十字架の贖いは、神様からの愛のプレゼントです。Ⅱコリント5章には「神が懇願しておられるようです」と書いてあります。神様は「どうか、神の和解を受け入れなさい」と懇願しておられるのです。全宇宙・全世界を創造された方が、あなたの前で懇願しているのです。なんということでしょうか?やがて、私たちは神様の前に立つときが来ます。ヘブル9章には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と書いてあります。もし、人が、イエス様を信じないで死んで、神様の前に立ったとします。神様は、あなたが犯した罪の1つ1つを裁くわけではありません。そんなのは小さな罪です。神様の前における最大の罪は、キリストを信じなかったことです。神様は「なぜ、キリストにおける私の愛を受け入れなかったのか」と、あなたをさばくことでしょう。

 羽鳥明という有名な牧師がおられます。『福音を恥としない』という説教テープがあります。その中に出てくるお話です。羽鳥先生には弟がおりまして、長い間、地下にもぐって共産党の活動をした人です。羽鳥先生がイースターの日、弟を誘って教会の礼拝に行きました。そこの牧師は土から掘られたような牧師で「福音のことをフグイン」とズウズウ弁丸出しで語ります。羽鳥先生は心の中で「うちの弟は東大の化学を卒業したんだよ。もっとインテリ向きの話をしてくれないかなー」と思いました。最後に、牧師先生は「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかり、三日目によみがえりました。イエス・キリストを救い主として信じる人は手をあげなさい」と言いました。羽鳥先生は目をつぶりながら「こんな単純な話で信じるわけがないだろう」と思いました。しかし、目を開けたら、弟がすっと手をあげていました。後から「純二や、話が分かったのか」と聞きました。弟は言いました。「僕はイディオロギーこそが社会を変えると思って、命がけで活動してきた。しかし、人間の醜い争いをいっぱい見てきた。お兄さん、イディオロギーじゃ、人は救われないことが分かったんだ。」使徒パウロが言いました。Ⅰコリント1:23,24「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」キリストの十字架はあなたに救いの力を与える、神様からの贈り物です。どうぞ、あなたもキリストを信じて救われてください。