2008.03.16 イエスの埋葬 マルコ15:35-47

桜の花が、今月末に咲くんじゃないかということです。本当に嬉しい季節がやってきます。そして、来週は、イースター、復活祭です。キリスト教会では、今週は受難週です。私たちはマルコによる福音書を連続して学んでおり、先週、十字架のメッセージを語ってしまいました。本日は、イエス様が十字架で息を引き取られてから、埋葬されるところまでをお話したいと思います。

1.近づこう恵みの座へ

 マルコ15:37「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた」。何をおっしゃられたのか、ということは書かれていません。しかし、ヨハネ19:30「完了した」と言われたと書いてあります。おそらくはこの言葉であろうと思います。「完了した」というギリシャ語は、テテレスタイであり、商業用語です。ですから、「完済した」「支払った」という意味になります。その当時は、奴隷が市場で売られていました。檻のところに、「テテレスタイ」という札が掛けられている場合は、「売約済み」という意味になります。だれかが、お金を出して、この奴隷を買い取ったということです。イエス様は私たちを罪の奴隷から解放するために、ご自身の命を代価として、買い取ってくださったのです。ですから、「完了した」は、勝利のことばです。ローマ兵が死んでいるかどうか確かめるために、わき腹を槍で突き刺しました。「すると、ただちに血と水とが出て来た」とヨハネ19章に書いてあります。これは医学的に、イエス様の死は心臓破裂だったということです。心臓が破裂すると、そういう現象が起こると聞いたことがあります。イエス様は全人類の罪を負ったために、神様から断罪されました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか!」と大声で叫ばれました。そのとき、イエス様の心臓が耐えられなくなり、破裂したんじゃないかと思います。数年前、松戸の津村先生が来られて、夕拝でこの箇所からメッセージしたことがあります。津村先生は「完了した」と、勝利の喜びがあまりにも大きかったので、心臓が耐え切れなかったとおっしゃいました。その解釈もすばらしいと思います。多くの人たちは、イエス・キリストは、復活したとき勝利したと考えていますが、そうではありません。イエス様は十字架上ですでに、勝利していたということです。ハレルヤ!

 38節に、「神殿の幕が上から真二つに裂けた」とあります。すぐ近くのエルサレムに神殿がありました。イエス様が息を引き取られた瞬間に、「神殿の幕が上から真二つに裂けた」のであります。地震で裂けたのではありません。マタイによる福音書には、そのあとに、地が揺れ動き、岩が裂けたと書いてあるからです。その幕は、聖所と至聖所を分けるための、隔ての幕です。その幕が下からではなく、上から真二つに裂けたのであります。つまりそれは、人為的なものではなく、神様がなされた奇跡ということになります。至聖所には神様が臨在するところであり、人間が入ることは許されません。年に一度だけ、大祭司が清い動物の血をたずさえて、入ることが許されました。つまり、聖所の幕は、俗なるものと聖なるものを分けるためにありました。でも、それが上から裂けたということはどういう意味でしょうか?キリストを通して、だれでも神様の御座に近づくことができるということです。そのことを、ヘブル人への手紙は多くの箇所で説明しています。ヘブル9章をみますと、「動物の血ではなく、大祭司キりストご自身の血によって、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げられた」と書いてあります。さらに、ヘブル10:19,20「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」とんで、22節「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」アーメン。私たちは神様に近づくときに、「ああ、私のような罪深い人間は、神様には近づけないんじゃないだろうか」と罪責感を覚えるでしょう。でも、それは「邪悪な良心」から来るものです。私たちはその良心をキリストの血によって、きよめられ、「私は既に赦されている。私の罪は既にきよめられている。アーメン」と近づくことができるのです。そうです。私たちはキリストのゆえに、大胆に恵みの座に近づくことができるのです。みなさん、これが新約時代の恵みです。

 しかし、大変、残念ですが、ローマ・カトリック教会はこれにいくつかの制限を加えました。1つは聖職者が神様と信徒の間に入らなければならないということです。一般信徒は俗なる者であり、神様のところには近づけない。だから、「聖母マリヤとか、聖職者のとりなしが必要だ」という教えです。しかし、そういう教えは聖書のどこにも書いていません。また、もう1つの間違いはミサです。彼らの儀式の中には、「キリストの犠牲が今も繰り返されている」という意味が含まれているようです。ある人は、「キリストは今も血を流しておられる」と言います。でも、ヘブル人への手紙9章と10章を見ますと、「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられた」と何度も書いてあります。もう、私たちの良い行いとか、犠牲は必要ないのです。ある人たちは、神様に近づくために、手ぶらではいけないんじゃないかと思っています。確かに旧約聖書ではきよい動物や穀物を携えてきました。キリストによって、贖いの業は既に完成されており、私たちは何1つ加えるものがないのです。もし、携えてくるとしたら、それは賛美のいけにえと、感謝の心であります。献金というのは、私たちの献身のしるしであり、お布施とは全く違います。「お金をささげたから、罪が赦される」などという考えは全く聖書的ではありません。神様はキリストの血によって満足されたのです。キリストの贖いに、私たちが加えるものなど1つもありません。キリストを信じる信仰だけで、私たちは罪あるままで、父なる神様のもとに近づく時に「ぱぁー」ときよめられるのです。ハレルヤ!

皆さんの中に、何か罪責感とか負い目はおありでしょうか?どうぞ、信仰によって、キリストの血の注ぎを心に受けてください。イザヤ書にこのようなみことばがあります。イザヤ1:18 ,19「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。」アーメン。緋色は、染物の中で、一旦染まったら、二度ととれない色だそうです。でも、神様は、「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」と約束しておられます。でも、悪魔は「そんなに簡単には赦されないよ。お前は、自分が犯した罪のゆえに、償いがまだ必要だ。だから、お前は、幸せになってはいけないんだ。もうしばらく苦しい目にあわないと帳消しにはならない」と言います。でも、それは嘘です。お寺に行くと水子地蔵というのがあります。あれは、堕胎してしまった子供を供養するためにあるそうです。お寺に毎月、いくらいくらのお布施をしなければなりません。もし、忘れると、お地蔵さんの着物が脱がされるそうです。人の罪責感につけこんだ、ひどい宗教です。中絶した子供とお地蔵さんとは何の関係もありません。イエス・キリストは私たちが犯したすべての罪のために、また、これから犯すであろうすべての罪のために十字架で血を流し、代価を払ってくださったのです。もし、クリスチャンになっても、心に平安がない場合はどうしたらよいでしょう。Ⅰヨハネ1:9にその答えがあります。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。神様の前でありのままを告白するのです。そうすれば、神様はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。もし、それでもダメなら、だれか親しい人に祈ってもらってください。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」特に自分でやめられない悪習慣、さまざまな罪の構造は、人から祈ってもらうと力になります。その祈りが楔になって、元に戻ろうとすることから防いでくれます。

2.イエスの埋葬

 不思議なことに、「イエス様が死んでから復活まで、何をなさっておられたのか?」ということはあまり語られません。使徒信条には、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえり」となっています。まず、イエス様が埋葬されたということは何を意味しているでしょうか?埋葬とは、完全に死んだという意味であります。マルコ15:46「そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。」イエス様のお体は、アリマタヤのヨセフが提供した、墓に収められました。復活に反対する人たちは、「イエスは死んだのではなく、気絶していたのだ」と言います。でも、ローマの百人隊長がその様子を見ていました。彼は十字架刑で死んだ人たちを見てきた、いわばその道のプロであります。プロが死んだか、死んでいないか分からないわけがありません。そして、47節には「マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。」とあります。彼女たちも、イエス様が死なれたことと、墓の中にちゃんと収められたことを目撃していたのです。イエス様は3日間、墓の中にいました。しかし、ユダヤ人の数え方は、私たちの数え方とは違います。向こうの1日は、日没から日没までが1日です。たとえば、イエス様が金曜日の午後3時亡くなったとします。午後6時が日没とすると、第一日目は3時間しか死んでいません。そして、二日目は土曜日の午後6時までですから、24時間となります。そして、イエス様が日曜日の朝5時に復活したとすると三日目は11時間です。三日間を合計しますと、38時間しか死んでいないことになります。ですから、3日間というよりも、足掛け3日という方が正確です。でも、ユダヤの計算では3日間なのです。

 では、イエス様は3日間どこへ行っていたのでしょうか?「どこへ」って墓の中でしょう?と言うかもしれません。確かに肉体は墓の中に眠っておられました。でも、霊は使徒信条にあるように「陰府に下った」のであります。では、聖書的根拠はどこにあるのでしょうか?Ⅰペテロにそのことが書いてあります。Ⅰペテロ3:19「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです」。また、Ⅰペテロ4:6「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」これらのみことばは、セカンド・チャンスとして、大変物議をかもしている箇所です。セカンド・チャンスとは、一度も福音を聞かないで死んだ人たちが、陰府においてもう一度、福音を聞くチャンスが与えられるということです。ある人たちは、セカンド・チャンスをものすごく強調して、「死後にも救われるチャンスはある」とまで言います。私は「人はイエス様を救い主と信じなければ、救われない」と思います。そのために、私たちは一生懸命、福音を宣べ伝えるのであります。「死後にも救われるチャンスはある」としたら、命がけで宣教している人たちはガクッとくるでしょう。でも、神様は愛なる神様ですから、全く、福音を聞けなかった幼子や、ある時代の人たちは、ひょっとしたらそういうチャンスはあるかもしれません。でも、私はこのことを1つの神学として、提示することはしません。これはあくまでも、グレーゾーンであるからです。

 では、イエス様は陰府に下り、何をなさられたのでしょうか?Ⅰペテロ3章で言われている人たちとはだれでしょう?当時「ノアの時代、洪水で死んで行った人達は一体どうなってしまったのだろう」と質問する人たちがいたということです。なぜなら、ノアとその家族、合計8人しか救われなかったからです。聖書に「キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを宣べられた」「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」と書いてあります。ある人は、「イエス様ご自身が勝利したと悪霊どもに宣言したんだ」と解釈します。でも、文脈から見ると、霊とは確かに死んだ人たちの霊であります。もう1箇所、これと似ている聖句があります。エペソ人への手紙4章です。エペソ4:4:8、9 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この聖句は、イエス様が一度、復活する前に、まず地の低い所に下られた。何のために?「多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えるため」でありました。Ⅰペテロの「捕らわれの霊たち」と「多くの捕虜」とは同じ人たちのことではないかと思います。で、イエス様は彼らをどうされたのでしょうか?ここから、組織神学の話をしたいと思います。これは保守的な立場における1つの説です。旧約時代にも義人という人たちがいました。ノアもアブラハムもダビデも義人でした。でも、旧約時代はすべての人が死んだら陰府に下って行きました。

ルカ福音書16章で、イエス様は陰府の様子を離しておられます。これは単なるたとえ話ではなく、実際にイエス様がご覧になった出来事ではないかと思います。あるところに、金持ちと貧乏人ラザロがおり、二人とも死にました。貧乏人ラザロは、御使いたちによって、アブラハムのふところに連れていかれました。一方、金持ちはハデスという所にいました。ハデスとは、陰府であります。地獄ではありません。でも、彼のいるところは、すぐそばで炎が燃えていました。ラザロはずっと上の方にいるようです。金持ちが「熱くてたまらないので、一滴でも良いから水をくれ!」と願います。でも、アブラハムは「こことお前たちの間には、大きな淵があります」と言いました。おそらく、旧約時代の陰府は二階建てになっており、上にいる人たちは義人であり、下にいる人たちはそうでない人たちであります。おそらく、「イエス様は上にいる義人たちのところへ勝利の宣言し、復活のとき、上の陰府を丸ごと引き上げたのではないだろうか。そして、それはやがてパラダイスになった。パラダイスとは、天国が完成するまで、霊たちが主と共にすごすところだ」。このように保守的な神学者たちは考えているのであります。私も賛成であります。でも、私は行った事がありません。ある人たちは、実際、見てきたと言います。「私は地獄を見てきた」とか「天国を見てきた」と言います。それらは、信じる人もいれば、「嘘だろう」という人もいます。私は彼らの証言を「励ましと警告」というレベルで信じています。

 イエス様が陰府まで下って行って、捕らわれた霊たちを引き上げてくださったということが大きな励ましになります。申命記33:27口語訳ですが「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある」というみことばがあります。詩篇30:3「主よ。あなたは私のたましいを陰府から引き上げ」。詩篇139:8「私が陰府に床を設けても、そこにあなたはおられます」と書いてあります。ということは、私たちがたとえ陰府の底に下るようなことがあっても、そこにも主はおられ、どん底から引き上げてくださるということです。ところで、私は子供とお風呂に入った後、子供を寝かせるため一緒に寝ます。体があったまっているせいか、眠気がぐっと襲ってきます。「ああ、死ぬときもこんなんかなー」と思います。意識が遠のいて、らせん状の渦の中に下っていくようです。頭の中に思いがあっても、口で伝えられない。周りの人も私が何を思っているのか分からない。「死ぬ時というのは、きっとそうなのだろうなー」と思います。回りの人たちは、どうなっているか分からない。自分だけが、深い闇の中に落ちていく。だれも助けてくれる人はいない。でも、大丈夫です。「下には永遠の腕がある。私が陰府に床を設けても、そこにあなたはおられます」。イエス様は死の淵まで下ったことがあります。たとえ、私が陰府に下って迷っていたとしても、イエス様は私を捕まえて、パラダイスまで引き上げてくださる。仕事柄、今まで何人もの方を見送ってきました。でも、いつかは自分の番がきます。いつかは、あの火葬場の炉の中に入るときが来るでしょう。でも、大丈夫です。イエス・キリストは、死の向こうまで行って、こちらへ帰ってこられた唯一の方です。救いがあるということは、何と心強いことでしょう。あるいは、ボケちゃって、自分がだれか分からなくなるかもしれません。妻や子供の名前や顔も忘れるかもしれません。でも、大丈夫です。私が主を忘れることがあっても、主は私を忘れることはありません。信仰とは、自分に頼らないで、主に頼るということです。飛行機のパイロットは、計器だけを見て操縦する訓練を受けるそうです。明るいときは、回りを見て、機体の傾き具合がわかります。でも、真っ暗な海の上を飛ぶと、「自分が乗っている飛行機が水平なのか、斜めなのか、あるいは逆さまなのか。どのくらいの高度なのか」分からなくなるそうです。そのとき自分の感覚に頼らないで、計器だけを見て操縦する。ただ計器が示していることを信じなければならないのです。私たちが信じるべきものは、イエス様ご自身と聖書のみことばであります。世のものはすべて変わります。倫理道徳、人の価値観も変わるでしょう。でも、イエス様ご自身とみことばは永遠に変わることがありません。死の向こうまで行って、帰ってこられたイエス様を心に抱いていることは、本当にありがたいことです。いや、むしろ私たちは神様から抱かれているのです。イザヤ46:3-4「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」ハレルヤ!アーメン。