2008.03.23 アンビリーバブル マルコ16:1-14

イースターおめでとうございます。また、本日は洗礼式がありますので、もう1つおめでとうございます。日本では、イースターよりもクリスマスが有名であり、それも国中でお祝いをします。でも、教会の歴史をみますと、イースターはすぐ定着したようですが、クリスマスは西暦200年頃からお祝いされたようです。ということは、イースターの方が、クリスマスよりも忘れてはならない出来事だということです。きょうは、アンビリーバブルという説教題でありますが、事務をしています岩本姉から「アンビリーバブルって何ですか?」と聞かれました。私は「え?アンビリーバブル知らないの?もう日本語になっているくらいよく使われているよ」と答えました。今、思えば冷たい答え方だったかなーと反省しております。数年前、日本ハムの ヒルマン監督が優勝したとき「ジンジラレナーイ」と言いました。世界の歴史で、最も信じられない出来事は、死んだ人がよみがえられたことです。

1.御使いのメッセージ

 3人の女性たちは、日曜日の朝早く、墓に向かいました。道の途中、「墓の入口から、あの石をころがしてくれる人が、だれかいるだろうか」と、話し合っていました。が、近くに行って、目を上げてみると、大きな石が既にころがしてありました。マタイによる福音書には、「主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがした。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と書いてあります。おそらく、女性たちが到着したのは、ローマ兵が逃げ去った直後だと思います。女性たちが墓の中をのぞくと、真白な長い衣をまとった青年が座っていました。御使いを青年だと思ったのでしょう。6-7節まで、御使いは2つのことを彼女らに伝えています。ギリシヤ語で御使いをアンゲロスと言いますが、「知らせる、報告する」という言葉から来たものです。では、御使いはどんなことを知らせたのでしょうか?第一に、「ナザレのイエスはよみがえられた、墓の中にはおられない」ということです。聖地に行くと、イエス様の墓らしきほら穴があり、そこには英語の看板がかけられているそうです。He is not here.「彼はここにはおられない」と書いてあるそうです。そうやって、みなさんが空の墓を見るわけです。この間の20日は、お彼岸でした。日本では、この日に墓参りする習慣があります。亀有教会から駅まで行く間に、お墓を2箇所くらい通らなければなりません。お線香の香りがモァーとしました。先日、テレビでやっていましたが、「五重塔は何でしょうか?」という問題がありました。実は、五重塔とはお墓であり、その中にお釈迦様のお骨(シャリ)が納められているということです。日本人はよっぽどお墓が好きな国民だなーと思います。

 御使いが残した第二のメッセージは、7節です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」「お弟子たちとペテロ」とわざわざ言われたのは何故でしょう?ペテロは、イエス様を3度も知らないと言いました。自己嫌悪と後悔のどん底にいるにちがいありません。だから、他の弟子たちとは別格にして、ペテロに「必ずガリラヤに来なさいよ」と言うことなのでしょう。弟子たちの多くは、ガリラヤでイエス様から弟子として召されました。ですから、弟子として、再献身、再出発するために「もう一度来なさい」ということなのでしょう。イエス様がいつガリラヤのことを話したかと言いますと、マルコ14:28です。オリーブ山でイエス様が「あなたがたはみな躓きますよ」と言った直後に、ご自身がよみがえるここと、ガリラヤで待っていることを予告されたのです。御使いは、念を押すために、もう一度、イエス様のことばを繰り返したわけです。イエス様の思いやりは、すばらしいですね。ペテロや弟子たちの失敗をちゃんと予測して、その後のことまで準備しておられたのです。私たちは、思いがけないことが起きた場合、「まさか、こんなはずじゃなかった。もう絶望だ」と頭をかかえて、その場に座り込んでしまうでしょう。でも、神様にとって、「まさか」とか「絶望」などはありません。神様は永遠でありますから、私たちの先のこともちゃんと見越しておられるのです。私たちは近視眼なので、「えー、なんで、こんなことが!」と怒ったり、つぶやいたりします。そのときこそ、自分が神様の御手にあることを覚えたいものです。

 弟子たちは十字架の前で逃げ去り、一度失敗しました。でも、イエス様が復活したゆえに、彼らも復活しました。私たちもたとえ絶望の淵に落ちても、復活が可能だということを信じたいと思います。北海道の旭川市のある姉妹から、突然、ファックスが届きました。「エディ・レオ師の第三回目のDVDを見ました。父の愛、シリーズ全部、送ってください」とのことでした。私は他の集会と重なっていたので、送るのが少し遅れました。すこし後で、亀有教会でなされたものだけじゃなく、掛川の集会とか、エディ・レオ師のメッセージ集など手元にあるものを全部送りました。まもなく、「ちょうど、落ち込んでいた頃、とどきました。感謝します」とういうメールが届きました。姉妹は、ご主人が亡くなった後、立ち直れない状態だったようです。「教会の兄弟姉妹から『今はわからないけど、あとで分かる』みたいに言われ、蹴飛ばしたくなるほど腹がたちました。でも、エディ・レオ師のメッセージを聞いてとても励まされました。感謝します。」という内容でした。突然の出来事に対して、人間のことばでは、慰めることはできないことがたくさんあります。でも、イエス様にとって、「突然」ということはないのです。イエス様は先のことを見越しておられます。どうぞ、まさかのときこそ、イエス様を信頼しましょう。賛美にこうのがあります。「明日はどんな日か、私は知らない。晴れか、嵐か、曇りになるか。だけど、私は心配しない。イエスが私を守られるから」。

2.アンビリーバブル

 御使いが女性たちに、弟子たちに「そう言いなさいよ」と告げました。その後、どうなったでしょうか?8節「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」ここを見ると、「何かの間違いではないだろうか」と思ってしまいます。それで、9節からは括弧になっています。つまり、ある聖書は、この8節で終わっているということです。「そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。フッツン!」であります。「そりゃーないよ」と言いたくなります。けれど、別の写本もあったようです。それが、9節以降の内容です。「少しホッとするなー」という感じです。女性たちは気を取り直して、イエス様が復活されたことを弟子たちに話しました。11節後半「それを信じようとしなかった」と書いてあります。また、さらに二人が復活のイエス様と出会い、弟子たちにそのことを知らせました。13節後半「彼らはふたりの話も信じなかった」。ガビーンであります。なんという不信仰でしょうか?これだったら、9節以降の文章があってもなくても同じだという感じがします。信じなかったのですから、恥の上塗りであります。ところで、神様も聖書も信じない人たちは「弟子たちが勝手にイエス像を作り上げたんだ」と言います。つまり、「弟子たちはイエスを神に祀り上げるため嘘を書いた」と言うのです。でも、復活物語を見ると、手を加えて嘘を書いたとはとても思えません。第一にイエス様の復活物語には統一性がありません。4つの福音書を見ても、バラバラであります。第二に復活を信じない弟子たちのふがいなさがそのまま書かれています。もし、だれかが作為的にイエス様のよみがえりを作ったとするなら、もっとうまく書くんじゃないでしょうか?世の中に、いろんな宗教書がありますが、教祖や弟子たちの美談にあふれているんじゃないでしょうか?しかし、聖書は「恐ろしかった」とか「信じなかった」とありのままを書いています。しかも、時間的にどれが最初で、どれが後なのか、よく分からないところがあります。

 その答えは簡単です。それだけ死んだ人がよみがえるということは信じがたいことだということです。3年半も一緒にいて、復活の預言を何度も聞いた弟子たちですら信じられなかった。それだけ、復活と言う出来事は、アンビリーバブルだということです。イエス様が死からよみがえられたのは、いわゆる蘇生とは違います。一時的に死んだけれど、生き返ったという人は何人もいるでしょう。イエス様も少なくとも福音書では3人を生き返らせています。旧約聖書でも死んだ人が生き返ったという奇跡があります。でも、彼らは、一度はよみがえりましたが、年を取って、やがてはみな死んでいったのです。でも、イエス様の場合は蘇生ではありません。もう二度と死なない体、栄光の体によみがえられたのです。ヨハネ福音書にはイエス様の頭に巻いていた布切れのことが書いてあります。その布は巻かれたまま、墓の中に残されていました。私たちは指を切ったとき、包帯を巻きます。でも、巻き方がゆるいと、すぽっと抜けます。イエス様の頭に巻いた布は、ほどいたのではなく、すぽっと抜けたようになっていたのです。また、弟子たちはユダヤ人を恐れ、戸を閉めていました。でも、イエス様はその部屋の中に入ることができました。そればかりではありません。Ⅰコリント15章には「キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れた」と書いてあります。この世の肉体であったら、そんなことは不可能です。栄光の体だからこそ、空間や時間に支配されることがなかったのです。だから、女性たちや弟子たちの証言が、バラバラなのです。彼らは自分たちが見たことを、そのまま書いただけのです。だから、矛盾があるように思えるのです。でも、矛盾があるからこそ、真実なのです。ハレルヤ!

 世界でもっとも、アンビリーバブルなこと、それは、死んだ人がよみがえられたことです。「復活節の高笑い」ということを聞いたことがあります。昔、ヨーロッパでは、イースターの夜明けの礼拝で、クリスチャンたちは大笑いしたそうです。礼拝堂の中は「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と、高く大きな笑い声で満ちたと言われます。何故、大笑いしたのでしょうか?「死んだ人がよみがえられた。イエス様が死に打ち勝たれた。主にあって、もう死は怖くない」。だから、「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と笑ったんじゃないかと思います。「礼拝堂で笑っていんですか?不謹慎じゃないでしょうか?」そうではありません。この笑いは「聖なる笑い」です。アンビリーバブルなことが起きた。イエス様はアンビリーバブルなことをされた。私の人生も、アンビリーバブルだ。「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と笑うのです。少し前に「アンビリバボー」というテレビ番組がありました。世界中から「九死に一生を得た、死から生還した」という実話を集めたものです。そういうものを見ると、「よかったー」と感動します。でも、みなさん、歴史上、一番の「アンビリバボー」は、イエス・キリストがなさられたことです。キリストは十字架で私たちの罪を負い、身代わりに死なれました。とっても残酷な死でした。弟子たちもみんな諦めました。でも、日曜日の朝、イエス様は父なる神様によってよみがえらされました。キリストは死と悪魔に勝利されたのです。私たちもキリストにあって、死と悪魔に勝利することができるのです。アーメン。これほどすばらしいグッド・ニュースはありません。だから、キリスト教会はこのことを忘れないように、また、このニュースを広めたいために、毎週、日曜日、礼拝を守っているのです。

3.不信仰とかたくなな心

 いくら言っても、復活を信じない弟子たちに対して、イエス様はどうなされたのでしょうか?14節「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」信じないということは、罪なのであります。だから、イエス様は弟子たちを責めたのです。ヨハネ20:27で、疑い深いトマスに対してイエス様はこのように言われました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。さらに、ヨハネ20:31「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るめである」と書かれています。信じるということは、私たちのいのちと深い関係があります。信じる者にはいのちがあり、信じない者にはいのちがないのです。ギリシヤ後で、この「いのち」はゾーエーであり、単なる命ではありません。ゾーエーは「復活のいのち」「神のいのち」「永遠のいのち」という意味があります。つまり、キリストを信じる者には、「復活のいのち」「神のいのち」「永遠のいのち」があるということです。信じるということは、神様の賜物をいただくための唯一の条件です。信じた人にだけ、ゾーエーが流れてくるのです。だから、信仰はパイプのようなものです。神様はゾーエーの大きな塊です。そこに、私たちが信仰というパイプを差し込む。するとそこから、ドーッと「復活のいのち」「神のいのち」「永遠のいのち」が流れ込んでくるのです。ハレルヤ!

イエス様は「彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになられました」。また、イエス様はヨハネ福音書で「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われました。これだけ、神様のみこころがはっきりしているという箇所も他にないです。では、信じない人はどうなるのでしょうか?天国に行けないということでしょうか?もちろん、それもありますが、将来のことだけではありません。ヨハネ3:18「信じない者は、すでにさばかれている」と書いてあります。将来ばかりではなく、今、「すでにさばかれている」ということです。おだやかじゃない、というかただならぬことです。この世には「私は無神論者だ」という方が結構おられます。「キリスト教も宗教だから結構です」という人もおられます。そういう人たちは、私たちを「神がいると信じている哀れな人たち」と言うでしょう。しかし、「神はいない」といういのも1つの信仰であります。無神論も1つの信仰だと思います。「神はいない」という人の人生は、果たしてどんなものでしょうか?神がいないとは、報いてくださる方がいないということです。神がいないとは、真理も正義もないということです。神がいないとは、人生の目的も意味ないということです。神がいないとは、癒しも救いもないということです。神がいないとは、死んだら終わりで、今がすべてということです。つまり、神様を信じていない人は、将来ばかりでなく、現在、既に呪いとさばきが臨んでいるということです。詩篇14:1には、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしいことを行っている」と書いてあります。私もかつては、「神はいない」と信じていました。でも、今は「神はいない」と信じることなどとてもできません。年を重ねれば、重ねるほど、キリストの神様を信じてよかったなーと安堵しております。

 イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死なれました。そして、イエス様は十字架の上で「完了した」と叫ばれました。十字架で贖いのわざは完成したわけです。私たちのために死んで下さっただけでもありがたいのですが、復活にはどんな意味があるのでしょうか?これは神学的に、説明するのがとても難しいテーマなんです。ローマ4:24,25に「すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」というみことばがあります。使徒パウロは、十字架の死とよみがえりを2つに分けて語っています。イエス様の十字架の死は、私たちの罪の赦しのためでした。そして、イエス様が死者の中からよみがえらされたのは、私たちが義と認められるためです。みなさん、罪の赦しというのは、犯した罪が取り消され、プラスマイナス・ゼロの位置に戻されることです。でも、義というのはどういうことでしょうか。義とは全く罪を犯したことのない、神の義の高さです。100%の正しさです。これは、人間にはありえないことであります。でも、この神の義が与えられないと人は真の意味で救われないのです。つまり、キリストがよみがえられたことにより、私たちは罪が赦されたというレベルよりももっと高い、神の義まで高められるということです。プラスマイナス・ゼロではなく、プラスプラスであります。私たちがイエス・キリストを救い主として信じるならば、神様の目から、義と認められるということです。イエス様の復活は、私たちをそのレベルまで高めるためのものだったのです。ハレルヤ!私たちはこのことを額面どおり、受け止め、自分は義であると見るのです。自分が、罪が赦されただけの罪人だったならば、また罪を犯してしまうでしょう。でも、自分は義とされている存在だということわかるなら、「ああ、罪は私には似つかわしくない」と思うでしょう。もちろん、罪を犯すことがあるでしょう。でも、それは彼にとって当たり前のことではなく、気持ち悪いことなのです。なぜなら、神様から義とみなされているからです。あるクリスチャンは何故、力がないのでしょう。それは罪が赦されていることだけしか信じていないからです。イエス・キリストは、「私たちが義と認められるために、よみがえられたのです」。

もちろん、キリストの復活の意味は他にもたくさんあります。それはキリストが眠った者の初穂としてよみがえったからには、私たちもやがてはよみがえるということです。キリストが死に勝利したので、キリストを信じる私たちも死に勝利できるという保障です。みなさんは、ポップコーンを作ったことがあるでしょうか?フライパンに乾燥したコーンを入れて、下から温めます。少し立つと、パーンという音がします。第一号です。その後、パパパパーンと次々と爆発します。2000年前、パーンと第一号としてイエス・キリストが死者の中から復活しました。もう少したつと、パパパパーンと次々と復活するのです。2000年、もうずいぶんと温まりました。墓の中に眠っている聖徒たちもむずむずしているでしょう。「主よ、来てください」と叫んでいるのです。イエス様は黙示録で「しかし、私はすぐに来る」と約束しておられます。主が再び来られるとき、死は勝利にのまれるのです。