2008.03.30 大宣教命令 マルコ16:15-16

マルコによる福音書は「イエス・キリストの福音のはじめ」と言う書き出しで始まりました。また、イエス様は公生涯において、町々や村々に出かけ、福音を宣べ伝えました。弟子たちも伝道旅行先で、福音を宣べ伝えました。そして、マルコ16章では、イエス様は天に戻られる前に、「福音を宣べ伝えなさい」と弟子たちに命令されました。考えて見ますと、最後のマルコ16章は福音のはじめではなく、福音の終わり、福音の完成であります。これは、イエス様が宣べ伝えた福音でもなく、伝道旅行先で宣べ伝えた福音でもありません。イエス様は、弟子たちだけではなく、すべての時代のクリスチャンに、この完成した福音を宣べ伝えなさいと命じられたのであります。それはどんな福音でしょうか?

1.宣教の大命令

マルコ16:15の鍵括弧をお読みします。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」。まず最初に不思議に思うのは、なぜ、イエス様は人間と言わずに、「すべての造られた者に」と言われたのでしょうか?原文は「すべての被造物に宣べ伝えよ」となっています。すべての被造物だったら、ネコや犬も含まれるはずです。聖フランチェスコは鳥たちにも伝道したと言われています。シュバイツアー博士は、アフリカに宣教に行ったことで有名です。ある人がアフリカでライオンと出くわしました。「ああ、困った。どうしよう」、とっさに彼は死んだまねをしました。相手は熊じゃありません。でも、ライオンが襲ってくる様子がありません。薄目を開けて見ると、ライオンがお祈りをしているではありませんか?その人は「ああ、シュバイツアー博士はライオンにも伝道したんだ」と感動しました。「ライオンさんも祈るんですね、すばらしい」と言いました。ライオンは、「うん。今、食前のお祈りをしたところだ」と答えたそうです。これは、ジョークであります。

なぜ、イエス様が人間とは言わずに、「すべての造られた者に」とおっしゃったのでしょう。それは、「創造論から始めなさい」ということです。人間ははじめ神様から造られました。ところが堕落して、神様から離れ、滅びに向かって歩んでいます。しかし、イエス・キリストがこの地上に来られ、開口一番「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」とは、方向転換を意味します。神様に背を向けて滅びに向かっていた人生から、方向転換するのです。神様はあなたに、永遠の御国、神の国を用意しておられます。しかし、罪があるままでは神の国に入ることはできません。そのため、イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、罪の代価をすべて払ってくださったのです。そして、三日目によみがえり、神様への道を設けてくださいました。あなたがイエス様を救い主として信じるなら、すべての罪が赦され、神の国に入ることができるのです。みなさん、これが完成された福音です。福音書でイエス様や弟子たちが宣べ伝えた福音は、十字架と復活がありませんでした。しかし、完成した福音には、十字架と復活があるのです。

イエス様はこの福音を「全世界に出て行って、宣べ伝えなさい」と命じられました。でも、弟子たち、つまり使徒たちはそうしませんでした。エルサレムにとどまっていたのです。変な話ですが、出て行って、異邦人に福音を伝える人などいませんでした。使徒の働きを見てわかりますが、ピリポという執事が、隣のサマリヤに行って福音を宣べ伝えました。その後、エルサレムに大迫害が起こり、名もない人たちが散らされながら、福音を宣べ伝えました。使徒13章を見ると分かりますが、アンテオケというところに異邦人の群れができました。彼らは朝から晩まで、「キリスト、キリスト」と叫んでいたので、人々は「あいつらはキリスト党だ」と馬鹿にしました。クリスチャンというのは、「キリスト党」という意味のあだ名であります。そのアンテオケから宣教師が遣わされ、小アジアやヨーロッパに宣教に行ったのであります。イエス様の弟子たちは、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えよ」という命令を実行するまでに、おそらく30年はかかったであろうと思います。しかし、残念ですが、日本においては、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えよ」という命令を未だに、実行している教会は少ないのであります。日本は16世紀にカトリック、19世紀にプロテスタントが入ってきました。数限りない宣教師や宣教団体が伝道してくれました。でも、日本の教会はいまだに、被宣教国であります。多くのクリスチャンは、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えるなんて、とんでもない」と思っているのです。

 私も人のことは言えません。でも、みなさん、マルコ16章のこのみことばは、マタイ28章の「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と並んで、有名なみことばです。何故、有名かと言いますと、イエス様がこの地上を去るときの最後のことば、遺言だからです。これは全クリスチャン、全教会に対する大命令、ミッション、使命であります。もし、そうであるなら、どんなクリスチャンであっても、この命令を果たす責任があるということです。本来なら、生活の糧を得るために、仕事をしている間もこの大命令を忘れることはできません。本来なら、学校で勉強していても、この大命令を忘れることはできません。でも、私たちはこの世の生活に追われ、「そんな命令あったかな?」と簡単に忘れ去るのです。イエス様は「受けるより、与える方が幸い」であると言われました。私たちが一番、人に与えるべきなのは、この福音であります。なぜなら、この福音によって、人々が救われ神の国に入ることができるからです。神の国は死んでから入るのではありません。今、ここに神の国が来ています。神の国には病や死、貧困、争いもありません。クリスチャンはこの世にいながらも、神の国の祝福をいただき、生活することができるのです。アーメン。テレビでは毎日のように刃物で人々が殺されています。政治家は問題にしていませんが、日本は赤字大国であり、いつ破綻が来ても不思議ではありません。もし、関東に大地震が起こったら、経済はパンクするかもしれません。でも、それがチャンスです。人々の心が貧しくなり、福音を信じるようになるからです。クリスチャンは、大惨事が起こっても、世の人たちと同じようにしてはいけません。自分の命も大切ですが、それ以上に、福音を一人でも多くの人に宣べ伝えるのです。一人で神の国に入るのではなく、何人か道連れして入りましょう。

教会は、色んな交わりや活動をしていますが、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えよ」という主のご命令を忘れてはいけません。インドネシアのアバラブ教会は、福音宣教と関係していないすべてのプログラムは、主イエスの御名によって、閉じたそうです。セルも良いです。賛美や交わり、勉強会も良いでしょう。でも、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えよ」、そのことを、いつも頭の中に入れておきましょう。

2.宣教のゴール

 マルコ16:16「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」人が福音を信じるなら、罪赦され救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。これは、前の説教で既に申し上げましたが、人はやがて神様の前に立ちます。そのとき、その人が犯した個々の罪で裁かれるのではありません。そうではなく、「私が遣わしたイエス・キリストをどうして信じなかったのか」その一点でさばかれるのです。なぜなら、私たちが犯した罪は、イエス・キリストの十字架によって贖われているからです。せっかくイエス様がなされた贖いを無にした。それは神様の愛を無にしたことと同じなのです。しかし、ここには「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」と書いてあります。「人は信じるだけで救われる」と言ったのに、なぜバプテスマ、洗礼が必要なのでしょうか?極端な例を申し上げますと、イエス様の十字架の隣にいた犯罪人はイエス様を信じました。でも、彼は十字架に付けられたまま死んだので、バプテスマを受ける時間がありませんでした。では、彼は救われていなかったのでしょうか?救われていたと思います。では、なぜ、信仰告白して、救われているのに、さらにバプテスマを受ける必要があるのでしょうか?

 ローマ10章には信仰告白のことが記されています。ローマ10:9、10「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」9節で言われている「告白」は人に対してではありません。人は神様に対して、「イエスは主です」と告白すれば救われるのです。もし、信仰告白を確認してくれる人がいないと救われないとしたら、無人島に流された人や独房にいる人は救われないことになります。ある人は、ラジオからの福音を聴いて信じる人もいるでしょう。でも、みなさん、イエス様はマタイによる福音書でこのように言われました。マタイ12:34「心に満ちていることを口が話すのです」と言われました。ハレルヤ!人が本当にイエス様を信じたなら、心の中にとどめておくことはできないのです。心にイエス様を信じたなら、口が「ああ、イエスは救い主です。私の主です」と言いたくなるのです。では、10節の「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」という意味は何でしょうか?その人が、口で告白できるということは、救われている結果、証拠だということです。聖霊が確かにその人の心に信仰を与え、その結果、口から告白しているということです。

 では、マルコ16章の「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」という意味は何でしょうか?私はここには、3つの意味があると思います。①信じたらバプテスマを受けるものだということです。さきほどの十字架の犯罪人のように、時間がない人は別です。交通事故など、死に瀕している人などは、バプテスマを受ける時間がありません。そういう人は例外です。対象は信じた後もまだ人生がある人です。その人は「信じたらバプテスマを受けよ」。これは神様からの命令です。「一度、キリストと共に死んで、キリストのともによみがえる。そのことを体験せよ」ということです。私は、バプテスマの水は罪を洗い清めるということよりも、キリストの死の中にバプテスマされる(一体化される)方が正しいと思います。「バプテスマを受けたあなたは前のあなたではない、新しい存在であることを体験を通して信じなさい」ということだと思います。「信じてバプテスマを受けよ」は神様のご命令です。ですから、「信じたけれど、バプテスマは受けない」ということはありえないのです。②バプテスマは伝道のゴールだということです。福音を伝えた後、ある人は「私は信じます」と言う人がいるかもしれません。それで安心しないでください。信じたらバプテスマを受けるべきです。それで、伝道が終了したのです。でも、それで終わりではありません。それから、信仰生活が始まるのです。でも、バプテスマを受けずに信仰生活は始まらないことを覚えてください。③マルコ16章の「救われます」は、環境からの救いだと私は考えます。人は心の中で信じるだけで救われるのに、なぜ、バプテスマを受けるのでしょう。バプテスマ式のときは、「あなたはイエス・キリストを救い主、人生の主として信じますか」と問われます。そのとき受ける人は、「はい、信じます」と答えます。その人は、そのとき初めて信じたのではありません。前から信じてはいたけれど、人々の前で公に告白したのであります。これはどういう効果があるのでしょうか。それは、その人が世界に対して、「私はイエス・キリストを信じたよ」と告白したのです。その告白を神様や天使が聞いているでしょう。でも、悪魔も聞いているのです。そして、あなたが職場や学校、家庭でも「私はクリスチャン、イエス様を信じています」と告白します。するとあなたは、環境からも救われるのです。世の人があなたがクリスチャンであると知ると、あなたを悪い遊びに誘惑しなくなるでしょう。同僚は「クリスチャンだったらそういうことはしないだろうなー」と誘わなくなります。でも、あなたが自分がクリスチャンであることを秘密にしているなら、この世の人たちは、どんどん誘惑してくるでしょう。隠れキリシタンは世の誘惑にすこぶる弱いのです。どうぞ、旗印を明確にしてください。世の光として、輝いてください。そうすれば、あなたは環境からも救われます。

 私は洗礼準備会のとき「バプテスマを結婚式のようなものです」と答えます。結婚は区役所に婚姻届を持って行けば成立します。そういう人たちも実際おられます。でも、どうでしょうか?神と人々の前で二人が愛を誓い、人々から祝福してもらう。その誓いや祝福が二人の結婚にものすごい支えになるでしょう。公にしたのですから、もう、浮気や離婚が簡単にできないのです。同じように、バプテスマを受け、神の家族に加えられるならどうでしょうか?互いに愛し合い、互いに祈り合い、互いに助け合い。信仰が成長し、拡大していくことは間違いありません。兄弟姉妹があなたを支えてくれるでしょう。そういう意味でも、バプテスマは大切なのです。

3.宣教に伴うしるし

マルコ16:17,18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」とんで、16:20「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」。みなさん、教会では「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福-音を宣べ伝えなさい」というみことばは、良く説かれます。しかし、17-18節の内容は、どういうわけか説かれません。特に福音派の教会はそうです。彼らは、伝道は一生懸命行います。でも、悪霊の追い出しや病の癒しは皆無であります。おかしいんじゃないでしょうか?ある先生方は、「聖書が完成した時代は、そういうのは終わった、必要ない」と言います。馬鹿じゃないかと思います。彼らは聖書を誤りなき神のことばと信じているくせに、その内容を全部、受け入れているわけではないのです。それが神学の限界であり、神学の罠です。聖書を誤りなき神のことばと信じるならば、言われている内容もそのまま受け入れるべきであります。伝統的な教会は福音宣教しかしないので、収穫が乏しいのではないでしょうか。

本当は、福音宣教と病の癒しや悪霊追い出しはペアーなのです。ペアーというのは、2つで1つという意味です。手袋や靴下は2つで1のペアーです。靴も2つで1のペアーですね。それから眼鏡もズボンもペアーと言うんですね。みなさん、靴を片方しか履いてないとどんな気分になるでしょうか?ヘタンコ、ヘタンコ。それで外へ出て行ったら、笑われてしまいます。ローマ10:15「福音を伝える人々の足は、なんと立派でしょう」とあります。でも、片方しか靴を履いていないとしたら、かっこ悪いというか、福音をうまく運べないですね。同じように、福音を宣べ伝えるときは、病の癒しと悪霊追い出しは必ず必要だということです。イエス様も福音書において、福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出されました。そういう箇所をたくさん探すことができます。また、伝道旅行のとき、イエス様は弟子たちにどう命じられたでしょうか?マタイ10:7-8「行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」アーメン。なんと、「死人を生き返らせよ」と、まで命じられています。インドネシアのアバラブ教会ではここ数年間に、3人の人が、生き返ったそうです。ですから、お葬式を行う前は、必ず、死んだ人をみんなが起こして、お祈りするそうです。それで生き返らない場合は、「やっぱり死んだんだ」ということで、お葬式をするそうです。

マルコ16:20「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」とあります。イエス様は一度、天にお帰りになられてから、聖霊として戻ってこられました。そして、みことばにともなうしるしを与えてともに働いておられるのです。初代教会もしるしを行わせてくださいと必死に祈りました。使徒4:29、30「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください」。また、使徒パウロもこのように言っています。Ⅰコリント2:4「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」(Ⅰコリント2:4)。このように、使徒たちもイエス様に倣ったのであります。だから、当然のごとく、教会も福音宣教を行う時に、病の癒しと悪霊の追い出しを一緒にすべきなのです。

ジョン・ウィンバーが「伝道のエンゲル係数」ということを言いました。人々は奇跡やしるしを体験するとき、福音に対して心が開きやすいということです。17節に、信じる人々のしるしとして、「新しいことばを語る」とあります。ペンテコステ系の人たちは「これは異言だ」と言います。しかし、それだけではありません。Ⅰコリント12章には「知恵のことば」「知識のことば」という御霊の賜物がしるされています。イエス様は伝道のとき、「知恵のことば」「知識のことば」あるいは「預言」をふんだんに使っています。たとえば、イエス様は「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカ19:5)と言いました。なぜザアカイは、喜んでイエス様を迎えたのでしょう?イエス様が、木の上で隠れている自分の名前を知っておられたからです。彼はそれでいっぺんに心が開いたのです。ナタナエルの場合も同じです。イエス様は「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」(ヨハネ1:48)と言いました。「まだ、会ったことのないのに、イエス様が私をご存知なんて?」彼もいっぺんに心が開かれ「あなたは神の子です」と告白しました。サマリヤの女性に対して「あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではない」と言いました。彼女は「先生、あなたは預言者だと思います」と答えました。このように、イエス様は伝道するとき、超自然的な力を用いました。だから、彼らの心が開かれ、福音を受け入れたのです。神様は、今も働いておられ、私たちが福音を宣べ伝えようとするとき、しるしと不思議を伴ってくださいます。なぜなら、神様は「すべての人が救われて、真理を知るように望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)からです。だから、私たちは一人で福音を伝えているわけではないのです。三位一体の神様が共に働いていてくださるのです。どうぞ、あなたもこの尊い、福音宣教に参加しようではありませんか。神様が自分と共に働いてくださることを体験しましょう。