2015.7.19「キリストから任命された者 ヨハネ15:16、17:18」

 弟子とはだれでしょう?三回目のきょうは「弟子とはキリストから任命された者」というテーマで学びたいと思います。ある人たちは「イエス様を信じてクリスチャンになると、死んだあとは、天国に行ける」と思っています。間違いではありませんが、救いは天国に行くためだけにあるものではありません。神さまは私たちが地上から天国に行くまでの間も救いたいと願っておられます。この「救い」は人生に意味と意義を与えるという意味の救いです。それはどういう意味でしょう?イエス様はあなたを救いに導かれましたが、同時に、あなたにこの地上でやってもらいたいことも用意しておられます。私たちはイエス様から何かの目的のために任命されているという自覚がなければ、この地上の人生を無駄に使ってしまうでしょう。あなたはせっかく救われたのですから、神からの使命に目覚めなければなりません。

1.任命された目的

ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ17:18「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」『本当の弟子』のテキストに記されている質問によって進めたいと思います。「私たちが弟子として選ばれ、任命されたのは何のためでしょう?」 それは、「行って実を結び、その実が残るため」です。任命というギリシャ語は、ティセミですが、「立てる」「任命する」「叙品する(ordain)」という意味があります。この世において、任命ということばは、どういう時に使われるでしょうか?多くの場合、任命は公務員などの官職や役職に就くときに用いられます。警察官、消防員、学校の教師、区役所…いろいろあります。彼らは試験を通過して認められたので、特定の身分があり、成すべき役目があります。もちろん、給与や厚生面も保証されています。しかし、一般の人と違って賄賂をもらったり、犯罪をやらかすとテレビのニュースに流れます。教会では、牧師だけではなく、クリスチャンもキリストの弟子として任命された存在です。「いや、私は気楽に生きたいので、そういうものはいりません」と断ることもできます。しかし、イエス様からお声がかかったなら、断ってはいけません。なぜなら、イエス様はあなたが弟子になれると見込んでいるからです。「いや、私があなたを弟子にしてあげよう」とおっしゃっているのです。

「キリストの弟子として結ぶべき実とはどんなものでしょう?」弟子として結ぶべき実が3つありますが、これは第二、第三、第四のポイントでお話ししたいと思います。短く紹介しますと、生涯を通して結ばれる聖化の実、失われた魂を勝ち取る実、生涯を通して主に奉仕する実の3つです。

「どのような実が永遠に残るのでしょうか?」Ⅰコリント3:12-14「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。」土台とはイエス・キリスト様です。その上に、建物を建てるのですが、どんな材料を用いるかが問題です。火というのは世の終わりのさばきであり、私たちが「キリストのさばき」の前に立った時であります。木、草、わらはたやすく手に入ります。それは私たちの肉の行ないによって建てたものです。ある人は怨念晴らしによって、建て上げる人もいます。しかし、それらは火によって焼かれてなくなってしまいます。では、その人は救われないで、滅びに行くかというとそうではありません。Ⅰコリント3:15「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」とあります。わざや働きがなくなったとしても、神さまからいただいた永遠のいのちはなくすことがありません。私たちはこの世ではなく、永遠に残るような実を結ぶような働きをしたいものです。

「イエス様はあなたが実を結ぶことができるように、どのような約束を与えたのでしょう?」ヨハネ15:16後半「主の名によって父に求めるものは何でも、父が私たちにお与えになる」と書いてあります。15:16の前半には「私が実を結ぶために任命した」と書かれています。15:16の後半には「求めたら与える」と書いてあります。私たちは後半のみことばだけを見がちです。しかし、イエス様はご自分の目的が果たされるために、「求めたら与える」と約束されたのです。つまり、「あなたは弟子として任命されたんですよ」という前提があっての約束です。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。牧師や一部の献身者だけが神から任命されたのではありません。ルターが「万人祭司」を唱えたように、すべてのクリスチャンが祭司として任命されたのです。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(Ⅰペテロ2:9)。もし、クリスチャンが「任命された」という自覚がないならば、「地上で好きなことをして、天国に行ければ、ラッキー」となるでしょう。ただ今から3つの実を取り上たいと思います。

 

2.聖化の実

第一は聖化の実です。エペソ4:13「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」Ⅰヨハネ2:6「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」「私たちの成長における、最終的な目標は何でしょう?」完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達することです。イエス様は「天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。私たちは「完全」と聞くと、おじけづいてしまいます。完全はギリシャ語では、テレイオウですが完璧という意味ではありません。仕上げるとか、完成する、完了させるという意味があります。このところには「私たちがキリストに似た者となるまで成長する」というニュアンスがあります。特に人格的な成長であります。私の口から「人格的な成長」というと、とても不似合のような感じがします。キリスト教会に来たら、「ありのままで良いんですよ」と言われます。でも、洗礼後は「ありままじゃダメなんです」ということなのでしょうか?もし、洗礼を受けたとき霊的な赤ん坊であるなら、赤ん坊のままで良いわけはありません。肉体もそうですが、霊的にも成長していく必要があります。イエス様が私たちのゴールです。Ⅱコリント3:18「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とあります。このことを私たちは聖化と言いますが、これも主の恵みです。なぜなら、「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と書いてあるからです。

では、「イエス様のように成長するためには、私たちは何をすべきなのでしょうか?」キリストが歩まれたように歩むということです。つまり、イエス様のようになるということは、イエス様のライフ・スタイルをまねるということです。私たちはイエスさまと同じようにはなれません。もし、私が「イエス様のような愛と寛容な人になるんだ」と決断したとします。ある人がつかつかとやってきてピシャッと頬を打ちました。「ああ、愛と寛容だ」と赦してあげます。しばらくたって、同じ人がピシャッと頬を打ちました。「ああ、愛と寛容だ」と赦してあげました。また、しばらくたって、同じ人がピシャッと頬を打ちました。三度目です。「わざとやっているだろう!」と怒って三倍にして返すのでないでしょうか?私たちはイエス様の人格を真似ることはできません。なぜなら、真似ようとやっているのが自分の意志だからです。私たちが真似られるのはイエス様のライフ・スタイルです。

では、イエス様ご自身はどう歩まれたのでしょうか?御父と親しく交わりながら、御父に従いました。ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」イエス様も神さまですから、自分の力で奇跡を行なうことがきました。イエス様も神さまですから、自分の知恵で教えることができました。しかし、イエス様はあえてそうはしませんでした。いつでも、父なる神と交わり、父なる神の力で行いました。また、いつでも父なる神と交わり、父なる神から聞いて教えました。イエス様は人間になられましたが、そのとき完全に私たちの模範になられたのです。イエス様の力の源は父なる神さまでした。もし、そうであるなら、私たち自身はどのように歩むべきなのでしょうか?そうです。キリストが御父を見て行動したように、私たちもキリストを見習って行動するということです。言い換えるなら、 自分の意志で真似るのではなく、キリストのいのち、御霊にゆだねながら生きるということです。頭ではわかりますが、これが難しいのです。ある人が肺の機能を一時的に失って、人工肺に切り替えてもらったそうです。いつものように自分で息を吸い込もうとするとうまくいきません。息ができなくて、とっても苦しくなったそうです。今度は、力を抜いて気管を開けるようにしたら自然に空気が入ってきたそうです。クリスチャン生活も同じです。最初の頃は、肉の力と御霊の力の組み合わせがうまくいきません。肉の力でやろうとすると、御霊は「ああ、そうですか」とご自身を消されます。真面目な人ほど、肉の力でやろうとします。そのため、聖書の律法主義者のようになります。人をさばきまくって生きています。それではイエスさまからますます離れてしまいます。肉の力をあきらめ、御霊にお願いすると、御霊がぐっと現れてくださいます。

テキストの最後の部分をお読みいたします。キリストに似た者に変革されるためには、どうしたら良いでしょうか?私たちはイエス様の品性を真似すべきなのでしょうか?あなたは、イエス様のように人々の罪を無限に赦すことができるでしょうか?不可能です!そうではなく、私たちはイエス様のライフ・スタイルを真似るべきなのです。そうすれば、最終的にイエス様のような品性が生み出されていきます。イエス様は毎日、父を見て、父の御声を聞いて、父と親しく交わっていました。私たちも天の父と親密な関係を持つならば、天の父の愛で隣人を愛し、天の父の働きをなすことが可能になるのではないでしょうか?第一はイエス様にとどまること、第二はイエス様のライフ・スタイル(生き方)を真似していくことです。そうすれば、私たちはイエス様の品性を身につけることができるのです。

3.魂の実

第二は魂の実です。マルコ16:15-16「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」マタイ28:19-20「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

「イエス様が弟子たちに(教会に)与えた最大の使命とは何でしょう?」全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えることです。「福音は人々の何を握っているのでしょうか?」それは、その人が救いを得るか、あるいは罪に定められて滅びるかという永遠の運命です。すごい!福音にはそういう力があるのですか?使徒パウロはローマ1章でこう言いました。ローマ1:16「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」みなさんは、福音を恥と思ってはいませんか?信じたころは一生懸命、神さまのことを伝えました。「あいつはキリスト教にかぶれた。頭がおかしくなったんだ」と言われたかもしれません。それでも、めげずに伝えました。ところがどうでしょう?あんまり信じてくれません。反対に、嫌なことをたくさん言われます。「ああ、いやだなー」でも、自分の信仰を捨てる気持ちはありません。気がつくと信じたころの熱が冷めていたことはないでしょうか?でも、聖書、特にマタイ28章とマルコ16章を見ると、福音を伝えることは絶対的な使命であると書かれています。最初に、弟子として任命された目的とは何かと言いました。公務員と同じように、任命されたからには、特定の身分があり、成すべき役目があります。では、クリスチャンの特定の身分とは何なのでしょうか?Ⅱコリント5章には「私たちはキリストの使節なのです」と書かれています。使節とは、ambassador大使という意味です。もっと言うなら、私たちはキリストを代表している神の国の大使であります。どういうことでしょう?私たちに福音という、神の国の鍵がゆだねられているということです。たとえば、私たちがひとりの人に、福音を提示したとします。その人は福音を聞いて、「私はイエス様を救い主、人生の主として信じます」と告白しました。あなたはどういうことをしたのでしょう?あなたは神の国の大使として、その人を神の国に入れてあげることができたのです。ハレルヤ!もちろん、信じない人もいます。日本では、信じない人の方が多いかもしれません。福音を伝えるのは私たちの役目であり、信じる、信じないはその人と神さまの問題です。私たちが救おうとするから大変になるのです。福音を伝えるのは私たちの役目ですが、救うのは神さまです。ハレルヤ!

「マタイ28章は、福音宣教だけではなく、さらに何が必要だと教えているでしょう?」主が命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えて主の弟子とすることです。救われた人を弟子とすることによって福音宣教のスピードが倍加されていきます。テキストには「弟子を作るための順番を説明してください」とあります。「行く、福音を宣べ伝える、バプテスマを授ける、守るまで教える」ということです。大宣教命令は、大弟子作り命令でもあります。これまでの教会は、洗礼(回心)がゴールでした。そうではなく、イエス様が教えられたことを守らせるまでがゴールです。命令の中には、マタイ28章の新たに弟子を作るということも含まれています。そうしないと、弟子作りのサイクルが回っていきません。また、過保護になりすぎると、宣教がおろそかになることも確かです。魂が新たに救われることは、キリストのからだに新しい血が注ぎ込まれることと同じです。救霊への情熱を保ちながら、弟子作りに励むことが重要です。

4.奉仕(働き)の実

第三は奉仕(働き)の実です。ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざ(works)を行い、またそれよりもさらに大きなわざ(works)を行います。わたしが父のもとに行くからです。」エペソ1:23「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」「イエス・キリストが地上においてなされた3つの大きなわざ(働き)は何だったでしょう?」第一は福音宣教、第二は教え、第三は癒しと悪霊を追い出すことです。イエス様はこの地上で、3の働き、ミニストリーを行なわれました。マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」アーメン。

「イエス・キリストは弟子たちにどのようなわざ(働き)をすることを願っておられるでしょう?」福音宣教、教え、癒しと悪霊を追い出すミニストリーです。福音書を見ると、これら3つのことをしなさいと何度も伝道旅行に遣わしました。つまり、ご自分が弟子たちに見本を示し、そして、弟子たちにもそれを行なわれました。

「現在、イエス様のわざ(働き)を代わりにするところはどこでしょう?」キリストのからだなる教会、私たちです。イエス様はすでに天にお帰りになられました。その後どうなったのでしょう?聖書を見ると、「イエス様は教会のかしらになられた」と記されています。イエス様が教会のかしらです。そして、教会はキリストのからだであります。私たちのからだは、かしら、頭から命令を受けて動きます。頭だけでは、何もできません。頭の願いを反映させるのが、からだです。同じように、かしらであられるイエス様は、ご自分の願いを反映させるからだが必要なのです。そのからだとは私たち一人ひとりです。もっと言うなら私たちの集合体がキリストのからだです。私たちは何するのでしょうか?イエスさまが2000前に行っていたことを行なうのです。イエス様はどんなわざ、ミニストリーをしておられたでしょうか?福音宣教、教え、癒しと悪霊を追い出すミニストリーです。ハレルヤ!もちろん私たちには会社の仕事、勉強、家事、この世での務めがあります。税金も払わなければなりませんし、この世の法律も守らなければなりません。でも、私たちは神の国の大使です。キリストの弟子として召されています。ですから、それらを行ないながら、イエス様の3つのミニストリーを行なうのです。テキストのまとめの部分をお読みします。「奉仕」と言うと、教会の建物で椅子を並べたり、賛美をすることであると想像しがちです。もちろん、それらも大切ですが、本当の奉仕(働き)は自分が派遣されている場所で行うべきことです。会社での仕事はサラリーを得るためだけのものではなく、奉仕(働き)の場でもあるのです。主婦も家事や育児の中にも奉仕(働き)があるのです。学生も学校の中にも奉仕(働き)があるのです。働きは英語でミニストリーと言いますが、聖職者だけのものではありません。神さまから召されたところで働くことが奉仕なのです。キリストのからだは、現在、教会そのものです。教会こそがイエス様の働きを継続し、この世に拡大していく神さまが備えられた器なのです。

 きょうはキリストから任命された者として、3つの実を結ぶ必要があると申し上げました。第一は聖化の実、第二は宣教の実、第三は奉仕の実です。これら3つの実を結ぶために必要なものがあります。資源、源、リソースであります。なかなか、日本語的に難しいです。自分の力だけでやろうとするとうまくいきません。資源、源、リソースとは何なのでしょうか?それは聖霊です。3つの実はすべて聖霊によってもたらされるものです。だから、ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降ったのです。ペンテコステの日、聖霊を受けてから弟子たちができたのです。ですから私たちも聖霊をいただいて、聖霊主導によって3つの実をむすばせていただきたいと思います。難しく考えてはいけません。秘訣はイエス様にとどまり、イエス様と一緒に歩むことであります。