2015.7.26「律法からの解放 ローマ7:7-12」

 律法というのは神さまの戒めです。「…してはならない」という禁令と「…しなさい」という命令があります。旧約聖書では十戒を中心とするさまざまな律法が記されています。イスラエルの人たちは律法を守り行うことによって神の義を得ようとして失敗しました。使徒パウロはもと、律法を厳格に守るパリサイ派に属していました。自分の真面目さと力で律法を一生懸命守ってきた人物であります。パウロはキリストを信じて救われましたが、あることに気が付きました。律法は確かに良いものだけど、自分の中には守る力がないばかりか、律法に逆らってしまう法則があるということです。私たちクリスチャンも恵みよって救われたはずであります。ところが教会生活を正しく行うため、姿を変えた律法がじわじわと近寄って来るのであります。

1.律法の役目

 ローマ7:12「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」ローマ7:7-10「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」

 律法はギリシャ語ではノモスと言いますが、戒め、法律、規範、人間への義務という意味です。また、ノモスは法則とか原理という意味もあります。パウロは律法ということばをこれら2つの意味で用いています。最初の質問です。「律法は罪ですか?それとも、どういうものでしょうか?」聖書には、「律法は聖なるものであり、罪そのものではない」と書いてあります。第二の質問です。「律法は私たちにどんなことを知らせてくれますか?」はい、罪があることを知らせてくれます。つまり、「あなたには罪があります。不完全ですよ」と告発してきます。ダメ出しをする人がそばにいたら、いやですねー。でも、ガラテヤ書3章には「律法は私たちをキリストに導くための養育係となりました」と記されています。問題は「信仰を持ってからも律法のお世話になるべきだろうか?」ということです。パウロは「信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係りの下にはいません」(ガラテヤ3:25)と言っています。教会には律法に対して2つの考え方があります。1つは「救われた後は、律法主義に陥る危険性があるので律法はもはや不要である。」もう1つは、「神のみこころを知るために、またクリスチャンを整えるために律法は必要である」という考えです。イエス様は福音書でこのように言われました。「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5:18,19)。イエス様も使徒パウロも律法の存在を否定していません。私たちは、律法自体は聖なるもの、良いもので、永遠のものであることを知らなければなりません。私たちは律法を取り除くことはできません。律法を死なせることもできません。そうではなく、律法に対する私たちを取り扱うべきなのです。

第三の質問です。「律法は良いものですが、私たちにどのようなことを引き起こしてしまうのでしょうか?」内側にあった罪が目覚めて、罪を引き起こすということです。「むさぼるな」と言われれば、むさぼりたくなります。「さわるな」と言えられれば、さわりたくなります。「見るな」と言えば、見たくなります。世の中にどうして犯罪がなくならないのでしょうか?いくら罰則を重くしても罪はなくなりません。なぜでしょう?「…するな」という戒めが、眠っている罪を目覚めさせるからです。律法自体悪くはありませんが、私たちの中に律法に逆らいたい天邪鬼的なものがあるということです。第四の質問。「律法は私たちをいのちに導くのですか?それとも何ですか?」とあります。パウロは「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」と告白しています。

テキストのまとめの部分を紹介します。ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』の中でこのように言っています。「律法を守ろうとすればするほど、私たちの弱さがあばかれ、そして私たちはローマ7章の状態に深入りします。そしてついに私たちは、自分が望みのないほど弱い者であることをはっきりと示されるのです。私たちは議論のないほどに、自分が弱いものであることを示されなければなりません。そのためにこそ、神は私たちに律法を与えられたのです。」言い換えるなら、律法は死んでいたはずの罪を呼び覚まし、最終的にやってはいけないことを私たちにやらせる仕掛け人でもあります。ところが、教会は律法が良いものなので、いろんなきまりを作って、人々を管理しながら育てようとしました。Ⅱコリント3:6「文字は殺し、御霊は生かすからです」とあります。文字とは石の板に書いた律法のことです。パウロが言っているように、律法は人を殺す力があります。クリスチャンが御霊ではなく、律法で生きようとするならどうなるでしょう。霊的に窒息し、隠れたところで罪を犯すようになるのです。教会は偽善者を作ってはいけません。そのためには、律法の役目を正しく知る必要があります。

2.

ローマ7:18-21「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理(ノモス)を見いだすのです。」ローマ7:24「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

第一の質問です。「ローマ6章に『古い人は死んだ』とありますが、私たちの肉には何が宿っているのでしょう?」古い人、つまりアダムにつく罪はキリストとともに死にました。しかし、私たちの中には、悪、つまり罪を犯す性質が宿っています。ウォッチマン・ニーは「酒を造る工場が壊されましたが、酒瓶が縁の下や車のトランクに隠されている」と言いました。これを聖書では「肉」と言いますが、肉体のことではありません。罪を犯す性質が肉体や魂に残っているということです。第二の質問です。あなたの中に「善をしたいのにできない。したくない悪を行う」法則を見出しますか?善をしたい。たとえば、昔、「わかっちゃいるけどやめられない」という歌がありました。やってはいけないと分かっているのにやってしまう。第三の質問、「ということは律法に対して、私たちの肉はどう働くのですか?」守りたくない、むしろ逆らってしまうということです。

クリスチャンにとって、聖書を読むこと、祈ること、献金すること、礼拝に出席すること、奉仕をすることは良いことです。でも、「それらをしなければならない」と強制されるならどうでしょうか?最初は「ああ、それは大切なんだ」と、やるかもしれません。しかし、だんだんおっくうになり、重荷になり、嫌になります。なぜでしょう?それらは信仰生活のために欠かせないものであり、良いことだということは分かります。でも、それらが律法になってしまうなら、私たちの肉が反応し、「いやだよー、やりたくないよー」と逆らってしまうのです。それでも、牧師が説教で言うし、それは教会員の務めなんだからと言われます。「わかりました」と仕方なく礼拝を守り、仕方なく10分の1献金を捧げます。捧げるというよりも、税金を徴収されるような感じがします。その人は、クリスチャンになる前に、「行ないではなく、恵みによって救われますよ」と言われたはずです。でも、洗礼を受けて教会員になると、いろんな義務があることに気が付きました。「え?救われた後は、行ないが必要なのですか?それでは詐欺ではないですか?」と言いたくなります。ある人たちはそれでも我慢し、肉を押し殺して従います。しかし、ある人たちはだんだん喜びがなくなり、ついには教会を去って行ってしまいます。彼らは信仰をなくしてしまったのでしょうか?そうではありません。教会もその人も肉を正しく対処することを怠っているからです。たとえ良いことでも、律法でやってしまうと、肉が目覚めて、反抗するということです。

第四の質問です。「パウロは神の律法に対して、何と言っていますか?」「悪が宿っているという原理を見いだす」と言っています。ギリシャ語では律法もノモスであり、原理もノモスです。つまり、「神の律法という原理に反応する、罪の原理が私たちの内にあるよ」ということです。原理とか法則と言うと苦手な物理を思い出させます。自然科学者はたくさんの原理や法則を発見しました。すばらしいことに、使徒パウロは神の律法に反応する罪の原理を発見した人であります。パウロはローマ7:24で「私は本当にみじめな人間です。『だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか?』」と絶望のどん底から叫びました。しかし、突然、パウロはこのように叫びました。ローマ7:25「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」この箇所を読んだ人は、「パウロに何が起こったんだろう?もしかしたら気がふれてしまったのでは?」と思います。24節と25節の間には、越えられない矛盾の淵があるようです。でも、パウロはどん底に落ちてみて、別の法則を発見したのであります。なんと、どん底に自分を支える神さまの御手があったのです。

テキストのまとめの部分をお読みしたします。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられ死にました。たとえて言うなら、酒を生産する工場が破壊されました。しかし、肉体の中に工場で生産した酒瓶が何本か残っています。これを肉と言います。肉が律法に対して、反応し、死んでいたはずの罪が目をさますのです。しもべ(自分)の罪が明るみに出されるのは、主人があなたに何かをするように求めるときです。あなたは良い行いをしようと、肉でがんばってもできないのです。律法は、私たちがそれを守るために与えられたのではありません。ガラテヤ3:24「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」

3.律法という夫

ローマ7:1-3「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか──私は律法を知っている人々に言っているのです。──夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。パウロは結婚のたとえを用いて、律法からの解放ということを教えています。第一のポイントで律法は永遠であって死なないと言いました。パウロは律法ではなく、自分の方が死ねば良いと言っています。第一の質問です。「アダム以来、人間はだれと結婚することになりましたか?」律法という夫です。正確に言うならば、創造のずっとあと、律法は出エジプトの時に与えられました。では、アダムから出エジプトまで、律法がなかったかというとそうではありません。異邦人の私たちもそうですが、こころの中に律法があります。堕落する前は神さまと共に歩んでいたので、律法は不要だったのです。ところが、善悪を知る木から取って食べたために、神さまではなく自分で善悪を決めるようになったのです。私たちの魂の中には善悪を判断する律法があります。必ずしもそれは、聖書が言う「良心」ではありません。 

第二の質問です。「夫である律法は妻であるあなたに、どのようなことを要求するでしょう?」平野耕一先生の『これだけは知ってもらいたい』という本があります。アメリカに一人の女性がおりました。彼女はとても人のいい、やさしい女性でしたが、ちょっとおっちょこちょいで、彼女のやることには少々抜けたところがありました。反対に、彼女のご主人は完全主義者で、とても几帳面な人でした。そんなご主人が仕事から帰って来ると、指でテーブルを拭いては、「おい、テーブルをちゃんと吹いたか?ここにほこりがついているぞ」とやり始めるのです。次に部屋を見渡して「あっ、あそこに小さなゴミが落ちている。お前の掃除の仕方と言ったら雑なんだから」と言います。食事を出すと「おい、このスープ、ちょっと塩がききすぎて辛いぞ」といちいちチェックがはいります。このように彼女がすることなすことすべてにおいて、細かく欠点を指摘されるので、もともと彼女は大ざっぱな性格だったにもかかわらず、かなり神経質にならざれるをえませんでした。また過ちを指摘されるかもしれないと、彼女にとって夫はだんだん恐ろしい存在になっていきました。」このように律法という主人は、微細なことまで要求し、守らないならば厳しく責めるのです。

第三の質問です。「夫(律法)がどうしたら、自分は解放されるのでしょう?」死んだらならば解放されます。さきほどの本には、「夫はすごく健康で、風邪ひとつひかない。結婚して以来、病気になったことすらないのです」と書いてありました。

 第四の質問です。「(律法)が生きているうちに、他の男に行けば、どうなるのでしょうか?」姦淫の女と呼ばれます。テキストのまとめの部分です。律法は粗探しばかりする夫のようなものです。「もっとやらなければならない」「まだ、十分ではない」と夫は要求してきます。本当は夫と離婚したいけれど、夫が生きている間は夫に責任があります。夫が死ねばそれが可能ですが、律法は天地が滅びない限り、すたれることはありません。神さまの方法は、律法が死ぬことではなく、あなた自身が死ぬことです。しかし、実際に死んでしまったらどうしようもありません。どのようにしたら、永遠になくならない律法から解放されるのでしょうか?

4.新しい夫(キリスト)

ローマ7:4-6「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

第一の質問です。「神さまはどのようにして、あなたを律法から別れさせてくださったのですか?」キリストと共に死にました。キリストを信じたとき、十字架で死なせていただいたということです。バプテスマはそのことを象徴しています。キリストにあって、古い人に死んで、新しい人に生まれたということです。

第二の質問です。「あなたは今、だれと結ばれているのでしょうか?」復活したキリストと結ばれています。エペソ2:6「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」第三の質問です。新しい夫(キリスト)はどのようなお方ですか?マタイ11:29「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」心優しく、へりくだっておられる恵み深いお方です。第四の質問です。「新しい夫がいながら、古い夫(律法)とお付き合いすることを何と言いますか?」 不倫、姦淫と言います。

 さきほどの本をもう一度引用させていただきます。「多くのクリスチャンは、意識の上で未だ二重結婚の状態にあります。律法との離婚が成立したことをまだ知らないからです。せっかく新しい夫であるキリストとの生活を楽しめるはずのあなたは、古い夫である律法と共同生活をしているのです。甘い二人だけの夕食のテーブルに、邪魔な律法がずうずうしく座り込んでいます。そうなると、楽しいはずの食事も台無しになってしまいます。その結果、あなたは新しい結婚生活にも幻滅してしまうかもしれません。『なんだ、新しい結婚生活も、前と大して変わらないのね』とあなたは誤解してしまうでしょう。…これは新しく結ばれた関係に問題があるからではなく、あなたの意識に問題があるからです。この問題は、パラダイムシフトがシフトしたことを十分に認識していないから起こるのです。」パラダイムシフトは、昔の天動説と地動説から来たものです。つまり、律法とは離婚し、恵みというキリストと結婚しているということです。あなたは一度死んだので、律法を守る義務はないのです。では、だれが、律法を守らせてくれるのですか?それはあなたの夫であるキリストがあなたを助け、あなたを導いてくださるのです。

 テキストのまとめの部分です。神さまの方法は、あなたがキリストと共に葬られ、ともによみがえることです。あなたは律法に死んで、キリストと結ばれました。新しい夫(キリスト)は心優しく、忍耐深くて、あなたを励ましてくれます。キリストは、「ただ私の愛のうちに留まりなさい」と言います。しかし、あなたは、何かもっとしたいと思うので、キリストから目をそらして、律法に目を向けます。すると、律法は「あなたは○○をしなければならない」と教えてくれます。あなたは「もっと教えてください」と願います。しかし、それは霊的姦淫であり、二重結婚です。このようにクリスチャンでありながらも、律法主義に陥っている人がたくさんいます。そうです。キリスト教会の指導者たちもこのことを理解していません。聖書を読むこと、祈ること、献金すること、礼拝に出席すること、奉仕をすることは良いことです。でも、それらも姿を変えた律法です。律法は「これで良い、十分だよ」とはなかなか言ってくれません。でも、恵みに満ちた新しい夫、キリストがおっしゃいます。何にもしなくても私はあなたを愛して受け入れていますよ。私を信じているのですから、神さまに喜ばれるために努力する必要はありません。イエス様のことばです。「私と一緒に生活しましょう。私があなたの命になって、あなたの内側から助けてあげますよ。律法ではなく、私を見てください。あなたを通して、私が行ないます。」