2015.8.2「肉ではなく御霊によって ローマ8:1-4」

 イエス様を信じると霊的に新しく生まれ変わります。「ハレルヤ!私は救われました」という喜びもつかの間です。自分の中にこれまで経験しなかった争いが起こるでしょう。なぜなら、新しく生まれ変わった霊を受け入れない、古い性質があなたの心の中にあるからです。それが、あなたの霊に対して戦いを挑むのです。新参者を受け入れない自我、古い性質があります。聖書ではこれを「肉」と呼んでいます。肉とは生まれつきの性質、能力、考え方です。この世においては、肉は歓迎され、あるときは美化されるでしょう。しかし、神の御前では忌み嫌われ、やっかいな存在であります。なぜなら、肉は神を頼らないし、神に逆らうものだからです。クリスチャンになったならば、肉ではなく御霊によって歩むことを始めなければなりません。

 

1.御霊の法則

ローマ8:1-4「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理(ノモス)が、罪と死の原理(ノモス)から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」第一の質問です。「私たちの肉に宿っている罪と死の原理から解放してくれる別の原理とは何ですか?」それは、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理です。パウロは急に「原理」ということばを使っているように思えます。しかし、このことばはローマ7章にあった「律法」と同じことばです。神の律法とは、神の原理、あるいは御霊の原理です。反対に、悪の律法とは、心の原理、あるいは肉の原理です。英語ではすべて、lawと訳されています。lawは、法律、律法、規則ですが、その他に法則、原理という意味もあります。日本語の聖書は、文脈からあるときは「律法」、あるときは「原理」、あるときは、「法則」と訳しています。どうして「律法」に統一しなかったのか、むっとしますが仕方がありません。パウロは7章で悪と肉の律法で悩みまくっていましたが、8章で御霊の律法を発見して歓喜しています。

第二の質問です。「肉が原因で、律法にできなかったことを、神さまはどのように成し遂げてくださったのですか?」神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されました。ここは、とても解釈の難しい箇所です。イエス様は肉体をもってこの地上にこられました。イエス様ご自身は、神さまですから、自分の力や自分の考えでできたはずです。しかし、どんな時でも父なる神さまの力と父なる神さまの考えで生きました。イエス様だけが、肉体を持っていた人間であったのに罪を犯さず、律法に従い通しました。そして、律法を全うした罪のないお方が、私たちのために死にました。つまり、イエス様の従順と身代わりの死が、私たちに律法から解放される土台をつくったのであります。

第三の質問、「『肉に従って歩む(生きる)』とはどういう意味でしょう?」肉が訴える欲求を満たすために生きることです。一見、肉は醜くて悪そうですが、そうではありません。ある肉はとても美しくて魅力があります。生まれつきの親切心や愛、すばらしい能力、知恵、考えが肉であるとだれが信じるでしょうか?言い換えるなら、肉とは神さまに頼らない、神さまに源を置かないアダムから来た一切のものです。もし、肉に従って、肉に頼って歩むならどのようになるのでしょうか?ガラテヤ5章に「肉の働き」という名前で記されています。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういったものが生じてくるのです。はじめ外見的に美しく見えるかもしれません。しかし、その結果はどうでしょう?腐敗したアダムの匂いがするのです。

第四の質問です。「『御霊に従って歩む(生きる)』」とはどういう意味でしょう?」それは、どんなときでも、聖霊を歓迎し、聖霊を認め、聖霊に従うことです。ウォッチマンニ―の本から引用します。もし、私たちが自分の意思の力や努力でクリスチャン生活をしようとするなら、最後には罪と死の法則が勝利を得るでしょう。しかし、私たちが自分の意思を追放して、主により頼むなら、別の法則、すなわちいのちの御霊の法則の中に落ちるのです。引力の法則が自然の法則であるように、いのちの法則も自然の法則であるのです。鳥が落ちないのは、引力の法則に勝たせるいのちの法則を持っているからです。空を飛ぶ鳥がこのように言っています。「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則についても知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことが命の法則であるからでーす。」肉はアダムとつながっており、御霊はキリストとつながっています。肉にあって生きるとは、アダムにある自分自身の力によって何かをすることです。それは私がアダムから受け継いだ生命の古い源から力を得て、罪を犯すために備えられたものを、経験面において楽しむことです。一方、キリストにある自己について楽しむためには、私が御霊にあって歩むということが何であるかを学ばなければなりません。パウロはこのことを発見したので、歓喜しているのです。

2.肉と御霊の戦い

 ローマ8:5-8「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」ガラテヤ5:17-18「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

第一の質問です。「『肉の思い』にはどのような性質がありますか?」肉の思いは神に対して反抗します。神の律法に服従しません。いや服従できないのです。最終的には死をもたらします。改めて確認させていただきます。肉と肉体は同じではありません。私たちの肉体そのものは悪ではありません。パウロが「肉」と呼ぶとき、それはアダム以来の生まれつきの性質を指します。クリスチャンは霊的には生まれ変わりましたが、罪の性質が肉体と魂に宿っています。これを捨てなければならないのですが、どうしても慣れ親しんだ方法で生きてしまいます。                    

第二の質問。「なぜ、肉にある者は神を喜ばせることができないのでしょう?」神さまに服従せずに反抗し、神さまではなく自分の肉を喜ばせようとするからです。あるところにとても真面目なクリスチャンがいました。ある時、神さまのためにアップルパイを一生懸命作って、これを献上しました。神さまは何と言ったでしょう。「悪いねー。私はアップルパイが嫌いなんだよ。」これはたとえ話ですから怒らないでください。私たちが「神さまのためです」と一生懸命、肉で行ったとします。人間的にも外見的にもすばらしい出来栄えかもしれません。でも、神さまは、必ずしも喜ばないということです。

第三の質問です。「あなた自身の中に、肉の願いと御霊が戦っているという経験はありますか?」これはみなさんが、考えることです。「クリスチャンになったら悩みがなくなるか」というとそうではありません。どうしても克服しなければならない新たな対戦が待ち受けています。洗礼を受けてクリスチャンになっても、1,2年で去って行く人が大勢います。なぜでしょう?御霊ではなくて、肉を勝たせてしまうからです。肉の願いはこう言うでしょう。「神さまは何もしてくれない。教会も何もしてくれない。最後に頼れるのはやっぱり自分自身だ。私自身がなくなったらどうするんだ。私は私だ、私が人生の王様なんだ。私の力と私の考えで生きるしかないんだ。神さまだとか信仰だとか夢を見ていたんだ。現実を見ろ!人々は神さまなしでも立派に生きているじゃないか。やっぱり、エジプトに帰ろう。エジプトでの生活が良かったんだ。」これが肉の願いです。このため、イスラエルの民のほとんどが、約束の地に入らないで、荒野で死んでしまいました。

第四の質問。「どうすれば、肉の願い(思い)に勝利し、結果的に律法から解放されるのですか?」 御霊によって導かれることです。自分の意志やがんばりに頼らないで、御霊ご自身に働いていただくことです。日本の文化は、聖書が言う「御霊によって歩む」のと、真っ向から反対するものです。親も先生も子どもたちに「がんばれ、がんばれ」と励まします。もちろん、良い意味の「がんばれ」もあるでしょう?でも、根底には「自分の力と努力でがんばるように」という意味がこめられています。そこには、創造主なる神さま、救い主なるイエス様、助け手なる聖霊様がまったく参与していません。あるクリスチャンは、神さまがあてにならないので、自分の力、自分の考えでがんばっているかもしれません。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。クリスチャンになるまではこのような戦いはなかったでしょう。私たちの心が御霊によって生まれ変わったために、新しい御霊の思いが入ってきました。だから、アダムの影響を受けている肉の思いとキリストにある御霊の思いとが、合い争うのです。ローマ8:8「肉にある者が神を喜ばせることができません」と書いてあります。言い換えるなら、肉につける私たちは神さまのために何もしなくても良いのです。私たちは律法、つまり行ないによって神さまを喜ばせるという義務から解放されています。「肉でやるくらいなら、何もしなくても良い」と神さまがおっしゃっているとは何という幸いでしょう。では、伝道も奉仕はしなくても良いのでしょうか?隣人を愛したり、聖書読んだり、祈ったりしなくても良いのでしょうか?主役は神さまであり、私たちは脇役です。私たちを通して、神さまご自身がそれらをなさりたいのです。御霊によって歩むとは、言い換えるなら「恵みによって歩む」ということです。肉の思いに打ち勝つには、「罪を犯さないように」と自分に目を向けることではなく、キリストを見上げることです。イエス様にゆだねていくとき、罪から解放され、結果的にみこころを行うことができるのです。

3.肉の行いと御霊の実

 ガラテヤ5:19-23「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」第一の質問です。「たくさんあげられている肉の行いの中で、まだ捕らえられているものはありますか?」男性であるなら、不品行や敵意、酩酊、遊興に対して弱いかもしれません。男性の肉は一言でいうなら、虚栄心であります。プライドと言って良いかもしれません。これを傷つけられると、全力ではむかうか、ケチョンとなって座り込みます。また、女性であるなら、魔術、偶像礼拝、そねみ、ねたみに対して弱いかもしれません。女性の肉は一言でいうなら、魔法であります。想像の世界がものすごく広がっています。自分が抱いている想像をこわされたら、全力ではむかうか、ケチョンとなって座り込みます。

第二の質問です。「肉の行いを日常的に行っている人は、どういう人たちなのでしょうか?」霊的に生まれ変わっていない人たちは、聖霊が内にいないので、肉の欲するままに生きようとします。高い教育があり、道徳的に立派な人であっても、肉の行いから免れることはできません。パウロはⅠコリント3章で「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼らには愚かなことだからです。また、それを悟ることができません」と書いてあります。でも、クリスチャンの中にも、御霊を受けたはずなのに、肉の行ないをしている人がいるということです。ヤコブは「そういうのは、二心のある人で、その人の歩む道のすべてに安定を欠いた人です」と言っています。

第三の質問です。御霊の実の中で、結ばれているものと、まだ結ばれていないものは何ですか?御霊の実は本来は1つなのですが、その中に9つの房があると考えるべきです。たとえば、みかんは外から見たら1つですが、中を割るとたくさんの房がはいっています。「私には喜びがあるけれど、愛はない」と言えるかもしれません。しかし、神さまは私たちに全部の性質を与えたいのです。そのために、あえて神さまは、愛を学べる環境や人々を与えてくださるのです。

 第四の質問です。「では、どうすれば御霊の実が結ばれていくのでしょう?道徳的にがんばることですか?」キリストにつながって、キリストからたえず命と力をいただくと良いのです。イエス様は「私はまことのぶどうの木、私にとどまりなさい」と言われました。

テキストのまとめをお読みいたします。ウエイン・コールドウェル著『聖霊の実と賜物』)を引用します。実は単数形の集合名詞であり、それは信者の人格のうちに産み出され、キリストのような歩みのうちに明らかにされたキリストの生活の多くの側面と相互に関連したいろいろな素質を暗示しています。この実は個人的努力とか人格的修養から生じる人間的なわざではありません。人間は働きますが、神は実を与えられます。御霊の実は信者のうちに生じたキリストにある神の性質です。働くは英語でworkです。結ぶは英語でproduceです。Produceは生じる、産する、作りだすという意味があります。Workというわざも重要です。しかし、人格的な実はProduce、生み出されるものです。聖霊が私たちの内におられて、御霊の実をProduceしたいと願っておられます。どんな時でもキリストにとどまりましょう。そうすれば御霊の実がProduceされるのです。

4.御霊に満たされる

 エペソ5:17-20「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」第一の質問です。「酒に酔うことと比較するなら、御霊に満たされるとはどういう意味でしょう?」満たされるというのは、支配されるということです。酒に酔うと、声が大きくなり、大胆になります。御霊に満たされると大胆になって福音を語りたくなります。酒に酔うと歌ってしまいます。御霊に満たされると賛美したくなります。酒に酔うとふらふらどこかに行ってしまいます。御霊に満たされると御霊の導きのまま進みます。両者はとても似ています。問題は酒に満たされるか、御霊に満たされるかであります。 

                      

第二の質問です。「御霊に満たされた結果はどのようなものでしょうか?」詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美します。そして、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝します。賛美にはいろんな種類があるようですが、ここでは省略します。聖霊に満たされたら賛美をするということです。しかし、ある教会は御霊に満たされるために賛美をする教会もあります。どちらが正しいのでしょうか?賛美は御霊に満たされるための手段なのでしょうか?ま、両方ですね。御霊に満たされたら賛美をするし、御霊に満たされるために賛美をしても良いのです。なぜなら、賛美の中にはみことばや私たちの信仰告白も含まれているからです。賛美のあふれた教会は、御霊に満たされた教会と言っても良いかもしれません。ハレルヤ!でも、「賛美を捧げなければ、ならない」と宗教的にならないことを願います。心に神さまを慕う愛があるかが問題です。心にもないことを賛美して、それっぽく見せるのは宗教です。やはり御霊に満たされて、賛美をささげるべきであります。

第三の質問です。「パウロが『主にあって御霊に満たされなさい』と命じるのは、なぜでしょう?」 御霊に満たされるならば、神さまからのすべての命令に従うことができるからです。御霊に満たされたら神さまと隣人を愛することができます。御霊に満たされたら肉ではなく、神さまの力で奉仕することができます。クリスチャン生活のすべての源は御霊に満たされることです。神さまはノンクリスチャンには「イエス様を信じなさい」と命じるでしょう。なぜなら、救いがなければ滅びに行くからです。そして、クリスチャンには「御霊に満たされなさい」と命じるでしょう。なぜなら、聖霊の満たしがなければ、神さまに従うことも、罪に勝利することもできないからです。もし、それが神様の命令であるならば、不可能なことではなく、その背後には、「わたしが満たしてあげます」という保障があるはずです。

第四の質問です。「あなたは御霊に満たされた経験はありますか?また、それはどんな時ですか?」ペンテコステ派は「聖霊のバプテスマと言って、そのとき異言や預言を伴うんだ」と言います。確かに聖霊を上からいただいて力を受けるという体験が必要です。しかし、「御霊に満たされる」という場合、少しニュアンスが違います。クリスチャンになるとだれでも内側に聖霊をいただきます。聖霊はいらっしゃるのですが、聖霊を神さまとして認めていないクリスチャンが大勢います。これはペンテコステ派の人にも言えることです。聖霊を力とか賜物として理解していますが、ご人格をもって私たちを支配する神さまとして認めていないこともあります。ですから、御霊に満たされるということは2つの意味があります。第一には、アダムから来ている肉を捨て去る、あるいは十字架につけて死に渡すということです。もう、自分を頼らないということです。第二は、聖霊様を認めて、自分のすべてを神さまに明け渡すということです。すべての力の源をキリストの御霊である、聖霊様からいただくということです。私たちがそのように願うならどうでしょう?結果的に聖霊に満たされているのです。感情があるなしではなく、信仰によって求めることが大事なのです。強いて言うなら、御霊に満たされているならば、喜びと平安があります。喜びと平安は御霊に満たされているかどうかのバロメーターと言っても良いかもしれません。ルカ福音書の最初には少なくとも4名の人が聖霊に満たされて賛美しています。イエス様の母マリヤは聖霊に満たされて賛美しました。エリザベツも聖霊に満たされ賛美しました。バプテスマのヨハネはおなかの中で、聖霊に満たされてよろこびおどりました。ザカリヤは聖霊に満たされて預言しました。つまり御霊に満たされることは異常なことではなく普通の出来事なのです。私たちが口を開けると肺に空気が入るように、信仰の口をあけたら御霊が満ちるのです。