2015.8.9「御霊の賜物 ローマ12:4-8」

 私たちには生まれつきの才能や能力があります。また、ピアノとか習字など、努力して身に付けた能力もあるでしょう。しかし、御霊の賜物はそれらと違って、私たちが新生したとき与えられる神さまの能力です。それをギリシャ語ではカリスマと言います。カリスマはこの世では別な意味で用いられていますが、本来は聖書的なものです。キリスト教会でも御霊の賜物に対して誤解があって、何か危険なもののように思われています。そうではなく、キリストのからだなる教会において、その人が神さまの働きができるように、聖霊が一人ひとりに与えて下さる能力です。

1.個人に与えられる「資質の賜物」とは?

ローマ12:4-8「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」パウロが言う「からだ」とは、教会のことです。現在、教会のかしらであるイエス様は、からだである教会を通して働きたいと願っておられます。第一の質問です。「からだの多くの器官は、何のことをたとえているのでしょう?」それは、各自に与えられている御霊の賜物のことをたとえています。

第二の質問です。では、「ローマ12章にはどのような御霊の賜物が記されているでしょう?」 預言、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善があります。合計、7つ記されています。これらを資質の賜物と呼んでいます。これらの中で、自分が喜んで用いたいものがあります。だれでも7つの中のどれか1つ突出しているものがあるはずです。

第三の質問です。「あなたが肉体的に生まれたときに与えられた性格とはどのようなものですか?」創世記にエサウとヤコブの双子のことが記されています。エサウは巧みな猟師で野の人でしたが、ヤコブは穏やかな人で天幕に住んでいました。二人は生まれたときから性格が違っていました。私たちはイエス様を信じたとき、霊的に新たに生まれました。そのとき、聖霊は私たち一人ひとりに霊的な賜物を与えられたと信じます。

第四の質問。「あなたが霊的に生まれたときに与えられた資質の賜物はこの中のどれだと思いますか?」急に言われても何のことなのか分からないと思います。ここでは簡単な説明しかできません。預言は、旧約聖書の預言者のような性格の持ち主です。この人はものごとを善か悪、正しいか正しくないか分けたがる傾向があります。主のからだの目と言えるでしょう。聖書ではバプテスマのヨハネやペテロがそうです。この人は罪と罪人を区別せずに、すぐにさばいてしまう傾向があります。ですから、愛をもって真理を語る必要があります。奉仕は、目に見える兄弟の必要に非常によく気がつき、率先してそれを行ないたいと思う人です。主のからだの手です。この人は、お掃除とか食事当番、教会の事務などもよくこなします。でも、マルタのように奉仕にとらわれるあまりに、真の意味を見失うことがあります。教えは、真理を探究し、伝えることを好む人です。主のからだの頭脳です。聖書を深く研究し、それを理論立てて教えることができます。しかし、この人は、学問だけにならないように、聖霊の満たしのために祈る必要があります。

勧めは、他の人が勝利の生活を送ることができるように、勧めることを好む人です。クリスチャンの霊的成長を助けたいという強い願いがあります。主のからだの口です。注意する点は、熱心さのあまり、会話に割って入ろうとするので、他の人の不満の原因になります。自分のアドバイスを実行してくれない人には興味が湧きません。分け与える人は、他の人の益になるようなお金持ち物を惜しみなく与える人です。主のからだの腕です。什一献金を強く確信しており、その他の献金も惜しみません。ただし、人から報いを望むと失望します。栄光のためにささげるなら、神様がさらに満たして下さいます。指導は、組織だて、導き、指導することを好む人です。主のからだの肩(聖書では権威を表わす)です。この賜物は「監督する人」とも言い、人々を組織し、長期的な目標に向かって仕事をする人です。注意する点は、忠実に仕える人をえこひいきしてしまいます。そして、自分が指導者のときは良くやりますが、自分より上の指導者に認められない場合はやる気をなくしてしまいます。慈善は必要な人に愛、あわれみ、思いやりを示す人です。心のメガネが愛であり、傷ついている人や弱い人や小さな人に関心があります。主のからだの心臓です。人の苦労や痛みがわかり、また人の痛みをいやすことができます。注意する点は、荷を負い過ぎたり、同情に流されやすい傾向があります。

今、御霊の賜物である資質の賜物を7つあげました。資質の賜物の特徴は、私たちの生まれつきの性格と良く似ています。その理由は、その賜物は努力しなくても、自然に出て来るからです。また、その賜物を用いるとあまり疲れないばかりか、いつまでも用いたいと思います。カリスマというギリシャ語は、カリスという喜びから来ています。だから、この賜物は私たちに聖霊によって働く意欲と喜びと恵みを与えるものです。もちろん、私たちの日常の生活において、自分の賜物でないものをしなければならない事もあります。奉仕の賜物がなくても、料理や洗濯もしなくてはなりません。慈善の賜物がなくても、病気の人の気持ちを理解しなければならないでしょう。聖霊はキリストのからだなる教会に7種類の資質の賜物を与えました。それは、互いに協力し合うためです。聖書には賜物の違う者同士が協力しあっているのを見ることができます。使徒の働きの最初を見ると、ペテロとヨハネはコンビであることがわかります。ペテロは預言の賜物でしたから、人の罪をさばく人でした。しかし、ヨハネは慈愛の賜物であり、人々の罪を理解し、それを覆う人でした。資質の賜物は、霊的な性格みたいなものです。賜物の特徴は、それを用いていると楽しい、疲れない、いつまでもそれをやっていたいということです。もちろん私たちは日常の生活や使命もありますので、賜物でなくてもやらなければならないことがあります。自分の賜物を発見し、神さまのご栄光のために喜んで仕えたいと思います。

2.御霊によって与えられる「力の賜物」とは?

 Ⅰコリント12:7-10「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」資質の賜物が性格的なものであるならば、力(現れ)の賜物はミニストリーをするための賜物です。建物で言うならば、資質の賜物が一階で、力の賜物は二階です。第一の質問です。「力(現れ)の賜物はひとりに集中するのでしょうか?」ひとりに集中しません。聖霊が時と場合によって、用いる人を主権的に選ぶようであります。ですから、その人が「私を用いてください」という信仰と備えができていないとダメです。「私はそんなものは信じないし、用いられたいとも思いません」という人には、決して与えられません。西洋まわりのキリスト教は、合理主義の影響を受けているので、霊の賜物には懐疑的で否定的です。聖霊様は今も「どの人に私の賜物を使ってもらおうか?」と神の人をさがしておられます。

第二の質問です。「力(現れ)の賜物はだれが与えるのですか?また、与えられている目的は何ですか?」聖霊様ご自身です。その目的はみなの益となるためです。Ⅰコリント12:11「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」ビリー・グラハムは『聖霊』という本の中でこのように教えています。「神が与えてくださったと思われるその賜物を、謙虚に感謝して受けなさい。そうして最大限にその賜物を用いなさい。あるがままの自分の姿を認めて、持っている賜物を用いるべきである。賜物によっては、それなりの困難や危険の伴った重要な地位に召されるかもしれない。しかしまた、目立たぬ領域で奉仕するかもしれない。神は教会の一般の信者を素通りして、霊的エリートたちを召して教会の働きをさせようとはなさらない。むしろ、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられている。」

第三の質問です。「力(現れ)の賜物にはどのようなものがありますか?」Ⅰコリント12章にはざっと9つの賜物が挙げられています。知恵のことばとは、聖霊によって与えられる超自然的な知恵です。旧約聖書のダニエルやソロモンがその人でした。イエス様は「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか?」と問われたとき、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と答えました。これは神からの知恵です。では、知識のことばとは何でしょう?聖霊様が特定のことに関して、ずばり教えてくれるものです。エリシャは遠くから、ゲハジがナアマン将軍から銀と晴れ着をもらって家の中にしまい込んだのを知っていました。イエス様はサマリヤの女が夫を5人換えて、現在6人目と同棲していることを言い当てました。信仰とは何でしょうか?クリスチャンであるならだれでも信仰が与えられています。しかし、信仰の賜物は普通の人が信じられないようなことを信じることができます。神さまはその人の信仰を用いて、偉大なことをなされます。パウロは「山を動かすことのできる完全な信仰」と言いました。エリヤはこの信仰によって3年半雨をとどめ、その後、祈ったら雨を降らすことができました。いやしの賜物は、病気を癒す賜物です。主イエスはご自身の生涯の三分の一を病人や悪霊にとりつかれている人々をあわれみ、癒されることにお使いになられました。ある人たちは「医療が発達した今日には、癒しの賜物は不要だ」と言います。でも、皮肉なことに病院は病人であふれ、医療費は国家予算の約10分の1近くまでなっています。多くの教会はいやしのためにとりなしの祈りはしますが、具体的に手を置いて癒しをしないのはとても残念です。

奇跡を行なう力は旧約聖書では、モーセによる紅海徒渉、ヨシュアによるヨルダン川徒渉が有名です。イエス様は嵐のガリラヤ湖をひとことばで静めました。5つのパンと2ひきの魚で5000人の人たちを養われました。世界各地リバイバルが起きるところには、奇跡も伴います。盲人の目が開かれ、足のきかない人が癒され、歯が新しくはえるということもあります。預言は何でしょう?将来のことや隠されていることを言い当てます。新約聖書ではアガボやピリポの娘たちが預言をしています。ある人たちは「預言は聖書が完成した今は存在しない」と言いますが、それは大きな間違いです。もちろん、預言は旧約聖書の預言者ほど完璧ではありませんが、神のみこころを示してくれる大切な賜物です。パウロは「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」(Ⅰコリント14:1)と言いました。霊を見分ける力とは何でしょう?特定の言葉や行為、また環境の背後に働いている霊を見分ける力です。つまり、その動機や言葉、行いが何によって成されているか、またその出来事や環境の背後に、どんな霊が働いているかを見分ける力です。世の終わりには悪魔の力によって奇跡を行なったり、預言する者が現れます。偽預言者から教会を守るためにも、この賜物は重要です。異言とは、聖霊の促しにより、まったく習ったことのない発音で、自発的に話す言葉や賛美です。このとき話すのは本人自身ですが、自分の意識はまったく関与せず、御霊によって促されて発せられます。本人も何を言っているかわかりません。これは、神さまと直接交わることのできる賜物です。解き明かしのできる異言は、預言のように神さまのみこころを会衆に知らせてくれます。最後は異言を解き明かす力です。これは公に異言が語られた場合、「この意味は○○です」と解釈してくれます。これは通訳ではないので、異言の長さとは関係ありません。異言を解き明かすことによって、キリストの教会の徳を高めることができます。

第四の質問です。実際に体験した力(現れ)の賜物があるならば、お互いに分かち合ってみましょう。こういう分かち合いは小グループでないとできません。実際、これらの賜物も公で行うよりは小グループから始めるべきです。こういう礼拝のような公の集会で「主はこう言われます」などと預言されると困ります。また、預言者が教会に突然やって来て、「皆さんは、こうすべきですよ」と預言されてもすぐ従うべきではありません。なぜなら、牧師が教会のリーダーであり、秩序を保つように任されているからです。また、預言は複数の吟味が必要であり、何でもかんでも聞いてはいけません。自称預言者の預言を聞いて、分裂した教会やカルトになった教会があるからです。御霊の賜物は刃物のようなものであり、使い方によってはとても危険です。「刃物は一切使ってはならない」と言われたなら、台所の包丁も使えなくなります。正しく使えば良いのですが、そこには修練がどうしても必要です。また、目立った御霊の賜物を持つと、高慢になり悪魔の罠にはまってしまいます。ですから、そういう人こそへりくだって、牧師の権威に従うことが重要です。牧師自身も、自分にない賜物を持っている人をねたんだりしてはいけません。教会はキリストのからだなのですから、いろんな器官であるいろんな賜物が現われて当然だと思わなければなりません。もし、牧師や役員たちが「そんなのいらない」と言って、御霊を消すならば、御霊は他の教会に移って力あるわざをなされることでしょう。日本にはそのような教会がたくさんあります。そこには聖書のみことばがあり、秩序と聖さがあるかもしれません。

しかし、聖霊の力や現れがないとよどんだ教会になります。Ⅰテサロニケ1:5「福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信によったからです」コリント2:4「私のことばと宣教は、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現われでした」と書いてあります。ですから私たちは宣教のためには、聖書のことばだけではなく、御霊による賜物が必要なのです。私たちは偏見や無知から解放され、御霊の賜物を正しく用いる練達した働き人になりたいと思います。

3.教会に与えられる「職務の賜物」とは?

 Ⅰコリント12:28-30「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。」

第一の質問です。「だれが教会の中に、専門的に御霊の賜物を行使する職務の賜物を与えるのでしょう?」神さまが教会の中から任命します。そして、教会がそれを承認するという形です。でも、最初からそれがわかるわけではありません。それがひんぱんに現れ、教会の徳を高めているなら、「ああ、この人は神さまからこのために召されているんだなー」と客観的に分かります。イエス様は「木は実によって知られる」と言われました。                       

第二の質問です。「教会に与えられた五職は何ですか?エペソ4:11を参考にしながらお答えください。」使徒、預言者、伝道者、牧師、教師があります。きょうは時間がありませんので、1つ1つ説明しません。テキストに記されていますのでご覧ください。

第三の質問です。「五職の他にどのような職務の賜物があるでしょうか?」奇蹟を行う者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者があります。彼らはまるで専門家みたいな人たちです。おそらく、聖霊様が「この賜物に忠実である」と認めた人たちなのでしょう。

第四の質問です。「神の家を建てるにあたって、五職はそれぞれどのような役割を果たすでしょうか?」生ける石であるクリスチャンを建て上げるためにあります。これは、『本当の弟子』というテキストで学びました。

4.与えられた御霊の賜物の管理

Ⅱテモテ1:6,14「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。・・・そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。」

第一の質問です。「テモテはどのようにして、パウロから御霊の賜物をいただいたのでしょう?」 按手、頭に手を置いて祈ってもらいました。エペソでは、パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました(参考:使徒19:6)。神の人から手を置いて祈ってもらうと聖霊の賜物が開花することが良くあります。

第二の質問です。「テモテがいただいていた賜物は、どうなっていたのでしょう?」弱っていました。消えかかっていました。賜物は用いないと弱ることがあるのです。

第三の質問です。「神さまから与えられた賜物に対して、どのようであることが最も大切ですか?」ゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守り、神さまのために忠実に用いるということです。

第四の質問です。「あなたが神さまから正しく管理しなさいと命じられている御霊の賜物は何ですか?」もし、自分で分からなければ、親しい人や自分のメンターに聞いたら分かります。

マタイ25章にはタラントのたとえが記されています。タラントは重さの単位ですが、賜物というふうにも訳されます。私たちは他の人と比べる必要はありません。自分に与えられた賜物とその量にしたがって忠実に用いれば良いのです。1タラントの人は地の中に隠したので、不忠実な者として大変、叱られました。そればかりか、持っている人にそのタラントが与えられました。主人は何と言ったでしょうか?マタイ25:29「だれでも、持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」これは、御国の完成時の時だけではなく、現在も働く原則です。私たちは神さまから与えられている賜物を見つけ出しましょう。見つけ出したら、それを忠実に用いましょう。時には冒険も必要です。恥をかくこともあるでしょう。でも、神さまは「忠実な者」と認めてくださり、あなたにたくさんの物を任せてくださるでしょう。「よくやった。良い忠実なしもべだ。主人と喜びをともに喜んでくれ」と言われたいと思います。