2015.8.16「敵に対する勝利 ルカ11:17-22」

 Ⅰヨハネ2章に、教会には子どもたち、若者たち、父たちと3種類の人たちがいると記されています。では、若者たちが乗り越えるべき課題とは何でしょうか?それは、みことばにとどまり、悪い者に打ち勝つことです。若者たちというのはこのテキストの「本当の弟子」にあたります。ですから、当然、一人前のクリスチャンになるためには、敵を知り、敵に対して勝利する必要があるということです。ところが西洋回りのキリスト教は、そういう霊的存在をほとんど認めません。ですから、日本の教会で、悪魔は戦わずして勝利しています。私たちは目から覆いを取り除いていただいて、敵の存在を知って、敵に対する勝利を得たいと思います。

1.サタンの組織

ルカ11:17-22を抜粋してお読みいたします。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。…強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」エペソ6:12「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」

第一の質問です。「サタンの組織とはどういうものですか?」イエス様はサタンには国があると言っています。国とはkingdom、王国であります。サタンの国は、おそらくピラミッド的な組織だと思われます。どういうわけか、この世の組織はピラミッド的な組織になっています。トップダウン的であり、上の人の命令を聞かないと左遷されます。

第二の質問です。「強い人の武装を解除して、分捕り品を分け与えた方はだれですか?」これはたと話のようでありますが、サタンとイエス様のことを語っているのです。強い人とはサタンのことです。そして、持ち物とはサタンに捕らわれている罪人、人間であります。あとで出て来る「もっと強い者」とはイエス様のことであります。イエス様がサタンの武装を解除して、虜である私たちを自由にしてくださるのです。

第三の質問です。「サタンの組織階級を思わせる用語にはどのようなものがありますか?」エペソ人への手紙には「これは悪霊の階級のことではないか」と思われる箇所が1章、3章、そして6章に書いてあります。エペソ6章には、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊」と書いてあります。

 第四の質問です。「私たちの戦いはだれとの戦いではなく、本当はだれとの戦いなのですか?」血肉つまり、肉体をもった人間に対するものではなく、悪しき霊との戦いだということです。もちろん私たちの前には考えや性格の違いからくる争いというものがあります。何でも霊的な戦いと考えてはいけません。でも、その人の背後に悪霊がいて、その人を支配している場合もあります。そういう時は、その人自身と戦うのではなく、背後にいる悪霊を縛り、悪霊を追い出す必要があります。このようなことは、実践してみないと分からない分野です。おそらく、いろんな失敗を重ねながら体得していくものだと思います。時には極端になることもあるでしょう。でも、経験を重ねていくうちに、「ああ、これが中道かな?」と分かるのです。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。主イエスは福音書において、サタンには国があることを示唆しています。サタンは神様のように遍在できないので、力ある組織階級が必要です。彼らはピラミッド型の組織階級をもって、全世界を支配していると考えられます。支配や主権は、国々や州を支配する悪霊の名前と考えられます。権威や力は、ある一定の地域とか県を支配する霊ではないでしょうか。闇の世の主権者は人々の思いを支配する霊です。もろもろの悪霊は、個人個人の罪や心の傷を餌にして取り付く悪霊です。しかし、これは1つの考えであり、絶対的なものではありません。でも、確実に言えることはこのことです。生まれつきの人間はサタンの持ち物でしたが、イエス・キリストが強い人(サタン)の武装を解除して取り戻してくださいました。私たちの戦いの相手は血肉(人間)ではなく、その背後で働いている悪しき霊どもです。ケネス・へーゲンは『真の霊的闘い』という本の中でこのように述べています。「クリスチャンは悪魔と格闘する必要がある」と新約聖書は教えているでしょうか?格闘とは、戦いではなく、奮闘して努力することを意味しています。つまり、確かに私たちには人生で対処すべき悪魔がいます。しかし、「イエス様が私たちのためにサタンを打ち負かしてくださり、私たちをサタンの支配から贖ってくださった」という神のことばの教え全体の文脈の中で、そのみことばを読んでください。私たちが行う「格闘」は、悪魔と戦うことではなく、神のことばへの信仰にしっかりととどまるための「戦い」なのです。アーメンです。

 

2.サタン(悪魔)の策略

Ⅱコリント4:3-4「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」創世記3:1「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」

第一の質問です。「サタンは私たちのどこを攻撃するのでしょうか?」私たちの思い(mind)です。悪魔は私たちの思いの中に、汚れた思いや疑いを入れようとやっきになっています。ですから、私たちの思いは戦場と言えるでしょう。

第二の質問です。「サタンの人間に対する目的は何ですか?」不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにすることです。

第三の質問です。「サタンが私たちに疑いを入れるために、最も用いる方法とは何ですか?」それは、神のことばに対する疑いです。彼はエデンの園で、「神は本当に言われたのですか?」とエバに聞きました。サタンは今日も、神のことばに疑いをかけて、人々を迷わせています。

第四の質問です。「あなたは思いにおける戦いに勝利する道を知っていますか?」Ⅱコリント10:4-5「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ。」ここで言われている要塞は、都市や国々を支配する霊的支配のことではありません。文脈から理解すると「さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」こそが打ち砕くべき要塞なのです。私たちの思いの中に、非聖書的な議論や理論や理屈があるかもしれません。霊的に新生したクリスチャンであっても、全く手つかずの場所、ブラック・ボックスがあるのです。「それとこれとは別だ!」というこの世の理論があります。サタンはその要塞を足場にして私たちを攻撃するのです。もし、自分の中に要塞を発見したなら、ただちにそれを虜にして、主の御名によって打ち壊さなければなりません。そうしないと、いつまでもサタンはあなたをある分野において支配することが可能になるでしょう。

テキストのまとめの部分を引用します。悪魔とその諸勢力の目標は、神に敵対することです。悪魔の抱く野望は、神のみわざを打ち砕き、混沌を生み出すという一事に尽きます。また、最大の野心は人間を神から引き離し、その力の及ぶ限り、人間が神を礼拝し、神に従い、神の栄光を現わす生活を妨げることです。悪魔には限界はありますが火や嵐を起こすことができます。また、悪魔は人間に与えられた最高の賜物、知性(思い)を攻撃します。人間の体そのものにも作用し、病の中には、悪魔(悪霊)からくるものもあります。悪魔は「もし…なら」と神のことば、聖書の主張に疑いを挟ませます。周到な戦略と巧みな罠により、サタンは私たちの思考の中に「要塞」を築こうとします。そのときは、ただちに「すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従」させるのです。私たちはふだんから思いの中に汚れたものを入れないで、良いもの(神のみことば)を入れるべきです。

3.悪霊が働く場所(足場)

 エペソ4:26-27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

このテーマは、「霊的解放」のところですでに学んでいまので復習になります。場所とはギリシャ語で、トポスですが、悪魔が働く場所を指しています。第一の質問です。「以下に悪魔に機会を与えるものがありますが、あなたはどうですか?」

□偶像礼拝、占い、オカルト

□悪しき思い、マインドコントロール

□悪い習慣(盗み、ポルノ、ギャンブル、薬物)

□心の傷(赦さない心、怒り、憎しみ、トラウマ)

□家系の罪、咎

第二の質問です。「悪魔に立ち向かう権威を得るためには、何が必要ですか?」罪があるなら悔い改め、そして神に従うことです。ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

第三の質問です。「解放を受けるためにはどのような手順が必要ですか?」まず、悪魔の足場になっている罪を悔い改めます。悪霊が離れ去るように自分で祈ります。あるいは祈ってもらうと良いです。昔は、「悪霊を出て行け!」とすぐさま命じました。しかし、なかなか出て行きません。たとえ、出て行ってもまた戻ってきます。なぜでしょう?その人に悪霊が取りつくことのできる罪があるからです。その罪を告白し、悔い改めるとその後は、簡単に離れ去ります。最後に、聖霊に満たされるように祈ります。つまり、イエス様を主人として迎え、心を守ってもらう必要があります。

テキストのまとめの部分を引用します。悪魔は私たちの過去の偶像との契約や罪、心の傷を足場として用い、救いを受けた後でも容赦なく、その人を縛り、自由を制限し、神の栄光のために生きられないように邪魔をします。自分の側に悪魔が居座るための要塞や足場を残したままにしておけば、悪霊どもは私たちとの関わりをそのまま持ち続け、影響力を行使できます。それゆえ、私たちはキリストにある自由を自分のものとするためにも、要塞をつぶし、足場をできる限り取り外す必要があります(『解放のミニストリー』石原良人著)。

4.神の武具

 エペソ6:13-18「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

今年のはじめ、クリス・バトロン著の『スピリット・ウォーズ』という本が出ました。テキストの解説もありますが、今回は彼の書物を引用して解説に充てたいと思います。

◆真理の帯。この箇所の「真理」という言葉は聖書を意味しているのではわけではありません。多くの人は見せかけのものの背後に隠れ、他人に真実を知られまいとします。彼らは薄っぺらな人柄によって、一部の人たちを騙すことはできるかもしれませんが、激しい戦闘の中では、その薄っぺらな本性が雨露にさらされてしまいます。それゆえパウロは、正直でありなさい。誠実に生きなさい、神と人との前に真実でありなさいと促しているのです。

◆正義(是認)の胸当て。胸当ては兵士の心臓や他の大切な臓器を守りました。心はたましいの座席であり、霊の土台です。キリストを信じたとき、私たちは心臓手術を受けたのです。イエス・キリストこそ、喜んで心臓を提供してくれたドナーです。人は義を生み出すことはできません。ただ、守るだけです。義はクリスチャンの新しい性質の1つですが、贈り物としてもらったものです。悪魔は偽りによって責めているだけです。神の義はすべてのクリスチャンにとって命を守る胸当てなのです。

◆平和の靴。ローマ兵の履物は、現代のスポーツ選手が履くスパイクのように、底の部分にくさび形の金属片が着いていました。このくさびのおかげで、接近戦における安定性が確保されたのです。私はこの金属片を「平和のくさび」と呼んでいます。この平和のくさびは、愛を理解するための接近戦、また愛を土台とした接近戦において役に立ちます。

◆信仰の大盾。ローマの盾は木製の本体を皮で覆ったものでした。皮は防火のために水に浸すことがしばしばありました。敵の放った火矢を消すためです。霊の戦いの真の戦場は、つまるところ信仰です。そして単純にして深遠なポイントは、だれを信仰するかということです。敵の罪責の声を信じるか、目の前の状況を信じるか、善意の友人の言葉を信じるか、神の言うことを信じるかです。

◆救いのかぶと。敵は私たちの確信を揺るがし、巧妙に神との関係を悪化させるためなら、どんなことでも厭いません。しかし、救いのかぶとをかぶっていれば、神の国の水辺のほとりで憩うような気分でいることができます。救いは私たちの努力ではなく、神の働きによるものであることを忘れるなら、霊の戦いの中ですぐ平安を失ってしまいます。救いが自分の努力によって獲得したものだとしたら、救いを保つための闘いも自分次第ということになってしまいます。しかし私たちは、救いの「ために」戦っているのではありません。救いの「ゆえに」戦っているのです。

◆御霊の剣である神のことば。この箇所で「神のことば」と言われている御霊の剣は、聖書のことではありません。「神のことば」にあたるギリシャ語はレーマと言い、神が息を吹きかけたことばという意味に解釈しています。思いや意図を判別するために使う神のことばは、悪霊の攻撃から自分を守るために使うことばとは別のものだと思います。聖霊の語りかけに耳を傾け、聖霊が語ることを預言的に宣言することが、攻撃のための唯一の武器です。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。私たちはイエス・キリストのあがないだけではなく、悪魔にも勝利したことを信じなければなりません。その次に、私たちは罪を悔い改め、主イエスの血しおを受けます。そして、神の武具を身につけ、御霊の剣を用います。主が共におられるから大丈夫と思っても、悪霊は自然には退きません。私たちは信仰によって悪魔に立ち向かい、主イエスの御名によって悪霊を追い出さなければなりません。私たちには主の御名を用いる権威が与えられているのです。御霊によるとりなしの祈りは、誘導ミサイルのように、敵地を破壊する力があります。

 私たちはいろんな祈りをします。神さまに求める祈りやだれかのためにとりなす祈りがあるでしょう。一方、病や悪霊に対して祈るのは、正確には祈りではありません。もちろん、私たちは神さまに「病を癒してください」とか「悪霊から解放してください」と祈ることもあります。でも、ある場合、神さまは「私に向かって祈らないで、自分でやりなさい」とおっしゃるときがあると思います。モーセが紅海の前に立っていたとき、モーセは神さまに叫んで祈ったことでしょう。でも主は、何とおっしゃったでしょうか?「なぜあなたは私に向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ」(出エジプト14:16)。主はモーセに「私に願うのではなく、手を海の上に伸ばして、海に命令せよ」とおっしゃったのです。それは悪霊や病気に対しても同じです。イエス様は一度も、悪霊や病気のことを父にお願いしたことはありません。イエス様は直接、ことばを発して命じたのです。そうしたらそうなったのです。ラザロのよみがえりのときもそうでした。イエス様は「父よ。あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを感謝します」と言われました。その後、「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれました。そうしたら、ラザロが墓の穴から出てきたのです。おそらく、私たちはイエス様と同じ権威はないと思います。しかし、私たちは救われて神の子どもになりました。その後、イエス様は「私の名前を使って同じことをしなさい」と権威をくださったのです。

マタイ28:18-16「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ」とおっしゃいました。マルコ16章でも「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語る」と約束されました。つまり私たちには「イエスの御名の権威」が与えられているのです。水戸黄門では「この紋所が目に入らぬか!」と言います。私たち自身に権威や力があるのではありません。私たちのきよさや正しさでもありません。イエスの御名の権威こそが重要なのです。5歳の子どもでも御名の権威を用いることができます。昔、夜中、金縛りにあったとき、イエス様ではなく不覚にも「ママさーん」と家内に助けを呼びました。つまり、潜在意識までイエス様の御名の権威が浸透していないことがバレたのです。ペテロは「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と警告しています。だからこそ、私たちは霊的に目を覚まし、神の武具で身を固め、主イエス様にいつもより頼みましょう。