2015.8.23「共同体とその関係 創世記4:4-9」

 共同体という言葉はあまり使われていないかもしれません。現代は、コミュニティという言葉の方を良く使うかもしれません。ドイツのある社会学者は、人間社会には2つの共同体があると言いました。1つ目は地縁や血縁、友情で深く結びついた自然発生的な共同体です。2つ目は、利益や機能を第一に追求するために人為的に形成された共同体です。教会はどちらの共同体を目指しているのでしょうか?教会は血縁を超えた、しかも利益を追求しない、神さまが集めた共同体であると言えます。この世にはあまりない共同体であることは確かです。

1.カインの罪

創世記4:4-9アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

第一の質問です。「カインはなぜ怒ったのでしょう?」主がアベルとそのささげ物とに目を留められたらです。私たちもこの箇所を読むとき、「神さまは偏り見ない方なのにどうしてだろう?」と思います。カインのささげ物は産物の中の1つですが、アベルのささげ物は羊の初子で、それも最上のものと書いてあります。あるいは、カインのささげ物は人間の努力のささげ物であり、アベルのそれは神さまから賜ったささげ物であります。正しい答えは見つかりませんが、カインにはアベルに対するねたみと、主に対する憤りがあったことは事実です。

第二の質問です。「カインは弟アベルに何をしたでしょう?」アベルを野に誘って、襲いかかり、彼を殺しました。最初の殺人は兄弟殺しでした。昔、ジェームス・ディーン主演の『エデンの東』という映画がありましたが、この聖書が題材になっています。

第三の質問です。「主はカインにアベルの居所を尋ねましたが、彼は何と答えたでしょうか?」「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか」と答えました。

第四の質問です。「カインの答えは、どのようなことを意味しているのでしょうか?」それは、「弟アベルのことなど、私には関係ない」ということです。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。サタンは神と人との関係を壊しました。人が神に対して罪を犯したので、その関係が壊れたのです。その次に、サタンは家族の関係を壊しました。神様は私たちが共同体として生きることを意図されましたが、サタンがそこへやって来て、共同体を破壊しました。カインはねたみのゆえに、アベルを殺しました。このところに関係の破壊があります。神様はカインに「お前の弟はどこにいるのか?」と尋ねました。カインは「私は弟の番人なのでしょうか?」と答えました。本来、カインが弟の責任を負うべき人なのです。カインはアベルの面倒を見るべきだったのです。なぜなら、神様は共同体として、責任を負いあう関係を持つものとして造られたからです。私は8人兄弟の7番目で育ちました。兄弟同士みな仲が悪かったです。私の父母はよく「兄弟は他人の始まり」だと言いました。兄弟同士が争い憎み合うと、他人よりも始末が悪くなります。他人だと「まあ、仕方がないか」とその場を去るでしょう。しかし、兄弟だと、血肉の争いと申しましょうか、限度を超えて、憎み合い、争い合うというところがあります。なぜでしょう?色んな理由があるでしょうが、カインの末裔だからかもしれません。私たちは生まれながら、カインのような妬みや憎しみが内側にあります。同時にそれらは、共同体を破壊する罪でもあります。罪が入ってからは、夫婦の関係、そして兄弟の関係も壊れてしまいました。

2.カインとその子孫の生き方

 創世記4:16-24「それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。さて、レメクはその妻たちに言った。『アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。』」

第一の質問です。「町とエデンの園の違いは何でしょう?」カインは罪を犯した後、「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう」と恐れました。そして、カインは町を立てました。ここで言う町とは城壁のある町のことです。カインは敵から侵入されないように、町のまわりに城壁を張り巡らしたのです。エデンの園には城壁がありませんでした。なぜなら、神さまご自身が城壁となってくれたからです。神さまのもとを離れたカインは自分で自分のことを守るしかないと思ったのです。

第二の質問です。「カインのそれぞれの子孫はどのようになったでしょうか?」ヤバルは家畜を飼う者の先祖、牧畜の先祖になりました。ユバルは立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖、芸術の先祖になりました。トバル・カインは青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋、工業の先祖になりました。すごいですね。現代風に言いますと、カインの子孫は身を立て、名をあげた人たちです。昔、卒業式のとき「仰げば尊し」という歌を歌いました。その歌詞の2番に「身をたて名をあげ、やよはげめよ」とあります。立身出世を歌っているということで、2番を省略して歌わない学校もあったそうです。

第三の質問です。「カインとカインの子孫の存在価値とは何なのでしょう?」互いの関係よりも自分の業績を上げることです。存在そのものよりも、「何ができるか?」ということに価値を置いたということです。私は業績志向で生きてきました。炎天下の現場から帰ってくると、事務の人たちが涼しいクーラーものとで、べらべらしゃべっているのを見て腹を立てたことがあります。仕事人間は関係をあまり重視しない傾向があります。関係人間は、あまり仕事をしない傾向があります。仕事も関係も両方バランスを取れたら良いと思います。特に企業なのでは、存在そのものよりも、「何ができるか?」ということに重荷を置いているのではないでしょうか?

第四の質問です。「カインの子孫、レメクはどのような人になったでしょうか?」レメクはふたりの妻をめとりました。レメクは敵意に満ちた人でありました。彼は「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」と言いました。これはどういうことを意味しているのでしょうか?争いが家庭内におさまらず、民族間に広まって行ったということです。

カインは主の前を去って、城壁の町を築きました。神さまご自身がおられるエデンの園には城壁がありませんでした。城壁は外部から自分を守ってくれますが、同時に外に自由に行くことができません。人間関係には、境界線(バウンダリー)が必要です。でも、城壁のような境界線は問題ではないでしょうか?数年前、松山城を訪れたことがあります。城の上には、鉄砲を打つ小さな窓がありました。また、城の真下に来た敵には石を落とすようになっていました。城壁のような人だったら、あぶなくて近寄ることができません。城壁と比べて、生垣はどうでしょうか。ちらっと向こう側が見えます。ちょっとアバウトな境界線です。主の守りがあるならば、そういう境界線が可能です。また、人間関係を壊すのは業績志向であります。サタンは私たちの存在価値を関係ではなく、業績に置くように仕向けます。ヤバルは家畜を飼うことに、ユバルは音楽家であることに、トバル・カインは鍛冶屋であることに存在価値を置きました。このように、カインとカインの子孫たちの存在価値は、みな業績に基づいていました。コーチングセミナーに来られた、ベン・ウォン師がこのように言われました。「現代の社会も私たちの存在価値は、業績に基づいています。残念なことに、教会もまた、同じことになっています。もし、あなたが金持ちであるなら、教会でもっと尊敬されるでしょう」。私たちの人間関係を壊すのは、何ができるかということで人の価値を決める業績志向です。

3.キリストによる平和

 エペソ2:13-16「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」

第一の質問です。「異邦人とユダヤ人は何によって近い者とされたのでしょう?」キリストの血によって両者に和解がもたらされました。

第二の質問です。「キリストは両者が1つとなるために、どんなことをされたでしょうか?」「キリストは隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された」とあります。当時、エルサレム神殿には150㎝程の高さの石垣がユダヤ人の庭と異邦人の庭とを隔てて立っていたようです。「そこには、もしこの石垣を超えて中に侵入しようとする異邦人があれば、死刑に処せられる」という警告の札が掲げられていたようです。ユダヤ人たちは、割礼を受けていない異邦人を蔑視していました。 しかし、キリストにあってこの隔ての壁が打ち壊され、ユダヤ人と異邦人が一つの共同体として神様を礼拝するということが可能になりました。

第三の質問です。「両者の関係を壊す、敵意はどうなったでしょうか?」キリストによって敵意が廃棄されました。敵意は十字架によって葬り去られたということです。しかし、これは異邦人とキリストとの関係を越えて、民族間にも、そして私たち人ひとりにも可能になったということです。このことが初代教会によって実現されました。

第四の質問です。「私たちが互いに1つとなれる根拠とは何でしょうか?」和解を与えるために十字架で死なれたキリストを通してです。言い換えるなら、肉や律法から解放されるために、新しく作られることによってです。

和解には順番があります。まず私たちは神さまとの和解が必要です。キリストはそのために十字架で血を流し、神さまとの和解の道を設けてくださいました。その次は、人との和解です。私たちは目には見えませんが、国家や民族の壁、イデオロギーの壁があります。男女間の壁があり、そして一人一人の壁があります。イエス様は大祭司として、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈ってくださいました。パウロは、Ⅱコリント5章で「神の和解を受け入れなさい」と懇願しています。つまり、私たちはキリストを通して神さまと和解したなら、今度は人間同士が和解するように求められています。テキストにはこのように書かれています。「もう、あなたと私の間に、何の壁もなくなりました。それは、あなたと神様との間の壁もなくなったからです。そして、神様があなたを受け入れてくださいました。イエス様の血しおによって、あなたが一度も罪を犯したことのないようにしてくださいました。そして私たちは1つになることができます。だから、私たちはイエス様の血しおが必要なのです。血しおなくして、一致を持つことはできません。神様があなたを赦して、受け入れてくださったことを示すのが教会です。」アーメン。イエス様の血しおとは、十字架の贖いであります。なぜ、教会にこのような十字架が立っているのでしょうか?お互いが十字架によって罪赦された者であり、十字架を通して互いに愛し合うことを教えているのです。

4.神の家族(共同体)

 エペソ2:19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」

第一の質問です。「私たちはどういう存在でしょう?」私たちは、他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族です。

第二の質問です。「家族(共同体)の特徴は何だと思いますか?」家族の特徴とは、存在そのものを受け入れ、愛することです。私たちが隣人を見るとき、「この人も、父なる神さまから造られ、キリストによって贖われた存在なんだ」と見るべきです。ある人たちは「生理的にこの人はダメ」と言うかもしれません。また、ある人は「好みや考えが違い過ぎるからダメ」と言うかもしれません。私たちは肉体や魂がありますので、いきなり霊的なところまで行かないかもしれません。でも、「神さまが私の罪汚れを清め、受け入れてくださった」という贖いの喜びがあったならどうでしょうか?当時の宗教家たちは取税人や遊女と絶対に交わりませんでした。しかし、イエス様だけは別でした。イエス様は彼らの友でした。私たちはイエス様以上に清いのでしょうか?

第三の質問です。「伝道の最善の戦略は何でしょう?」それは、互いに愛しあって1つになることです。ヨハネ17:23「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」もし、私たちが互いに愛し合っているなら、世の人たちは「ああ、この人たちはキリストの弟子だな」と知るということです。なぜなら、そういう関係は世の中で発見することができないからです。

第四の質問。「教会は集会さえ守れば良いという集会モードからどのように変わるべきでしょう?」神さまとの関係を第一にしながらも、お互いの関係を大切にするということです。つまりは、互いの徳が高められるように交わるということです。

私が教会に来た頃のことです。礼拝が終わったとき大川牧師が講壇から「お交わりをしてから、お帰りください」と言われました。そのとき、「え?だれと?」とプレッシャーを感じました。その頃は「青年会」というのがあって、姉妹たちから誘われました。もし、男性だったなら、敵意を覚えますが、姉妹たちからだったので「ま、良いか」と思いました。最初は「兄弟姉妹」と言っても、距離を感じましたが、だんだんと親しい関係が持てるようになりました。しかし、境界線の加減が分からなかったので、傷つけたり、傷つけられたりしながら人間関係を学んでいきました。人間関係は学ぶものだとだれが教えてくれたでしょうか?教会はそういうところです。テキストのまとめの部分をお読みいたします。私たちは神の家族です。私たちは家族の一員です。共同体の一員です。だから、私たちは互いに責任を負い合います。だから、新約聖書の教会は共同体で生きるのです。伝道の最善の戦略は、愛のうちに共同体を築くことです。この世の人は愛に飢え渇いています。もし、私たちのうちに愛を見出すことができれば、その人たちは、みんな群に入って来るでしょう。集会さえ守れば良いというレベルから、共同体として生きることを何よりも求めていく必要があります。

 私たちは最初、人間関係をどこで学ぶのでしょうか?生まれ育った家庭で学びます。ところが、家庭において、存在そのものを愛され、受け入れられてきたでしょうか?最初は生まれてきたことが喜ばれたかもしれません。しかし、その直後、排せつの問題や立った、歩いた、しゃべったと、やることが多くなります。学校の勉強もあるでしょうし、入学のための内申書とかが出て来ます。無条件の愛を受ける場である家庭が、条件付きの愛になっています。人間関係において、父母が良い模範を見せてくれれば良いかもしれませんが、そうでない場合があります。兄弟同士ももしかしたらカインとアベルかもしれません。学校へ行けばいじめがあるし、いろんな戦いがあります。気が付いたら、「人間関係ほどめんどうなものはない」と思うのではないでしょうか?会社に入っても仕事は好きでも、人間関係でイヤになる場合が多々あります。学校の成績が良くでも、人間関係でうまくいかない人が大勢います。

 もし、その人が、神さまの愛を知り、キリストの贖いを知って、霊的に生まれ変わったならどうでしょうか?もちろん、教会に来て躓くこともあります。でも、その躓きを乗り越えて、損得なしで、互いに愛し合うことを学ぶのです。そうしますと、人間関係の傷が癒され、神の愛を運ぶ器となるならすばらしいのではないでしょうか?中にはクリスチャンなって、かえって生きづらくなっている人がいます。それは自分が律法主義者やパリサイ人になっているからでしょう。私たちはイエス様の愛を受けつつ、イエス様のように愛することを学ぶべきです。神さまは「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われました。この無条件の愛を受けて満たされるとき、今度は、隣人をもこの愛で愛することができるようになります。人間の愛では限界があります。しかし、神からの愛はそうではありません。人間は関係の生き物です。仕事ができて、物を持っているだけでは幸せではありません。人間関係がうまくいっている時に幸せを覚えることができます。つまり、人間関係をないがしろに生きることはできないということです。イエス様は数ある律法をたった2つにまとめました。それは、神さまを心を尽くし、思いを尽くして愛することです。第二番目は、自分を愛するように隣人を愛することです。この愛からは決して卒業することはできません。私たちは生きている限り、愛の課題に立たなければなりません。愛の課題に立つとは、一人ではなく、共同体の中で生きるということです。三位一体の神は共同体の神であり、そのような像で、私たちを造られたのです。神さまから愛をいただいて、愛の課題に立ち続けたいと思います。