2015.9.6「過剰反応と世界観 エペソ5:13-14」

 今週から4回にわたり、李光雨師が教えてくださった『新しいライフ・ステージ』から学びたいと思います。「許可を取っているのか?」と言われるかもしれませんが、先生の名前を出して、借り物であるということを言えば大丈夫だと思います。李先生は当教会に何度もお越しくださいました。また、ゴスペルで救われた方々が軽井沢で集中的に学んだこともあります。私も青山のスクールに2年間通いました。さらには、先生から約1年間、カウンセリングを受けて癒しを受けた者でもあります。丸屋真也先生も同じようなアプローチで「認知行動療法」をなさっておられます。私には勧めの賜物がありますので、これらを分かりやすいメッセージとしてお届けしたいと思います。

 

1.過剰反応ダイヤリー

みなさんは「過剰反応」ということばを聞いたことがあるでしょうか?過剰反応とは、ある特定のステージの中で現われてくる心や体や行動、合理性を欠いた強い反応です。良く「地雷を踏んだとか、踏まれた」と言いますが、怒ってしまう一定の状況があるようです。「あんな言い方をされて落ち込んだ」ということもあるでしょう。たとえば、コーピーの取り方を上司から注意されたとき、自分の存在そのものを否定されたように感じるかもしれません。人によって違いますが、怒り、憤慨、落ち込み、不安、恐れなどの過剰反応によって自分の生活が窮屈になります。年を取るたびに、過剰反応の悪循環が加速して、社会生活を送れない人もいます。まず、自分がどのようなもので束縛されているのか知る必要があります。

自分の悪循環のパターンを知るために「過剰反応ダイヤリー」という表があります。左側に過剰反応をした日時を書きます。さらに、3つの項目について書きます。第一は状況です。過剰反応が起きた時の状況です。パニック発作、抑うつ、怒りの爆発、落ち込み、貢ぎなどが起きた、あるいは起きそうだった時の状況です。何が起こったとか、何を言われたとか、客観的に書きます。第二は感情と身体反応です。怒り、恐れ、悲しみ、抑うつ、無力感などです。100が死ぬ程だとすると、それに比べ、どの程度だったか主観的で構いません。たとえば怒りが80%、不安が50%という風に書きます。身体反応としては、心臓がバクバクした、夜眠れなかったというものです。第三はその時の考えや行動です。難しいのはそのとき、何を考えていたかを捉えることです。感情はすぐ分かりますが、考えを見つけ出すのは大変です。たとえば、不当な扱いを受けた、存在を否定された、拒絶された、プライドを傷つけられたなどです。ダイヤリーを1か月くらいつけていると、何らかの共通点、一定のパターンがあることに気が付くでしょう。

過剰反応として最も捉えやすいのが怒りです。怒りを持っている人の過剰反応の1つはキレるであります。これは怒りの爆発です。火山の下にはマグマがあって、それが火口から噴出します。火山学者は「噴出する火口はこういう場所です。地中はマグマが噴出するようなルートを形成しています」と言います。つまり、噴火している地点がA、B、Cと三箇所あっても、下のマグマはつながっています。たとえばAが会社で、Bが家庭、Cが教会だとします。怒りの爆発も同じで、いろんなところでキレる人がいますが、基本的には1つのメッセージに反応します。場所のバリエーションがあるだけで、過剰反応としての怒りの噴出は大体1つのメッセージだということです。最初にすべきことは、気づきです。自分はどういう状況のときに、過剰反応するかです。そして、そのとき何を考えていたかということを捕まえなければなりません。おそらくそこには、共通したパターンがあると思います。

2.過剰反応の正しい順番

 私たちは感情に注意が行きます。そして、その感情を何とかしようとするかもしれません。「今度から怒らないように」と反省するでしょう。あるいは、「そんなに落ち込まないようにしよう」と気分を変えようとするかもしれません。しかし、その場限りで、ほとんど解決になりません。感情は中立です。現代は、薬によって感情の起伏を安定させようとします。例外的に脳の分泌物が問題の場合もあります。しかし、感情はメーターのように、中立だということを知らなければなりません。たとえば、車の温度計が上がっていた時、メーターの針を下げる人はいません。これは水が足りなくてエンジンがオーバー・ヒートしているのです。メーターは「エンジンが熱いよ」と教えているのです。では、怒りはどうでしょう?なぜ、あなたは怒っているのでしょうか?それは何かをされた時、言われた時、あなたはあることを考えたのです。「理由も聞かないで、一方的に裁かれた」と考えたので怒ったのです。あるいは「あの人は私のことを認めていない」と考えたので落ち込んだのです。つまり順番としては、状況→考え→感情→身体反応や行動です。

 心理学者は、考えのことを、認知と呼んでいます。認知行動療法というものがありますが、これは認知、つまり考え方を変えるということです。アメリカのアーロン・ベックという人が「認知療法」ということを提唱しました。それまでは、交流分析とか精神分析が主流でした。しかし、この認知行動療法は、先生と受ける人の共同作業でなされるものです。いろんなことを聞きながら、本人が「ああ、そういうところがある」と気づかされます。先生はその人の認知の歪みを修正するようにアプローチしていきます。この治療方法は、うつ病やパニック障害にかなりの効果があるようです。しかし、一般の心理療法は神さまや霊の存在を認めていません。考えの中心、コア信念みたいなところまで取り扱うことができるでしょう。しかし、いつどこで認知が壊れたのか、だれがそれを癒してくれるのかということはあまり触れません。もちろん、それで癒される人がいます。しかし、私たちは考え、思いを聖書的に変える必要があります。その根拠となるみことばが、ローマ12:2です。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」このみことばは、霊的に新たに生まれたクリスチャンに語られているメッセージです。多くのクリスチャンは霊的に生まれても、思い、つまり考えが新たになっていません。ここで言われている「心」は、英語ではmindであって、思いとか考えという意味です。多くのクリスチャンは、霊は新たになっているのに、mindが古いままで生きています。だから、生活が変わりません。いろんなもので縛られ、過剰反応で生きているのです。

もう一度、過剰反応の順番についてお話ししたいと思います。過剰な感情や身体反応はなぜ起きたのでしょう?それは、あなたが何かを考えたからです。しかし、その考えが問題であり、ある一定の状況に関して、歪んでいる、あるいは間違って捉えているということなのです。李光雨先生は「悪循環パターン」と呼んでいます。あなたは同じテーマで、過剰反応を繰り返していることを気づくはずです。その悪循環パターンを動かしているのが、「考え」なのであります。李先生は、フラー神学校でチャールズ・クラフト師から学びました。クラフト師は「考え」の代わりに「世界観」という言葉を用いました。世界観とは「この世界がどのように成り立っているかについて、私たちが(意識的であれ、無意識であれ)抱いている考え方」のことです。たいていは無意識のうちですが、思考のパターン、いろいろな経験をどう解釈するかという基準を身につけています。私たちの世界観は一種のフィルターのようなものです。それは、この世界に色をつけ、明らかにし、分類し、ねじ曲げ、あるものを見えなくするのです。クラフト師は、私たちの世界観は、現実を制御する「コントロール・ボックス」であると言っています。この世界観を認知や考え方と置き換えることも可能です。李光雨師は認知のことを「世界観」と言い、世界観の中心部分を「コア世界観」と呼んでいます。つまり、過剰反応の出所は、コア世界観であるということです。端的に言えば、コア世界観を変えれば、過剰反応から解放されるということです。

3.過剰反応の種類

李光雨師はこれを気づきのためのフレームワークと言います。フレームワークというのは、枠組みとか、カテゴリーという意味です。実は、その人が過剰反応の世界を作り上げたのです。それが、束縛されたライフ・スタイルになっているのです。でも、それがどこで壊れたのか、知らなければなりません。私たちは人間関係を修復させるために、現地点に目が行きがちです。しかし、それは対症療法みたいなもので、根本的な解決になりません。その人が、抱えている歪んだ世界観が原因しているからです。日常生活上の恐怖や挫折体験をBとするならば、もっと過去の「バリヤー崩壊体験A」までさかのぼる必要があります。生育史の中で、最初に世界が壊されたような体験があるものです。それは幼い時のトラウマだったり、挫折体験だったりすることがよくあります。日常生活で、同じような状況で、同じようなことが起こると、過剰に反応してしまうのです。癒しと解放のために、その人がどのようなテーマを持っているのか知る必要があります。それを大まかに3つに分類することができます。実は4つあるのですが、悪霊的な圧迫なので、最初から取り上げません。大まかに3つに分類に分類します。

第一は不安に束縛されたライフ・スタイルです。現代は昔より複雑でストレスが多いので、いろんな不安障害があります。そのため、パニック障害とかで外出できない人もいます。人間はアダムとエバ以来、不安と恐れを抱えて生きています。それを「存在不安」と言っていますが、生まれた時からバリヤーで覆って生きています。「グッドニュース」で学びましたが、それを「いちじく葉のバリヤー」と呼びました。家系、名誉、学歴、容姿、持ち物、お金、体力、頭脳明晰、能力、子ども、地位、財産、信念、職業、結婚などがあります。生まれつきこのバリヤーの強い人もいますが、生まれつきバリヤーの弱い人もいます。このバリヤーがある時、破れてしまって、中から存在不安が顔を出します。それだけでは神経症状にはなりません。しかし、日常の中で、さらなる挫折体験があります。これが重なることによって、今まで隠れていた存在のたまらない不安が表に現れてくるのです。つまり、この人は「不安」というテーマを持っているということです。

第二は怒りに束縛されたライフ・スタイルです。過剰反応として一番捉えやすいのが怒りです。日常生活上のBのところで何か理不尽なことをされたと考えられます。だから、この人は怒っているのです。でも、よく見ると、過去のAのポイントが見えてきます。怒りを持っている人の過剰反応パターンは怒りの爆発と考えられます。火山にはマグマがあって、それが火口から噴出します。私たちは、教会で爆発している場合、教会の中で問題を解決しようとします。しかし、その人は家庭や職場でも爆発しているかもしれません。つまり、入口だけを解決してもダメで、根っこである過去のAのポイントを見なければなりません。その人は生育史の中で、親やだれかから理不尽な扱いを受けて、世界が壊されたのです。だから、日常の中で、同じような状況に置かれたとき、内側に秘めていた怒りが噴き出してくるのです。噴火の後しばらくは、平穏かもしれません。しかし、また怒りのマグマがたまって次の機会を待っているのです。李光雨師は、怒りに束縛されたライフ・スタイルを「怨念晴らしのライフ・スタイル」と呼んでいます。李先生は、怨念晴らしのスペシャリストです。

もう1つ、怒りに束縛されたライフ・スタイルに鬱があります。「怨念晴らし」と鬱は双子の兄弟と言えます。精神医学ではいろんなことを言うかもしれません。脳内の機能障害とかは別として、鬱の束縛された世界から解放される道があると信じます。なぜ、鬱になるのか?李光雨師は、鬱とは、抑圧された「怒り(心の叫び)」が引き起こす「束縛されたライフ・スタイル」であると言っています。基本的には、抑圧された怒りの持って行き方の問題と考えています。第二の怒りのテーマを持った人は、「バカヤロー」と外に吐き出します。そうすると、周りの人が傷つくでしょう。でも、この人はその怒りを外にではなく、内側に向けるのです。抑圧された怒りが自分の中で行き来して、最終的には自分を破壊してしまいます。現代は鬱病の人がたくさんおられます。鬱病は人口の7%、800万人いると言われています。厚生労働省によると、「15人に1人が生涯に1度は鬱病にかかる可能性がある」ということです。不況になると、いやなことがあっても会社に文句が言えません。だから我慢します。抑圧された怒りは、最後には自分に向かいます。

第三は傷ついたセルフイメージに束縛されたライフ・スタイルです。テキストにはこのように書かれています。セフルイメージが傷ついているとは、自分自身が愛せない、自分の価値を認められないということです。自分の価値をとても低く考えていると言っても良いでしょう。だから、聖書の「愛する」ということばを使うならば、「自分自身を愛することができない」のです。「自分自身を愛してはいけない」というイメージがキリスト教会にはびこっているのではないでしょうか。神さまよりも自分を愛することは罪ですが、健全な意味で自分を愛するとは正しいことだと思います。そこから話を進めないと、セルフイメージの問題は解決できません。だから、愛するということを「価値があることと認める」と言い換えて良いと思います。多くの人は、最初は価値がなくて、イエス様によって贖われたのでやっと価値が回復したと言います。そうではなく、イエス・キリストは、私たちに価値があるから、救おうと思って十字架にかかったのです。神さまによって私たちの行ないや持ち物ではなく、存在そのものが受け入れられているのです。神さまは私たちをdoingによって愛するのではなく being よって愛しているのです。このところから話が始まらないと、セフルイメージの話ができません。アーメンです。

何故、その人は傷ついたセルフイメージに束縛されているのでしょうか?成育史の中で、誰か(特に近親者)にひどく拒絶・虐待された体験によって受けた心のダメージ(トラウマ)です。あるいは、生育史の中で、「そのままではだめ!」という存在否定のメッセージを受け続けてきた体験によってです。特に深刻なのは、「裏メッセージ」です。ほぼ間違いなく、世代から世代へと受け継がれます。たとえば「何度、言ったらわかるの?」と言うと、「お前は物分りが悪いね」という裏メッセージになります。「家の子は、みんな優秀だ」と言うと、「優秀でなければ家の子じゃない」という裏メッセージになります。結構、私たちは子どものときから、そのままじゃダメなんだというメッセージを受けてきています。そういう人が大人になると、ちょっとした指摘なのに、無能呼ばわりされたような感じがします。本来、能力と存在価値は別ものなのに、その人は1つになっています。私たちは様々な挫折を体験しますが、セルフイメージが傷ついている人は、立ち直るのがとても困難です。また、なんとかセルフイメージを回復しようとやっきになるところがあります。さまざまな資格を取ったり、業績を上げるパフォーマンス指向もそうです。

おおかまに、3つのカテゴリーをあげましたが、人によってバリエーションが違います。そう単純ではありません。でも、3つの中のどのカテゴリーに入っているか特定することが重要です。次回、学びますが、コア世界観のテーマを1つのことばで言いあらわすことが次のステップにあります。私の場合は、「不当な扱いを受けることによって世界が壊れる」ということです。だれかが、私に不当な扱いをしてくれたら、憤慨して過剰に反応するでしょう。私は3つの中で「怒り」がテーマです。私は不当な扱いを受けて育ちました。「本当はこうなのに」と弁明したかったのですが、その機会も与えられませんでした。親や兄弟、先生や年上の人はむかってもかなわないので、泣き寝入りしていました。テレビで、「必殺仕置き人」など、必殺シリーズがあります。変な時間、再放送されています。ある人がさんざんな目に遭います。しかし、最後に彼らが悪人たちを成敗してくれます。その時、私は心が洗われたような感じがします。「心が洗われた」というのも変ですが、「私の代わりに恨みを晴らしてくれた!」と思うからです。旧約聖書でダビデはサウロから命を狙われました。彼は王様の油注ぎを受けていたのに、13年間も逃亡生活を余儀なくされました。私の言葉で言うと「咎をしてないのに、なんでひどい目にあうんだ」ということです。詩篇を見るとダビデは自分の思いを赤裸々に主に向かって告白しています。詩篇54:4「神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください。」「敵を滅ぼしてください」と、ダビデの祈りはとてもストレートです。でも、もっとすばらしいのが1節です。詩篇54:1「神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。」弁護は、英語の聖書では、vindicateであります。Vindicateには「擁護する。主張・人柄などの正しさを証明する。正当化する。…の嫌疑を晴らす。…に対する権利を主張する。財産の権限を訴訟で取り戻す」という意味があります。このVindicateが私の心にぴったりとはまりました。神さまは心の叫びを聞いて下さいます。そして、ぴったりとした答えを与えて、心の叫びを完了してくださいます。心の叫びが完了すると、次のステップに進むことができます。私は2009年に李先生からカウンセリングを受けて、癒されただけではなく、新しいコア世界観を持つことができました。25歳のとき、キリストを信じて新生したことは最もすばらしい体験でした。しかし、56歳のとき、心が新しく造り変えられた経験をしました。丸屋師の言葉を借りると、「霊は生まれ変わっても、心理的に生まれ変わっていない人がいる」のです。こんなことを言うと異端に思われるかもしれません。キリスト教会は霊的な救いを言いますが、心の問題はあまり取り扱いません。「こうしなさい、ああしなさい」と律法で抑圧するところがあります。しかし、心は内側から叫んでいるのです。心の叫びを聞かなければなりません。

丸屋師はセルフトークとか、自動思考というふうに言います。私たちは無意識のうちに、何かを言い、何かを考えているということです。きょうは「過剰反応」ということを取り上げました。私たちは、ある一定の出来事にさらされたとき、過剰に反応するときがあります。過剰反応をしているとき、湧き上がってくる考えやイメージを捕まえることができます。それは、心の深いところから出て来る「心の叫び」と一致しています。出来事は違っていても、必ずそこには共通したものがあるはずです。どうぞ、現在の過剰反応をさかのぼって、自分の世界観を特定しましょう。エペソ5:13-14けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」