2015.9.13「コア世界観と心の叫び 詩篇18:1-6」

 前回は過剰反応から、湧き上がってくる考えやイメージを捕えるということを学びました。きょうは、私たちの考えの核となるものを定義して、心の叫びを完了するということを学びたいと思います。今回も、李光雨師の『新しいライフ・ステージ』を借用したいと思います。李先生は時々、当教会の礼拝のブログをご覧になっておられるようです。ひょっとしたら先生からクレームを付けられるかもしれません。私は先生によって癒しと解放を受けましたので、その御恩は一生忘れません。先生からミニストリーを受けたい方は、青山でやっていますので直接お申込みください。PRを兼ねたメッセージになっていますので、きっと許して下さると思います。

1.コア世界観と心の叫び

 考えの中核を占めている部分を「コア世界観」と呼ぶことにします。丸屋真也先生は、核信念、core beliefと呼んでいます。日常でも、「信念」という言葉を使うときがあるでしょう。人の心の中には、確固たる信念、揺るぎなき不動の信念みたいなものがあるのではないでしょうか?心理学者が「核信念」と言うとき、潜在意識の中に隠れているものを指すのではないかと思います。心理学者は「その人を突き動かしているものというのは、無意識の中にある」と言います。李先生はこのことを「コア世界観」と呼んでいますので、こちらの方を採用したいと思います。図を見るとわかりますが、私たちが過剰反応しているとき、湧き上がってくる考えがあります。それを認知もしくは世界観と呼んでいます。過剰反応ダイヤリーをつけていると、共通したテーマが見えてくるはずです。たとえば、「人から評価されないと自分の世界が壊れる」というのは、傷ついたセルフイメージがあるということです。ある人は「自分の力では対抗できないものが、自分の世界を混乱させている」と言うかもしれません。その人は、支配されることへの恐れや怒りがあるかもしれません。しかし、それらの湧き上がってくる考えをさらに、深めていくとコア世界観にたどり着きます。つまり、コア世界観から、考えや認識やイメージが出ているんだということです。さっきの、「人から評価されないと自分の世界が壊れる」というのは、他者評価というものがとても重要なポジションを占めているからです。おそらく、その人のコア世界観は「自分の世界は弱い、脆弱だから他者から評価を受けて世界を強くしなければならない」というものでしょう。李光雨先生は、コア世界観を定義することの天才であります。私も何年もそばにいて、その秘訣を盗もうとしました。しかし、それは職人技というか賜物であり、私には無理だということが分かりました。でも、認知行動療法はその人との共同作業で行われます。その人に「もしかしたら、こういうことでしょうか」と聞いて行くと、その人が最もしっくりくるコア世界観を定義してくれます。だから、私でも大丈夫だと言うことが分かりました。

 コア世界観を見つけ出すために、とても重要な手段は「心の叫び」であります。心の叫びが分かれば、コア世界観が分かります。丸屋真也先生は、これを「セルフトーク」と呼んでいます。丸屋師は「自動思考の中にセルフトーク」があるとおっしゃっています。セルフトークというのは自分自身に語っていることばです。「ああ、どうして私はグズなんだろう。もっと、早めにすべきだった」「あの人は、いつも批判的だ」「いつも、私は損をしている」「誰も、私のことをわかっちゃくれない」「最後に頼れるのは自分だ」。つぶやきみたいですけど、ボソボソと出て来る時はないでしょうか?私は、その人の話を30分くらい聞いていると、「この人の心の叫びはこういうことかな?」分かって来ます。だれでもそうですが、形を変えて、繰り返し出て来るのが心の叫びです。そこには、恐れや怒りの感情も伴います。しかし、難しいのは問題を認めない人、否認をしている人です。おそらく、その人はカウンセリングも受けたくないし、変わりたくもない人です。カウンセリングが万能でないのは、そういうところにあります。「癒されたい、変わりたい」という人であるなら、認知行動療法はすばらしい手法だと思います。マタイ5章に「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。義に飢え渇く者は幸いです。」と書いてあるのは、そのためです。

 テキストにはこのように書かれています。「心の叫び」というのは、見つけ出すのはそんなに難しいことではありません。なぜかと言うと、同じことを繰り返し言っているからです。言語として同じと言うよりも、メッセージが同じなのです。「自分の世界を壊すな!」「そんな勝手なことをするな!」「お前のせいで、自分の世界がむちゃくちゃになったんだ」などです。だれかが、理不尽に自分の世界を壊した。理不尽に自分勝手に壊していくということです。私自身は「認めてよ!」「それで良いと言ってよ!」と叫んでいる。このチャートで言いたいのは、社会生活、日常生活のいろんな部署との(人間)関係の中で、その人たちに対して過剰反応をするときには、「共通のメッセージを受け取っている」ということです。Aさん、Bさん、Cさん、相手が違っても、彼らからこちらが過剰反応を引き出されるメッセージは同じなのです。また、Kさんのパターンとしては「自分勝手に振舞う人」です。自分勝手に振舞う昔の牧師Aさん、今の牧師Bさんがいます。そういう人たちから「身勝手な自己中心的な振る舞い」メッセージやストロークを受けたときに、「そんな身勝手なことをするな!」という心の叫びがわいてきます。だから、だれかの心の叫びを見極めるのはそんなに難しいことではありません。共通してその人が発しているメッセージを見つけるということが大事です。

 コア世界観から心の叫びが出て来るということです。コア世界観は見えません。しかし、心の叫びはわかります。ですから、「心の叫びがこうなんだ」と分かれば、コア世界観もおのずとわかってくるということです。エリヤハウスでは「根っこをたどる」というテーマで学びました。ですから、私たちのやっていることは発掘調査に似ています。あれも出てきた、これも出て来た。それを分類し、「何が本体なのだろうか?何がこの人にこのような心の叫びをさせているのだろう?」ということを探検していくということです。そして、ゴールは「神さまはこの人にどのような計画を持っているのか?このような負の遺産を神さまはどのような宝物にしようと考えておられるのか?」ということです。過去の出来事を探りますが、それと同時に、神さまはどうして、このような辛い目に会せることを許したのだろうか?神さまは癒しと同時に、どのような逆転勝利を考えておられるのだろうか?このことが、ミニストリーのゴールなのです。この世の心療内科やカウンセリングは社会復帰がゴールです。だけど私たちは「せっかく世界が壊れるような経験をしたのだから、今度は神さまが持っておられるご計画を知って、それに向かって生きるべきではないか?」というところまで行きたいのです。怪我の功名?転んでもただでは起きない、ということでしょうか?

2.心の叫びを明確化する

人の心の叫びを明確にすることはそんなに難しくありません。李光雨師は、私たちが置かれた特定の状況をステージとか舞台と呼んでいます。怨念晴らしをする敵役がいて、怨念晴らしを受ける私がいます。敵役を助ける脇役もいるかもしれません。私はあるステージに引っ張り込まれました。そこには私の世界を壊してくれる敵役がいます。敵役はステージで繰り返し、心の叫びを私にぶっつけてきます。さて、舞台が終わりに近づき、スポットライトが当たります。舞台では最後の決め台詞というのがあります。クライマックスの時に出て来る決め台詞です。敵役が私に決め台詞を言った後、幕がバーッと降りて舞台は終わります。私たちの人生において、決め台詞を吐いた後、私たちのもとを去った人はいないでしょうか?あるいは、自分が吐いて立ち去ったという、逆のケースもあるかもしれません。さて、心の叫びとはステージ、つまり舞台のクライマックスで吐く決め台詞です。李光雨師はこのように教えておられます。セルフイメージの人は、セルフイメージの人の叫びのパターンがあります。不安な人は、不安な人の叫びがあります。人に対して悪口を言う人は、基本的には駄目メッセージがあります。人に駄目を出しています。結局は自分自身が駄目メッセージをどこかで受けている可能性があるのです。不安とか怒りは、自分に駄目を出すような理不尽な力を目の前にすると不安になります。あるいはそういう人に対して怒りを現します。そうすると、成育史の中で、大体、親との関係の中で、セフルイメージをゆがめられるエピソードがあるはずです。そこまで分かった上で話を聞くと、相手の世界が分かり易くなります。心の叫びは大体ワンフレーズ「○○○○○」。心の叫びは世界観とパラレル(並行しています)です。全くイコールではありませんが、コア世界観が心の叫びを生み出し、心の叫びがコア世界観を表現しているのです。

 「心の叫びの明確化チャート」というのがあります。その表を見ますと、実際の当事者という人が、A、B、C、Dと4人もいます。これはどういう意味でしょう?彼らは私たちが日常、触れている人たちです。おそらく家族のだれか、会社のだれか、教会のだれか、地域社会のだれかということになります。それぞれ過剰反応が引き出されるメッセージがあります。しかし、それぞれ相手は違っていても、共通した「心の叫び」があります。なぜなら、あなた自身のコア世界観から出ているからです。テキストには「ある姉妹のケース」が記されています。1つのケースとして理解してください。職場で、周りの人たちは仕事を全然やってくれません。自分だけが損な役割をしています。彼女が中学生ぐらいのとき、お母さんが鬱になって、家のことを全部自分がしなければなりませんでした。下に弟が二人いましたが、何もやりません。自分だけがやります。職場では何もやらない上司がいて、「あなたがやって下さいよ」という人たちが周りに一杯いました。同じことを繰り返していました。心の叫びは何でしょう?「私だけにやらせないでよ!」「私にだけ押し付けないでよ!」「私のやっていることを認めてよ!」「私がどれだけ自分を犠牲にしているか分かってよ!」です。そのベースになっているコア世界観は、たぶん、「自分が犠牲を払わないと世界が壊れる」ということです。自分を差し出さないと(貢がないと)世界が壊れるのです。その人に「責任感があって良い子だ」と言うと本人を追い詰めてしまいます。そういう励ましは解決にはなりません。基本的にコア世界観を変えていく作業のゴールは、「あなたが貢がなくても世界は壊れない」ということです。行動原理としては、「自分がしっかりやらないといけない。自分はもう、一生懸命頑張らなければならない」です。どんな状況の中でも頑張らなければいけないという行動原理があります。行くつく先は、抑うつか、脅迫観念です。脅迫観念は世界(秩序)を壊さないために(守るために)、秩序立てます。それを崩されると世界が壊れるのです。たとえば牧師夫人になったりすると、とってもカチ、カチ、カチとやるタイプです。心の叫びの見方は、共通なメッセージを受けたときに、同じ叫びを叫んでいます。それはコア世界観と表裏一体の関係になっています。コア世界観から心の叫びが生まれてくるのです。心の叫びを分かるとコア世界観が見えてきます。

 このところで何度か、「貢(みつぎ、みつぐ)」ということばが出て来ました。これも、李光雨師のうがった表現かもしれません。貢というのは1つの埋め合わせ・解決・対処行動や考えです。本来、悪循環のパターンに対してコア世界観を変える必要があります。ところがこの人は、自分の世界が壊れないように、自分を差し出すのです。謝ったり、仕えたり、贈り物をして、「これ以上、私をいじめないでね!」と言っているのです。埋め合わせ・解決・対処行動はクリスチャンもしています。奉仕や祈り、悔い改め、神さまご自身もその対象になります。一生懸命奉仕をしている、しかし、それが埋め合わせ・解決・対処行動だったら悲しいですね。私たちは本来、恵みによって救われているはずです。自分の世界が壊れないために、一生懸命やるのは辛いです。とにかく、自分と向き合い、「心の叫び」は、どうなんだと正直になることです。私は不当な扱いを受けて育ってきたので、「ちくしょう、何でだよ!」と叫んでいました。しかし、それは「私の言い分を聞いてほしい。私のことを弁護してもらいたい」でありました。ここ数か月で、22年間分のビデオ、DVDをやっと整理しました。チェックの途中、今から10年前のある週の礼拝説教を聞きました。武道館の宣教大会の分科会で「弟子訓練」の話をしてくれという依頼がありました。「よーし、ついに私が…」と思いました。ところが、土曜日の夕方、私の留守中に家内が事務局から電話を取りました。「他の人にやってもらうことになったので、今回は結構です」ということでした。その時、明日のメッセージができていませんでした。悔しさも手伝って悶々となり夜中の2時になってもできません。結論が書けないのです。おそらく、椅子の前にひざまずいて祈ったのだと思います。「何で、俺じゃだめなんだ。決まっていたのにひどいじゃないか!」。ぐっとくやしさを噛み殺しで、しばらくうずくまっていました。突然、「私もそう思うよ」という声が聞こえました。私は「え?」と驚きました。続いて「お前に、話してもらいたかったよ」と言われました。イエス様の声です!私はそこで大泣きしました。その証を「恥ずかしながら」と、礼拝説教の結論で話していました。私はそのことをすっかり忘れていました。家内に聞いたら、「ああ、そんなことあったわねー」と言いました。まさしく、私は不当な扱いを受けて、「何でだよ!ひどいじゃないか」と叫んだのです。でも、イエス様は私の叫びというか、訴えを聞いてくださっていたんですね。

3.コア世界観を定義する

心の叫びが分かったなら、コア世界観を定義することはとても簡単です。たとえば、人が言うことをなかなか聞いてくれないとします。その時、声を荒げて威嚇するかもしれません。それができないと、関係を遮断してひきこもるかもしれません。その人の世界観は「人はコントロールできない」というものです。そして、心の叫びは「私の言うことを聞いてくれ」であります。この人は世界をコントロールするために自分を犠牲にして頑張っています。ある牧師は、教会では秩序が大切だと言います。いろんな規則があって、規則を守らない場合は戒規まで決められています。おそらくこの牧師は、「私の心は脆弱で、秩序どおりなっていないと世界が壊れる」であります。こういう人はドンキホーテというお店に入れません。品物が本当に無秩序に並べられているからです。保育士や学校の先生も無理かもしれません。大体、子どもたちは言うことを聞きません。「言うことをいかない子どもがいても、私の世界が壊れない」だったら、良いですね。つまり、人をコントロールしたがる人は、逆にちゃんとコントロールできていないと世界が壊れるというコア世界観を持っているからでしょう。

また、ある人は、子どものときいじめられた経験がありました。大人になっても、目の前に攻撃的な人がいると、対処できなくなります。そして、パニック、不安、恐怖が起きて来ます。会社に行けない、電車に乗れないというふうになります。もし、この人がクリスチャンならば、「神さまが自分を守ってくださる」「神さまがいるから乗り越えられる」と考えたり、祈ったりするかもしれません。しかし、それは埋め合わせ対処行動であり、根本的な解決になっていません。その人の考え、コア世界観を変えなければなりません。そうでないとこの人は、人から祈ってもらったり、励ましてもらわなければ生きていけません。牧師も友人も、励まし手となって資源を供給する人になります。では、心の叫びは「私をそんなにいじめないで」であります。では、この人のコア世界観は何でしょう?「私の心は脆弱で、無力で、自己中心的な振る舞いに対抗できない」であります。

私が李先生のケースを聞いていて、一番、多かったコア世界観はこれです。「自己中心的な、身勝手な振る舞いによって私の世界が壊れる」であります。しかも、この人は「自分の心は弱い、脆弱だ」と思っています。生育史の中で、父親もしくは母親か、親しい人から理不尽な扱いをうけました。そのときの理不尽な言葉や行為によって自分のバリヤーが壊れてしまったのです。そのとき怒りや無力感、悲しみを覚えたかもしれません。その人がやがて大きくなって大人になりました。周りの人たちがみんな親切で思いやりがあるかというとそうでもありません。やっぱり、自己中心的で身勝手な人がいるものです。どういうわけか、会社や教会に一人や二人いるものです。その人がここはいやだと思って、別の会社、別の教会に移ってもやっぱり、自分をいじめてくれる人がいます。そのとき、環境のせいにしないで、「もしかしたら私の世界観が問題なのかな?」「私の考え方がゆがんでいるのかな?」と気づくことができたら幸いです。そうしないとその人はいつも、心の中で怒っていたり、あるいはどうしたらこういう人から避けられるか気をもむことになるでしょう。もう、フラストレーションのかたまりになります。そうではなく、「ああ、子どものときと同じ、ステージになっているんだ」と気づくべきです。ただ、相手役が違っただけなのです。でも、共通したテーマがあるはずです。「私の心は脆弱で、身勝手な振る舞いをする人によって世界が壊れる」であります。

では、この人の癒しと解放は何なのでしょうか?別なコア世界観に取り替えれば良いのです。「私の心は強いので、たとい身勝手な振る舞いをする人がいても壊れない」であります。また、ある人はセフルイメージに問題があります。その人のコア世界観は「人から評価されないと私の世界は壊れる」でありました。その人は、自分を修練してもっとうまくやろうと努力していました。でも、落ち込みや、よく鬱、無力感に悩まされていました。健全なコア世界観とは何なのでしょうか?「私には価値があるので、人から評価されなくても私の世界は壊れない」です。この人は、「あなたは神の作品である。あなたは私の目で高価で尊いよ」と言われた神さまの愛と出会った人です。でも、多くのクリスチャンは、神さまの愛に出会ったつもりで生きています。頭では「私は愛される価値がある」と思っていても、コア世界観が変わっていないので、愛される価値の人になろうと必死に頑張っています。今のままでは、愛される価値がないんだと考えているのです。イエス・キリストはあなたが価値があるので、身代わりに十字架で死なれたのです。あるクリスチャンは愛を得るために、もっとがんばらなければならないと思っています。私たちのバリヤーは自分の業績や立場ではありません。神さまの絶対的で無条件の愛こそが、私たちのバリヤーです。主は私たちの心の叫びを聞いてくださいます。詩篇18:6「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」