2015.10.4「父の心 ルカ15:28-32」

 Ⅰヨハネ2章によると、教会には3種類の人がいると記されています。小さい者たち、若者たち、そして父たちです。小さい者たちとは、イエス様を信じたばかりの人です。彼らは自分の罪が赦されていることを必要があります。若者たちはみことばにとどまり誘惑に打ち勝つ必要があります。父たちとはどういう人たちでしょうか?父たちとは、はじめからおられる方を知った人たちです。はじめからおられる方とは、もちろん神さまのことであります。彼らは神さまの計画と神さまご自身の愛を体験的に知っている人たちです。教会で長い間、信仰生活を送っていても、神さまの心、父の心を持っていない人がいます。聖書には「成熟を目指しなさい」と書いてありますが、それは父なる神様のような愛を持った人ではないかと思います。

1.兄と父

 

ルカ15:28-32「すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

第一の質問です。「帰ってきた息子を迎え入れた父に対して、兄はどのような態度を取っているでしょうか?」「兄は、あまりにも寛容な父に対して腹を立てています。」彼は、とても偏狭な人です。弟が遊女におぼれたのかどうかは分かりません。ところが、彼は、「きっとそうだったんだ」と断定しています。そんな弟を家に迎える必要はないと考えました。

第二の質問です。「兄は豊かな父のもとでどのように生活していたのでしょう?」「とてもまじめでしたが、喜びのない窮屈な生活をしていたようです。」彼は放蕩して帰ってきた弟に、肥えた子牛を与え、自分には子山羊一匹下さったことがないと言っています。「子山羊くらい食えよ!」と言いたくなりますが、兄は当時のパリサイ人や律法学者を象徴しています。彼らは神さまに真面目に仕えていましたが、喜びからではなく、奴隷根性で仕えていたのです。「神さまは何もくれない、ひどいケチな方だ」と思っていたのかもしれません。

第三の質問。「父は死んでいた息子が生き返って来たことをどのくらい喜んでいるでしょうか?」「父は大宴会を催して、みんなで喜んで楽しみました」。では、父は何も考えない、ノー天気の人だったのでしょうか?そうではありません。父は息子が「死んでいた」とはっきり認めていました。

第四の質問。「放蕩息子に対する、父の心とはどういうものでしょうか?」「罪や失敗をとがめない慈愛に満ちた心の持ち主です。」神さまは無条件の愛を持っておられます。これが父なる神様であり、私たちが持つべき心です。

 この物語で、兄とは当時のパリサイ人や律法学者です。彼らは取税人や罪人たちが主に立ちかえるのを見ても、ちっとも喜びませんでした。むしろ、「自分たちはこれだけ真面目に神さまに仕えているのに何もくれない」という妬みさえありました。父の心とは無条件の愛であり、あわれみの心です。兄には父の心がなく、その代わり、ライバル心や利己心に満ちていました。もし、あなたが後輩の成功を喜ばないで、妬んでいたなら、兄と同じです。父の心を持った人は、後輩が自分を乗り越えて行くことを我が子のように喜ぶはずです。なぜなら、後輩の成功は、自分の成功だからです。先輩クリスチャンはもしかしたら、妬みがあるかもしれません。後輩の成功を妬み、後輩の失敗をあげつらうなら、この世と変わりありません。クリスチャンは父の心が必要です。父の心とは、無条件の愛であり、あわれみの心です。このような父の心を持った人がいるなら、教会はぎくしゃくしないで仲良くできるでしょう。

2.母のように、父のように

 

Ⅰテサロニケ2:7-8「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」Ⅰテサロニケ2:11-12「また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。」

第一の質問。「パウロは使徒としての権威を主張する代わりに、彼らにどのようにふるまったのでしょうか?」「パウロは、母がその子どもたちを養い育てるように優しくふるまいました。」救われたばかりの人を養育するときは、母のような心がとても重要です。ある程度、大きくなったなら、父のように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じることが必要となるでしょう。父が慰めを与えるというのは意外でしょうか?日本の家庭では父親が子どもの養育にタッチしない傾向があります。ですから、自分が父親になったとき、どうすれば良いのか分かりません。これは霊的なことにもいえます。自分がだれかから育ててもらったことがなければ、後輩のクリスチャンを育てることが難しいでしょう。

第二の質問。「パウロはテサロニケの人たちをどのくらい愛したでしょうか?」「パウロは自分自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思いました。」私たちは口先ではどうにも言えますが、実際の行ないではどうでしょうか?普通だったら福音を伝えて、その人が信じたら大丈夫なはずです。でも、人間の赤ちゃんも「おぎゃー」と生まれたら、喜んでばかりもいられません。24時間、いろいろ世話をしなければなりません。食べ物ばかりではなく、排せつ、お風呂、健康管理があります。ハイハイから立ち上がるのもうれしいですが、良く見ていなければなりません。ことばをかけたり、いろいろ教えたり、しつけをしたりで、心も体力も必要です。これが、いのちを与えるということです。霊的なこともこれと同じだということです。

第三の質問。「一般的に言って、女性が母になったり、男性が父になるのはどんな理由からでしょうか?」「子どもが生まれたら、あるいは与えられたら初めて、その人は母になり、父になります。」つまり、長年、信仰生活を送っていれば霊的な母になり、父になるというわけではないということです。霊的な子どもが生まれて、はじめて霊的な母になり、父になるということです。そのためにはだれかを救いに導くか、救いにタッチする必要があるということです。子どもを育てると苦労がわかります。そして、自分自身も成長させられます。

第四の質問。「教会における父の役割とはどのようなものでしょうか?」「霊的な子どもたちを父の心で愛して、彼らを育てる」ということです。この場合、父の中には、母も含まれています。 教会には父が必要です。また、世の人たちも本当の父を探しています。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。神さまは天の父と呼ばれていますが、神さまのご人格には、父性と母性の両方が含まれています。使徒パウロは霊的に生まれたばかりの人たちを、母のように優しく養育しました。また、ある程度、成長すると、父の心をもって彼らを訓練しました。当時は今のような学校はなく、子どもを教えるのは父親かラビでした。彼らが人生のあらゆることを教え、また訓練したのです。教会においても、霊的な子どもを守り、育成する母の心が必要です。そして、子どもが神さまの栄光を現すことができるように、訓練し、整えていく父の心も必要です。日本は学校に任せっぱなしのところがあります。知識の面では学校は良いかもしれません。しかし、信仰や人格形成は私たちに責任があります。教会において、だれかがイエス様を信じて救われたならば、みんなで喜びたいと思います。でも、それで終わってはいけません。その人が信仰的に、霊的に成長するように助けて行く必要があります。ぜひ、母のように、父のようになってこの重荷を担っていきましょう。私は25歳のときにイエス様を信じて洗礼を受けました。私を増田さんご夫妻が救われる前から、計3年間お世話してくれました。霊的な成長のためには、牧師や副牧師にお世話になりました。神学校も良かったですが、やはり顔と顔を合わせた養育や訓練が身についたように思います。人間も同じで、幼稚園や学校ばかりにまかせてはいけません。個人的なふれあいとか、温かい会話が必要です。

3.とりなしの祈り

 

出エジプト32:31-32「そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。『ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。』」出エジプト34:8-9「モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、お願いした。『ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。』」

 第一の質問です。「モーセは金の子牛を礼拝した民のためにどのような祈りをささげているでしょうか?」「もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」と祈っています。

第二の質問。「書物から、私の名を消し去ってください」とはどういう意味でしょうか?」「神から離されて、永遠の滅びに行ってもかまわない」ということです。モーセは罪を犯したイスラエルが滅ぼされないように、破れ口に立って祈りました。こういうことは人間的には決してできないことです。なぜなら、自分は悪くないのに、悪い人のために身代わりになるからです。使徒パウロもユダヤ人のためにこのようにとりなしています。ローマ9:3「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」使徒パウロはローマ8章で「どんな被造物も、主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことができない」と言っています。ところが、ローマ9章では「キリストから引き離されても」と祈っています。一見、矛盾しているように思われますが、これこそが霊的父が持つべき愛の姿です。

第三の質問。「モーセから学ぶ、リーダーが負うべき役割とは何でしょう?」「自分を犠牲にしてでも、群れを守ること。とりなしの心」です。何度も言いますが、これは生まれつき人間が持っているものではありません。私たちの肉は、自己保身、自己義認、自己絶対に満ちています。人のために犠牲になって死ぬということはありません。でも、一体、何がそうさせるのでしょうか?私は主の贖いの体験から来るのではないかと思います。モーセは出エジプト記やレビ記に動物による贖いということを詳しく書いています。また、使徒パウロも神からの啓示によって、キリストの贖いがどういうものかをローマ書に書いています。彼らは主の贖いを体験し、主の命に生かされていたのでそういうことができたのではないかと思います。

第四の質問。「イエス様は十字架でどのような祈りをささげたでしょうか?」イエス様は十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。まさしく、自らを犠牲にして、全人類をとりなす大祭司の祈りであります。イエス様は時代を越えて、私たちのためにもとりなしてくださったのです。本来、私たちが裁かれて、滅ぼされるのが当然でした。しかし、イエス様が命を投げ出し、私たちの代わりに裁かれたので、私たちのところに救いがやってきたのです。何と言う恵みでしょうか。「私がイエス様を信じてやったんだ」という思いは決して出て来ません。私たちはあわれみのゆえに救われたのです。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。モーセはどれくらい、主の前に出て、罪を犯し続けるイスラエルのためにとりなしたのでしょうか?「書物から、私の名を消し去ってください」とは、ヨハネ黙示録にある「いのちの書」です。つまり、自分が滅びても良いから、そのかわりイスラエルの民を救ってくださいということです。私たちは自己保身という本能を持っていますので、肉では決してできることではありません。本当の指導者とは、自分を投げ出してでも、群を守るという献身と愛が必要です。でも、この献身と愛は自分から生まれるのではなく、十字架で私たちのためにとりなしてくださった、イエス様から来るものではないでしょうか?

4.テモテに対するパウロ

 

Ⅱテモテ1:3-6「私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」

第一の質問です。「パウロは、霊的な子どもであるテモテをどれくらい愛しているでしょうか?」パウロは「私は、夜昼、祈りの中で絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝している」と言っています。一か月に一度でもありません。一週間に一度でもありません。なんと、夜昼、祈りの中で絶えず思い起しているということです。少なくとも1日2回ですが、そういう意味ではないと思います。いつも、絶えず思い起こしているということです。私は父親なので、そういうことが少ないのですが、母親は子どものことをいつも考えているようです。家内は、有悟の学校の宿題とか持ち物とかいろいろチェックしてあげています。高校に入ってから、6時過ぎに起きて弁当まで作っています。今まで、そんな姿は見たことがありませんでした。ちなみにごはんは私が焚いています。忘れたときは「さとうのごはん」のようなパックです。とにかく、母親が子どもを思うように、私たちは霊的な子どものことを絶えず思い起こすべきです。霊的にも、産みっぱなしはないということです。

第二の質問。「パウロのテモテへの確信(信頼)というものはどのようなものでしょうか?」テモテには祖母ロイスと母ユニケとから伝えられてきた純粋な信仰がありました。Ⅱテモテ3:15「幼いころから聖書に親しんで来た」と書いてあります。親が子どもに与えることのできる最も偉大な遺産は信仰であります。教育を受けさせることも良いでしょう。また、お金や土地を残すことも良いかもしれません。しかし、信仰は永遠のものであり、教育やお金や土地よりも勝るものであります。ある親は信仰を持つか、持たないかは子どもの自由だと言います。しかし、「永遠の滅びに行くのも永遠の御国に行くのも子どもの自由だ」と、親だったら言えないはずです。

第三の質問。「パウロがテモテにどのようなことを注意したかったのでしょうか?」Ⅱテモテ1:6-7「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」

第四の質問。「パウロはそのためにテモテにどうしたいと願っているでしょうか?」「按手をもってテモテのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせたい」と願っています。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。パウロは自分が霊的に生んだテモテを本当に愛しています。この世の師弟関係は、「俺の言うことを聞けよ。もし聞かなかったらポイだからな」というところがあります。コントロールしなくても大丈夫な師弟関係があるのでしょうか?おそらく、パウロはバルナバからこの愛を受けたのではないでしょうか?バルナバが自分を面倒見てくれたので、その愛をもって、テモテやテトスなどを育てたのだと思います。神の国の師弟関係には、上下関係はありません。あるのは、主にある同労者という関係です。同労者であるなら、緊張することはありません。師のところへ行っても緊張しないという関係はすばらしいと思います。そういう先生をメンターとして持つことができたら幸いです。みなさんの中に、「この人は私を生んでくれた霊的な親です」という人はいるでしょうか?あるいは、「私を育ててくれた霊的な親です」と言える人はいるでしょうか?にわとりと人間の違いはどうでしょうか?にわとりを育てるときは、時間になると餌をばらまきます。自分で食べなければ死にます。おそらく強いものが生き残るでしょう。でも、意外とにわとりはたくまして生き残ります。神さまがそのように造られたからでしょう。でも、人間はどうでしょうか?授乳から始まり、本当に手間がかかります。食べ物だけ与えれば良いというものではありません。ことばをかけ、いたわり、触れて、いろんな関係を持つことが必要です。また年齢によって必要なものが違ってきます。いつまでも、「可愛い、可愛い」と言うわけにはいきません。独り立ちできるように教育や訓練が必要です。霊的な子育ての場合は、結構、放任主義のところがあると思います。ですから、洗礼を受けてもいつの間にか教会に来なくなります。牧師のいたらなさがあります。自然に生まれ、自然に育つというところがあります。まことに恥ずかしい次第です。でも、牧師だけの責任ではありません。「羊飼いが羊を生むのではなく、羊が羊を生むんだ」ということを聞いたことがあります。もちろん、それはたとえであって、全部を語ってはいません。言いたいのは、牧師だけではなく、霊的な父、霊的な母が必要だということです。だから、ヨハネは「父たち」と言ったのです。たとえ、肉体的な子どもを生んだことのない人であったとしても、神さまは父の心を与えてくださいます。なぜなら、父の心は、キリストの贖いの愛からやってくるからです。キリストの贖いを深く経験すればするほど、父の愛があふれてきます。私たちの愛は限界があります。でも、聖霊によって神の愛が注がれています。この愛をもって、魂の救い、魂の養育に励んでいきたいと思います。