2015.10.18「セル集会を導く Ⅰヨハネ1:3、エペソ2:16-18」

 セルチャーチ・ムーブメントというのが今から20年くらい前に、ラルフ・ネイバーと言う人によって紹介されました。世界ではCCMN、日本ではJCMNという団体があります。メンバーの私が言うもの何ですが、ムーブメントは運動とか流れと言う意味ですから、いつまでも続かないと思います。今ではセルチャーチと言わないで、新約聖書的教会とか、共同体というふうに言い換えています。でも、このムーブメントは「教会の本質は何か?」ということを教えてくれました。教会の本質は建物ではなく、クリスチャンなんだということです。牧師がいることには越したことがありませんが、最低限、イエス様とクリスチャンの関係があれば良いということです。

1.交わり(分かち合い)

Ⅰヨハネ1:3「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」エペソ2:16-18「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」

第一の質問「私たちの交わりは、だれとの交わりが基礎になっていますか?」交わりはギリシャ語でコイノーニアと言いますが、「共有している」「関わる」という動詞から来ています。クリスチャンというのは神さまの愛や神さまの命を共有している関係なんだということです。でも、私たちの交わりの基礎は何でしょうか。それは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。御父と御子イエス・キリストは三位一体の完全な交わりです。本来なら、罪がある被造物がその中に入ることは決してできません。でも、キリストの血によって贖われた者が、御父と御子との交わりの中に加えてもらえるということは何と幸いでしょうか。

第二の質問「私たちの関係を妨げるものは何でしょうか?」私たちは神さまやイエス様と交わっている分には何も問題がありません。神さまの愛を独り占めできるし、神さまの愛の中に安らぐことができるでしょう。しかし、教会は聖徒の交わり、つまりクリスチャン同志の交わりでもあります。私たちが横を向くとどうなるでしょうか?民族、男女、生まれや育ちの違いによって敵意が頭をもたげて来ます。表面的には愛する兄弟姉妹ですが、一皮むくと考えや好みの違いが見えてきます。5メートルくらい離れていたときは分かりません。しかし、会話をしたり、一緒に活動すると、いろんなものが見えてきます。お互いの心の傷があばかれて、衝突し、汚したり汚されたりする危険性があります。データーを取ったわけではありませんが、気兼ねなく親しく交われる人というのは、5人に1人くらいではないでしょうか?他の人たちは神さまの愛と恵みなしでは交わることができないということです。

第三の質問。「神さまの解決は何ですか?」エペソ人への手紙2章にその解決が記されています。「両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させた。敵意はキリストの十字架によって葬り去られた」と書かれています。ここで言われている両者とはユダヤ人と異邦人です。初代教会において律法を重んじるユダヤ人と合理的な異邦人の衝突がありました。今で言うならば、伝統やきまりを重んじるクリスチャンと自由でフランクなクリスチャンであります。さらに私たちの中には傷や偏見があり、ある人は好むけれど、ある人は好まないという軋轢があります。アダムが罪を犯してから、神さまとの関係が壊れ、そして人との関係も壊れてしまいました。しかし、イエス様が十字架によって敵意の壁を壊してくださったことを発見しなければなりません。

第四の質問。「セルグループの交わりにおいて、もっと分かち合うことは何でしょう?」かつて当教会ではいわゆるセルグループが10個くらいありました。しかし、現在残っているのは1,2個です。その代り、ゴスペルとかフラ、賛美チーム、CS、勉強会、お花、受付など、活動のグループとして現存しています。たとえ奉仕活動が目的であっても、必ずそこには交わりが存在します。あるときは、みことばを分かち合ったり、自分の悩みを分かち合ったりすることがあるでしょう?最低限、祈りではじまり、祈りで終わっているのではないでしょうか?名目はともかく、様々な小グループは存在しているということです。実務的な話し合いは簡単にできます。ある場合は聖書の知識や自分の考えを分かち合うこともできるでしょう。しかし、もっと必要なのは心の中にあるものです。真の交わりは、動機、心の傷、心構えを分かち合うということです。そうすると、より親密になり、互いに建て上げ合うことができるようになります。

まとめの部分をお読みいたします。どんな呼び方でも構いませんが、一番重要なことは親しく交わることによって建て上げ合うことです。偽物の共同体は開かれた関係ではありません。なぜなら、お互いの前に防御壁(拒絶の壁)が築かれているからです。私たちは自分をオープンにすることを恐れています。そうすると、聖霊が私たちの間を自由に動くことができません。私たちは線よりも上にあるもの(行動、思考、感情)しか話し合いません。笑ったり、涙するときがあっても、水面下に何かが隠されています。それらは私たちの人生を動かしているものです。隠されている3つのもの(動機、心の傷、心構え)が変わらなければ、私たちの人生も変わりません。セミナーやキャンプに行ったとしても、クリスチャンの変化は一時的です。永続的な変化を期待したいなら、私たち自身を開くべきです。

2.集会の目的と方向性

 Ⅰテサロニケ5:11「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。コロサイ3:16「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」当教会では、このような礼拝による集会が行われています。こういう場合は、説教者が一方的にお話しをして、みなさんは聞くというスタイルになっています。聖書ではこのような公の集会の他に、もっと小さな集会があったようです。「互いに」という表現が度々出て来ますが、50人だと無理でしょう?おそらく、2人以上、10人未満ではないかと思います。イエス様は12人の弟子たちと交わり、時には、その中から3人だけを選んだことがありました。初代教会の人たちは、週一度宮で礼拝を守りましたが、平日は家々で集まりを持っていたようです。これからの質問は、礼拝以外に、小さな集会があると仮定して進めたいと思います。第一の質問。「セルの集会ではどのようなことを行いますか?」とあります。パウロは、テサロニケの教会に「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」と命じています。また、コロサイの教会には「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、いろんな賛美をしなさい」と命じています。そこでは知識だけを分かち合うのではありません。もっと、心の内側を分かち合うべきです。そのことによって、互いに励まし合い、互いに徳を高め合うことができるからです。こういう交わりは女性はできますが、男性はなかなかできません。男性は仕事など実務的な話はできますが、心の中を分かち合うことには慣れていません。裃(かみしも)をなかなか脱ぐことができないのです。その点、女性は問題なく、自分の内側を分かち合うことができます。

 第二の質問です。「どのように分かち合ったら、他の人の徳が高められるのでしょうか?」コロサイ3章にはキリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え」と書いてあります。導入として、食べ物やスポーツのことを話しても良いでしょう。でも、そればかりだとこの世の交わりと何ら変わらなくなります。できれば、神さまから与えられたみことばを体験的に話すと良いです。人に教えるのではなくて、自分が教えられたこと、あるいは自分が恵まれたことを話せば良いのです。私もいくつかの牧師たちの集まりに加わっています。しかし、牧師の癖と言いましょうか、教えたがる人がいっぱいいます。話し始めたら、ワンクール20分間、話さないと止まらない人もいます。私がよく司会をしますが、本当に忍耐が必要です。人の話を途中で止めるのは勇気がいりますが、傍若無人でやっています。

第三の質問。「集会の方向性はどのようになされるべきでしょうか?」勉強会などは、教える人がいっぱい話しても良いでしょう。しかし、その他の集会ではリーダーだけではなく、各メンバーからも発言がなされるべきです。リーダーは話題がそれたり、攻撃するような発言に対して交通整理する必要があります。私はこういう集会のリーダーに向いていないようです。私が話題をそらしたり、攻撃するような発言をする張本人だからです。私自身がセル集会に向いていないとしたら、根本的に問題があります。私は、やはり説教だけしていれば良いのかもしれません。

第四の質問。「集会において、守るべきこととは何でしょうか?」このことはとても大事です。もし、以下のようなきまりがないと、表面的なことしか話さなくなるでしょう。最低限、3つありあります。それは、コントロールしない、さばかない、他言しないということです。教会によっては「牧師に報告しなさい」というところもありますが、私は反対です。あるホームページには「セルチャーチはカルトだ」みたいに書かれていました。それは行き過ぎていますが、セルグループを教会成長のためにやったり、人々をコントロールするために使うのは邪道です。日本では「5人組」という制度がありましたが、互いを見張って密告する恐ろしい関係です。小グループはきわめて安全な場所でなければなりません。ですから、そこの集会で話し合われたことは、他の人には話さないと言うことが重要です。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。セル集会では、説教調ではなく、「私はこのようなことを教えられました」と自分が学んだことを分かち合うべきです。知識よりも、むしろ、自分がやってみてどうだったか、適用面を分かち合うとグループに力を与えます。集会の方向性は、だれかが一人答えるというよりも、お互いに答え合う方が、みんなが参加できます。しかし、中にはほとんど話さない無口な人もいますので、リーダーは答えやすい質問を投げかける必要があります。集会において守るべきことは、その場にいない人のことを批判したり、噂話をしないということです。日本人は批判されることが多いので、セル集会では小さなことでも励ましながら、お互いを建て上げることが重要です。

3.リーダーの心得

 ピリピ2:2-3「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」ヤコブ1:19「しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」。自分はリーダーでないと思う人も是非、聞いてください。なぜなら、私たちは家庭やどこかの場所で何等かのリーダーであることは間違いありません。以下のことは、PTAやサークルのリーダーにも適用可能です。

第一の質問。「リーダーとして、どういう態度が良くないでしょうか?」ピリピ2章には「何事でも自己中心や虚栄からすることなく」と書かれています。この世においては、自己中心や虚栄心が当たり前になっています。しかし、私たちは「自己中心や虚栄」からではなく、動機がきよめられている必要があります。

第二の質問。「リーダーとして、大切な心構えとは何でしょう?」「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」ということです。「へりくだり」、ことばでは5つですが、これが簡単ではありません。立場とか権威を持つとなおさらです。イエス様は最も、自らを誇ることができたお方ですが、天から降りて、私たちのしもべになってくださいました。

第三の質問。「自分が語ることよりも、もっと重要なことは何ですか?」それは「聞くこと」です。聞くということがいかに難しいことでしょうか?ある人は耳が2つで、口は1つであると言いました。テレビで何かの討論会を見るときがありますが、相手の発言を全く聞いていません。ただ、こちらの考えをぶちまけるだけであります。何か、聞く側にまわるのが、負けみたいな感じがするのでしょうか?コミュニケーションの最も重要なことは、聞くということです。あるリーダーは話したくて仕方がないかもしれません。そういう人は、こういう集会のリーダーにならないで、教師か説教者になってください。こういう集会のリーダーで最も大切な資質は、人の話を聞くということです。もし、夫婦の間で、親子の間で、相手の言うことに耳を傾けるなら多くの問題が解決することでしょう。もしかしたら、相手の言うことを聞くということは、相手を愛するという具体的な現れかもしれません。でも、同じ話を3回聞けるでしょうか?まとまりのない話を20分聞けるでしょうか?でも、愛とは聞くことです。なんてパワフルでしょうか!

第四の質問。「問題を起す人や、極端に傷を負っている人にはどう対処したら良いでしょう?」これは実際に良くある事です。これで、集会がつぶれてしまうこともあります。何か怒りを持っていて、だれかにぶちまけなければ気が済まない人がいます。以前、似たような人から傷つけられた人がその集会にいたらどうでしょうか?顔も話し方もそっくりです。そうすると、怨念晴らしをするかもしれせん。李光雨師が「怨念晴らし」ということを教えてくださいました。「教会が怨念晴らしのステージになることがあるんだ」ということを知っているのと、知らないのとでは大きな違いがあります。たとえ言っていることが正義であっても、怨念晴らしをしている場合があります。そういう場合、リーダーはその人を一時的にセル集会から離す必要があります。もし、可能ならば、リーダーはその人の傷が癒されるまで個人的に交わったら良いでしょう。聖書にバルナバという人物が出て来ます。以前のパウロは教会を迫害する危険な人物でした。回心後、弟子たちのところに行きましたが、だれも彼を信じませんでした。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行って、それまでのことを説明してあげました。そういうバルナバのような人物が必要なのです。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。リーダーは率先して、心を開き、自分の弱さや問題を分かちあうべきです。そうすると、他の人も安心して自分の内側のことを話すことができるでしょう。その場におられる聖霊さまが、解決を持っておられることを期待しましょう。リーダーは、会話を作為的にコントロールすべきではありませんが、グループを守ることもしなければなりません。会話を独占する人や他の人を傷つけるような発言をする人には対処しなければなりません。極端に傷を負っている人は、サポートグループなどに入れて、特別なケアーをする必要があるでしょう。リーダー自身が関係のモデルであり、また常に学び続ける姿勢が必要です。

4.互いの関係

 私は25歳のとき教会に来て、イエス様を信じて洗礼を受けました。最初は私を導いてくれた先輩とずっと一緒に来ていました。やがて青年会というところに所属しました。当時の教会は、年齢別にいろんな会があり、独身だったので自動的に青年会に加わりました。当時の私は信仰に燃えていましたが、そうでない人がたくさんいて驚きました。その後、私は亀有教会で牧師になり、「うすっぺらい関係ではなく、もっと真実な交わりができるはずだ」と考えました。1996年からすべての家庭集会や部会をやめて、全部セルグループに切り替えました。最初は機能しているように思えましたが、いわゆる「セルのいのち」というものは続きませんでした。セルというのは、生物の細胞という意味で1年もすれば倍に増殖するはずだと思っていましたが、そうではありませんでした。そのために心の癒しや解放、エリヤハウスも学びました。結論的に言って、ラルフ・ネイバーが言うセルチャーチは難しかったなーと思います。私自身が理想の関係を求めながらも、傷や恐れがありました。当教会の人たちも、心を割っていろんなことを話せるグループを求めていると思います。でも、日本の文化もあるかもしれませんが、聖書が求める兄弟姉妹の関係まで至らないところがあります。そうするときょうのメッセージは絵に描いた餅のようになります。では、どのようにしたら良いのでしょうか?いきなり理想の関係を求めるのではなく、主にある数人の友を得るところから始めたらどうでしょうか?しかし、その関係は閉鎖的ではなく、オープンで広がりのあるものが良いと思います。また、お互いの関係も、挨拶程度から心の傷を分かち合えるまで、いろんなレベルがあって良いのではないでしょうか?浅い順の1から5段階あるとしたら、せめて3から4段階の人を数人見つけたら良いと思います。心の深いところまで全部分かち合える人というのはそんなにいないと思います。聖書は「小グループを持て」とか、「小グループに所属しなさい」とは書いていません。書いてあるのは「互いに励まし」「互いに祈り」「互いに助け」「互いに愛し」「互いに赦し」「互いに教え」「互いに戒め」という「互いに」がほとんどです。「互いに」と言う意味は、共依存ではなく、相互依存の健全な関係です。つまり、コントロールしないで相手の意志を重んじながら持つ交わりです。たまに信仰年数の多い人が、来たばかりの人に何か要求する場合があると思いますが、それはよくありません。こっちは軽い気持ちで言っているのに、相手は重くうけとめてしまうからです。

 ある牧師が「ほっとする教会でありたい」と言っていました。その先生もいろんなことを試してきて「先生、また新しいことするんですか」と度々言われたそうです。結局、その牧師は、信徒の立場を考えて、「ほっとする教会で良いじゃないか!」と決意したそうです。私はそれを聞いて、妥協をしているように思えました。でも、あとから「互いの関係というのは、今日明日にできるものじゃない。根底に安心感とか信頼感が必要なんだなー」と思いました。雅歌書にこのようなことばがあります。雅歌8:4「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」私たちの関係も、外側から強いられてできるわけではありません。まず、自分が神さまからの愛に満たされ、そして、神さまの愛によって動かされるということが必要だと思います。このシリーズは「霊的な親」という最終的な学びです。では、霊的な親とは、どういう存在でしょうか?やはり、自分が神さまからの愛をいただいて、機会があったらその愛を隣人に分かち合う存在ではないかと思います。小グループはそのことを体験できるとても良い場であると信じます。