2015.10.25「能力付与 Ⅱテモテ2:2」

 連合艦隊司令長官の山本五十六の名言を紹介いたします。「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」彼こそが能力付与を率先して行った模範的な人物であります。「能力付与」は英語で、empoweringと言いますが、ぴったりな訳とは言えないかもしれません。最近はこのようなビジネス用語が増えて困ったものです。分かりやすい言葉で言うなら「その人が自分でできるように育てる」ということだと思います。

1.能力付与とは?

 エペソ4:11,12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり…」Ⅱテモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」

第一の質問です。「教会に牧師(リーダー)が与えられているのは何のためですか?」はい、それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。「整える」の元の意味は、「装備する、適任ならしめる」ということです。

第二の質問。「だれが、奉仕の働きをする主役なのでしょう?」はい、聖徒たちです。聖徒とはすべてのクリスチャンです。たとえて言うなら、ピッチでプレーするサッカーの選手たちです。多くの場合、プレーをするのが牧師や少数の献身者です。そして聖徒たちは応援席で「がんばれよ!献金しているんだから」とポップコーンを食べています。しかし、それは逆であり、みなさんが第一線でゲームをするプレイヤーであり主役なのです。「あんたが主役!」

第三の質問。「そのために、牧師(リーダー)は何をするべきなのでしょう?」聖徒たちを「整える」あるいは「建て上げる」ということです。

第四の質問。「使徒パウロは、テモテに何をしなさいと命じていますか?」「私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」と命じています。この第二テモテ2:2は、ナビゲーターという学生伝道の団体では、重要なテーマになっています。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。能力付与はエンパワリング(empowering)とも呼ばれています。その人を育てて、だんだん働きを任せていくということです。コーチングと言い換えても良いかもしれません。教会の基本概念は、万人祭司です。だれもが、主に仕えているなら、効果的な働きをなす教会になります。牧師やリーダーたちがプロであればあるほど、教会員たちは「自分にはできない」と思って、働きに参加しなくなります。牧師やリーダーがメンバーのために何でもしてあげることが忠実で理想的なリーダーではありません。良いリーダーとは、自分ですべてのことをせず、育てながら、1つ1つメンバーに任せていく人です。

私は聖書から、あるいは自分が学んできたことから、「指導者は聖徒を整えて、彼らに奉仕の働きをさせることです」と言えます。しかし、「あなたはどうなのか?それをしてきたのか?」と問われるなら、穴があったら入りたいくらいです。私が育った教会は一部の献身者にはこのような訓練があったかもしれません。しかし、いわゆる一般信徒には「礼拝や祈祷会を守って、自分があった奉仕をすれば良いですよ」という感じでした。私はそれに反発して、この教会で弟子訓練とか、セル、コーチングを導入して「聖徒を整えるんだ」とやってきました。しかし、実際はどうかというと、100点満点の45点くらいかもしれません。でも、聖書では聖徒訓練が大切であると言っています。ですから、このテーマを避けて通ることはできません。私は失敗、挫折、無気力…いろんなところを通りましたが、今、「能力付与とはこういうことではないか」とはっきり言えることがあります。人には自分が召された得意分野というものがあり、それをだれかに伝授していくという傾向があるということです。たとえば教会には、五職と呼ばれる指導者がいます。使徒は使徒的な人を育てたいし、預言者は預言者を、伝道者は伝道者を、牧師は牧師を、教師は教師を育てたいと思うということです。つまり、自分と同じような賜物がある人に、自分がもっている知識や技術を教えたいということです。たとえばピアノの奏楽の人は、同じようなピアノの奏楽者を育てたいでしょう。お花の人はお花を、フラの人はフラを、ケーキを作る人はケーキを作りたい人を、歌を歌う人は歌を歌いたい人を教えたいのです。つまり、キリストの教会にはいろんな賜物があるので、一人の指導者では間に合わないということです。もちろん、牧師や教師は聖書の知識や霊的事柄を指導することはできます。しかし、これは奉仕の基本的な事柄であって、細かい所までは及ばないということです。そう考えると、教会の働きというのは多種多様な賜物が集まっているということです。そして、そういう多種多様な働きによって教会が建て上げられていくということです。もし、牧師ができる能力付与があるとしたら、聖書のみことばに土台した信仰生活ができるように励ましたり、教えるということだと思います。その次は、「自分の賜物にあった奉仕があったら、どうぞやってください」と励ますことです。そのように牧師の働きを限定していくなら、100点満点の70点はいくのではないかと思います。アーメン。

2.主イエスに見られる能力付与

ルカ10:1-5「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。」ルカ10:17-20「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』」

第一の質問。「イエス様が12人、あるいは70人を町や村へ遣わした目的は何でしょう?」「ご自分の働きを拡大させるため。また、さらに多くの収穫を得るためです。」最初、イエス様はご自分のお望みになる者たちを呼び寄せました。そして、彼らを身近に置いて、教えたり訓練しました。そして、ある程度たってから、彼らを町や村へ遣わしました。今でいうなら、短期宣教による実地訓練だと思います。彼らはあるところは上手く行ったでしょうが、あるところは上手くいかなかったと思います。フィードバックと改良を重ねると、さらに多くの収穫を得ることができるでしょう。

第二の質問。「彼らは、イエス様にどのようなことを報告したでしょうか?」「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」彼らの短期宣教はうまくいったようです。「イエス様の御名がこんなにも力があるのか」と驚いたことでしょう。

 第三の質問。「どうして、彼らが悪霊を追い出しても害を受けないで帰ってくることができたのでしょう?」「そうです。イエス様が蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けていたからです。」スター・ウォーズという映画では、「フォースが共にあるように」と言っています。フォースは「自然界が持つ力」という意味ですから、少し、ニューエィジ的であります。正しくは、神としての権威を持っておられるイエス様が、私たちにその権威を授けてくださるということです。イエス様は「行け!」と命令だけを与える方ではありません。必要な権威や力を一緒に与えてくださいます。40-50年くらい前、インドネシヤやタイに日本から宣教師が行きました。彼らは日本の神学校で「現代は、悪霊はいない。病の癒しや奇跡も起こらない」と教えられたそうです。ところが、現地では祈祷師や魔術師と戦いがあります。キリスト教の僧侶は悪霊を追い出すこともできないのか?」と言われます。だから、半分くらいの人たちは「こんなところじゃ命がいくつあっても足りない」と帰って来たそうです。タイの森本宣教師がおそるおそる「イエスの御名によって、出て行け!」と命じました。すると、その人がばったり倒れ、その後、解放されたそうです。それから自信がついたということです。

第四の質問。「有頂天な弟子たちに対して、イエス様は何とおっしゃいましたか?」「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました。このところだけ読むと、的外れのような感じがします。なぜ、イエス様は弟子たちに「よくやったなー」とほめないで、「ただ、天に名が書き記されていることを喜べ」とおっしゃったのでしょうか?ビギナーズラックという「初心者が持っている幸運」ということばがあります。釣りとか賭け事にあるようです。弟子たちがもし、「悪霊なんかこわくない、何でもできる」と思ったらどうでしょうか?だれしもあることですが、自分の存在よりも、何かできることに重点を置いたらどうでしょうか?パフォーマンス指向になり、何か大きなこと、何か不思議なことが起こらないと満足しなくなるでしょう。そのためいつの間にか、鬱になったり、燃え尽きることがあります。旧約聖書のエリヤがそうでした。何かできるということよりも、「主にあって自分がどういう存在なのか」というところが自分の立ち位置でなければなりません。「天に名が書き記されている」という意味は、「イエス様を信じただけで救われたんだ。自分の行ないではない、恵みんだ」ということです。ミニストリーや奉仕はすばらしいですが、それらはこの地上だけのことです。しかし、天に名が書き記されているという救いは永遠に続くものだからです。これを知っていれば、「行ないの罠」にひっかかることはありません。

 テキストのまとめの部分をお読みしたします。イエス様は最初、「私について来なさい」と弟子たちを召しました。その後、12弟子を選びました。「それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(マルコ3:14,15)。イエス様はご自分の行く所へ、弟子たちを伴い、「教え、福音宣教、癒し」の働きを見せました。その後、二人一組にして短期間の宣教旅行に遣わしました(マルコ6:7-12)。五千人の給食では、弟子たちが群衆に食べ物を与えることを期待していました。それができないので、イエス様ご自身が5つのパンと2匹の魚を祝福し、それを弟子たちに与え、弟子たちが群衆に配りました。イエス様は他に70人の弟子たちも訓練しました。やがて昇天した後、彼らにご自分の働きを任せ、継続拡大させるためです(マタイ28:16-20)。イエス様ははじめから、ご自分の働きを任せるために弟子たちを召して、訓練していたということは驚くべきことであります。

3.バルナバに見る能力付与

 使徒11:22-26「この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

第一の質問。「バルナバは救われたばかりの人たちを見て、どのように対応したでしょうか?」「神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているように」と励ました。普通の人はやきもちとか嫉妬をいだくものですが、バルナバは素直に主の恵みを見て喜べる人でありました。エルサレム教会がバルナバを遣わしたのは、当たっていました。

 第二の質問。「バルナバはどのようなリーダーでしょうか?「りっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった」と記されています。でも、バルナバは当初は信徒リーダーでありましたが、あとで使徒と呼ばれています。彼は、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているように励ましました。そうすると大勢の人が主に導かれました。

第三の質問。「バルナバは、教会に対して必要を覚え、何をしたでしょうか?」彼らを励まし、教えました。ところが、人数が多くなり自分一人では指導できなくなりました。また、信仰に関して体系的に教える教師も必要だと考えたでしょう。そこで、サウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来ました。サウロは10年も生まれ故郷のタルソでくすぶっていました。そのままサウロを埋もらせてしまったら、教会の大損失になります。バルナバはサウロを連れて来て、まさしく能力付与をしたのであります。その後、サウロはパウロになり、新約聖書の13の手紙を書く大使徒になりました。

第四の質問。「バルナバとサウロが1年間、指導したのち、教会はどのようになりましたか?」「アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになりました。」それまでは、「道の者」と呼ばれていましたが、アンテオケではじめて「クリスチャン」と呼ばれるようになったのです。それは、「キリスト党」という結社みたいな意味ですが、あんまり熱心なので、世の人たちがそのように呼んだのでしょう。しかし、教会は「それでも、結構とばかり」、その呼び方を受け入れたのでしょう。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。エルサレム教会がサウロを受け入れるのをためらっていたとき、バルナバがサウロを弁護して、彼らの恐れを取り除きました(使徒9:27)。バルナバはサウロ、またの名をパウロを世に出した育ての親とも言えます。なぜなら、タルソに戻っていたパウロをリクルートし、第一線に復帰させたからです。その後、パウロはアンテオケ教会から派遣され、小アジヤからギリシヤやローマまで宣教した大使徒になりました。バルナバはある時から、パウロが主導権を取るようになっても、嫉妬しませんでした。「バルナバする」とは、「コーチングする」と言い換えても良いことばです。

4.能力を付与する人

 リーダーは何らかの権威や権力を持っています。もし、それを正しく用いるならば、下の人たちは自分の能力を伸び伸びと発揮することができるでしょう。逆に、リーダーがその権威や権力を自分のためだけに使うなら、下の人は利用されていると感じるでしょう。一番困るのは、リーダーなのに権威や権力を使わないために、下の人が路頭に迷っている状態です。私は土木現場を5つぐらい回ったので、どのような上司がすばらしい上司なのか観察することができました。最初の現場はとても良いところでした。所長はとても楽天的でした。主任は頭の切れる人で、計画を立て、適材適所に人を派遣しました。失敗した時「大丈夫だ、心配するな」と言ってくれました。とてもやりがいのある現場でした。二番目の現場はとても悪いところでした。所長がとてもケチで、社員と下請けを一緒に扱いました。私のことをみんなの前で責めました。その下の主任は所長の言いなりで、自分の権威や権力を用いませんでした。そのため、現場に秩序とか働く喜びがありませんでした。もう一人の主任は、失敗を恐れる神経質人でした。私は「これで良いのだろうか?」と恐る恐る仕事をしていました。

 ベン・ウォン師はこの世には4種類のリーダーがいると教えてくださいました。第一は、権威や権力を放棄する人です。本来はリーダーなのに、リーダーであることを拒む人です。私の父は、父としての役目を果たしませんでした。経済的に家庭をささえないばかりか、酒を飲んで妻や私たちをたたきました。家庭に秩序というものがなくて、子どもたち同志も争いが絶えませんでした。父親は家庭を正しく治めるために、権威や権力があると確信します。第二は、権威や権力をふりかざす暴君のようなリーダーです。「言うことをきかなかったら首にするぞ!」と下の人たちを脅します。まさしく、パワハラであります。第三は、人を操作したり、利用するリーダーです。「一生懸命働けば、給与を上げてやるよ」と言います。何ができるかということで、その人の価値が決まります。第四は、尊敬を勝ち取るリーダーです。つまり、下の者が「あなただったら権威と権力を持って良いですよ。私たちのためにぞんぶんに使ってください」と言ってくれます。

これはイエス様やパウロが使った権威です。パウロはローマに行く前に、エペソの長老たちを集めて最後のことばを与えました。使徒20:19-21「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」パウロは涙を流し、謙遜に仕え、益になることは全部教えました。パウロはいったいどこからそれを学んだのでしょうか?使徒20:35「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」私たちにも、程度の差はあれ、能力を付与すべき人たちがいるのではないでしょうか?それは子どもであるかもしれないし、会社の部下、教会の奉仕、あるいは何らかの後継者かもしれません。ケチで利己的な人は、自分が得た技術や知識を人にあげません。なぜなら、追い越されてしまうからです。この世に名人や達人と言われる人がいますが、奥義だけは残しておくそうです。弟子に追い越されないためです。私たちは自分で得たものは1つもありません。みんな神さまからいただいたものです。もし、自分が得た技術や知識によって人々が生きるなら何と幸いでしょうか。イエス様は「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われました。もし、私たちが権威や権力がいくらかでもあるなら、それを人々を生かすために正しく用いたいと思います。