2015.11.1「兵士としての生活 Ⅱテモテ2:3-6」

クリスチャンを兵士にたとえるのは間違っているとおっしゃるかもしれません。もちろん、私は、戦争は反対です。ただし、旧約聖書には戦争のシーンがたくさんあります。また、新約聖書が書かれた時代はローマが支配しており、兵士たちがたくさんいました。でも、考えてみますと信仰生活は悪魔との戦いであり、私たちは主の兵士であります。エペソ6章には身に付けるべき武具についても書かれています。もし、司令官がイエス様であり、私たちは兵士であるということを理解するなら、この世でのどうでも良いことから解放されるのではないでしょうか?そして、霊的な勝利を得るために、シンプルで身軽な生活ができると信じます。

1.兵士としての自覚

Ⅱテモテ2:3-6「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」

 第一の質問です。「兵役についている人(兵士)はどのようなことに煩わされてはいけないのでしょうか?」はい、日常生活のいろいろな事柄です。具体的に言うなら、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、どこに住むかなどさほど重要ではないということです。異邦人は地上のことばかりに気をとられています。やがて来る御国のことには全く関心もなければ備えもありません。彼らは、すでにサタンの虜になっているので、戦う必要もありません。たとえ、美味しいものを食べて飲んで、流行の服をまとい、御殿に住んだとしても、最後が永遠の滅びだったらどうするでしょうか?

第二の質問です。「兵士はだれを喜ばせるために、この世のものをささげてまで生きているのですか?」はい、徴募した者です。私たちは、司令官であるイエス・キリストを喜ばせるためにこの世のものをささげて生きているのです。もし、このことが分かるなら、まとわりつく欲望や罪から解放されます。韓国やアメリカでは徴兵制度があります。私は徴兵制度には反対ですが、彼らはそこでとても重要な訓練を受けるようです。そこでは、自分の思いを捨てて上官の命令に従うこと、任務を遂行することを学びます。もし、教会が「司令官であるイエス様に従うんだ」と言ったら、「あの教会はカルトだ」と言われるかもしれません。神さまや指導者の権威を否定するクリスチャンは「カルトだ。カルトだ」とブログに書いたりします。

第三の質問です。「競技をする人から学ぶことは何ですか?兵士は何をしてはいけないのですか?」規定に従って競技をするということです。パウロの時代はすでにオリンピック競技があったと思われます。彼らは規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることができません。同じように、兵士として召された人たちは、規律を破ったり、命令に違反してはいけません。恵みしか説かないに教会は、規律とか命令というスパイスも必要です。

第四の質問です。「農夫から学ぶことは何ですか?兵士は何を期待して良いのですか?」労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。同じように、兵士も真っ先に勝利の分け前にあずかることができます。今の人たちは、自分が実際にやらないで映画やゲームで疑似体験しています。そうではなく私たちは汗をかき、ある時は怪我や失敗を重ね、実際に勝利するという経験が必要です。2000年前、イエス様と一緒に神の国がこの世に突入してきました。サタンが追い出され、死人がよみがえり、病人が癒されました。それまでサタンの国は平和でした。しかし、サタンも悪霊も目をさまし、本気になって教会をつぶそうとしています。サタンのターゲットはだれでしょう?自分の国を出ていった人たち、つまりクリスチャンです。私たちは「戦いたくない」と断っても、向こうはそのことを許しません。これはゲームの世界ではなく、神の国とサタンの国の戦いなのです。クリスチャンは好むと好まないに関わらず、両国の戦争の中に巻き込まれているのです。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。イエス様は愛する弟子たちを離れる際に命じられました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)。これは主の至上命令です。主の命令ならば、私たちにとって選択の余地はありません。イエス様は福音を伝えるという偉大な命令をくださると同時に、偉大な約束をくださいました。それは世の終わりまで、私たちといつも共にいてくださるということです。主は愛する弟子たちを離れましたが、聖霊を通して私たちと共におられます。私たちが使命を果たそうとすれば、共におられるキリストが力を与えてくださるのです。

2.内面の管理

第一の質問です。「あなたは心を守るために、きちんとした境界線を持っていますか?」箴言4:23「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」境界線とは英語でboundaryと言いまして、元来は、牧畜場の柵とか垣根という意味です。これが、最近、他の人と自分との境界ということで言われるようになりました。カルフォルニアのある公園に80メートル超えるセコイアという木がありました。樹齢400年の巨木が突然倒れました。暴風も火災も洪水も落雷もありませんでした。専門家が調査したところ、動物や虫によるダメージを受けた形跡もありません。しかし調査を続けた専門家たちは、驚くべき結論に達しました。原因はハイカーの通行だったのです。つまり、長年にわたって木の根元を大勢の人が歩いたために根が傷ついてしまったということでした。公園では、古くて大きくて、歴史的にも貴重な木々の回りに囲いを作ったそうです。それをウェイン・コディーロは「聖なる囲い」と呼んでいます。私たちも壊れやすい根を持っています。私たちはこの世に身をさらして生きています。働き過ぎや、責任過多、人との緊張関係があるでしょう。長い年月を通して少しずついのちを縮め、人格をむしばみ、どうあるべきかという核となる部分が壊れてしまうかもしれません。これを守るのが、境界線であります。消極的には活動を制限して休むことであり、積極的にはディボーションなど、いのちの源を確保していくということです。

第二の質問です。「あなたの思いが一新されているでしょうか?」ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」聖書には「心の一新」と書いてありますが、正確には思いや考えの一新ということです。このテーマは他の機会で学びますが、簡単に言いますと、ものごとの捉え方、世界観の問題です。私たちの思いの深いところには、思いの核となるものがあります。これをコア世界観とか、コア信念と呼んでいます。この核が脆弱だったり、ダメージを受けていると、外界の出来事に耐えられません。ひどく落ち込んだり、怒りが爆発したり、パニックになってしまいます。もし、未解決のテーマがあるならば、ある出来事には耐えられません。周りの人や状況を変えようとしますが、それは的外れです。問題は外にあるのではなく、自分の思い(世界観)が歪んでいるのです。歪んだ心のレンズを取り替える、これが「心の一新」ということであります。

第三の質問です。「あなたは、悪い感情(怒り、うつ、無力感)をちゃんと管理できていますか?」丸屋真也先生が「結婚生活の構造」ということを教えてくださいました。三角形のトップにくるのが親密さです。その下に不一致管理、コミュニケーション管理があります。そして、一番下のベースは何かというと「精神的、情緒的健全さ」だそうです。簡単に言うと、情緒が安定しているかということです。これが、一番の基礎となることでした。男性だと何かあったらカッとなってお膳をひっくり返すこと。女性だと何かあったらプィとなって3日も口を利かないことです。あなたは、悪い感情(怒り、うつ、無力感)をちゃんと管理できているでしょうか?私も人のことを言えませんが、「ああ、管理するものなんだ」と改めて気が付きました。でも、これは第二の自分の思いが変えられた人ができる事柄であります。コア世界観が変えられたら、だんだんできてきます。

第四の質問です。「人々や悪魔が悪い考えを、あなたの中に吹き入れた場合、どう対処したら良いのでしょう?」Ⅱコリント10:5「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ…」このところに、「とりこにしてキリストに服従させる」と書いてあります。『思考という名の戦場』という本がありますが、その著者はこのように述べています。「悪魔は巧妙な手口で、私たちの思考に攻撃を挑みます。たとえば、ちょっとガミガミ言いたくなるような状況をあえて作ったりします。他にも、疑惑や疑いを持ったり、恐れや物思いにふけったり、こむずかしい理屈をこねたりするような場面をセッティングするのです。悪魔は周到な巧みな罠により、私たちの思考の中に要塞を築こうと、日夜活動を続けています。」ですから、悪魔が私たちの思いの中に、悪い考えを吹き入れたとき、それを隔離して排除する必要があるのです。それは、まるでパソコンにウィルスが入って来たとき駆除する方法と同じです。

 テキストのまとめの部分をお読みしたします。境界線とは、自分の責任(問題)と他者の責任(問題)を分けることです。私たちは他の人の代わりに決断することはできません。また、神さまが行うことと、自分が行なうべきこととの境界線があるはずです。これを知っていると、思い煩うことなく、心に平安を保つことができます。また、リーダーにとって情緒の安定は欠かすことができません。多くの場合、「怒ってはならない」と自分を抑制します。しかし、未解決な怒りを持っていると、ある日、突然に爆発して大きな被害をもたらすでしょう。感情の前に、出来事をゆがんでとらえる考え(思考)があります。それはどこから来るかと言うと、コア世界観から来ます。世界観とは、ものごとを捉えるめがねのようなものです。コア世界観は多くの場合、幼児期に受けた虐待やトラウマが原因しています。そこが癒されて、新しいコア世界観、つまり新しい思いを持つ必要があります。

3.神さまのものを管理する

ルカ16:10「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」Ⅰコリント4:1-2「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。」私たちには管理すべきものがたくさんありますが、どのようなものでしょうか?テキストには7つあげられています。

第一は、人生のすべての道の管理(箴言3:3-9)です。

第二は、救いの福音の管理(Ⅰコリント4:1-2)です。

第三は、時間の管理(エペソ5:15-17)です。

第四は、体の管理(ローマ12:1、Ⅰコリント6:18-20、Ⅰテサロニケ5:23)です。

第五は、賜物の管理(Ⅰペテロ4:10-11、マタイ25:14-30)です。

第六は、金銭の管理(マタイ6:19-24、ローマ13:7-8、Ⅰテモテ6:9-10)です。

第七は、生活の管理(Ⅱテサロニケ3:10-12)

私たちは神さまからたくさんのものをゆだねられています。ただ今、取り上げただけでも、7つありました。第一の「人生のすべての道の管理」は分かりづらいかもしれません。「すべての道」とは、「人生における選択や決断」と言い換えても良いでしょう。神さまは私たちに自由意思を与えておられます。あなたはだれかからコントロールされていると思っているかもしれませんが、最終的な選択や決断はあなたの責任です。ある人は過去の暗い出来事に縛られて、新しい生き方ができないと思っているかもしれません。でも、神さまは平等に新しい毎日を与え、新しいチャンスを与え、新しい可能性を与えておられます。それを選び取るのはあなた自身です。でも、聖書はこのように告げています。箴言3:5-6「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」「どんな場合も神さまを歓迎して、導きを得よ」ということです。たとえ、選択や決断を間違えるようなことがあっても、神様は車のナビのように目的地に導いてくださいます。

テキストのまとめをお読みいたします。自己管理というのは、とても重要なテーマです。生まれつき几帳面な人もいれば、生まれつきずぼらな人もいます。神さまは、この地上のことで、いかに忠実であるかをご覧になっておられます。ルカ16:12「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」マタイ25:21「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」また、管理するとは、ただ保管するという意味ではなく、それを用いて商売する(増やす)ということでもあります。

4.神からの使命を果たす

使徒26:17-18「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」Ⅱテモテ4:7-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」

第一の質問です。「パウロが召された使命は何でしたか?」ユダヤ人と異邦人宣教です。パウロにとっては、特に、異邦人世界に福音を宣べ伝え、教会を設立することでした。パウロは救われた瞬間、自分の使命は何かということがイエス様から知らされました。おそらく、私たちも救われてまもなく、自分の使命は何か悟らされたのではないでしょうか?私は信仰を分かりやすく伝える働きをしたいという願いが起こりました。神学校にいたとき、ある同級生は漫画で福音を伝えたいと言っていました。回心と同時に何らかのスイッチが入るのかもしれません。

第二の質問です。「人々が救われるためには、どのようなことが必要なのですか?」彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせるということです。私たちは霊的に盲目で神さまのことが全くわかりません。聖書も読んでもちんぷんかんぷんでした。だから、聖霊によって霊的な目が開かれる必要があります。その次に、信じた人を聖霊が暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせてくださるのです。ありがたいことです。

第三の質問です。「イエス様を信じて得られる3つのものとは何でしょう?」第一は、サタンの支配から神に立ち返らせていただくこと。第二は罪の赦しを得ること。第三は聖徒たちと共に御国を受け継がせていただくことです。不思議なことに、信じて洗礼を受けてから、ああ、私は暗やみの中で、サタンの支配を受けていたんだとわかります。

第四の質問です。「パウロは自分の道を走り終えましたが、あなたの走るべき道とは何ですか?」神さまはお一人お一人に固有な計画を持っておられます。私たちはこの世において仕事や家庭、学業における計画や目的があるかもしれません。それらと同時に、あるいは並行して永遠につながる神さまのための計画や目標があると信じます。仕事をしながら、家庭を守りながら、あるいは学業に励みながら、同時に果たすべき目標があるのではないでしょうか?そういう目標は退職してからも、子育てを終えたとしても全く影響されません。もちろん山登りとか、魚釣りとか、骨董収集とか趣味の世界を続けていても全くかまいません。しかし、目標が一人でも多くの人に福音を伝えるということになるならば、そういう趣味や活動で出会う人がターゲットになるでしょう。むしろ、それは良い機会になります。霊的な目標、神の国に関する目標ということをぜひ、お考えください。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。兵士にとっては、司令官から与えられた使命を果たすことが第一の目的です。使徒パウロは、サタンの支配のもとにある異邦人たちを神のもとに立ち返らせました。まるで、それは捕虜を奪回するような働きです。だから、パウロは晩年に、「私は勇敢に戦い…」と言ったのだと思います。また、パウロは自分が到着すべきゴールを知っていました。私たちも何のために召され、何を果たすべきなのか知る必要があります。何をするにしても、私たちは最初から始めるでしょうか?何をするにしても、実は終わりから始めています。終わりがあって、それから最初に帰ります。まず初めに、最終的にどうなるかという青写真が必要です。「終わりから始める」という意味は分かるでしょうか?「終わり」というのは、完成したもの、青写真であります。建物や道路も、計画なしにやるわけではありません。工事をするためには設計図や完成図があります。そこに向かって、工事を進めていきます。私たちの人生も同じで、最終的な青写真は何なのかを神さまから示していただく必要があると思います。使徒パウロのようにヨーロッパに福音を伝えるということでなくても結構です。中国に聖書を運ぶ活動をしておられる方もいます。この間、来られた、石塚兄姉の目標は、家庭を解放して集会も持つことでした。2つの大学が近くにあり、若者たちが食事と交わりにつられて来るようです。

 ある兄弟は退職後、お年寄りの送迎のボランティアをしているそうです。ただ送迎をしているのではなく、神さまの愛で接しています。兄弟の車に乗られるお年寄りが励ましや希望をいただいているのではないでしょうか?賛美やゴスペルも良いですし、教会の花壇を担当することも良いでしょう。誕生日の絵手紙を書く方もおられます。神さまは必ず、その人に思いと願いを与えておられると信じます。どうぞ、大それたことだと思わないで、できることからコツコツとなさることが大切だと思います。ことわざに「老兵は去るべし」というのがあります。私たち天国人には、そういうことばはありません。召されるまで現職の兵士です。もし体が動かなくなったら、祈りの奉仕があります。祈りは霊的なミサイルです。悪魔が最も恐れるのは祈りだからです。私たちは天国に行くまで、休むことはできません。主にあって一生現役であり、最前線にいるのです。