2015.11.8「人間をとる漁師 マルコ1:14-18」

 福音を伝えることを「伝道」と言いますが、とても堅い響きがあります。私は「伝道」という言葉が嫌いでした。なぜなら、「その人に福音を伝えて救いに導かなければならない」という緊張感を覚えるからです。英語では伝道をreach outと言いますが、「援助の手を差し伸べる」という柔らかい響きがあります。用語はともかく、福音を伝えることは全クリスチャンの使命であります。伝道の賜物がある人もいますが、たとえ賜物がなくても使命なのですから、やるしかありません。いろんな伝道方法がありますが時代や人々のニーズによって、効果的なものを選ぶ必要があります。また、方法やテクニックも大切ですが、失われた魂を主のもとにお連れしたいというスピリットが最も大切だと思います。 

1.人間をとる漁師

マルコ1:14-18「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」

第一の質問です。「イエス様は、初期の頃から弟子を召されました。それは、なぜでしょう?」それは、ご自分の働きを継続し、拡大させるためです。いくらイエス様が神さまであっても、肉体を持っているので限界がありました。また、十字架の贖いを成し遂げたあと天に帰らなければなりません。ですから、弟子たちを訓練して、任せる必要がありました。 

                        

第二の質問です。「漁師であることと、人間をとる漁師との共通点は何ですか?」弟子たちの多くはガリラヤの漁師でした。そのためイエス様はあえて「人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃったのでしょう。漁師は魚の習性を知らなければなりません。何を食べるか、どこにいるのか、漁は昼間が良いのか夜が良いのか?彼らは網で漁をしていましたので、群れがいるところを探して漁をします。魚がいないところに網を降ろしても仕方がありません。また、乗る船も必要ですし、網やしかけなど正しい漁具を準備しなければなりません。魚と同じように、人間の習性やニーズを知る必要があります。また、人がいないところではなく、人がいるところで伝道すべきでしょう。正しい漁具とは時代にあった正しい福音提示と言えます。また、音楽、部屋、音響製品が必要な場合もあります。昔は16ミリの映画で人々が集まったようですが、今は集まりません。アメリカのリック・ウォレン師はいろんなところをリサーチして、新しい教会を開拓しました。自分がどういう社会層の人たちに福音を届けられるか、前もって調べたようです。

第三の質問です。「まず、どうすれば人間をとることができるのですか?」イエス様について行くということです。すると、どうすれば人間をとれるのか実際に見て学ぶことができます。現代、イエス様は地上にいませんので、まず、福音書や使徒の働きから原則を学ぶしかありません。その後、自分にあった伝道法をさがすべきでしょう。私が最初に行った神学校の教団は、とても伝道熱心でした。昭和の初期、リバイバルがあった教団で、首根っこを捕まえてでも救いに導くという熱心さがありました。また、手をたたいて聖歌を歌うし、大きな声であおるようなメッセージをするので、気の弱い人は帰っちゃうんじゃないかと思いました。その後に、カルバンの「選び」ということを学びました。それからはあまりしつこく勧めないようになりました。神さまがその人を選んでいれば、救ってくださるので、その人の自主的な決断を重んじるようになりました。つまり、神さまから情熱をいただき、人の意志を重んじながら福音を伝えるということです。

第四の質問です。「あなたは人間をとる(伝道する)ことがライフ・スタイルになっていますか?」ライフ・スタイルとは伝道が生活の一部になっているということです。パウロはテモテにこのように命じました。Ⅱテモテ4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」時代によって、人々が福音に耳を傾ける時もあれば、まったく無関心な時もあります。日本のプロテスタント教会では、明治の開国時と、敗戦直後にリバイバルがありました。しかし、経済的に豊かになると、あまり教会に来ません。今はクリスチャンや牧師が高齢化し、数も減少しています。では、世界的に難しいかというとそうではありません。かつては伝道が非常に難しかったインド、タイ、ネパール、モンゴルにクリスチャンが増えています。アフリカの各国はキリスト教国になるかあるいはイスラムになるかしのぎを削っています。日本は熱くもなく冷たくもない国で有名です。ですから、私たちは時代がどうであれ、みことばを宣べ伝える使命と責任があると思います。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。魚をとることと、人間をとる(伝道する)ことは似ています。まず、魚をとるためには、魚のいるところへでかけなければなりません。魚の集まるような場所に行って、釣竿か、網によってとるでしょう。漁師たちは魚の習性を知り、何時頃、どのようなしかけ(網)で、とるかを知っています。伝道のためには、対象とする年齢層、地域、文化、好みなどを知る必要があります。それによって、アプローチの仕方や話すことばも違ってきます。現代の教会がなぜ不漁なのかと言うと、人々のいるところに行かないで、教会という建物で人々が来るのを待っているからでしょう。時代と共に変わる人々のニーズを無視し、殿様商売でやっているからかもしれません。今は恵みのとき、今は救いの日であることを信じて、reach out、福音を届けるために手を差し伸べていきたいと思います。

2.関係中心の伝道

マルコ16:15「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」ルカ10:5-7「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。」

第一の質問です。「本来、伝道は行くべきなのでしょうか?それとも、未信者が来るのを待つべきなのでしょうか?」行くべきです。地の果てではありません。私たちが日常、出かけているところ(家庭、職場、地域社会)が伝道地なのです。聖書を見ると「出て行け」とか「行って」と書いてあります。とにかく、行かないと何も始まりません。キリスト教の異端にエホバの証人というのがあります。彼らは自分たちが救われるために伝道をしています。マインドコントロールがかかっているせいもあり、一件、一件、訪問して伝道しています。一方、正統だと言っているキリスト教会は、伝道するために訪問するということはまずありません。なぜなら、躓きを与えてしまうからです。でも、皮肉なことに、世の人たちは「キリスト教と言うと、家々を訪問するエホバの証人である」と思っています。でも、彼らは間違っていると言えるでしょうか?新約聖書を見るとイエス様も弟子たちも出て行って伝道しました。このことを考えると、異端である彼らの方が、聖書の言いつけを守っているとしか言えません。彼らは多くの人たちを躓かせているかもしれませんが、着実に自分たちの信者も得ています。なぜなら、出て行っているからです。異端の方が「行け」という、命令を守っているとはどういうことでしょうか?

第二の質問です。「新約聖書の時代は、伝道が教会堂で、イベントプログラム式でなされていたでしょうか?」なされていませんでした。福音書を見ると神殿や会堂だけではありません。家屋、野山、海辺、町や村の辻、結婚式場、葬儀の場も伝道の場になっていました。また、使徒の働きを見ますと、迫害にあった人たちは道々、出会う人にみことばを伝えました。ローマ兵の家、川の洗い場、裁判所、異教徒の神殿、大講堂、船の上、牢獄…どんな場所でも伝道の場になりえました。ところが、近年の教会は教会堂を中心としてなされています。また、特別伝道集会やコンサートなど、イベント中心なところがあります。そのため、人を集めることが伝道になっています。専門家がみことばを語り、一般信徒は誘ったりもてなしたりすることです。私たちは、今の教会が聖書から離れていることを自覚する必要があります。

第三の質問です。「イベントプログラムと関係作りの伝道の長所と欠点をそれぞれ上げてください。」イベントプログラムで来た人は、信じても、何か問題があると去って行きます。一方、関係作りで信じた人は、何か問題があっても関係が残っているので、やがて復帰します。松戸の岡野牧師御夫妻が「生活伝道」によって効果を上げています。かつては、イベントプログラムでしたが、教会が潰れたとき、今の伝道法を発見したそうです。幼稚園や小学校で知り合ったお母さん方を対象にします。福音の愛で愛して、興味のある人には聖書の勉強をして導くそうです。同じように導かれた人が、同じように他の人も導くそうです。彼らは「だれでもできる生活伝道」と言っていますが、やっぱり彼らの賜物ではないかと思います。なぜなら人間関係の苦手な人もいるからです。でも、最近は宣教大会に人が集まらなくなり、むしろ人間関係で地道でやる方が効果的なようです。

第四の質問です。「イエス様が福音書で教えてくださった伝道の戦略とは何でしょうか?」イエス様は山の上や街の通りで福音を伝えました。また、人々の家に入って食事をした後で福音を伝えました。イエス様は今で言う、大衆伝道、個人伝道、小グループ伝道など、いろんな方法を用いたと思います。伝道に王道はなく、人々のニーズと自分たちの賜物でやれば良いのです。

 最後に、岡野牧師が書かれた「生活伝道」から引用します。すべての救われた者が、主によって遣わされた家庭、学校、職場、地域社会などの生活の場で、または、その他のところに出て行って隣人を愛し、未信者との間に友達関係をつくり、その友達に福音を伝えて救いに導く伝道の働きを言います。大事なことは、未信者のいる所に出て行くということです。伝統的に行われてきた教会の「来て下さい」という伝道は、いわゆる伝道講演会や伝道礼拝など、さまざまな集会プログラムをとおしてなされる伝道方法です。この場合は立てられた講師が福音を語り、信徒は未信者をその集会場に連れてくるという役割を果たします。一方、関係中心の伝道は、建物の中で行われる限られた期間の、特別なプログラムに期待するのではなく、毎日の生活の場を伝道の現場と考えます。アーメン。結論的に、「生活伝道」という名前を使わなくても、毎日の生活の場が伝道の現場であると思います。まず、父なる神さまに「今日だれに、福音を伝えたら良いでしょうか?相応しい人に出会わせてください」と、聞くべきです。また、相手が聞こうとしなくても、福音の愛で愛して、ただ仕えたら良いと思います。そうすると、「どうして私に親切にしてくれるのですか?」と聞かれるでしょう。そうしたら、「イエス様が私を変えてくださったからです。あなたもどうですか?」と始めたら良いのではないでしょうか?その相手というのが、教会に来ていない夫であり、妻であり、子どもであり、友人であり、会社の同僚だということです。

3.あなたは教会

Ⅰコリント3:9、16「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。…あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

第一の質問です。「旧約時代、神殿はエルサレムにありましたが、新約の時代、神殿はどこにありますか?」私たち自身が神殿です。Ⅰコリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

第二の質問です。「もし、私たちが神の神殿であるなら、一定の場所に留まることがみこころでしょうか?」こういう公の集会は、一定の場所が良いかもしれません。でも、私たちが神の神殿であるなら、どんな場所も神の神殿(教会)になりえます。

第三の質問です。「旧約聖書が『エルサレムに来なさい』であれば、新約の教会はどうすべきなのでしょう?」新約聖書は「行きなさい」と言っています。「使徒の働き」をみますと、聖霊によっていろんなところへ派遣され、そこでクリスチャンの群れが作られました。エルサレムから散らされた人がサマリヤに行きました。また、ある人たちはアンテオケに行きました。アンテオケからエペソ教会やコリント教会が生まれました。エペソ教会からコロサイ教会が生まれました。ローマの教会の後、世界中に教会が生まれました。歴史が進み、教団や教派の教会が作られると、あまり動かなくなりました。

 第四の質問です。「あなたが教会であるなら、伝道の場所はどういうところになるでしょうか?」どの場所も伝道の場所になりえます。どの場所も教会になりえるということです。2011年3月に東日本大震災があり、大きな津波によって2万人近くの人たちが亡くなりました。特に岩手県や宮城県の漁村や港が甚大な被害を受けました。復興と同時に、福音宣教も進められました。現在、教会に全く来そうもない人たちが救われているそうです。あるところは教会堂が建てられましたが、多くは信仰者が点在しています。どういう意味かというと、従来の教会にそういう人たちを呼ぶのは難しいそうです。特に漁師の人たちは文化的な問題があります。それよりもこれまで存在していた人間関係を生かしながら、クリスチャンの群れを作るという試みがなされています。宮城県の北部に築舘というところがあります。その教会の岩浪牧師はもとキックボクサーで、ウェルター級のチャンピオンだったそうです。彼は100キロも離れた被災地に毎日のように出掛け、開拓伝道をしておられます。先生は個人伝道の達人で、100人くらいの人たちが救われたそうです。その中には仮設住宅で今も暮らしている漁師たちもおられます。まだまだ、被災したトラウマと戦っています。でも、教会に来そうもない人たちが福音を信じて救われたのです。でも、その人たちを1箇所に集めるのは不可能です。だから、今も先生が点在しているクリスチャンのところに通っています。従来の教会ではなく、現在集まっている人たちが、教会を作るように願っているそうです。

 8年くらい前、香港からベン・ウォン師がコーチングのため講師として2年間来られました。過激な発言と共に、どでかい花火を打ち上げて行きました。あれから8年経って、「あれは何だったんだ」と思うことがあります。つまり、先生がおっしゃるようにたくさんの教会が生まれませんでした。ある教会の牧師は「10年で40ケの教会を作る」と豪語しましたが、既に取り下げているようです。私も「調子の良いことを言って」と先生を恨んでいるところもあります。しかし、日本人の教会は日本人でやるしかありません。これまでも数えきれないほどの宣教師が日本に来られました。彼らは「日本が文化圏で最も難しい」と口々に言われます。私たちも甘えないで、自分たちで伝道し、教会を建てていくしかありません。しかし、ベン・ウォン師が言われた「教会とは建物ではなく、私たち自身が教会である」ということは聖書的な真理です。先生は「人々を教会に連れてきてはいけません。教会を人々のもとに連れて行きましょう」と言われました。もちろん、人々を教会に連れてきても良いと思います。しかし、それだけだと来る人はかなり限られます。教会の敷居を高くしているわけではありませんが、このままだと95%の人は教会に来ないでしょう。私たちの家族や親族、会社の同僚も一生、教会に行かないのではないでしょうか?このまま福音を聞かないで、滅びに行くのです。陰府に行ったとき、「あの人がクリスチャンだったことは知っています。でも、私に福音を語ってくれませんでしたよ」と言うかもしれません。ですから、私たちは発想の転換が必要です。自分たちこそが教会であり、人々のもとに教会を連れて行くということです。まさしく、動く教会です。

 10年くらい前に天にお帰りになった万代恒雄師が『キリストのセールズマン』という本を書いています。セールズマンは英語的な発音です。私はあまりにも先生のおっしゃることが過激なので、その本をゴミと一緒に捨てました。私は本を捨てるということはほとんどしません。そう言えば、ジョージ・ミューラーの『祈りの秘訣』という本も捨てたことがあります。彼は5万回も祈りが聞かれたそうです。私はその本があると脅迫観念を覚えるので捨てました。最終的には「ジョージ・ミューラーには信仰の賜物があり、一般的ではない」と判断したからです。また、万代恒雄師の『キリストのセールズマン』という本が手元にあると、これまた脅迫観念を覚えます。なぜなら、「牧師はセールスマンのように出て行け」と言うからです。しかし、10年前、私が説教で先生の本から引用している文章を見ました。それを見て、「ああ、先生の言われていることはやはり正しい」と思い、インターネットで古本を再び手に入れました。その本にこのように書かれています。「牧師は、自分は祈っている、聖書を学んでいると言う。しかし、これは当然のことである、自分の仕事なのだから。それは生涯の学びである。それをなまけていては牧師失格になる。しかし、セールズマンは人々の中に入っていかなければならない。牧師は信徒を牧会するという生涯の仕事がある。だからといって、わずかの信徒のお守りをして過ごしていいはずはない。イエスの命令は、すべての国人を弟子とせよとのことだから、出て行って人々に伝えねばならぬ大使命がある。結論的に申すと、クリスチャンはキリストのセールズマン、牧師もそうだということである。牧師は天国の公務員という見方もあるが、むしろ民間のチャレンジ精神が必要だということである。」これは私に対する戒めのことばでありチャレンジです。

 確かに伝道者のように福音を伝える特別の賜物がある人がいます。でも、イエス様は伝道が賜物でなくても、すべてのクリスチャンに「出て行って福音を宣べ伝えよ」と命じておられます。使徒パウロも「宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう」と言っています。日本人がキリストを信じないのは、無知と偏見のゆえです。ギデオンの聖書を一度は手にしたことがあるかもしれませんが、中身をほとんど読んだこともありません。無知と偏見のゆえに「神はいないし、救いもない。人生はこの世限りだ」と信じ込んでいるのです。それも1つの信仰であります。使徒パウロは「返さなければならない負債を負っている」と言いました。つまり、この負債は愛と同じで、この地上に生きている間、払い続けなければならないということです。私たちが生涯において、一番感謝している人はだれでしょうか?私に福音を伝えてくれた人ではないでしょうか?それによって、私が罪赦され、永遠のいのちを得ることができたからです。キリストの福音はその人の永遠を決定するほど重要な知らせです。福音を伝えるしかありません。