2015.11.15「コーチングの基本 コロサイ1:28-29」

 10年以上前から企業の中でコーチングが行われるようになりました。コーチングというのは、上から指示するのではなく、その人が自ら考えて決断できるように助けるということです。コーチングの由来は、coachという四輪の大型馬車から来ました。当時は、お家から駅まで行って、列車に乗って目的地近くの駅まで行きました。駅から目的地までは徒歩か馬車で行きました。しかし、コーチという馬車はお家から、目的地まで乗り換えることなく行くことができました。つまり、コーチングはその人が目的地まで行けるように、一緒に行ってあげるということです。聖書を見ますと、ある意味でイエス様も弟子たちにコーチングをしていました。同じように、霊的な親が後輩の人たちをコーチングできたら何と幸いでしょう。

1.コーチングの目的

ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

第一の質問です。「行ないの面で、神さまは私たちに何を期待しておられるでしょうか?」「この世と調子を合わせてはいけない(妥協してはいけない)」と言っています。ある人はこの世の価値観と神の国の価値観を2つ持ちながら、二元的な生き方をしています。神さまは、この世と神の国とダブル・スタンダード(二重規範)を持って生きることを願っておられません。

第二の質問です。「では、コーチングとは、何をどのように助けることなのでしょうか?」まず、その人が正しい神のみこころを発見できるように助けることです。その人は「私はこうしたい」と思っていても、神さまは「こうしてもらいたい」と願っておられるかもしれません。ですから、神のこころに対して、修正すべきところがあるかもしれません。その次は、その人の現時点から、神のみこころに向かって進めるように助けることです。多くの人は「自分に対する神さまのみこころ」のところで迷っているかもしれません。つまり、自分は何をもって神さまの栄光を現わすように召されているのか分からないということです。人生の目的地が分からないのに、やみくもに歩いているとしたらどうでしょうか?

第三の質問です。「成長の面で、神さまは私たちに何を期待しておられるでしょうか?」「心の一新によって自分を変える。つまり、自分の思い(mind)を新しくする」ということです。そうすれば、自分にとっての神さまのみこころは何かもっと分かるはずです。クリスチャンの中には霊的に生まれ変わっていても、思い(mind)が変わっていない人がいます。このことは、1つ前の『新しいライフ・ステージ』というところですでに学びました。賜物と召命というのは、過去の傷や不幸な境遇と関係があります。「神さまはあなたを仕込んでおられたんだ」ということを学びました。

第四の質問です。「では、コーチングはどのような心を持つ必要があるのでしょうか?」使徒パウロがこのように述べています。コロサイ1:28-29「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」前にもお話ししましたが、教会にはルカ15章のような兄のような人がいっぱいいます。兄は、「そこが足りない、そこがダメだ」と批判します。しかし、父は無条件の愛をもって弟息子を迎えました。つまり、霊的な父のような心を持つ必要があります。しかし、パウロは優しい愛だけでは不十分だと言っているかのようです。「奮闘する」は、「闘技において戦う」「闘技する」という言葉から来ています。つまり、体育会系のコーチをイメージする言葉です。最近はセクハラとかパワハラで訴えられますが、柔道とかレスリングのコーチはとても厳しいです。もし、教会で「やる気がないなら、やめちまえ!」とか言ったら、だれもいなくなるでしょう?パワハラはだめですが、もっと、厳しさがあっても良いかもしれません。

 この世のコーチングは2つの信念(前提)のもとで行われています。第一は、「人間はどんなことでもできる」ということです。第二は、「その人自身の中に、目的地を発見する力がある」ということです。しかし、聖書的に見るならば、私たちは堕落した存在であり、内側には勝手な欲望があります。無限の能力もないし、正しい目的地を発見する力もありません。聖書的なコーチングにとって、最初にすべきことは、その人が新しくされて、心を変えられなければなりません。まず、その人を動かすエネルギーが変えられる必要があります。その次は、その人が望んでいることと、神さまが願っていることは、何であるかはっきり区別しなければなりません。コーチングでは神さまが願っている目的地へと修正していく必要があります。神さまは、どんな目的地に行こうとも、私たち一人ひとりが続けて成長して、成人となることを願っておられます。子どもにとって両親が大切なように、一人の人をキリストにある成人として立たせるために、父親の心を持っている人がコーチをする必要があります。

2.コーチングの心構え

 ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。ピリピ2:3「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

第一の質問です。「イエス様は弟子たちにどのように約束されましたか?」「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行う」と言われました。ほとんどの聖書学者はこのことばを文字通りには受け止めません。いろんな霊的解釈をほどこしていますが、不信仰の域を出ていません。現実はどうであれ、私たちはこのみことばを額面通り受け止める必要があります。イエス様が「あなたは私よりも大きなことをするよ」とおっしゃるのなら、「アーメン」と答えるべきであります。

第二の質問です。「あなたは自分が育てた人が、自分よりも優れたことを成し遂げても喜ぶことができますか?」この世における、師匠と弟子の間には越えられない淵があります。もし、弟子の方がまさるなら、師匠から「100年早い」と言われて、追い出されるでしょう。でも、子どもが親を超えるならば、親にとってはこの上もない喜びです。霊的親はつまらない妬みではなく、寛大な心を持つべきであります。使徒パウロは霊の子であるテモテの成長を見て喜んでいました。自分が持っている良いものは何でもあげたいと思っていました。

第三の質問です。「あなたは、他の人を見て、自分よりも劣っているのではないかと思っていませんか?」劣等感を持っている人というのは、同時に優越感も持っているものだと聞いたことがあります。私たちの肉には、虚栄心や党派心が宿っています。常磐牧師会というものが月一回行われます。彼らとは25年くらい続いている交わりです。当時は頭の毛がふさふさだったのに、今は寂しい先生もおられます。「当時、ズラをかぶっていて今が本物なんだ」と皮肉をいう人もいます。土地を買ったとか、教会堂を建てたと聞くと心から喜びます。牧会上の問題が起きたときは、心から同情します。しかし、私にとって我慢ができないときもあります。それは、自分の学説を長々と説かれた時です。10分くらいは聞くことができますが、20分以上になると「いい加減にせーよ」と腹が立ってきます。特に、まだうまくいっていないのに、うまくいくかのようにどこかの教会のやり方を紹介するときです。私は「成功してから言ってくれ」と水をさします。「私は失敗した」という、卑屈な気持ちがあるからかもしれません。神学校の頃、夏季研修というのがあって、全校生徒の前で、それぞれ発表する機会がありました。「うまく行かなかった、砕かれた」という証だと、教授陣が同情してくれます。ところが、「良い成果をあげました」と報告すると、「高慢だな、もうやめろ」と教授が言いました。聖めを説く神学校でもそういうことがありました。

第四の質問です。「なぜ、自分よりも優れた者であると思うことができるのでしょうか?その根拠は何ですか?」第一は、自分自身もキリストのからだの一部の器官であり、すべてのことはではないからです。Ⅰコリント12:21「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。」と書いてあります。第二は、その人もキリストに贖われた存在であり、聖霊がその人の内で独自に働いておられるからです。その人をけなすということは、その人に働いておられる聖霊をけなすということになりかねません。ローマ14:4「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。私がだれかをコーチングするとするならば、その人が将来、私よりもさらに優れた人になり、建て上げられて神の国に用いられる人になるという思いをもって、コーチングをしていかなければなりません。自分が育てた弟子が、自分よりも優れて、もっと人気が出たらどうするでしょう?胃が痛くなるでしょうか?また、コーチは人を自分よりも優れた者と思わなければなりません。なぜなら、どんな人でも卓越したものを持っています。ある人は、勉強はあまりできないかもしれませんが手先が器用です。神様が与えた賜物というものがあります。だから、それを見つけて、その人が自分よりも優れていると思うべきです。アーメン。私は「時間の無駄だ」と、子どもたちにゲームのやり過ぎを厳しく注意したことがあります。でも、口うるさく言うと逆に効果がないので、だんだん放任主義になりました。ある時、下の息子が私の二台目のパソコンでゲームをしていました。仕事をしながら、ちらっと見ましたが、驚きました。今のゲームは昔のインベーダーゲームと違って、とても複雑です。マインクラフトというのは、地下に穴を掘って採掘し、その材料で何かを作る、とても創作的なものでした。ゲームが社会的に役立つかどうかは分かりません。でも、そういうことだけで判断してはいけないと思いました。神さまは一人ひとりにユニークな能力を与えておられるからです。現代は、専門家でない畑違いの人から、良いアイディアが出て来ると言われています。良いコーチとは神さまがその人に与えたユニークな能力を引き出すことではないかと思います。

3.聖書的価値観(世界観)を持つ

 詩篇1:2-3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」ヨハネ12:24-25「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

第一の質問です。「豊かな実を結ぶために、木にとって大事な部分は何ですか?」水路のそばに植わった木は、根からたえず水が供給されるので枯れません。つまり、根が大切だということです。根とは価値観や動機、その人のエネルギーであります。根は地表からは見えないので、どうしても実の方に目が行ってしまいます。実とは結果であり、何ができるかということです。しかし、根が健全でなければ、豊かな実を結ぶことはできません。結果よりも、根にあたる価値観や動機、エネルギーに注目すべきであります。

第二の質問です。「みことばを口ずさむ(瞑想する)ことによって、あなたの何がどのように変わるのですか?」考えが変わり、信仰が与えられ、主のみころにあった生き方をするようになります。順番をもう一度言うとどうなるでしょう?みことばを瞑想すると、私たちの考えが変わります。考えはすべての源です。考えはマインド、信念、世界観とも言い換えることができます。宗教は怖いと言われますが、それはマインドをコントロールされるからです。でも、まことの神さまからみことばによって、マインドを正しくコントロールされたら良いのではないでしょうか?神さまとみことばなしで、自分のマインドを正しく保てるでしょうか?第二は考えが変わると信仰が与えられます。信仰と信念は似ていますが、同じではありません。信仰は神さまが保証してくださるものですが、信念は自分自身だけのものです。信じて求めるなら、神さまは報いてくださいます。第三は信仰から主のみこころにあった生き方が生まれます。これはだれもが見ることのできる実であります。6月頃、一番上の兄から「長男の結婚式をあげてくれないか」と頼まれました。私にとっては甥にあたりますが、私の兄弟の前で司式をすることになります。彼らはまことの神さまを信じていません。「うちのヤスはキリスト教にかぶれておかしくなった」と思っていたでしょう。彼らは神さまを見ることはできません。でも、私が神さまを信じてどういう生活をしているかは見ることができます。「子どもの頃のヤスは意地っ張りで、泣き虫で、わがまま放題だった。ところがキリストを信じてから、人々の前で教えを垂れるようになった。しっかりした奥さんを持ち、4人の子どもを育てたじゃないか?ああ、やっぱり神さまがいるのではないだろうか?」私の考えが変わり、信仰が与えられ、生き方が変わったからです。

第三の質問です。「あなたの隠された部分に、死ぬべきものはありませんか?」伝統的な教会は講壇から牧師が「死ね」「死ね」と言うそうです。私も神学校で良く言われました。みなさんの中には、「死ね」「死ね」と言われ、うんざりだという人もおられるかもしれません。私は「死ね」のかわりに、「十字架につけて死なせる」というふうに言います。自らの意志で自分を死なせることはとても困難です。私たちが自らの意志ですべきことは、不純なものを十字架に付けることであります。そうすると、十字架自体が死なせてくださるのです。使徒パウロはガラテヤ書でこのように言っています。ガラテヤ5:24 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」ガラテヤ6:14「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」パウロにとって、世界とは肉的な喜びをもたらすものでした。ですから、十字架というのは救われるためだけではなく、救われた後も必要だということです。十字架は私たちの中に残っている肉や罪を死なせる力があります。私たちは生きている限り、名声、功名心、お金、富、快楽など、十字架につけなければなりません。天国に行くまで、十字架は必要なのです。

第四の質問です。「クリスチャンのコーチングは個人の自己実現ではなく、何をサポートするのでしょう?」この世のコーチングはどうでしょうか?コーチと言うのは、その人の自己実現のために雇われている存在です。その人の願いを叶えるのが良いコーチです。しかも、この世のコーチングは、神さまではなくその人の中に答えがあると思っています。だから、この世のコーチングは「それは間違っている」とは決して言いません。なぜなら、お客様の自己実現が目標だからです。一方、神からのコーチングは、その人に与えられた神の計画が成就するようにサポートします。神の計画は英語で言うと、The divine destinyになります。エレミヤ書29章に書いてあるように、神さまは私たちに計画をもっておられます。それは、災いではなく、平安と将来と希望を与えるためのものです。

4.コーチングの技術

 コーチングの技術で大切なものが3つあります。第一は傾聴、よく聞くことです。第二は質問、良い質問を投げかけて認識や理解を与えることです。第三はフィードバック、評価をしてあげるということです。ピリポ・カイザリヤというところで、イエス様が弟子たちに質問されました。いきなり「私がだれか」と聞かれませんでした。イエス様は「人々は私をだれだと言っていますか」と聞きました。彼らは「バプテスマのヨハネだと言う者もあり、エリヤだという人もあります。他の人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だ」とも言っていますと答えました。その後、イエス様は「あなたがたは私をだれと言いますか」と聞かれました。するとペテロが「あなたは、生ける神の子キリストです」と答えました。イエス様の良い質問に対してペテロが答えました。イエス様は「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われました。これはフィードバックと言えます。

その後、イエス様は「エルサレムに行って、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえります」と言われました。ペテロは「主よ。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエス様をいさめました。すると、イエス様は「下がれ、サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱られました。ペテロは天にまで引き上げられた直後、サタン呼ばわりされました。これがイエス様のコーチングでしょうか?ペテロはこのことがトラウマになったのではないでしょうか?しかし、ペテロは懲りない人でした。いよいよイエス様が捕えられるとき、ペテロはこう言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と答えました。イエス様は「あなたは三度、私を知らないと言います」と預言しました。それでも、ペテロは「死んでも、あなたを知らないなどとは決して申しません」と否定しました。その時、イエス様は「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。イエス様はペテロが3度知らないとご自分を否んだとしても信仰がなくならないようにとりなしておられました。そればかりか、「立ち直ったら兄弟たちを力づけるように」という使命を与えておられました。これが、イエス様の計画です。私たちも失敗や挫折することがあるでしょう?自分の使命や計画も見失うことがあるかもしれません。しかし、イエス様が世の終わりまで共にいて、私たちを励まし、力を与えて、導いてくださいます。イエス様こそ私たちの最大のコーチです。