<ガラテヤ人への手紙 5章19節-26節>
5:19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
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今年も、「亀有教会クリスマス祭り」が、祝福のうちに無事終了しました。
12日に行われた、キッズ・クリスマスパーティーも、23日に行われた亀有ゴスペルクワイヤーのクリスマスコンサートも、例年以上にたくさんの人がこの教会に足を運んでくださいました。初めて教会に来られた方も大勢おられて、良き伝道の機会となりました。
また、20日のクリスマス礼拝では4名の受洗者が与えられ、イブ礼拝では主に在る兄弟姉妹方や、新しく来られた方々と、良き交わりの時が持てました。神様がこの亀有教会を大いに祝福してくださっておられることを改めて知ることができました。主に感謝します。
さて、2015年最後の礼拝となりました。
この年末年始、私たちは混沌としたこの世の中で起こっている様々な出来事にばかり心を捕らわれるのではなく、主の良き知らせに目と耳と心を向けて過ごしたいと思います。
本日は「御霊の実」と題して、この一年守られたことを感謝しながら、ガラテヤ人への手紙から神様の良き知らせを受けとっていきましょう。
このガラテヤ人への手紙は、1:1,2に書かれているように、使徒パウロからガラテヤの諸教会に宛てた手紙です。宗教改革者のマルチン・ルターが、「私はこの手紙と結婚した。」と言って惚れ込んだほど、この手紙は福音の真理と、キリスト者の自由を明白に宣言しています。
ガラテヤ5章の初めの方には、御霊によって律法の呪いから自由にされたキリスト者について書かれていますが、先ほど読んでいただいた19節からは御霊の実を結ぶキリスト者、教会について書かれています。
「御霊の実」と言われている9つの言葉、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」は、クリスチャングッズなどを売っているお店に行くと、必ずこの言葉をモチーフにしてデザインされた品物が置かれています。壁掛け、コップ、置物、ハンカチなどいろいろありますが、これらの9つの言葉は、目に入るだけで、耳で聞くだけで心がぽっとあたたかくなります。
反対に、パウロが前半に挙げている15個の罪の言葉、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、」は、見たくも聞きたくもない言葉です。こういう言葉を列挙したグッズを売っていたとしても、きっと誰も買わないでしょう。
もし「ねたみ」とか、「不品行」とか大きく書いたTシャツなんか売っていたら、自虐ネタが好きな人は面白がって買って着るかもしれませんが、普通はそんなものは買いませんし、もしもらったとしてもぜんぜん嬉しくありません。
私たちはいつでも「愛、喜び、平安」に満たされ、「寛容、親切、善意、誠実」でありたいと願い、「柔和、自制」の心を持ちたいと思っています。このような、「御霊の実を結ぶ人」には、どうすればなれるのでしょうか。このガラテヤ書から答えをいただきましょう。
◆御霊の実を結ぶ人は・・・
①肉の行いに歩むことがありません。
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5:19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
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肉の行いとは、自己中心的な生き方のことを指します。パウロは具体例として、15個の罪の言葉を挙げていますが、それらは大きく4つに分かれています。
①「不品行、汚れ、好色」とは、「性的な乱れ」です。②「偶像礼拝、魔術」とは、「宗教的な乱れ」です。
③「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、」は、「人間関係の乱れ」です。最後に④「酩酊、遊興」は、「自制心の欠如」を表しています。
みなさんは、どこかに思い当たる言葉があるでしょうか。
特に、人間関係の乱れにあたる、「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、」などは、誰しもが無意識のうちに抱いてしまう感情ではないでしょうか。しかしこれらは御霊の実の代表である「愛」と正反対の感情です。自己中心的な考えからくる思いがこのような乱れを引き起こします。
そして、パウロは、「このような者は神の国を相続することがない」と、厳しい警告を与えています。
「自分はこの15個の罪の言葉に思い当たる行いや感情を持っている。」と、もし気付かされた方がいたら、その思いをただちに十字架につけましょう。
◆御霊の実を結ぶ人は・・・
②自分の肉を十字架につけます。
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5:22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
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先ほどの15個の罪の言葉に思い当たるところがあった方は、このガラテヤ5:22-24のみ言葉を何度も読みましょう。この「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の9つの御霊の実は、神様からの良き知らせです。イエス様の福音を受け入れたキリスト者が、古い自分に死んで新しく生まれ変わった時に御霊の働きによっていただく「実」だからです。
この「実」という言葉は、ギリシャ語で「カルポス」と言いますが、「ホ」という冠詞がついています。ですから、最初の「愛」が代表する実であり、残りの8個がその具体的な現れとも言われていますし、この9つの実全部をひとつとして冠詞がつけられていると見ることもできます。
「愛」という代表の「実」によって、他の実が組み合わさっているにしても、「愛」も含めてすべての「実」がひとつになっているにしても、これは、キリストをかしらとして、ひとつの体に結び合わされたキリスト者の交わり、教会に必要な実であり、キリスト者が互いに仕え合うために必要な実です。
少し前のガラテヤ5:13-15にはこう書かれています。
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5:13
兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:14
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
5:15
もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
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「互いにかみ合ったり、食い合ったりしている」という状態は、先ほどの肉の行いに出てきた「人間関係の乱れ」からくる状態です。このような状態では、豊かな実を結ぶことはできません。
ヨハネの福音書15:5でイエス様が弟子たちに言われた言葉を思い出してみましょう。
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わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
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ぶどうの木であるイエス様にとどまっていれば、豊かな実を結ぶことができるのです。
ただそれは、そんなに単純なことではありません。教会は、人間同士の集まりですから、望んでいなくても、どうしてもそれぞれの肉の思いがぶつかり合ってしまう場所でもあります。
だから、5:24 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」と書かれているように、御霊の実を結ぶには、まず自分中心の思いを十字架につけることが必要です。
そしてここで大切なのは、木がひとつの場所に根を張って、様々な厳しい環境に置かれながらも時間をかけて実を結ぶように、私たちも置かれた場所に留まり、根を張って豊かな実を結んでいくという事です。なにか気に入らないことがあるたびに、どこかに逃げてしまったり、消えてしまっては、根を張ることが出来ませんし、実を結ぶことはできません。
これは、教会だけではなく、みなさんの家庭や、職場、学校などでも同じです。しかし限度というものもあります。少し前に話題になったカトリックのシスター、渡辺和子さんの著書、「置かれた場所で咲きなさい」という本は素晴らしかったのですが、「置かれた場所で咲く」のにも限度はあります。
なにがなんでも、燃え尽きるまでその場所に歯を食いしばって留まって頑張れというのではありません。自分に合った場所を見つけて、ここだと確信した場所に根を張るのです。しかしいつまでも、根を張る場所を求めて放浪することもお勧めしません。神が与えてくださった場所で、成長させてくださる神を信頼してすべてを委ねていくのです。
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<Ⅰコリント3:6,7>
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
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と記されているように、成長させてくださるのは神です。
ここからは、実践的な話ですが、「成長させてくださるのは神」と言われても、なんのことやらわかりません。
ここでのポイントは、私たちが成長するためには「タイミング」とか、「時」というものがあるということです。
私たちは、神様がせっかく成長させてくださろうとしているのに、そのチャンスを逃してしまっていることが、多々あるのではないでしょうか。
身近な具体例として、我が家の花壇で繰り広げられているドラマをお伝えしたいと思います。
実は我が家の玄関横には、30センチ×2メートルほどの小さな小さな花壇があります。
花壇なので、花を植えればいいのに、花は食べられないので、私はこの夏プチトマトを植えてみました。
しかし、ぐずぐずしていて植えるのがひと月ほど遅くなったので、青い実がたわわに実ったところで秋になってしまいました。寒くなってしまったので1、2個赤くなったくらいで、他は赤くならないまま成長が止まってしまい、現在は青い実のまま、ほぼ枯れかけています。
ここで「豊かな実を結ぶには、タイミングが大切だなぁ~」と教訓を得たわけですが、私たちの成長も同じなのではないでしょうか。「神様が今まさに試練を与えて、自分自身を大きく成長させてくださろうとなさっている」のに、様々な思い、多くはプライドや意地だと思いますが、そのようなものが邪魔をして、成長の機会を逃してしまっているということはないでしょうか。
また、神様の知恵に頼らず、自分の考えで、ここがその場所だと、ここが頑張りどころだと意地を張ってしまって、結局実を結ばず、まわり道をしてしまっているという事はないでしょうか。
こういった肉の思いをイエス様の十字架につけるようにと聖書は教えているのです。
成長には痛みや苦しみが伴うかもしれませんが、神様がくださった訓練の時を感謝して受け入れて、神様の知恵を頼ってぶどうの木であるイエス様にとどまり、豊かな実を結んで行けるように主に従いたいですね。
しかし、主に従うのは私たち自身の力では出来る事ではありません。どうすればよいのでしょうか。
◆御霊の実を結ぶ人は・・・
③御霊によって生き、御霊に導かれて進みます。
ガラテヤ5:16-18にはこう書かれています。
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5:16
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
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ガラテヤ5:16で「御霊によって歩みなさい」と記されているように、御霊によって歩むなら、肉の思い、自分のしたいと思うことをすることができないというのです。先ほどの15個あった罪の言葉の行為についても、御霊によって歩むなら、したいと思ってもすることができないという事です。
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5:25
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
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キリスト者は、御霊によって生き、御霊に導かれて進み、御霊によって歩むのです。
ここがポイントです。自らの心を神様に向かって開くのです。
教会生活においても、キリストの体としてひとりひとりが組み合わさって、御霊の一致を熱心に保ち、神が成長させてくださるのを待ちましょう。ひとつの実を結ぶまでには思ったよりも時間がかかるかもしれませんし、思ったよりも痛みが伴うかもしれませんが、継続的に豊かな実を結べるように互いに愛をもって建て上げ、御霊の実を結ぶ人となりましょう。
先ほどの、30センチ×1.5メートルくらいの我が家の花壇で繰り広げられているドラマでこのような励まされる出来事がありました。私は、ある姉妹からいただいた鉢植えのシクラメンを花壇に植え替えました。ところが、この夏、異常に暑かったので、一生懸命水をやったりしましたが、枯れてしまいました。がっかりしていたら、秋になって涼しくなったら、新しい葉っぱが出てきて、隣のプチトマトとは逆に水を得た魚のように、成長してきました。これは、まるで倒れても立ち上がるキリスト者のようだと、励まされました。
枯れているように見えたシクラメンが復活したように、私たちも、倒れたように見えても、枯れたように見えても、必ず御霊によって生かされるということを忘れないようにしましょう。
しかし「御霊によって生き、御霊に導かれて進み、御霊によって歩み、御霊の一致を熱心に保ちましょう。」と言われても、実際どうすれば良いか解りませんね。
ここからは、実践的な話ですが・・・
みなさんは、1936年に出版されて世界的ベストセラーとなったマーガレット・ミッチェルの「風とともに去りぬ」という長編小説をご存知でしょうか?その3年後にビビアン・リーとクラーク・ゲーブル主演で映画化されましたので、映画をご覧になった方は多いと思います。
「風とともに去りぬ」のストーリーはアメリカ南北戦争の時代に生きたひとりの女性、スカーレット・オハラの波乱にとんだ人生を描いています。
以前通っていた神学校の元校長先生が、とてもユニークな先生で、学生にある課題を出しました。
その課題とは、「あの『風とともに去りぬ』の主人公のスカーレット・オハラが夫が自分の元から去ってしまい、信頼していた親友が死に、失意の中、愛する故郷に帰ろうと決意して最後に言ったセリフ、『Tomorrow is another day』を、あなたならどう訳しますか?」というものでした。スカーレット・オハラの気持ちになって、意訳しなさいというのです。
直訳なら、「明日は別の日!」ですし、映画では昔、「明日は明日の風が吹く」とか、「明日に望みを託して!」とか意訳されていました。最近では「明日という日があるわ!」という訳もあります。
学生たちはみんないろんな意訳を考えて面白かったんですが、一番びっくりしたのが、その元校長先生の意訳でした。それは、『Tomorrow is another day』・・・「私、しなやかに生きるわ!」でした。
そうです。人生には、「しなやかさ」が必要です。
御霊の導きのまま、しっかり根を張って、「しなやかに」、成長させてくださる神に従って、「しなやかに」、どんな困難に遭遇しても、「しなやかに」。
『Tomorrow is another day』、イエス様がくださる明日への希望をもって、祈りつつ、神様からの良き知らせに目と耳と心を向けて新年を迎えましょう!!