2016.1.1「信仰の完成 ピリピ1:6、ヘブル12:1-2」

 新年あけましておめでとうございます。今年また新たに年齢を重ねることになりますので、あまりおめでたくない方もおられるかもしれません。ある人が、「年を取るということは、実は年を使い果たしたということなんだ」と言いました。たとえば、砂時計を考えてみましょう。上の方の砂は神さまが定めた寿命です。60年間分下に落ちてたまりました。つまり、60年使い果たしたということです。「上の方にあとどのくらい残っているか?」です。しかし、クリスチャンには永遠の命が与えられていますので、そうがっかりする必要はありません。Ⅱコリント4:16「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」とあるからです。きょうは信仰の完成と題して、元旦礼拝のメッセージをさせていただきます。

1.信仰の完成とは

 果たして「信仰の完成」というのはありえるのでしょうか。ピリピ1:6を見ると、「神さまがキリスト・イエスの日が来るまでに、それを完成させてくださる」と書いてあります。「それ」とは何でしょうか?「救い」ともいえるかもしれません。なぜなら、私たちは霊的には救われていますが、魂や肉体はまだ不完全です。病気にもなりますし、罪も犯してしまうからです。ピリピ2章にも同じようなことが書かれています。ピリピ2:12「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」。この意味は、私たちがなすべきところがあるということです。もちろんキリストの贖いの面では、何もすることがありません。私たちはイエス様を救い主として信じただけで救われたはずです。しかし、救いということを点ではなく、イエス様とお会いする日までの線にしたならどうでしょうか?あるときイエス様を信じて霊的に生まれ変わりました。それから「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」(Ⅱコリント3:18)。つまり、信仰は救われたという点もありますが、なお救われ、完成を目指しているという継続でもあるということです。

 これを神学的には「聖化」(きよく変えられる)と言ったりします。私が最初、属していたホーリネス教団は「聖化」ということをとても強調していました。聖書のどこを開いても、「聖化」を語っていました。私は正直、「きよさ」とか「きよめ」と強調する神学は好きではありません。なぜなら、私はきよくないところから救われ、神学校で「きよめられなさい」とよく言われたからです。律法的に言われると、「いやだよ」と反抗したくなります。しかし、よく聖書を読むと、自分がきよくなるのでありません。「それを完成させてくださる」は受身形です。また、「姿を変えられていきます」も受身形です。ただし、ピリピ2:12「自分の救いの達成に努めなさい」には、自分のやる分もあるということは分かります。とにかく、救いが恵みであるように、「聖化」(きよく変えられる)ことも恵みだということです。「聖化」という表現の他に、霊的成長、内面の成長、あるいは霊性の成熟と言う言い方もあるでしょう。どれも好きじゃないですね。霊だけが大切で、他はいらないという感じがするからです。私たちは肉体も魂も持っているからです。

 私はそれよりも「自分の世界の成長」こそが「信仰の成長」ではないかと思っています。ここでも何度も申し上げたことがあります。「私たちの生まれつきのコア世界観は脆弱で直してもしょうがない、新しいコア世界観に取り換えるしかないんだ」と言いました。「脆弱」なんていうと、日曜学校の子どもには全く分からないですね。分かりやすく言うと、私たちの生き方を決める、信念というものが心の奥底にあります。考えや価値観の塊みたいなものです。桃とか梅を考えると、やわらかい果肉は「考え」「ものの見方」「世界観」です。しかし、それを生み出しているものがあります。それが固い種(コア世界観)です。ある人は頑固で決して変わろうとしません。またある人は硬いけれどもガラスのように壊れやすいかもしれません。またある人はフヤフヤして人や環境に支配されているかもしれません。どれもこれも、神さまから与えられた自分の人生を生きていない人であります。つまり、固い種(コア世界観)の部分を新しい別なものに取り換えること、これがローマ12章の「心の一新によって自分を変える」ということです。

 私は今から6年くらい前に、李光雨師からカウンセリングを受けて、新しいコア世界観に取り換えました。古いコア世界観がAだとすると、今はコア世界観Bで生きています。こういう話を聞くと、私は賛成できないという人もいます。そうでしたら、エペソ4章で説明しても結構です。まずパウロは「心の霊において新しくされなさい」と言っています。これは、イエス様を信じて霊的に生まれ変わるということです。その次に、情欲など罪に染まっている「古い人を脱ぎ捨てよ」と言われています。その後、「義と聖をもって神にかたどり造り出された新しい人を身に着けなさい」と言われています。「新しい人」こそ、新しい考え、私が言う「コア世界観B」です。私は25歳で霊的に生まれ変わりましたけど、心の核が脆弱だったために、不安と恐れに支配されていました。だから、いくら信仰的な考え、積極的な考えを身に着けても全部はじき返してしまいます。たとえ、聖会や修養会、○○キャンプに行っても、もって3日です。1週間たつと元の木阿弥です。もちろん、いくらかは成長していると思います。でも、一番奥底にあるコア世界観が弱いままでした。しかし、いろんな苦しみや試練を受けたど真ん中で、「ああ、古いコア世界観はどうしようもない、新しいコア世界観に取り換えよう」と決心しました。それから、聖書のみことばや積極的考えがどんどん身に付き、私の世界観が丈夫に太ってきました。別な言い方をすると「内なる人」が健康で丈夫になったということです。内面のことなので、いろんな表現や体験はあるかもしれません。しかし、共通して言えることは、恵みによって「主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくんだ」ということです。

2.どのように完成されるか

 私たちの内なる人、つまり霊的な成長がどのようになされるか?言い換えると、神さまはどのような方法で、どのようなもので、私たちの内なる人をきよめ、作り変えて、そして完成させてくださるのでしょうか?私たちはイエス様を信じて霊的に救われ、永遠の命が与えられました。しかし、神さまはこの地上において、私たちがなすべきことを2つ用意しておられます。1つはこの地上においてあなたに成してもらいたい事があるということです。英語ではミッション、日本語では使命と言います。使命とは「命を使う」と書きます。あなたは何を成し遂げるために自分の命を使っているでしょうか?それが神さまのご目的、神さまの御心にあったものだったら幸いです。2つ目は私たちの内なる人の成長、霊的にイエス様と似たものになる、聖化されるということです。でも、私の表現で言うならば、自分の世界を完成させるということです。コア世界観Bが健康で成長し、神さまがお与えになった自分の世界を完成させるということです。何度も言いますが、表現は自分にあったもので結構です。私が言う世界観で躓いたら、別の言い方にしてください。信仰的な成長、霊的成長なんでも良いです。

 私が自分の霊的成長を一番妨げているものは何でしょう?他のだれでもない、自分の魂なんです。自分の魂こそが、神と敵対し、使命を全うさせないばかりか、栄光から栄光へと変えることを妨げているのです。私が言う魂というのは、アダムが罪を犯したあと肥大化してしまった心のことを言います。創世記3章にありますが、食べてはならないと言われていた「善悪を知る木」からアダムとエバが実を取って食べました。創世記3:7「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」と書いてあります。「目が開かれた」なら良さそうなものではないでしょうか?そうではありません。これは霊的に死んで、魂が異常に太ったということです。これまではアダムは、霊的に神さまと親しく交わり、善悪の判断はすべて神さまに聞き従ってきました。ところが、善悪を知る木の実を食べるということは、神さまではなく、私が善悪の判断をするということです。これは自分が神さまになるということですから、まさしく神さまへの反逆行為です。実はアダム以来の人類は、魂が異常に発達し、神さまなしで生きられるという性質があります。この世の人は、霊的に死んでおり、神さまなしで自分の考えや願いで生きています。しかし、クリスチャンになると霊的に生まれるので、神さまとの交わりが回復します。しかし、同時に自分の霊と自分の魂との戦いが始まります。このことはパウロがローマ7章、ガラテヤ5章に書いてあります。ガラテヤ5:17「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」

 クリスチャンの場合は、確かにアダム以来の古い人は十字架に着けられて死にました。しかし、「アダムから力を得たい」「アダムのように神なしで生きたい」という性質がまだ残っているのです。ウィットネス・リーはこの性質を3つに分けています。1つは「肉」です。言い換えると「腐敗したからだ」です。ガラテヤ5章には不品行、汚れ、好色などがあげられています。しかし、良い肉もあって、神を礼拝したり、神に仕えたりします。でも肉でやっては神さまには喜ばれません。なぜなら、肉は自分を誇るからです。2つ目は「己れ」です。これは、自分の思想や主張です。「わたし」とも言い換えることができます。聖書ではペテロ、マルタ、ヨブが「わたし」の多い人でした。3つ目は「天然」です。天然というと別な意味を思い浮かべるかもしれません。これは、生まれつきの才能や能力や賢さです。聖書では旧約聖書のヤコブがそうでした。彼は有能で策略にたけ、計画に富み、非常に才能があり、大の手腕家でした。彼はエサウから長子の権をだまし取り、父から長子の祝福を獲得しました。叔父のラバンからは策略と手腕によって、多くの群れ、はしため、らくだ、ロバを得ることができました。別にウィットネス・リーのように3つに分けなくても良いです。とにかく、私たちの魂は神さまの言うことを聞かず、頼らず、罪を犯す性質があるということです。このため、神さまは聖霊によって、私たちをきよめてくださいます。また、環境や人々を通して、私たちを砕いてくださいます。私たちのでっぱったところにノミを当て、さらにはやすりで擦ってくださるのであります。ペテロはイエス様の一番弟子でしたが、荒っぽい性格の持ち主でした。すぐかっとなるし、おっちょこちょいでした。最後にはイエス様を3度も知らないと裏切ってしまいました。でも、彼は砕かれ、擦られ、最後には大使徒として用いられました。ペテロの本名はシモン、葦という意味です。しかし、イエス様は彼の中に良いものを見出し、「お前はペテロ、岩だ」と言いました。イエス様は彼の弱さや失敗を知った上で弟子とし、また、弟子して完成させてくださったのです。ですから、神さまは、私たちを砕いてくれる出来事も許すんだということです。また、私たちをこすってくれる隣人を側においてくださいます。あなたの夫、妻、子供、同労者がそうです。他人だったら、距離をおいて会わなくてすむかもしれません。しかし、あなたの夫、妻、子供、同労者はそうはいきません。聖霊様はあなたを整えるために按排してくださるのです。つまり、私たちが神の似姿になるように、ほどよく処理をしてくださるということです。

3.何を目指して生きるか

前のポイントでは、私たちは救われていても、内側に肉という、罪を犯す傾向性があるということを申し上げました。もう1つ私たちの魂が不完全なのは、生まれた時から、いろんな傷を受けてきたからです。あるいは生まれる前から父方、母方から、不幸をもたらす咎を受け継いでいるかもしれません。自分のせいでなくて、受けたものがあるからです。自分の生い立ちが幸せでとても良かったという人は少ないと思います。イエス様を信じるとかなりの部分がいやされます。また、赦せない人を赦すことによって、心の中にいすわっていた苦い根が消え去ります。しかし、私たちには記憶があり、またトラウマの傷が残っています。だから、時々、フラッシュバックしたり、悪い思い出がぶりかえすときがあります。どういう訳か、私たちの周りに悪いものを引き出してくれる人物や環境が絶えることがありません。学校や職場を換えても、教会を換えても、あるいは伴侶を換えたとしても絶えることがありません。逆に言いますと、私たちは天国に行くまでは完全にきよめられ、完全に癒されることはないということです。でも、すばらしい希望は、たとえそういうものがあったとしても聖霊によって勝利できるということです。英語ではオーバーカムと言いますが、他にゲットオーバーと言ったりもします。つまり、ヤシの木のように嵐が来ても、たわんで乗り越えられるということです。すばらしいことにヤシの木は嵐を乗り越えるたびに、地中に根を深く張り強くなります。第一のポイントで世界観のお話しをしましたが、私たちの世界観が完成する過程にあるんだということです。神さまはこの地上において課題を与えておられるようです。それは、私たちが神さまの恵みによって、これまでの傷や痛みが癒され、栄光から栄光へと変えられていくという課題です。できればバイパスして、すぐ天国での完成を得たいところですが、あえて地上での信仰生活を残しておられるんだということです。

 そこで、重要なのが、私たちがどこを見ていくか、だれに目を注いで生きるかということです。 ヘブル12:1-2「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」アーメン。イエス様が肉体をもって地上にこられたのは、もちろん私たちの罪を贖い、救いの道を設けるためでした。しかし、それだけではありません。イエス様は肉体を持ちながらも、御父を見上げて、信仰を全うしたということです。イエス様は私たちと同じ肉体を持っていましたが、罪は犯しませんでした。もちろん、私たちは罪を犯しますが、それでも贖いを受けつつ、信仰を全うすることができるんだということです。イエス様は信仰の創設者、英語の聖書ではオーサー、著者と言う意味です。また、イエス様は信仰の完成者となってくださいました。この意味は、イエス様が「私ががんばったんだから、お前らも私を見習ってがんばれよ」という意味ではありません。これはイエス様が聖霊によって世の終わりまで共におられて、私たちを力つけ、導き、助けてくださるということです。これが、「神さまが救いを完成させてくださる」という意味であります。

 では、私たちは何をしたら良いのか?信仰の創始者であり、また完成者であるイエスから目を離さないということです。ヘブルの記者はこれをレースにたとえています。私たちのなすべきことは何でしょうか?第一は、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる」ということです。走っている人はできるだけ身軽に走ります。何か足に重荷をつけてひきずって走る人はいません。第二は、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続ける」ということです。私たちには神さまから与えられた自分のレースがあります。ある人は親から押し付けられたレースを走っているかもしれません。また、ある人は自分があこがれる人、理想の人のレースを走っているかもしれません。それではだめです。神さまはあなたに固有のレースを用意しておられます。あなたはイエス様とあなた自身のレースを走るのです。そして、自分の信仰、自分の世界を生きて、それを完成させるのです。今年も完成をめざしてあなた自身のレースをイエス様と共に走りましょう。