2016.1.31「~絶えることがない愛~ Ⅰコリント人への手紙13章1節-8節a」

<Ⅰコリント人への手紙 13章1節-8節a>

13:1

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

13:2

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

13:3

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

13:4

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

13:5

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

13:6

不正を喜ばずに真理を喜びます。

13:7

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

13:8

愛は決して絶えることがありません。

 

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◆愛こそが御霊の賜物を生かす原動力。

 

本日の聖書箇所、第Ⅰコリント13章は、「愛の賛歌」とよく呼ばれています。ここだけを取り上げて聖書を読んだだけでも、愛が本来どのようなものであるか、また、「何事も愛がなければなんの値打もない」というメッセージは十分に響いてきます。しかし文脈から見ると、パウロがこの13章で「愛」について語りはじめたきっかけは、「教会の集まり」つまり「礼拝」が、「益にならないで、かえって害になっている」ということからでした。そこで本日はこの箇所から、「礼拝」について、また「愛」についてさらに深く考えていきたいと思います。

 

パウロは、コリント教会に宛てたこの手紙で、「愛」について力説していますが、これには訳がありました。

前章までの流れを見て行きますと、まずコリント教会では、分裂分派が起こり、不品行が行われていたようです。その不品行は異邦人の中にもないほどの不品行だと5:1に書かれています。そして、11:17

 

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11:17

ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。

あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。

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と、教会の集まりをするときに、問題があるというのです。

パウロはこの「教会の集まり」つまり「礼拝」が、「益にならないで、かえって害になっている」と言っています。

何がそんなに問題だったのでしょうか。

 

本日の箇所です。

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13:1

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

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このように、異言の用いられ方が偏っていたのが礼拝の混乱の原因のひとつだと書かれています。

 

「異言」というと、あまり馴染みがない方がいらっしゃるかもしれませんが、私は異言を重要視する教団の神学校に行っていましたので身近ですし、鈴木先生の母教会の大和カルバリーチャペルでも、以前亀有教会で月一回行っていた「聖霊刷新祈祷会」でも、実はお馴染みでした。

 

ただ、何も知らない人が、異言だらけの礼拝や集会に出席すると、物凄く驚くのは事実です。

広辞苑には異言についてこう書かれていました。

「異言とは、宗教的恍惚状態において発せられる、理解不能なことば」

 

世の中では、こういった認識が一般的だろうとは思いますが、聖書に書かれている異言というのは本来、神様がくださるすばらしい賜物のひとつです。「宗教的恍惚状態」とは少し違います。

 

そして「異言」は、自分では何を話しているのかは解らない、確かに「理解不能なことば」なのですが、その異言を解き明かす賜物を持っている人もいます。

 

異言は世界のどこかで使われている言語ではないかと言われたりもしますし、日本語や英語などの私たちが通常使っている言語をはるかに超えた不思議なことばとも言われています。

 

どちらにしても、普通の言葉で祈っているときよりも、神様との交わりが近くなる言葉が「異言」なのです。

 

しかしパウロは、コリントの教会では、この異言の用いられ方が、「益にならず害になっている」というのです。その具体例として、13章より先になりますが、14:23が挙げられます。

 

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14:23

ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。

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なるほど。つまり、「初心の者とか信者でない者」に躓きを与える原因になっているということですね。

今でも、教会によってはこういうことはあると思います。

クリスチャンではない人が、初めて恐る恐る教会に足を踏み入れた途端、みんなが異言で話したり祈ったりしているシーンに出くわしたら、まず、間違いなく躓きますよね。

 

ではパウロは異言を話さなかったのかというと、実のところ、他の誰よりもたくさんの異言を話したということが、14:18に書かれています。パウロが言っているのは、異言そのものは良いものなのですが、愛がないのが問題だと言っているのです。

 

「愛がない」とは、どういうことでしょうか。

 

すでに10:32に書かれていたことですが、

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10:32

ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。

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と、他者に対して「つまずき」を与えないようにしなさいと勧告されています。

 

つまり「愛がない」というのは、他者に対する配慮がない、ということだと考えられます。

コリント教会では、他者に配慮せず、盲心的に異言を話すことで礼拝を混乱させていたと思われます。

 

現代の教会でも、14:23に書かれている「初心の者」、つまり、クリスチャンになりたての方や、「信者でない者」に対しては、つまずきを与えないようにと、様々な配慮がほどこされています。

 

例えば、「異言」を特に重んじる教団であっても、祈祷会は別としても、主日礼拝では「異言」で祈らないようにしているという教会もあります。

 

また礼拝で「使徒信条」を告白すると、求道者や未信者が疎外感を感じるので、礼拝プログラムから省いているという教会もあります。

 

礼拝で本来大切なことは、神様の御前にひれ伏して、集ったみんなで心を合わせて神様を褒め称え、生かされ、守られている恵みを感謝し、聖書の御言葉に耳を傾けることです。

 

祈りも、賛美も、パフォーマンスではなく、「心から」です。

そのようなまことの礼拝に、求道者や未信者も一緒に集中できるように、愛をもって環境を整えることは、とても大切ですね。

 

続いて13:2

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13:2

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

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パウロは、14:4で預言についてこう書いています。

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14:4 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。

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と、預言は異言よりも良いものだとしています。

しかし、その預言の賜物を持っていても、また、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとしても、「愛がないなら、何の値うちもありません。」と聖書は言うのです。

 

そして13:3

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13:3

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

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考えてみれば、1-3節に書かれている数々の賜物は、12:28に書かれている、教会におけるキリストのからだの器官、「使徒、預言者、教師、奇蹟を行う者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者」などすべて含まれているのではないでしょうか。

 

つまり、教会に集うすべての者が、神がそれぞれにお与えになった賜物に対して高ぶりをもつことなく、愛をもって人を建てあげなければ、その賜物はなんの意味も価値もないとパウロは言っているのです。

 

神様は私たちひとりひとりに特別な賜物を与えてくださっています。ただ憐れみによって与えてくださっているのですから、その賜物を自分の虚栄心のために利用してはいけません。またその賜物を使って人に躓きを与えてしまうようなことをしてしまっては本末転倒です。

 

コリント教会の礼拝の実態から私たちも学びましょう。

今一度、自分の礼拝に対する姿勢を見つめ直してみましょう。

神様が喜んでくださって、聖霊が豊かに臨在して働いてくださるような礼拝を目指しましょう。

教会生活においても、みなさんがそれぞれいただいている神様からの賜り物に、「愛」をプラスしましょう。

「愛こそが御霊の賜物を生かす原動力」だからです。

 

絶えることのない愛

 

続く13:4-7には、「愛の特質」について書かれています。

 

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13:4

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

13:5

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

13:6

不正を喜ばずに真理を喜びます。

13:7

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

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・・・ほんとに、「愛」っていいですよねぇ。

「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ。」

ここを読んで私は、「ああ、聖書に書いてあることはもっともだ。私はなんて愛がないんだろう・・・。」と、自分の行いを振り返って反省ばかりしています。

・・・こんな「愛」を私は持っていたかったと、つくづく思います。

 

しかし本当にこのような「愛」を持っている人っているのでしょうか。

まったくもって、自己中心の反対、他者中心、あるいはキリスト中心ですね。本当に素晴らしいです。

 

これを語っているパウロ自身は、このような「愛の特質」をすべて持ち合わせていたのでしょうか。

もしかしたらマザー・テレサはこのような人だったかもしれませんね。

 

いずれにしても、このような「愛」を持つことは、私たちの人生の大きな目標ですね。

私たち人間は、頑張って「愛」を現そうとしても無理です。

結局人間というのは自分中心な生きものだからです。

 

しかしキリスト者は違います。いえ、違わなければならないのです。

なぜなら、キリスト者は、神様からの愛と恵みと祝福を特別に、存分に受けているからです。

その神から受けたすべての良きものを、私たちは他の人々に分け与える器にならなければなりません。

 

このコリントの手紙で語られている「愛」という言葉は、原語のギリシャ語聖書では、avga,ph (アガペー)と書かれています。ギリシャ語で「愛」を表す言葉は何種類かあります。男女間の愛を現す「エロス」、友人や家族との愛を現す「フィレオー」、そしてここに書かれている「アガペー」というのは、「神様が私たち人間を愛してくださる、無条件な絶対的な愛」を表していると言われています。

 

私たちがこのように、アガペーの愛を現すには、純粋な動機と聖霊の助けが必要です。

 

10章31節にすでに書かれていることですが、

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10:31

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

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私たちには、「何をするにしても神の栄光を現すためにする。」という、この純粋な動機が、まず必要です。

そして、助け主である聖霊に力をいただくのです。

その動機と聖霊の助けがあってこそ、アガペーの愛、つまり、イエス様の受難と復活に象徴される神の愛が私たちから溢れていくのです。その神の愛なしには、私たちの賜物や行いは何の価値も持たないのです。

 

そしてそれが、13:8 でパウロが語る、「愛は決して絶えることがありません。」という「愛」の永遠性に繋がっていくのです。私たちの愛は続かず、すぐに絶えてしまいますが、イエス様の愛は究極の愛であり、決して絶えることがない、永遠の愛です。

 

私たちキリスト者は、その御子なる神、イエス様の十字架の贖いの恵みを知っています。

そして、イエス様という、ひとり子を与えてくださった父なる神の愛を知っています。

私たちが愛をもって他者と接するときに、聖霊なる神が働いてくださることも知っています。

 

つまり、「愛の賛歌」に記されている「愛」は、この三位一体の唯一の神からの、満ちあふれる愛と祝福があってこそ、私たちが実行できるものなのです。

 

言い変えれば、私たちはこの愛と祝福を常に受け続けているのですから、誰に対しても、躓きではなく、人の徳を建てる愛を現わし続けることが出来るはずです。

 

私は先ほど、「ああ、聖書に書いてあることはもっともだ。私はなんて愛がないんだろう・・・。」と、自分の行いを振り返って反省ばかりしています。・・・と言いましたが、

 

私は、神様からの絶えることのない愛に頼ろうともしないで、自分の力で、なんとか愛を絞りだそうとしては、すぐにempty=からっぽになっていただけだった、ということに気が付きました。

 

父なる神様と御子イエス様が、私たちに注いでくださっている愛と恵みを思い起こしましょう。

主に信頼し、決して絶えることがない愛を受け取って、礼拝のみならず、日々の生活の中でも、人を建て上げ、神の栄光を現していきましょう。