2016.3.13「自分の敵を愛せよ マタイ5:43-48」

 マタイによる福音書5章は説教者泣かせであります。なぜなら、実行できないような崇高な倫理を突きつけられているからです。これまで、何度も言いましたが、これらは地上の倫理ではなく、御国の倫理、天国の律法なんだということです。この地上でイエス様がおっしゃることを生身では決して実行できないでしょう。でも、御国のいのちをいただき、御国の王であるイエス様が共におられるなら、可能になるんだということです。イエス様がおっしゃることは倫理や道徳ではありません。それは御国の倫理、天国の律法です。でも、ちゃんとそこには実行できる隠れた道があるんだということです。

1.不可能な命令

 マタイ5:43-44「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」マタイ5章の教えの中で、最も実行不可能なのはこの命令ではないでしょうか?さらに、当時の人たちは、「自分の敵を憎め」と教えられていました。しかし、これは神さまから、与えたものではありません。確かに「自分の隣人を愛しなさい」という戒めはレビ記19章にあります。詳しくは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」であります。「自分の敵を憎め」は、おそらく律法を教えるラビが、旧約聖書のいくつかの書を解釈して付け加えたのではないかと思います。当時の解釈では、隣人とはイスラエルの民であり、敵とは異邦人のことでした。つまり、ギリシャやローマ、シリア、エジプト、バビロン、ペルシャはみな敵なのであります。旧約聖書の歴史を見ますと、小さなイスラエルは大国によってたびたび侵略されてきました。大国と同盟を結ぶことは罪であり、主なる神さまのみを頼るべきことを教えられてきました。ですから、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」とは、言わずと知れた真理だったわけです。しかし、神さまがアブラハムを選び、イスラエルをそこから誕生させたのは目的がありました。神さまはイスラエルを祭司の国として、イスラエルを通して、すべての国民を祝福したかったのです。ところが、堕落して、「自分の国さえよければ良い」という偏狭で利己的な国になっていたのです。

 イエス様が「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われたとき、驚天動地というか、あまりにも崇高な教えのゆえに卒倒したのではないかと思います。ルカ福音書にも同じような教えがありますが、「あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」とあります。もし、これができたら国同士、民族同士、あるいは人間同士の争いはただちに止むでしょう。韓国と中国は長い間、日本が犯した太平洋戦争の罪を赦そうとしません。先日も慰安婦の問題が取り上げられていました。もちろん日本が戦争をふっかけて様々な罪を犯しました。罪の悔い改めが徹底しているかというとそうでもないかもしれません。でも、韓国がキリスト者の数が30%であることが知られていますが、イエス様の教えを守っていないのではないでしょうか?これは政治的な問題ではなく、人間が胸の内にしまって、処理し切れていない問題であります。大体、生身の人間が敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるでしょうか?また、呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈ることができるでしょうか?まず、私たちが知るレベルは、46節にあるように「自分を愛してくれる者は愛せる」ということです。もし、「自分を愛してくれる隣人を愛しなさいということであれば、「アーメン、ハレルヤ!」であります。私たちの身の周りにも、自分の愛してくれる人が何人かいるでしょう。「ああ、神さまどうかそういう人たちを限りなく増やし、私を憎む者、嫌う者、迫害する敵どもを遠ざけてください」と祈りたくなります。もし、これが私たちの祈りであるならば、地上の人たちと全く変わりありません。別に御国が来なくても、神さまのいのちがなくても実行できます。なんと、イエス様が持ってきたのは、御国の教え、天国の律法であります。私たちの肉では全く不可能、私たちの肉が決して喜ばないことがらなのであります。

 なぜ、イエス様は、こんな実行不可能な倫理、あるいは律法を教えられたのでしょうか?まず、私たちは十戒をはじめとする律法がなぜ、人間に与えられたのか知る必要があります。律法は私たちがこれを守って、神さまに受け入れられるためにあるのではありません。ユダヤ人は「律法を守り行うことによって、神さまから受け入れられ義とされるんだ」と理解していました。しかし、そうではありません。律法を守ろうとすればするほど、私たちは逆の方向に行ってしまいます。ついには律法から「お前には罪があるぞ、不完全だ」と糾弾されてしまいます。そのことをパウロはローマ7章ではっきり教えています。パウロは「律法は良いものであるが、私の肉のうちには、それを実行することがない。かえってしなくない悪を行っています」と言っています。さらに、ガラテヤ3:24「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」アーメン。律法は私たちに「あなには罪がありますよ」と教えてくれます。しかし、律法自体には人を救う力がありません。律法の目的は私たちをキリストへ導くためにあるのです。キリストへ導かれた義人は、御霊によって、信仰によって生きるのです。このことを知らないで、山上の説教の戒めを実行しようとするなら、私たちは信仰から迷い出てしまいます。『塩狩峠』永野さんという人が、「自分の隣人を愛しなさい」という戒めを実行しました。そのため、職場で一番嫌いな人の隣人になりました。しかし、その人は「俺を馬鹿にするのか」とかえって心を閉ざしてしまいました。でも、永野さんは、暴走する列車の下敷きになって列車を止めました。次の駅に婚約者が待っているのに、友人を乗せた数名の乗客を守るために、自分の命を捨てたのです。そういう意味で、永野さんは自分の隣人を愛するという律法を守ったのであります。彼は立派な信仰者です。しかし、もし律法が守るためにあるんだとしたら、私たちの命がいくつあっても足りないでしょう。

 当時のユダヤ人は「私たちは『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』という戒めを守っていると自負していたことでしょう。しかし、イエス様は本当の愛とは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなんだ」と律法の真の意味を教えたのです。彼らは隣人を同胞のユダヤ人と限定し、他の人たちは愛さなくても良いんだと考えていたからです。しかし、それは律法を人間が守れるように曲解したものです。それに対して、イエス様は「私はあなたがたにこう言います」と律法の本当の意味を教えたのです。本当の愛とは、「自分の敵を愛し、迫害するもののために祈ることなんだ。これが神からの律法だ」と教えたのです。そうなると、この律法は生身の人間にはとうてい不可能になります。しかし、それが律法の目的なのです。「私たちには罪があって、律法を守ることは不可能です」と言わしめることが律法の目的なのです。しかし、イエス様だけは、この律法を全うされました。イエス様が十字架に付けられ、今、殺されようとしたとき何とおっしゃったでしょうか?その時代、十字架はもっとも醜悪で恐ろしい死刑の道具でした。多くの犯罪者は「俺は悪くはない。あいつが悪いんだ。やめろ、お前たちを呪ってやるぞ」と叫んで死んでいったでしょう。佐倉惣五郎という人は、年貢の取り立てが年々厳しくなるので、藩主や老中に訴えましたが聞き入れられませんでした。そこで、彼は将軍家綱に直訴しました。その結果、藩主の苛政は納められましたが、惣五郎夫妻は磔となり、男子も死罪になりました。惣五郎は十字架にはりつけにされた時に、あまりの苦しみに耐えられず、「俺は、お前の代の六代も七代までも、呪ってやるぞ!」と絶叫して死んだと伝えられています。福沢諭吉は惣五郎を「古来唯一の忠臣義士」と評価しています。一方、イエス様は十字架でこう言われました。ルカ23:34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」何と、イエス様は自分を殺そうとしているローマ兵やユダヤ教の指導者のために祈られたのです。これは生身の人間にはできることではありません。「イエス様は罪を犯さなかった」とヘブル書に書いていますが、そのとおりです。イエス様はご自分が人々に教えられたように、敵を愛し、敵のために祈られたのです。つまり、イエス様だけが神の律法を守ったということです。しかし、それは私たちの模範と取るべきではなく、イエス様が律法を全うし、律法の呪いから私たちを解放したということです。

 私たちはすべての聖書の戒め、すべての聖書の命令をイエス様の贖いを通して見なければなりません。ある人たちは、イエス様抜きで聖書の戒めや命令を守ろうとするので、信仰的に迷ってしまいます。そうではありません。どんな戒め、どんな命令であろうとも、私たちはキリストの贖いを通して受け取るべきであります。そうすると、「この戒めは生身の人間には守ることできないんだ。私には罪があると分かった。私にはイエス様の贖いが必要なんだ」と分かります。自分にはできないということが分かると、こんどはキリストならできると分かってきます。パウロはガラテヤ2:20「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、…神の御子を信じる信仰によっているのです。」と言いました。つまり、神からの戒めや命令は、私の中におられるキリストが守らせてくださるんだということです。これが信仰によって生きるということなのです。そうです。聖書の律法や戒めは、私たちが罪あることを知り、キリストを信じる信仰によって生きることが目的なのです。

2.敵と悪い人

 マタイ5:45-48「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」このところに、私たちが敵を愛することのできる根拠が記されています。なぜ、私たちが敵を愛するのでしょうか?イエス様は「父なる神さまが愛のお方であり、あなたがたはその父の子どもだからだ」とおっしゃるのです。天の父は、「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」と書いてあります。私たちは、太陽は良いと思いますが、雨は悪いものと思っているのではないでしょうか?悪い人のところに、集中的に雨が降れば良いと願うでしょうか?そうではありません。パレスチナは乾燥地帯であり、雨が少ないので、雨が降るということは良いことなのです。父なる神さまはわけへだてのないお方であり、正しくない人にも雨を降らせてくだるということです。最後に、イエス様は「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と命じられました。これをまともに聞いた人たちは、度胆を抜かれたのではないでしょうか?今日でも、「天の父のように完全であれ」と言われたら、どこかに隠れたくなります。イギリスのジョン・ウェスレーという人は、このところから「愛における完全」ということを言いました。「『完全であれ』とは、道徳的に罪を犯さないということではなく、愛において父なる神さまのように完全であることだ」と言いました。また、完全ということばのテレィオーは「完成する」「成熟する」という意味もあります。だから、「愛における成長」と言えるかもしれません。しかし、どちらにしても、難しい課題であります。

 私はこのところを読んで1つ発見したことがあります。それは私たちの周りには、敵や悪い人、正しくない人がいるという前提です。イエス様が「自分の敵を愛しなさい」と言われたということは、自分の敵がいるんだということです。また、この世の中には、悪い人も正しくない人もいるんだということです。そういうことを前提としながら、「彼らを天の父のように愛しなさいよ」ということなのです。私たちは「世の中には本当に悪い人はいない」とか「罪を憎んでも人は憎まず」ということを聞きます。私たちは道徳的な教育やヒューマニズムの教えを受けているので、人のことを「敵」と呼んだり、「悪人」と呼んではいけないんだと教えられています。特に日本は単一民族なので和を重んじるので、敵とか悪人は存在しないことになっています。しかし、イエス様が教えておられる場所、あるいは時代はどうでしょうか?戦争のために領土が侵略されたり、負けために奴隷になっている者がたくさんいました。いろんな民族が混じり合っているので、いつこの人が敵になるか分かりませんでした。「今日の友は明日の敵」「今日の敵は明日の友」みたいなところがあったのではないでしょうか?だから、彼らは顔なじみということよりも、契約を重んじたようです。日本はその逆ですから、あまり緊張感がありません。私たちは聖書を基準にしていますが、特に旧約聖書には敵の侵略、敵との戦いがよく登場します。詩篇には主は、盾、要塞、隠れ家、高きやぐらということばが数多く出てきます。また「ダビデのうた」という副題がたくさんありますが、サウロから命を狙われて逃亡するモチーフがよく出てきます。ダビデが救われるというのは、敵から救われるということです。ダビデ自身は二度も、サウロを殺すことができましたが、主にさばきをゆだねました。なぜ、旧約聖書に戦いのシーンが出てくるのでしょうか?それは「信仰は戦いである」ことを教えているからではないでしょうか?当然そこには、敵もいれば味方もいます。復讐をしたいときもあるでしょう。倒されたり、打ち負かされたりすることもたびたびあります。でも、主が共におられて勝利を与え、回復を与えてくださいます。ところで、イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。ということは私たちの周りには敵がおり、迫害する者がいるんだということです。また、悪い人や良い人、あるいは正しい人や正しくない人がいるんだということです。もちろん、何を基準に言っているのか、わかりません。でも、世の中はそういうものなんだということは分かります。

 私たちにはバウンダリーが必要です。バウンダリーは境界線と言いますが、私たちを守る壁や塀みたいなものです。体で言うならば皮膚であります。もし、皮膚がないならば、たちどころにばい菌にやられてしまうでしょう。また、バウンダリーは良いものは取り入れ、悪いものは排除するという意味があります。私たちは意識していないかもしれませんが、この人は受け入れて良い人、この人は近づいてはいけない人と判断しているのではないでしょうか?もし、「この世には悪い人はいないんだ、みんな善人なんだ。人類みな兄弟なんだ」と教えられていたらどうでしょう?その人は無防備なために、さんざん傷つけられ、大事なものを奪い取られるでしょう。しかし、世の中には「敵対する人もいるし、悪い人や正しくない人がいるんだ」と理解していたなら、準備ができます。私たちはクリスチャンですが、クリスチャンだからと言って、すべての人を信用してはいけません。イエス様はヨハネ2章の後半でこうおっしゃっています。ヨハネ2:24-25「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」イエス様ですら、人を見ておられたのですから、私たちも自分を任せて良い人と、任せたら大変なことになる人とを区別しなければなりません。でも、心に傷のある人は白か黒、善か悪、100かゼロに分ける傾向があります。それは知恵がありません。そんなことをしていたら、地上で平安に生活できません。バウンダリーということを考えながら、いくつかの段階を作ったら良いと思います。ジョエル・オスティーンは4つに分けています。第1は何をやっても自分を好きで味方になってくれる人。ありのままの自分をゆだねられる人です。第2は、まあまあ私のことを好きだけど、こっちも気も使わなければならない人です。第3は私のことをあまり好きじゃないし、受け入れてもくれない。付き合うためには、こちらが少し努力すべき人です。第4は私のことを全く理解せず、受け入れてもくれない。こっちがいくら努力しても批判したり、離れていく人です。ジョエル・オスティーンは「第4の人を決して追いかけないように。それは無理なんだ」と言っています。これはとても主観的な基準なので、その人の偏見や傷や先入観も大いに入り込む要素があるでしょう。でも、大事なことはそこで、おしまいにならないで、それからイエス様のおっしゃることを適用するんだということです。

 イエス様は「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです」とおっしゃいました。そこでこそ、とは「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るなら」です。また、マタイ5:46-47「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」取税人や異邦人というのは、最低の人のように扱われています。彼らも自分を愛してくれる人を愛するからです。それでは、天の父の子どもの特徴とは、どうなのでしょうか?自分の敵を愛するということです。分かりやすく言うと、敵であると認めた上でも、愛するということです。大体、聖書が言う愛というのは、好き嫌いのレベルではありません。また、条件付きの愛ではありません。一方的で、無条件の愛です。この愛は神さましか持っていません。でも、もし神の子どもであるなら、同じような性質、同じような愛を持っているはずだというのです。イエス様は「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。完全な人、つまり成熟した人、信仰的に達成した人の特徴は何でしょうか?それは、損得抜きで、自分の敵を愛せる人なんだということです。たとえ、しっぺ返しされても、こちらは愛するということです。世の人は、「なんて損するようなひどい教えなのだろう、馬鹿げている」と言うでしょう。でも、イエス様は「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」と言われました。と言うことは、自分の思いや感情はどうであれ、自分の敵を愛するならば、神さまからの報いがあるということです。私はまた未完成の途中の段階の人ですが、このような体験とこのような報いを得ています。イエス様のおっしゃるように自分の敵と思われる人、あるいは迫害したり、悪を行う人を少しでも愛したとします。でも、正しく受け止められなかったり、かえって悪い状態になったりすることがあります。するとどうでしょう?イエス様がこの地上でこられたときどんな体験をされたのか少しは分かります。嫌な気持と同時に、神さまからの慰め、神さまからの教えを直接味わうことができます。いろいろ考えさせられます。まるで哲学者になったような洞察や思想が与えられます。でも、それらがすばらしい神さまからの報いではないかと思います。考えてみると、自分もかつては神さまの敵であり、悪い者でした。でも、こんな者をも無条件の愛で愛されていたんだということを知ることができます。